『笑顔』


1998/05/06



 懐かしいようで、それほど懐かしくない思い出。
 遂、ちょっと前の出来事の筈なのに、まるで少年時代の風化しかかった古ぼけた色
をした光景。


 いつも、俺の脳裏に浮かぶ光景……。


 そこには泣くことを拒み、必死に顔を取り繕うとする美咲さんがいる。


 寂しそうで、疲れているようで、辛さも苦しさもない、何かを諦めてしまったよう
な顔。安堵と羨望が入り交じったような、そんな……笑顔。


 そう。
 彼女はいる。
 俺の目の前に、俺の側で。


 それでいて、近付きたくても、近付けない距離。
 二人を隔てるのは無骨な公園の金網ではなくて、亀裂。
 心の、亀裂。


 ほんの僅かな傷から、広がっていった痕。
 流れ出ている訳でも無い、なのに浸み入ってくる雫。
 冷めようとしない熱い、心。

 全てを恐れ、震え出すのを押さえる俺。
 そしてそれを見つめる美咲さん。


 夜行灯の光が馬鹿に非現実的に見える。

 光が、膨らんで、膨らんで……


 俺が、

 美咲さんが、

 亀裂が、

 光に溶け込んで、一つになる。


 全てを包み込み、閉じこめた冬の……俺と、彼女のアルバム……。



『笑顔』



 …美咲さん……。


 気がついたらいつも、心で呟いていた。
 求めていた。
 縋っていた。
 頼っていた。


 そう、俺は美咲さんに甘えていたんだ。いや、俺だけじゃない。美咲さんも俺に、
甘えていた。由綺も、彰も、皆がそれぞれの関係で、それぞれお互いに甘えていた。


 …ずっと……このままで……。


 儚かった思い。
 あまりにも拙かった考え。
 そんな事、出来るはずがなかった。
 俺が、由綺が、美咲さんが、彰が、……誰かが好きでその誰かが誰かを好きである
以上、このまま……このまま過ぎていく訳はなかった。
 お互いに気付いていたから。知っていたから。悩んでいたから。抱えていたから。
感じていたから。見つめていたから。

 だから、分からない筈はなかった。

 認めたくなかっただけ。
 考えることを恐れた、だけ。
 それを認めるにはあまりにも辛いことだと、弱い心は怯えていた。


 …俺のために泣いてくれた美咲さん。

 …優しく包み込んでくれた美咲さん。

 …驚きつつも拒まなかった美咲さん。

 …抱え込んでいただろう美咲さん。

 …狭間で苦しんでいたに違いない美咲さん。

 …飛び込んでいく事を恐れていた美咲さん。

 …壊れることに責任を感じ続けた美咲さん。

 …戻らない事を分かってしまった美咲さん。


 ずっと……ずっと、そうだった。
 苦しんでいたのは、先に気付いてしまった方。
 気遣いが出来る、方。
 誤魔化そうとしない、方。
 少しでも忘れられない……方。


 貴女は優しすぎるから……とても、とても、優しすぎるから……。


 幸せをくれた美咲さん。
 こんな身勝手な俺に幸せをくれた美咲さん。
 より深く、傷つく事を選んでくれた美咲さん。
 全てを引き受け、身に受けて、俺を、俺達を護ろうとしてくれた美咲さん。


 だからこそ、俺は貴女を……貴女を……。


 その想いの果てはとても残酷で、とても辛い……そんな場所に生まれたほのかに揺
らぐ位置にある。
 楽しく笑えるような恋愛じゃない。
 思い出して頬を赤らめるような出来事じゃない。


 裏切り、裏切られ、誰かを傷つけ、自分自身を深く斬りつけるように傷つける、痛
い、想い。
 逃げ出したくなるような、そんな想い。


 …俺も、美咲さんも、……皆、泣いた。


 そんな恋愛。
 誰もが、誰もを裏切り、それでいて互いに罵り合う事も出来ないで、深く、深く…
…沈んでいくような、そんな恋愛。


 抱いても、抱かれても、溺れる事も出来ず、醒めることも出来ず、何かに怯えなが
ら、詫びながら、泣きながら……続けていた関係。


 全ては、全ては……。


 弱い、心。
 でも、なまじに強かった、心。


 そんな俺達に出来たことはただ……笑って見せる事だけだった。
 俺も、美咲さんも、由綺も、彰も、皆、笑ってみせるだけだった。
 泣いて、泣いて、泣いて……でも、笑ってみせる。
 それしか、出来なかった。


 俺達、皆、臆病だったから……。


 でも、皆分かっているから、それぞれが泣いている事を。
 だから、笑ってみせた。
 みんな、それぞれが這い上がり、抜けだそうと藻掻く。
 そして、笑ってみせるんだ。
 それぞれの形で、色々な顔をして。泣きながら、泣き続けながら笑うんだ。


 忘れることの出来ない苦しみを、痛みを、悲しさを押し込んで……。


 こんな想いを忘れることは一生出来ない、辛い微笑み。
 だけども……俺は気付いているから、俺に気付かせてくれたから……。



 それだから、俺は微笑んでいる彼女の細い身体を抱きしめる。
 彼女を求めた。それだけが、確かな事だから。確実な事だから。
 離さないように、離れないように……。


 それで癒されることも、許されることも、……絶対にない。
 それでも、寄り添い合う事を止めることは出来なかった。
 求め合う事を。
 縋り合う事を。
 震え合う事を。
 泣き合う事を。

 そして、笑う。
 二人で、顔を見つめて、笑う。


 …だから……


 いつまでも、抱きしめている……。


 …このままで、いたいから。
 …はなれたく、ないから。


 いつまでも……いつまでも……。


 …いつまでも……一緒に、笑いたいから……。



                           <完>


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