『Good−by Only You』


1998/12/11



 俺がいつも通り、次の教室へ移動しようと校内を歩いていると、見覚えのある背中
を発見し、声を掛ける。


「お〜い、由綺……」
「あ、冬弥君……おはよう」
 由綺は振り返ると、俺を確認して嬉しそうに笑う。

「てっきり、今日、休んだのかと思って……」
「なんでだよ」
「だって、はるかちゃんが「由綺が来るなら、冬弥は休むかも」って言ってたから」
「なろぅ……何で、んなこと……」


 …それ程、大学じゃ会わない事が多いって皮肉か。


「でも、確かに由綺と会うの、久しぶりだなぁ……海外ロケだったんだって?」
 大袈裟ではない。それ以前から由綺は仕事が立て続けに入っていて、大学にはなか
なか来られなかったのだ。
「うん。新曲を含めた今度のアルバムと同時発売するビデオクリップの撮影に、ロン
ドンまで……」
 しばらく海外に行って会えなくなるとは聞いていたが、俺は目の前の由綺を改めて
見つめ、大した物だと実感する。


 …こんな、普通平凡極まりない、どこにでもいそうなヤツ、いや、普通よりちょっ
とドンくさい由綺がなぁ……。


 控えめで、人のことばかり気遣い、心配するお人好しな彼女を直接見ると、不思議
で仕方がない。これがブラウン管を通すと、完全にアイドルの由綺になっているのだ
から、更に不思議だ。

 森川由綺。
 改めて、説明するまでもない、俺の彼女だ。
 キャンバス内でも、特に言い触れられた訳でもないが、誰もがその関係を認識して
いる。

 俺はそんな彼女を、ある女性と争ったことがある。
 表向きは、大事な仕事に差し支えないように協力し合う、一時期の関係……だった。


 だが、それは表向きだった。

 駆け引きが苦手な彼女と、駆け引きすら知らない俺の、森川由綺を巡る攻防だと気
付かされたのは、いつ頃だったのだろう。
 そしてその繰り返しが、由綺とは関係のないところで、徐々におかしくなっていっ
た。
 ただ、最後まで間違いなかったのは

 俺は、由綺が好きで
 その人も、由綺が好きだった。

 そして、由綺も俺を好きでいてくれたことだ。


 それで、全てだった。



 そう、それだけは間違いようのない真実だった。


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「でね、用意してくれた車が何とかって言う黄色いスポーツカーだったんだけど、速
くて速くて……もう、シートにしがみつくようにして移動してたんだよ」
 気付くと、由綺は講義が始まるまで、隣の席でずっと喋っていた。

 離ればなれで寂しかった時間を埋めるように。

 そう考え、苦笑しながら、俺は由綺の話に半分だけ耳を傾ける。

「それでマネージャーの人が車の中にパスポート忘れちゃって、ホテルで大騒ぎにな
って……」
「ふぅん、由綺じゃなくって?……え、マネージャーって?」
 ぼんやりとしながら話を聞いていたが、聞き捨てならない事を今、由綺は口にした
気がした。そう、認識した。
「あ、まだ新しいから馴れてないと思うんだけど……やっぱり、弥生さんの後だから
かな……なん……」
「弥生さん、どうしたんだよ!?」
「えっ……!?」
 俺の剣幕に、驚いたように目を見開く由綺。
 パチクリとまばたきをして俺を見る。
「あれ、冬弥君。知らなかったっけ……弥生さん、辞めたの」
「!?」


 ……弥生さんが、やめた?


「どうして!?」
「それが……私にも理由がよく解らないんだけど……」
「いつ?」
「今度の仕事に入る前ぐらいかな……私も急に知ったんだけど……私も英二さん
に聞いたら、かなり慰留したんだけどって……」
 まるで俺にその事を責められているみたいに――そんな顔をしていたのだろう――
俺におどおど話す由綺。
「ただ……」
「ただ?」
「あ、その……これは……噂だから、ただの……」
「何だよ?」
 慌ててうち消そうとする由綺に迫る自分に、自分自身驚いていた。

 …どうして、そこまで拘るんだ。

「こ、これは……中傷かも知れないから……」
「いいから」
「う、うん。あのね……その……弥生さん……妊娠したんじゃないかって…あ、本当
に、ただの噂だよ。ウチの事務所じゃ、誰も信じてないけど……」
 俺は、頭が、急にクラクラしてくるのを感じた。


 …妊娠……弥生さんが……。


 その日、結局俺は午後の授業を自主休講した。


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 家に戻ったが、何もする気が起きなかった。
 弥生さんがどうしているか気になったし、色々聞きたいこともあったが、連絡先も
わからないし、今更どうしたところでとの思いが拭えなかった。
 ただ、部屋のベッドに寝ころんで、ボーっと天井を見つめていた。
 あの時も天井を見つめていた。
 そう、あの時も。


 …私は……あなたが大嫌いです……。


 不意に、彼女の声を思い出す。
 固く、目を閉じた。


 これ以上、余計なことを思いだしても、仕方がないと言い聞かせたかったから。


 ……………
 …………
 ………
 ……
 …


 ……少し、眠りかけていたようだった。
 目尻が冷たかった。


 指で、無意識か、夢の中でか零していた僅かな涙を指で拭い、立ち上がる。
 ふと見ると、留守電のボタンが点滅していた。


 再生すると、由綺の心配そうな声が入っていた。
 サボりは今日に限ったことではないのに。


 …はるかの言う通り……だな、これじゃあ……。


 俺は悪いと思いながらもメッセージの後半を聞かずに、トイレへ歩いていった。
 何かを期待してた訳ではないのに。


 こんな調子だったから、DMに混じって郵便受けに入っていた手紙を見つけたのは
、数日後だった。


・
・
・


「私は……あなたが大嫌いです……」


 ずっとわだかまった気持ちを、舌の上に長いこと転がしていた物を放り出すように
吐き出しました。


 嘘ではなく、本当の気持ちです。


 …私は、あなたが嫌いです。


 そう、間違いなく、私の真摯な気持ち。


 人を嫌いになる事は……かなり久しぶりな経験です。



 人を好きになることは、あったようです。
 軽い気持ちだったり、心の奥底が締め付けられるような、燃えさかるような感情を
相手に抱くことは、稀にありました。
 そしてその稀が、最近、起きていました。


 森川由綺――さん。


 私が、最近、一番好きになった方です。
 私は、彼女の顔を見るのが嬉しくてたまりません。
 彼女が輝いている姿を、私以上に誇らしく感じている人などいないでしょう。
 緒方英二より。
 藤井冬弥より。


 私こそ、彼女の輝きを身に感じることが出来ます。
 きっと、彼女自身よりも。


 私は森川由綺を初めて見たときから、好きになり、
 気付いたら一番に愛していました。

 その気持ちが届かなくても、
 一人だけの思いでも。

 関係なく、私は思い続けていました。


 ――私は、森川由綺が好きだと。



 それはそれで良かったのです。

 それで、済んだ筈なのです。

 喩え報われなくても、届かなくても……きっと気にしないでいられたでしょう。

 変わりなく、生きていけたでしょう。
 今まで通り。


 私はいつも通りの仕事をする。
 私のマネージメントする由綺さんの為に。
 彼女が最高に働けるように演出する。


 その延長の仕事をしだした頃から、何処かおかしくなったようです。


・
・
・


 私は語るのが大好きです。
 ぶるのがどうも好きで仕方がない人間のようです。


 同時に、
 私は人の言葉を聞くのが大好きです。
 人が語るのを聞くのが好きです。


 自己主張が強くて、自己顕示欲が強い人間でした。
 そして同時に、それを自覚している人間でした。
 自分が最後まで誇っていられるほど、強いものでも、立派なものでもないごく有り
触れた平凡な程度の存在だと言うことを。


 ですから、わきまえる事を覚えました。控える事を習いました。
 最小限に食い止めるために。
 最大限に演出するために。


 それが、最善と考えていました。


 不意に、言葉にならない思いを精一杯表現しようとしているあなたを見て、不思議
な気がしました。


 …想いを表すのに、言葉は要らない。


 良く聞く言葉です。
 有り触れた、陳腐な言い草です。


 私はその言葉の意味を半分くらいしか判っていませんでした。

 私は想いを隠す事しかできませんでした。
 言葉さえ出さなければ、気付かない。伝わらない。
 そう、考えていました。
 自分自身については。


 努力すればいい。
 装えればいい。
 一生懸命でさえいれば……。


 そんな人がいることはわかっていましたが、自分とは無縁の世界の人間だと信じて
いました。


 遂、最近までは。


 私は不器用な人間ですが、あなたは違う違う不器用な方のようです。
 そして私はそんなあなたが、嫌いになりました。



 私にはないものをもつ、森川由綺を好きになり、
 私にはないものを持つ、藤井冬弥を嫌いになりました。



 ただ、それだけのことです。
 それだけで、いいのです。


「風が……冷たいですね」
 あの私の言葉は、あなたに呼び掛けたのではなく、意味もなく口に出た他愛もない
飾りでしかありません。


 あなたを嫌いになった私の言葉は、あなたにはどれほどの意味を為すこともありま
せん。


 由綺さんには何も言えませんでした。
 嫌われたくなかったから。


 そして、これであなたへのこだわりを終わらそうと思います。
 好きになることも、嫌いになることも、忘れようと努力したいと思います。


 取り敢えず今は、さようなら。


 一番嫌いなあなたにだけ、さようならを言わせて下さい。



・
・
・


 俺は、そのあくまで純白で、フェルトペンでこっちの住所の書かれただけの、郵便
局だけが派手に装飾してしまったかのようなその、差出人不明の手紙を封をしたまま
、机の中の鍵のある引き出しに閉まった。




 きっと、それが一番正しく、彼女が求めていたことだと思ったから。
 お互い、中身は必要のない手紙だと知っていたから。




                           <完>


written by 久々野 彰 『Thoughtless Homepage』

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