『全ては由綺のお陰です』


1999/03/08



 いきなりだが、とんでもないことになった。

 マナちゃんが無事合格したこともあり、違う女の子の家庭教師のアルバイトをして
いて脳味噌がくたびれた金曜日の深夜、弥生さんから電話があったのだ。
『夜分遅く、失礼いたします。藤井さんはいらっしゃいますでしょうか?』
「や、弥生さん……?」
 何でも大至急、由綺のマンションに来て欲しいとのことだった。
 その口調は、普段と変わらなかったが、この夜中に呼び出しをかけるとは由綺に何
かあったに違いないと察し、俺は疲れた身体にむち打って由綺のマンションまで急い
で駆けつけると、由綺の部屋の前に弥生さんが立っていた。
 俺を待っていたらしい。
「あ、弥生さん……」
「急にお呼びして申し訳ありません」
「いや、いいですけど、どうしたんです? 由綺に何かあったんですか?」
「それが……」
 そう言って、弥生さんは由綺の部屋に招き入れた。
 由綺はいないらしい。
 勝手に入っていいのかなとも思ったが、あまり生活感のない部屋を見ては、その思
いもあまり感じなくなった。
「こっちです」
 弥生さんはベッドの近くにある鏡台の前に招く。
「ここにこんなものが……」

『弥生さん、迷惑をかけて本当に御免なさい。
 由綺は旅に出ます。
 理由は聞かないで下さい。そして捜さないで下さい。    森川由綺』

 置き手紙……らしい。

「由綺が……旅ぃ?」
 何か、想像すると可笑しい。それどころじゃないのはわかっているが。
「今日は半日オフで、仕事は夕方からでした」
 どうもその間に由綺はいなくなったらしい。

 それは兎も角、どうして弥生さん宛に……。

「俺には何か……」
「いえ、何も……」
 そんな俺を弥生さんがやや憐れんでいるような声で言ったように聞こえたのは気の
せいだろう、きっと。
 結構、動揺していた。
「ですから、何か知らないかと思いまして……」
「知るも何も……そんな……どうして……何故!?」
「わかりません。私に心当たりがないのでもしや藤井さんならと思いまして……」
 その後に「気付きもしないなんて恋人でも何でも無かったのですね」と言葉が続い
ているように聞こえるのは俺の被害意識が為せる技だろうがかなりショックだった。
 全く、今の今まで気付きも知りもしなかった。

 …どうして……どうして一言、何でも良いから相談してくれなかったんだ。そんな
 に俺が不甲斐ない男だったのか……。

「あ……あの……それで、緒方さんは……?」

 仕事に大穴を開けた由綺の失踪に、まず考えたのが緒方英二の動向だった。
「それが……何故か連絡がとれないのです」
「え……?」
「他の関係者の方にも聞いてまわったのですが……今の所まだ……あ、申し訳ありま
せん。ちょっと失礼します」
 ブルったらしく、弥生さんは携帯電話を取り出すと俺から少し離れる。

「由綺……どうして……?」
 かなりショックだった。
 俺は、由綺の心の支えになれなかった。
 それはさっき弥生さんが雄弁に語っていた。
 いや、あれは妄想か。
 でも、似たようなものだ。
 俺は……由綺の一体何だったのだろう……俺は……

「由綺……」
「……藤井さん」
「え、あ、はいっ!」
 電話を終えたらしく、弥生さんが俺のすぐ後ろにいた。
「お時間がありましたら、もう少しお付き合い戴けないでしょうか」
「はい、勿論いいですけど……?」
「どうも、急展開を迎えたようです」
 俺は初めて弥生さんの苛立ったような声を聞いた。
 刺々しいその言葉は、まるで俺を責めているように感じて心が痛かった。

 弥生さんの車の助手席に乗り込む。
 弥生さんはただ一言「これから事務所に戻ります」とだけ告げて、それから車の中
で俺達は一言も会話を交わさなかった。
 道は渋滞していた。
「…………」
 俺は顔を下に向けてずっと自分を責め続けていたが、車のクラクションと共に顔を
あげる。
 弥生さんが前の車に鳴らしたらしい。
 そこで俺はようやく、弥生さんも自分を責めているのだと感じだ。

 恋人「の筈」だった俺。
 頼れるお姉さん「の筈」だった弥生さん。

 その二人が、何も知らないうちに由綺は消えた。
 俺達は何も察せずにいたのだ。
 こんな事になるまで……。

 きっと、弥生さんも俺と同じ様に「何故」が頭の中でぐるぐると回り、延々と己を
責め続けているのだろう。
 初めて俺は弥生さんに親近感を感じた。
「……着きました」
 緒方プロダクションの事務所の前に車をつける。
「ここが……」
「先に入っていて下さい。私は車を駐車場まで止めてきますので……」
 そう言って俺を降ろすとほぼ同時に、弥生さんは車を走らせた。

 …あっ、ドアロック掛かってない。

 けっこう、動揺している。
 俺はそんな彼女にかなり親しみを覚えていた。
 不謹慎だが。

「あのぅ……すみません……」
 事務所のドアの横のインターフォンを鳴らす。
 考えてみたら、俺は事務所に知り合いがいる訳でもないので、一人にされると大変
困る。どうなっているかもわからないし。

「あ、冬弥君!!」
 その心配はなかった。
 出てきたのは理奈ちゃんだったからだ。
「あ、理奈ちゃん……」
「冬弥君……私……どうしたらいいのか……私……」
 理奈ちゃんは俺を見るなり抱きついてきて、涙を流し始める。
「理奈ちゃん……」
「突然過ぎて一体どうしたらいいのよ、兄さんが失踪だなんて……」
「その俺……何て言ったらいいか……兄さん!?」
 てっきり由綺の事だと思ったら、問題は英二さんだった。
 英二さんも失踪したのだ。
 由綺と関係があるのかどうかわからなかったが、英二さんが失踪したのはどうも間
違いないらしい。事の大きさに事務所でもまだ数人しか知らされていないらしく、個
室に集まったのは理奈ちゃんと弥生さんと俺だけだった。英二さんは典型的なワンマ
ン経営だったらしく、スタッフはいることはいるが、彼がいないとどうにもならなく
なるらしく、プロダクションそのものが破滅する事と同意語だった。

 それ故に由綺の事は、後回しにされた。
 それ程までに一大事だということだ。
 関連性があるのかどうかわからないのだが、俺もそっちに巻き込まれていた。

 その後、数人の重役スタッフを交えて幾度も話し合いを続けた結果、残された者達
の処遇を第一に優先することに決定した。
 そして、英二さんの代行として弥生さんが収まり、理奈ちゃんと俺が補佐するとい
うあまりにもあまりな展開になった。

 理奈ちゃんが一番それを強く推し、望んでいた。
 英二さんの次にプロダクションで力がある理奈ちゃんの言葉は、命令として発行さ
れた。
 他のスタッフは緒方兄妹に逆らえる程の力を持った者はいなかった。

 そして俺の素性を誰も知らないのも幸いした。
 きっとコンサルタントか何かと思ったんだろう、悪いと言えば悪いがその誤解をそ
のまま利用させて貰った。
 弥生さんの抜擢は、どうも皆納得していた。
 いきなりトップの代行というのには抵抗はあったようだが、その手腕には誰もが納
得しているらしい。
 理奈ちゃんの意向に逆らってまでの意見もなく、あっさりと「英二さんが戻るまで
」と言うことで了承された。
 こうして、弥生さん、俺、理奈ちゃんが首脳となった現執行部は成立した。

 プロダクション再建への道は苦難を極めた。
 事務所のトップタレントとしての由綺の穴は、「信頼」と言う形が一番大きな代償
を払った。
 何しろ半年分のスケジュールを丸々潰してしまったのである。
 一応、表向きは急病ということにしておいたが、それだから許されるものではない。
そんな理由がまかり通るのは大学のみだった。

 弥生さんは内心の思いはわからなかったが、事務所の再建に力を尽くしていた。
 俺は今までのマンションを売り払い、事務所に寝泊まりすることで経験不足を補っ
ていた。
 理奈ちゃんは残されたアイドルとして二人分の仕事をこなしつつ、暇を見つけては
俺達を助けてくれた。
 その成果か、次第に道は開けていた。

 美咲さんが俺達のプロダクションに入ってきた。
「美咲さん、来てくれたんだ」
「……うん」
 俺はあまり売れていない劇団から熱心に誘われていた美咲さんを、必死に口説き落
としたのだ。初めこそ、Vシネマや昼メロぐらいしか仕事が来なくて苦労したが、今
では「脚本澤倉美咲」の名前をゴールデンタイムのドラマから無くすことはなかった。
その才能はハリウッドからも非公式に誘いの手が来ているほどだ。
 ただ何故かオカルトやホラー方面の方からばかりだったが。

 マナちゃんも大学に通いながらも入ってきた。
「私が助けてあげるからっ!!」
「あ、はぁ……」
「感謝しなさいよっ!!」
 ラジオのDJを目指していたらしいが、今では立派なドツキ漫才のツッコミ役とし
てデビューしていた。不平不満を日々述べていたが、徐々に増えていくファンレター
の数に気をよくしていた。因みに相方は一度だけあった事のある二人組の眼鏡の方で
あった。名前は忘れた。だが、彼女の臑は青痣が黒ずんで治らない、そんな努力を俺
は知っている。マナちゃんは相変わらず面白おかしく生きているが。

 そして何故かはるかまでがプロダクションに入った。
「面白そうだったから」
「だからってなぁ……」
「ん、迷惑?」
 この不景気のおりだしと、大きい心で事務でもやらせておけばいいと思ったら偶然
にもはるかを見初めたという映画監督から誘いの手が伸び、カンヌ映画祭でその初主
演映画が表彰された為、それ以来、大人気とまではいかないが一部の中では熱心な「
信者」が出来るようなキャラクターになっていた。そして彰と結婚した今も時々、T
Vや映画に出る。昼にやる「はるかな部屋」というトーク番組はちょっとしたステー
タスにまでなっている。当然、あの惚けたキャラそのままで。

 因みに彰はあのエコーズのマスターをやっていた。
 今でも親友として俺達と付き合っている。

 経営は軌道に乗り始めたどころか、失踪する前より上手くいっていた。
 そんな俺達の前に、帰ってきた。

 ……英二さんが。

「今まで何処に行ってたんですっ!!」
「はっはっは……キューバにね……音楽の勉強をしていたんだ」
 どうしてかと聞くと、英二さんはあっさりと言ってのけた。
「プロデューサーは飽きたからな」
「は、はぁ……」
「だからこれからはレゲエ歌手として!!」

 ……結構、ヒットした。

 それからというもの、英二さんが理奈さんに受けた暴行で肋骨を二本ばかりなくし
てはいたが、新しいタレントも成功し、理奈ちゃんもアイドルから女優への転身も上
手くいったし、美咲さんの脚本家としての名も業界中に知れ渡っていたし、マナちゃ
んもいつの間にかソロで頑張っていたし、はるかははるかで楽しくやっているようだ。
こうして緒方プロダクション改め、篠塚プロダクションは栄華と繁栄をもたらした。
俺と弥生さんの息は相変わらずながら、不思議な程ピッタリだった。

 そして、俺達は結婚した。
 何故と聞かれると困るが、一緒に仕事をしていくうちになんか芽生えたのは間違い
ない。
 だが、誰もが驚いていただろう。
 それらしい素振りを見せたことはない。
 弥生さんは弥生さんのままだったし、俺は俺のままだったから。
 それまで何かあった訳でもないし、付き合いも普通だった。

 ある日、不意に気付いたのだ。

 俺は弥生さんが好きだと。
 それに気付いた俺が弥生さんに言うと、弥生さんもそこで初めてそれに気付いたよ
うな顔をして「私も……そうです」と言った。
 向こうも、その時に気付いたらしい。
 ちょっと驚いた顔をしていたのが印象的だ。

 俺達は黒人っぽく焼けた英二さんを筆頭に、幾多数多の男優と浮き名を流す理奈ち
ゃん、今度の新作はコミケを舞台にした恋愛物を書くらしい美咲さん、東京都知事を
目指すマナちゃん、相変わらずなはるかに彰、新たに加わっていた新人アイドル達、
その他俺達と共に苦楽を共にしたスタッフに祝福されて結婚式をあげた。
 俺達の馴れ初め、それは誰も知らない。
 俺達自身、よくわからない。

 …なんで、こうなったんだろ?

 別に今が不満でもないし、十二分に幸せだったが何故かふとそう思った。

 俺は知らなかった。
 あの日、俺の前の家の留守番電話に由綺のメッセージが入っていたことを。
 その内容は、誰も知ることはなかった。
 彼女の行方と共に。






                        <おしまい>


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