『きれいごと』


1998/12/25



 時間が不正確で、構わない空間。
 閉じられた重く、厚い生地のカーテンは部屋の中も外も、平等に閉ざしているよう
に感じさせる。

「ん……」
 心地よい微睡みに暫し、時間どころか全てを忘れたように身を委ねていた俺は、そ
の安らぎを与えていてくれた存在に改めて身体をすりつける。
 そんな俺の顔に、その優しい膨らみがそんな甘える俺の心を察したように包み込ん
でいてくれる。
「ふわふわ……」
「え……?」
 美咲さんは、俺のそんな他愛もない言葉にも反応してくれる。
 まるで子供をあやすように俺の頭を撫でていてくれた手を止めて、俺の顔を見る。
 その顔に、その瞳には、慈愛が込められている。
「ううん……何でもない……」
 ちょっとだけ顔を上げて、そんな美咲さんの瞳に応える。

 …もう、迷わないから。
 …もう、忘れないから。
 …もう、困らせないから。

 そう、瞳で応えた。

 知ってか知らずか、美咲さんの瞳が一度瞼の奥に消え、揺れながら再び現れ、俺を
見つめてくれていた。

 ――その彼女の眼差しに気付いたのはいつ頃だろう?

 気が付いたとき、俺はそんな彼女の瞳に惹かれていた。
 気が付いたとき、俺はそんな彼女の瞳に魅入られていた。
 気が付いたとき、俺はそんな彼女の瞳に何かを感じていた。


 彼女は、いつから俺を見ていてくれたのだろう。
 俺は、いつから彼女に見られていたのだろう。

 気付いたのは、本当はいつだったのか……

 俺はその瞳に見つめられて、生きてきた。
 いつだって、彼女は俺を見ていてくれた。

 時には包み込むように、
 時には暖かく、
 時には心配げに、

 俺を、見ていてくれた。

 遠くで見つめていてくれた、目。
 そっと瞼の奥、心の奥にその想いを閉じ込められてきた眼差し。
 人の心ではなく、自分の心を突き刺してきた視線。

 彼女の、瞳。
 彼女の、想い。
 彼女の、全てを集めた……珠。

 そんな苦しみと切なさの象徴だった、瞳。
 それを気付かせなかった、瞳。

 その瞳は、
 いつも、優しかった。
 いつも、控えめだった。
 いつも、笑っていた。

 俺は、彼女のその瞳に気付いたのは、本当はいつだったのだろう。
 今、美咲さんが俺を見ている。
 その目はとても優しくて、慈愛に満ちていて、暖かさを感じ取れるような、そんな
瞳だった……。

 …どうしたの……?

 俺の気持ちに気付いているのか、そんな事を聞いているような眼差しだった。
 全てを知っているような、それでいて俺に全てを預けてくれる、そんな彼女の優し
さの籠もった瞳。
 その優しい眼差しこそ、彼女から俺への最大の気遣いの証でもあった。

 …いつも、人の前では優しく笑ってみせる……けど、笑えば笑うほど、その顔が苦
しそうで、謝っているような……時々、そんな風に見えるの。
 …まるで、目の前にいない誰かに謝っているみたいな……。

 その誰かを、彼女は、感じていた。

 その気遣いは、俺に向けながらも、俺の中の誰かにも向けている。
 そんな所まで、気を回すのが彼女らしいところだった。

 それ故に、二人は散々遠回りもしてきたけれど……

 彼女はここにいる。
 俺がここにいるのと同じ理由で。

 そんな彼女に、俺は深い愛おしさを感じる。

「………」
 その思いと共に、
 不意に何か、動く気配がした。

「………………」
 純粋な気持ちは、なかなか伝わらないけど、
 純粋な欲望はしっかりと具現化する。

 ……気恥ずかしいほど。

「あ……」
 いつもの、困ったような、照れたような、自分でもどう判断したらいいのか判らな
いような声をあげる。
「あ、その……」
 下手な言い訳が思い付かない。
 誤魔化すように、求めようとするが、
「……」
 彼女の視線が痛い。
 しっかりと、目を見開いて見つめている。
 あまり見つめられても困るものを。
「その……これ……」
 何を言いたいのか、わかる気がした。
 口に出し辛いし、こちらからも言いにくい。
「こんなに……なるんだ……」
 自分でも赤面しているのがはっきりとわかる。
 見ると、これ以上ないほど、そそり立っている。
「………」
「………」
 沈黙。
 ただ、俺はそれがいつもの沈黙だと勘違いしていた。
 最後にお互い、照れたように苦笑し合うまでの時間の静寂だと。
「……?」
 だから、彼女の表情に気付くのが遅れた。

 彼女は、更に近付いて観察する。
 まるで魅入られたように。
 一体、何を考えているのか、どう思っているのか想像が付かない。
 浅ましいようで、恐ろしいようで。

 静かに近付いて、それに……

 キスをした。

「――――――――――――――――――――――――――――っ!?」
 一瞬、思考が停止する。
「あっ……ご、御免なさい」
「あっ、そのっ……えっ?」
 慌てて、口を離す彼女に、俺はどう対応して良いか判らず、おろおろする。
「………………………………ずっと……好きでいたいから……」
 今の行為にどう繋がるのか、わからない説明をした。
 ただ、ごまかしとか、何となくとかじゃない、美咲さんらしい決意の言葉にそれは
よく似ていた。
 そう、知っている彼女の顔のひとつだ。
 深いところに、本当の奥底に、強い、意志を秘めた。

 その全てが凝縮されているような瞳が、静かに瞼で閉じられた。

 …本とかで見て、気持ちいいと聞いたから……
 …「あなたのおんな」という服従の証にしたかったから……
 …自分ばかり気持ちよく……

 みんな、違う。
 多分、違う。
 そんなんじゃない。
 そんなものじゃない。

 それこそ今まで自分が見聞きしたような理由付けとは全て違う、何かを感じる。
 今、美咲さんが銜えていること。
 都合の良い解釈とか、幻想化による現実否定とかじゃない、確かなこと。

 真剣な表情。
 閉じることをしない瞳。
 必死な舌遣い。 
 両手を添えて、深く、頬張る。
 上下に動く顔。
 膨らむ頬。

 俺は今、人ではない何かに試されているような気がした。
 強い意志に。

 弱い俺達が、自分たちのよく知る多くの人達を、裏切り、傷つけて、誤魔化し続け
るように、引き延ばし続けるように苦悩しながら、貫くことを選んだ。
 起こる事実を認める痛みにひどく怯え、怖がったり、
 丸く収まるような都合の良い、身勝手な道を選ぼうとしたり、
 安易に下りることで、諦めることで、自己満足的な意味合いで済まそうとしたり、
 いろいろした挙げ句に、考えた挙げ句に、
 遠回りした分、より深く、より多く、傷ついたけれども、
 自分を認め合うことが出来た俺達。

 自分を認め、そしてお互いを認め合おうとしている。
 弱い自分を認めたように、弱い相手を。

 そして弱い自分たちのしようとしていることを……自覚する。
 自分たちの意志を。
 純粋な思いと、純粋な欲望をぶつけ合うことで。

 深く、深く、より深く……。

 没頭することで、雑念を追い払う。
 大切なことだけを残しておけばいい。

 俺が美咲さんが好きで、
 美咲さんが俺を好きだということ。

 その為にだけ、生きればいい。
 受け入れるだけ、
 ただただ、受け止めるだけ。
 そんな今の俺の姿こそ、かつての美咲さんの姿だった。

 奥底から、こみあげるものを感じ、それを告げる。

 離さない。
 離れない。

 全てが吸い込まれ、飲み込まれていく。

 彼女の思い。
 彼女の決意。

 ……彼女自身の、純粋で真摯な意志。

・
・
・

 美咲さんが、顔を上げて俺に呼び掛ける。

「……藤井君……?」
「うん……?」
「……大好きだから……」
 確認でもない、決意でもないごく自然に漏れる言葉。
 深い、意味はない。

 文字通り、そのままの言葉。

「ふふ……」
 とても安心したような微笑みを浮かべる。
 多分、俺と同じ顔をして。

 閉じたままのカーテンの隙間から漏れ出る一筋の光が、部屋の片隅を切り裂き、白
日の元に全てを晒そうとしているかのように漏れ出ていたが、気にならない。

 深く重なり合い、
 交じり合い、
 溶け合い、
 潜り合い、

 一つの欲望をもつ二つの意志がひっきりなしに蠢き合う。
 終わることを知らないかのように。
 まるで、考えようともせずに。
 ただ思うだけ。

 好きだから。
 好きで、いたいから。

 その素直な言葉に導かれた、当然の行為。
 理じゃなく、本能ともどこか違った、それでいて自然なこと。
 当たり前のこと。

 その僕だけに向けられている瞳を見て、思う。
 僕も同じ瞳をしていると思いながら。

 好きだから。
 ずっと、好きだから。


                           <完>


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