『桜並木の木の下で』


1999/04/09



 春霞がようようとたなびいている。
 だが、それは俺の視覚でしかない現象だとわかってはいる。
 つまり、眠いのだ。


「ふわぁ……」


 大学の門を出たと同時ぐらいだろうか、春の陽気に誘われたように、俺は思わず大
きな欠伸が漏れていた。


「ふふ……大っきな欠伸」


「あ、み、美咲さんっ!? い、いつから……」


 振り返った俺が大仰に驚いてみせると、美咲さんは口元を隠すように当てていた手
の指だけを大きく広げて、


「あ、御免なさい。驚かすつもりじゃなかったんだけど……」

 と、言った。


「教室を出たら丁度藤井君が出てくるのが見えたから……」


 ほんのりと頬が桜色に染まっていて、とても恥ずかしそうにしている。
 そんな風に照れる美咲さんが可愛らしく思う。
 とても、純粋で。


「じゃあ、そこまで一緒に帰らない」
「……うん」


 俺の誘いに、美咲さんは頷いてくる。
 そして俺の横に来て、並んで歩き始めた。


「あ……」
「え?」
 美咲さんは俺の顔を見て、何かに気付いて声を漏らす。
「ちょっとクマになってるけど……藤井君、寝てないの?」
「え……あ、いや……ちょっと」


 美咲さんは俺の顔を覗き込むように見てから、心配そうに訊ねる。
 俺は丁度良い言い訳が思い付かず、しどろもどろになる。
 今日はまだ四月の初めで、ただ出席するだけの日で、実際の新学期は始まる前なの
で、言い訳として各講義のレポートの提出日とは言い出しにくい。


 駅までの道は桜並木だ。
 少し前までは一面に桜色を誇っていたこの景色も、今では大分、色褪せていた。
 同時に、足下では落ちた花びらが幾多数多の人に踏まれ、くすんで、濁っていた。
 その一片一片が、白くて、白くなくて、俺にだけ涙を連想させる。


「深夜番組見てたから……かな」
「ふぅん……」



 実のところ、昨日、俺は由綺と会っていた。
 久しぶりにゆっくりと、時間をとって話し合った。


・
・
・


「由綺……俺さぁ……お前のこと……」
「……冬弥君」


 由綺が言わなくてもいい、わかっていると言ってくれる。


「いや……俺……」


 言った方が傷つけるのかも知れない。
 言わない方が傷つけるのかも知れない。


 ただ、黙っていることの方が、俺の罪が重い気がした。



「俺……由綺のこと……愛してなかった」



「うん……」
 由綺は、頷く。


「俺……由綺のこと、好きだったけど……好きだったのに……愛せなかった」
「うん……」
「御免な……」
「ううん………」
「御免、由綺……」


 涙は出せなかった。
 出す資格はなかった。


「いいよ、冬弥君……」


 そんなどうしようもない俺の頭を、由綺はそっと撫でる。
 由綺は俺がどう言おうと何でも許してくれる。


「私も……きっと……冬弥君のこと、愛せなかったから」
「…………」
「好きで、甘えたいだけで……愛せなかったから」
「……」


 由綺はいつもこう消化する。
 自分が至らなかった、と。
 自分がいけなかった、と。


「…………」
「…………」
「…………」
「…………」


 俺達はどれくらいの間、黙り続けていただろう。
 俺はああ言ってしまった自分が憎たらしくて、それを認めてしまう由綺に申し訳な
くて、けど言わなければもっと自分が駄目になる気がして、そんな事がぐるぐると頭
の中を回っていた。


 そしてやっとのことで、俺は思いつきを口にする。
 きっと本音の思いつきを。


「由綺……」
「何?」
「馬鹿だよな……俺達」
「うん……」


 自嘲の籠もった俺の声に、由綺は頷く。


「ほんと、馬鹿だよ……周りに迷惑ばっかりかけて……」
「うん……」
「情けねえ……本当に……情けねえよな……」
「………うん」
「御免な、由綺。俺、自分が考えていたより、ずっと情けなかったよ……」


 あまりにも幼稚だったと今更にして、思う。



 人を好きになること。
 愛すること。
 愛し合うこと。



 全部違うのに
 全く違うのに


 俺は、あまり考えなかった。
 考えもつかなかった。


 好きだと言われて、
 好きだと思って、
 一緒にいれば、
 一緒になれば、


 それで、いいのだと思った。
 好きだから、いいと思った。


 そして、俺の「好き」は由綺の「好き」と違った。
 俺の「好き」はあまりにも単純で、無意識的で、「好き」そのものが好きなだけだ
った。
 愛しかったが、愛せなかった。
 森川由綺を愛するということではなかった。



 俺ははるかを好きだった。
 美咲さんを好きだった。
 彰を好きだった。
 理奈ちゃんや、他の友人知人達を好きだった。
 俺の由綺への「好き」はその延長線でしかなかった。


 そして、俺は愛することを知ってしまった。
 愛されることを知ってしまった。
 最悪のタイミングで。
 最悪の状況で。



 俺が由綺への「好き」を知っていたなら、違いに気付いていたなら、
 それが起こるずっと前ならば、ずっと後ならば、


 きっとこんな風に、
 とても気まずく、
 とても重苦しいものには……



 そしてそれが一番の言い訳で、誤魔化しで、情けない理由……。


 そんな俺に由綺はあくまで、
 最後まで由綺の見方で、論理で、考えで、
 俺を苦しめる。



「ううん。冬弥君は……優しいから……だから……」
「由綺」
「だから……私の為に、私に気を使ってくれた……だから、私……」



「だから私、冬弥君に言いたいの。「ありがとう」って」



 由綺はそう言って微笑んだ。
 目に涙をいっぱいに溜めて。


・
・
・


 由綺と別れてから、家で一人、ずっと泣いていた。
 馬鹿みたいにずっと泣いていた。
 嗚咽も漏らさず、何も考えないで泣き続けた。
 涙だけを、目から流し続けた。


 だから、目の下にあるのはクマじゃなくて、腫れだった。
 でも、それを言うことはない。


 曖昧に誤魔化している俺に、それをそのまま聞かないでくれる美咲さん。
 ちょっとだけ二人で黙った形になったが、先に美咲さんが口を開く。
「まだ桜……残ってるかな」
 桜の花びらが一面に敷き詰められた並木道を歩きながら、美咲さんはそう呟く。
「そうだね……この辺じゃ、大分散ってきちゃってるから……」
「……藤井君」
「ん?」
「良かったら……お花見に、行かない?」
「うん……行こうか」
「……うん」



 俺は、美咲さんが約束した日時が、四月七日だと気付いた。
 美咲さんらしい、誘い方だった。



 俺も不器用で、美咲さんもぎこちない。


 でも、俺は美咲さんを愛していることを知っていて、
 美咲さんもそれを受け入れてくれている。



 人を好きになること。
 人を愛するということ。



 俺は遅蒔きながら、
 傷を負い、負わせながらも



 ようやく気付いてた。




 だから……




 何処か、桜が満開の木の下で、俺は改めて言う。




「美咲さん、愛してる」




 美咲さんの誕生を祝うその日に。




                           <完>


written by 久々野 彰 『Thoughtless Homepage』

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