月影草



「ここで‥‥あなたを‥‥‥」
 呟くエルルゥの背後に、一陣の風が吹いた。

 その風に背を撫でられた時、彼女はその場に固まったように手に籠を持ったまま硬直していた。
 風と共に感じた空気が、彼女を動けなくしたのだ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 あれから春夏秋冬と季節は律儀に一通り彼女の前を通り過ぎていたが、深い悲しみや辛い苦しみが心に残ったまま消えないでいる。
 それ以上に彼女が感じていたのが、この言い知れない淋しさ。
 どれだけ彼女の周りに人がいても、この気持ちが消えたことは無い。
 たった、一年あまり。
 まだそれほど経っていない筈なのに随分と経っていた気がする。
 再びまたあの時の季節がやってこようとしていた。
 そして、風は吹いた。
 風と共に暖かくて懐かしい匂いと共に運ばれる。

 戻ろうと、していた。

 誰かが、誰かがいる。
 誰かが、近づいてきている。
 一歩。
 二歩。
 誰かが、わたしを見て近づいてきている。
 村の人じゃない。
 もっと違う。
 もっと違った空気。
 この感じは一年前に無くしたものに近い、わたしたちと同じような存在でどこか違う存在。
 もしかしたら、
 ひょっとしたら、
 いや、きっと‥‥。
 必ず。
 聞こえない足音が聞こえる距離にまで近づいてきていた。
 そしてその足音が止む。
 彼女のすぐ後ろで止まったから。
 その人は、
 やってきた彼はすぐ後ろにいる。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 振り向きたい。
 でも、動けない。
 動きたい。
 いや、動かなくちゃ。
 逡巡。
 時間にして一秒足らず。
 それなのに五分も十分もその場に凍りついたように思えてしまう。
 動く。
 わたしは、動く。
 あの人かも知れない。
 違うかもしれない。

 でも、それでも。
 わたしは‥‥

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 意を決してエルルゥが振り向いたその先には、
「‥‥‥あの、そこのお方」
 見覚えのある顔。
 勿論、この村の人間ではない。
 そして一年前を最後に見ることのできなくなっていた顔。
 全く、同じだ。
 けど。
 でも。
 ですけれども。
「ちょっと、道をお尋ねしたいのですが‥‥」
 ウィツァルネミテアとしてもう一つの片割れの体として取り込まれていた男、元オンカミヤムカイの哲学史でウルトリィの師、あのディーがいた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ええと‥‥」
「あ、あの‥‥え? え? え―――――――――――――――――――っ!?」
 小さな村、懐かしの村にエルルゥの絶叫が轟いた。


 その頃、トゥスクル皇城の中庭ではクーヤとサクヤがいた。
「あ〜」
「クーヤ様、そろそろお昼寝のお時間ですよ〜」
 サクヤの声が、この静かでのどかな空気に溶け込むようにしているクーヤを呼ぶ。
「きゃぅ〜」
「仕方ないですねぇ。あんまり遠くへ行っちゃ駄目ですよ〜」
 全身で軽くいやいやをしてこの場にいたい意思表示をするクーヤにサクヤは微笑む。
 設えられた花畑の前に座り込んでいるクーヤ。
 少し離れた二人の為に用意された離れの階段に腰掛けて見守っているサクヤ。
 二人の故国はもう既に無い。
 この場所だけが、彼女達の居場所だった。
「きゃお〜」
「何か見つけたんですか?」
 それでも無邪気にはしゃぎ回るクーヤとそれを見つめるサクヤは幸せそうだった。
 そう、彼女たちは幸せだったのだ。
 一国の皇でありながら、重度のショックで精神退行を起こしたままのクーヤ。
 室という名の人質の証として脚の腱を切られ、歩行すら困難な状態のサクヤ。
 それでも ただ一つのことを除いて彼女らは幸せを味わっていた。
「ちょうちょ〜」
「そうですか、蝶々ですかぁ。綺麗ですね〜」
「おはな〜」
「そうですか、お花ですかぁ。可愛いお花ですよね〜」
「さかな〜」
「そうですか、お魚ですかぁ。美味しそうですよね〜」
「はくおろ〜‥‥」
「そうですか、ハク‥‥え?」
「きゃおぅ。おろ〜、おろ〜」
 そう、ただ一つ。
 その欠けていた筈の一つが、今、彼女の彼女たちの目の前に。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「おろ〜、おろ〜」
 ゆっくりしながら確りとした足取り。
 逞しさを感じさせながら、筋肉質なところを見せない体躯。
 肩にかかるかかからないかぐらいの長さの黒く艶やかな髪。
 クーヤの、そしてサクヤの前にその人は現れた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥あ、ああっ‥あっ」
 驚愕でこれ以上なく見開かれたサクヤの目が急速に潤み出す。
 自分でも気づかないうちに立ち上がり、駆け出そうとする。
 が、脚は動かない。
 彼女の思いに答えることが無く、その場につんのめってしまう。
「あぅっ!?」
「‥‥‥クヤっ」
 驚いたような慌てた声が転倒した彼女の耳に届いた。
 涙が、止まらない。
 体が痺れるように熱くなる。
 転んだ姿勢のまま、手で、肘で這うように起き上がる。
 更に歩こうとして、

 ポンッ

 と、視界が塞がれて優しい感触に頬が触れるのを感じた。
 暖かな温もりが衣服の布地越しにサクヤの頬に届く。
 自分が受け止められたことを知る。
 こうしたかったこと。
 叶わなかったこと。
 彼女が望んでいた、彼女にとって一番の贅沢な思い。
 それが今、彼女の体を包もうとしていた。
「あ、ああ‥‥」
 直ぐ横にはクーヤの顔があった。
 サクヤと目が合うことはない。
 彼女はその頭に掌を乗せられて、嬉しそうに目を閉じていたから。
 サクヤと同じ思いが、そこにはあった。
「ハク‥‥‥‥‥‥‥んきゅっ!?」
 感極まった彼女の声は、彼女の背中を襲った衝撃によって遮られてしまった。


 知らせは風が運んできてくれた。
 風に乗った匂いが、あの懐かしい匂いが彼の帰還を教えてくれていた。
 決して忘れることのない、忘れることのできるはずのない暖かい匂いが。
 ムックルが確信し、アルルゥが追う。
 カミュが乗り、ガチャタラが引っ付く。
「おと〜さん」
 ムックルが駆け、走る。
「おと〜さん‥‥」
 振り落とされないように必死にしがみつくカミュ。
「おと〜さん‥‥‥‥」
 ガチャタラが吹き飛ばされかけ、カミュが慌てて掴む。
「‥‥おと〜さん」
 アルルゥの目は、ただ一心に前を見ていた。
「おと〜さんっ!!」
「え? あ、アルちゃ‥‥」
 跳躍。
 アルルゥは自分でも知らないうちに、ムックルの背を蹴っていた。
 カミュとムックルの慌てた声だけを取り残して。


「おと〜さんっ! おと〜さんっ! おと〜さんっ!!」
「んきゅう〜」
「おじ‥‥さ‥‥」
 ムックルの背中を転げ落ちそうりなりながらも翼でバランスを取って着地したカミュが見たものは、カミュ自身の、でもアルルゥだけの父親に胸に抱きついて泣いているアルルゥと、それを指を咥えてもの欲しそうに見ているクーヤと、昏倒しているサクヤの姿だった。
「おと〜さんおと〜さんおと〜さん」
「おろ〜、おろ〜」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 声をかけることも出来ず側で見ていただけのカミュに彼、ハクオロが気づいて彼女を見た。
 その顔は見覚えが合って、初めて見る顔。
 昔から、ずっと昔から知っていたのにこうして見るのは初めての彼の素顔。
 仮面の奥でしか見ることの無かった彼の目が優しく細められる。
「‥‥何も変わりはないか?」
「‥‥‥‥‥‥うん、変わり無いよ」
 笑顔で答えたくせに、カミュの目尻からは涙が零れていた。
 嬉しかった。
 ただ、嬉しかった。
 カミュとして、彼女は嬉しかった。
「お姉さまも、エルルゥさんも、アルちゃんも、‥‥オボロさんもベナウィさんもみんな元気」
 アルルゥと、それを見てせがんで来たクーヤの頭を両手で撫でているハクオロの前に立つと、カミュはもう一度微笑んで見せた。
「‥‥‥‥」
 笑顔には自信がある。
 それでも、ハクオロには気づかれてしまったようだ。
 何故かクーヤに助け起こされていた土埃で汚れているサクヤの方を見てから、ハクオロは空を見上げた。
 空の果ての向こうは、彼にはもう届かない。
「そうか」
「うん。みんな元気」
 最期まで微笑んでいた彼女の思いを胸に、カミュは笑う。
 彼女ほど上品な微笑ではないけれど、そればかりは勘弁してもらうしかない。
 彼女は最初の勝者だったのだから。
 カミュも空を見ていた。
 微笑んだまま。
 ハクオロの暖かい手がそんなカミュの頭へと伸びた。
「あっ‥‥」
「それは、良かった」
「‥‥うん。みんな、幸せだよ」
 みんな、元気だ。
 ここにいなくても、きっと。必ず。間違いなく。
 アルルゥと温もりを分け合うようにして、二人の娘は父に寄り添っていた。
「ん?」
「どうしたのおじさま」
 抱きついていたカミュを驚いた顔で見るハクオロにカミュは怪訝な顔をする。
「カミュ、ちょっと変わったか?」
「え?」
「なんかちょっと印象が違うような」
「ヤダ、おじさまったら」
 照れた顔をするカミュ。
「おっきくなった」
「え?」
 戸惑うカミュの代わりに、同じように抱きついていたアルルゥが答える。
「ア、アルちゃん」
「胸、おっきくなった」
「‥‥‥‥」
「なるほど」
 絶句するカミュに胸を押しつけられた格好でいることに気づいたハクオロは妙に納得した表情で頷いた。
「ア、アルちゃんだってきっと‥‥」
「無理」
「あ、あはは‥‥」
「‥‥‥‥」
 ハクオロはそんな二人を微笑ましく見つめていた。


 騒ぎに気づいたのか、鎧の金属がぶつかり合うような音が彼らの元にやってきた。
 ベナウィと、クロウの二人だ。
 オボロの姿は、ない。
 ハクオロには何となく、その理由が予測出来ていた。
 ベナウィは律儀にも腰をかがめ、膝を落として頭を下げる。
「ご帰還、おめでとうございます」
 クロウも格好だけはそれに倣う。
 彼一人では絶対やらないだろうその仕草一つをとっても、ハクオロにとって戻ってきたのだと思える空気を感じさせる。
「骨休みをさせて貰った」
 コキュコキュと首を鳴らし、「長い間、留守にしたな」
 ハクオロはベナウィに皇としての声をかける。
 そうすることが、仕える者として生きていたベナウィにとっての最大の労わりになると思うからこその言葉だ。
「はい。ですが‥‥」
「ん?」
 そこで言葉を止め、ベナウィは表情を崩した。
「思った以上に、早いお帰りで」
「‥‥ああ、まあ、な」
 微笑を浮かべるベナウィを見ながら、拍子抜けさせてしまったかも知れないと感じていた。
 彼なりの場を和ませる冗談だったのだろうが、ハクオロにとっては些か気まずい思いになる。別れの時の彼らへの覚悟に悪いことをしたような、ちょっと後ろめたいような気分をハクオロに蘇らせた。
 ここに戻るまでの道中、ずっと思っていたことであるが、改めて言われると少し困る。そんなハクオロの顔を見てクロウがニヤリと笑う。
「まあいいじゃないですか、大将」
「ええ、勿論です」
 こういう時のクロウの一言は救われる。
「でも一体どうやって戻ってこられたんです、総大将」
「あー、それはわたしも知りたい知りたい」
「アルルゥも‥‥」
 ハクオロの素顔をペタペタと手で触っていたカミュとアルルゥも聞いてくる。
 当然の疑問だろう。
「それがな、何からどう話したらいいものやら‥‥」
 そう言いながら、言葉を捜す。
 自分でも良く分かっていない。
 戻った記憶と亡くした記憶。
 自分の記憶と自分のものではない記憶。
 時間軸がバラバラで順序もなにもないような曖昧な記憶は、まとめようがない。
「私はその、考古学者だった」
「え?」
「考古学者とは、昔の事を調べることを仕事とする人のことだ」
「昔のことと言いますと‥‥」
 自分でも下手な言い出し方だったと反省しながらも、ハクオロは通り一遍の説明を始める。
 何せ、全てが違うのだ。
 理解させられるような説明をすることは元から不可能に近い。
 そして厄介な事に、
「遠い遠い昔。打ち捨てられた遥かな記憶が確かならば、だが」
 ハクオロ自身も自分の記憶に自信が持てていない。
 ただそれでもはっきりと言えるのは國が、世界が、この星に存在する生態系そのものが全くと言って良いほど異なる程の大昔。
 ハクオロはその頃にいた、ただの人間だったということだ。
「ニンゲ‥ン?」
「ああ。動物でありながら動物に遠い存在にまで新化してしまった生き物。それが我々人間と言う生き物だった」
 自分の姿を印象付けるように、大袈裟に手を広げて回って見せる。
 腰に両手を廻して纏わりついていたアルルゥも転ばないように一緒に回る。

 人間は動物を止めようと進化という名の変貌をし続け、それを周りにも強いた。
 自分らの住む世界、環境、大気、そして星を出た宇宙にまで旧来のものを悉く排除し、変貌した自分達に都合の良い、自分達だけが生きられるものへと作り変えようとしていた。
 人間は自分を生み育ててくれた自然を拒否し、そしてその自然に拠って滅ぼされるまでに至った。
 滅びを免れようと模索し、生き残った人間はそれでもまだ自然を拒絶し、自分達の叡智に縋った。
 耐性のある強い存在に、死なぬ身体に、不死の存在へと望みを膨らませる。
 自分達人間が自然に捨てられたのであれば、自然に受け入れられる人間を作れば良い。
 人間の手で作り出された人間。そんな作られし人間に対して繰り返される人体実験。
 そんな彼等の生き残りを滅ぼしたのは、ハクオロ自身だった。
 アイスマンと呼ばれた彼の、彼個人の感情が、そうさせた。
 彼が持つ、彼が瀕死の状態で契約した存在によって。

「進化の‥‥根元?」
 僅かに話に相槌を打つのはベナウィ一人でしかなかったが、それでもハクオロは話を続ける。
「そうとしか言いようが無い」
 かつて自分自身の姿として変化し、そして封印されることになった4m50程の謎の生物の姿。
 彼についてはハクオロ自身も殆ど判らない。
 覚えていないのか、知る事が無かったのかも不明だ。
 ただ、覚えているのは、
「瀕死の私は彼と契約した」
 それだけだった。彼はもう一人の自分が必要だったから。
 天秤の両端を司る神の立場としての二人なのか、己を律し尚且つ相反させる為の二人なのか、そんなことも判らない。
 また、覚えている必要もこれから知る必要も無い。
「もう既に人間としての自分はウィツァルネミテアにとっては不要なものでしかなかったのだろう」
 恐らくそれはディーも同じ。
 嘗ての自分と同じ、好奇心もしくは探求心から取りこまれてしまった彼も今はどこかで自分と同じ様に覚醒していることだろう。
 共に封じられることもなく、今回に限って吐き出されたのは恐らく‥‥

「あはは。ま、別にいーよね」
 誤魔化すような笑いと共に、最初にカミュが投げた。
 いや、正直みんな本当はどうでも良かったのだろう。
 その声と共に話は打ち切った。
 ハクオロは還ってきた。
 それで、十分だったから。
 それにハクオロ自身も分かっていない話だ。
 話しようがないのも事実だった。
「ところで、エル‥」
「おとーさん」
「ん?」
 ハクオロの言葉を遮ってアルルゥがじっと真剣な目で見つめてくる。
「ずっといっしょ」
「あ、うん」
「おとーさんと一緒」
「ああ」
「ずっと、ずっといっしょ」
「ああ」
 首にしがみつくアルルゥを抱えるように持ち上げる。
「クーヤやサクヤも元気か?」
「は、はいっ」
「はくおろ〜」
 アルルゥやカミュの真似をするようにハクオロに抱きつくクーヤをサクヤは嬉しそうに眺める。
「聖上」
「ん?」
 暫くその様子を見ていたベナウィがすっと前に出た。
「預からせて戴いたもの、全てお返し致します」
「それなんだが、ベナウィ」
 アルルゥを地面に下ろしながら、ハクオロは表情を引き締めた。
「はっ」
「見たところ、随分と落ちついた良い國なったな」
「それも聖上の御高徳が‥」
「いや、違う。お前が中心となって皆が戦乱で疲弊したこの國を立て直してくれたからだ」
「‥‥」
「國は富み、民には笑顔が戻りつつある。きっと物も人の心ももっと豊かになっていくだろう」
 広く見渡すように遠い目をする。
「だからこそベナウィ。今を変える必要はあるまい」
「聖上、それは‥‥」
「それがいい」
 うんうんと頷くハクオロに、ベナウィは疑問の声をあげる。
「単に聖上の努めが面倒だからでは?」
「‥‥」
「‥‥」
「頑張れ!」
「親指立てて応援しても駄目です!」
「‥‥えっと、おおっ。そうそう、皇はもうそなたしかいない」
「思いつきで格好良さそうな台詞を言っても駄目です」
「‥‥」
「‥‥」
 数秒の見詰め合い。
 折れたのはベナウィの方だった。
 大げさなため息一つ。
「はあ‥‥仕方ないですね」
「それじゃあ」
「一年だけです」
 きっぱりと言い切った。
 流石にその言葉にはハクオロも言い返せない。
「‥‥」
「それだけあれば、十分骨休みになるでしょう」
「ぐっ」
「総大将。ここが妥協の為所ですぜ」
「そうだな。それになし崩しに誤魔化せるかもしれないし」
「そんなことはありません。クロウも余計な事を吹き込まなくで下さい」
「ういッス」
 クロウの言葉に皆が笑う。
 あの頃のように、ただあの頃のように。




「たのしそーですね、ハクオロさん」




 その盛り上がりを一瞬にして冷ますような凍てついた声。
「あ、エ、エル‥」
「みんなでたのしそーですね」
 エルルゥの爽やかな笑み。
 逸早く過敏に反応したムックルが「キュ〜〜ン‥‥」と怯えるような唸り声を上げて、その場から離れる。
「‥‥‥」
 無言で逃げるアルルゥ。
「あ、あはは」
 誤魔化すような笑みと共に後ずさりするカミュ。
「はく〜」
「こっちですよー、クーヤ様」
 クーヤの手を引くサクヤ。
「姐さ‥‥」
「‥‥‥」
「いや、なんでもないッス」
 エルルゥにギッ――と一瞥されて、引っ込むクロウ。
 既にベナウィは離れた場所にいた。
「た・の・し・そ・う・で・す・ね・ハ・ク・オ・ロ・さ・ん」
 後退りしようとしたハクオロの服をグィと掴むエルルゥ。
「あ、いや‥‥ずっと捜し‥‥」
「た・の・し・そ・う・で・す・ね」
 服を掴んだまま俯いているエルルゥが全身をプルプルと震えているのが判る。
「あ、その‥‥」
「ハクオロさんの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――っ!!!!!」


『辺境の女ってやつは、どうも歳食う度に肝っ玉が太くなってなぁ』


 何故か親ッさんの言葉が走馬燈のようにハクオロの脳裏を駈け巡り、そして意識が何かに貫かれたかのようにして吹き飛ばされてかける。

 今のハ‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 ココは‥‥ドこダ‥‥
 ‥‥‥‥‥‥‥‥
 私ハ‥‥何を‥‥
 何故‥‥私ハ‥‥コンなとこロニ‥‥‥
 グアッ!!?
 ッ‥‥ウ‥‥何‥だ‥‥躰ガ――
 躰ガ‥‥砕ケ‥ル‥‥‥‥

「うぅぅぅ――――はっ!?」
 一瞬で意識を取り戻すと、ハクオロの顔に覆い被さるようにしているエルルゥの泣き顔が目に飛び込んできた。
 背中が固い。
 ハクオロが自分が彼女に押し倒されたのだと気づいたと同時に、エルルゥは泣きじゃくる。
「あたしだって、あたしだって‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ずっと、ずっと‥‥」
「すまん、エルルゥ」
 馬乗りにされた状態のままで格好はつかなかったが、ハクオロは泣き続けるエルルゥの涙を指で拭う。
「ただいま、エルルゥ」
「‥‥はい、お帰りなさい。ハクオロさん」
 気を取り直し、エルルゥが微笑む。
 これで本当に全てがまた、始まろうとしていた。
 激しく、でも緩やかな流れに乗って。

「聖上ーっ!」
「おお。カルラにトウ‥‥」

 ズベシッ
 グキッ

 一瞬立ち止まっていたトウカがハクオロの方に一直線に駆け出しそうになった瞬間を見計らったかのように、スッと横から足を引っ掛けられて頭から転倒する。
「カ‥‥」
「あるじ様♪ この日をお待ち申し上げておりました」
 エルルゥに起こしてもらって埃を払っていたハオロクの前に、カルラが小走りでやってくる。
「わっ、わわ」
「ちょっと譲ってくださいませ」
 脇にいたエルルゥにウインクをすると、カルラは立ち尽くしていたハクオロの首に齧りつくように抱きついてくる。
 抱きかかえられていたアルルゥと、背中にしがみついていたカミュがその振動でバランスを崩して落ちかける。
「ちょ、ちょっとカルラさ‥」
「たまたま戻ってきた時を見計らったように会えるなんて‥‥やはりこれは‥‥」
「お、おい‥‥今、トウカの首から音が」
 倒れたままピクリとも動かないトウカに青ざめるハクオロとエルルゥだったが、
「誇り高きエヴェンクルガ族ですもの。あの位、何ほどのことでもありませんわ」
 カルラは平然と答えるとその言葉が聞こえた訳でもないだろうが、
「――ハッ!?」
 倒れていたトウカの耳がピクリと動く。
 気がつくと共に、自分が何をされたのかを思い出したらしく身体が震えている。
「き、き、貴様――――――――っ!!」
 ガバと起き上がると、ハクオロにしなだれかかるカルラを見つけて駆け出す。
「ト、トウカさん。首が、首が」
 首が曲がった状態で。
「お、おいトウ‥‥」
「最後の最後まで‥‥少しでもお前を信じた某が馬鹿だった! 道に迷うは、目を離した隙に雇兵として売り飛ばされるわ、無駄な戦に巻き込まれるわ‥‥」
 カルラを引き剥がすようにして掴みかかるトウカ。
「でも楽しかったでしょ?」
 軽く見を捻ってその追及をかわすカルラ。
「某はちっとも楽しくないっっっっっっっっっっ!!」
 その追いかけっこを見ているハクオロの前にまた、懐かしい顔がやってきた。
「ハクオロ皇」
「あ‥‥」
「星の並びが気になったものですから、カミュを捜すと嘘をついてここにきてしまいましたが‥‥やはりお戻りになられたのですね」
「ウルト‥‥」
「こんなに早くまた会える事ができるなんて‥‥夢のようです」
「大体! 貴公は‥‥」
「そんなに興奮なさると‥‥あら?」
「ト、トウカさんっ!?」
 ハクオロの背後で悲鳴があがる。

『トウカ』
「ハ‥‥ハッ!!」
『私がいない間‥‥よく皆の為に尽くしてくれた。
改めて礼を言う』
「某は聖上の臣。
それぐらいの努めは当然の事」
『いやいや、トウカがいてくれなければどうなっていたことか』
「も、勿体なき御言葉。
恐悦至極でございます!」
『苦労をかけたと思う』

「いえ、そんな‥‥」
 倒れているトウカは何か夢を見ているのか恍惚とした表情を浮かべていた。
「あの、ト、トウカさんの顔色が紫色に!?」
「ウルト、治療、治療を!!」
 エルルゥの訴えに慌てるハクオロの声にウルトリィが応じる。
「は、はいっ!」
 首があらぬ方向に曲がったまま倒れているトウカを皆で取り巻いて見ていると、
「今度こそ正真正銘あるじ様のものになってみせますわ」
 いつの間にか再びハクオロの隣に立っていたカルラが、耳元で囁いた。
「思ったほどの刻を経たずに‥‥」
「‥‥な」
「契約はまだまだ、続いておりますわ」
 そう言うと、カルラは側を離れた。その行く先は当然のように皇城だった。
 既にベナウィとクロウも戻ったらしい。
 エルルゥとウルトリィはトウカの治療。
 アルルゥやカミュもすぐ側にいる。
「‥‥‥‥」
 ハクオロはじっと自分を見ているような視線を感じ、その方向を向く。
「あ‥‥‥」
 視線の主はハクオロと目が合うと、慌てたように顔を伏せる。
 その顔は赤い。
「クーヤは寝たのか?」
「はい。いつもはもう、この時間はお昼寝をしている頃ですから」
「そうか‥‥」
 顔を赤くして俯くサクヤの前に寄ると、ムックルのお腹を枕にして寝息を立てているクーヤの顔を覗きこんだ。
 ムックルはくすぐったそうな表情で、静かに喉を鳴らしていた。
「このままここで寝かせるのも身体に良くないだろう。戻るか」
「は、はい!」
 ハクオロは寝ているクーヤを起こさないよう抱え上げると、ゆっくりと背中に負ぶった。
「‥‥‥‥」
 それを座った姿勢のままでサクヤが見上げる。
「‥サクヤ?」
「え、ええと‥‥」
「あ‥‥‥」
 ハクオロはそこで立ちあがる事の出来ないサクヤに気付く。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 暫く見詰め合っていた互いの視線は、直ぐ横でクーヤの頭の重みから解放されて身体を揺すりながら立ち去ろうとしていたムックルに移る。
「キュフ〜ン‥‥」
 二人の意図に気付いて振り向いたムックルは、少しだけ困ったような顔をしているように見えた。


「あ、あたしはその‥‥」
「まあまあ。何事も経験だ‥‥」
「あ、あははは‥‥」
 ムックルの背に揺られ、少し怯えながらも笑って見せるサクヤ。
 そんなサクヤの表情を見ていると、ハクオロは彼女について以前に思ったままで言えずに終わっていた感情を思い起こす。
 今、言うべきだろうか――そんなことを思いながら、ハクオロは隣に合わせてゆっくりと歩く。
「‥‥‥‥」
「サクヤ」
「‥‥っ! はい」
 驚いたような反応。
「サクヤはその‥‥なんだ」
「はい?」
 慣れてきたのだろうか、サクヤは両手をムックルの背中に乗せたまま首を傾げて見せる。
 さっきの視線の動きからして、どうやらハクオロの背のクーヤを見ていたらしい。
「あ、いや‥‥」
「‥‥‥?」
 ハクオロの複雑な感情を余所に、サクヤは再び視線をクーヤに向ける。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 切り出し方が悪かったせいもあって、言い出し辛くなってしまったことを自覚する。
 無言で並んで歩くハクオロ達。
 サクヤ達の部屋までの距離が後少しというところで、ハクオロは再び声をかけようとサクヤの方を向きかける。
「っ!」
「っ!」
 その瞬間、目が合った。
「な、何かあるのかな」
「い、いえ、その‥‥」
 気がつかないうちにサクヤはハクオロを見ていたらしい。
 動揺する二人だったが、元々話しかけようとしていたハクオロの方が早く回復した。
「‥‥暫くはきっと騒がしくなるだろうな」
「え? あ、はい! そうですね」
 他人事のように言うハクオロに慌てて同意する。
 長い間不在だった国の皇が戻ってきたということだけではない、彼らの彼女らの中心が戻ってきたのだ。
 賑やかで、華やかで、そしていつも騒々しい日々。
 これが本当の皆の日常。
 さっきと同じ様にサクヤはハクオロをそっと見上げた。
 笑顔を絶やす事の無い、安らげる場所はいつだってここにある。
 ここから始まったのだから。

 それが喩えいつまでも続くものではなくても、それでも、今は‥‥。

「だから何か言うのなら今のうちに言っておく方がいいぞ」
 立ち止まって言うハクオロの言葉に、サクヤが硬直する。
 背の上の反応と隣を歩いていたハクオロが止まったことに気付いたムックルも、遅れて止まった。
 斜めにずれたちょっとだけ、離れた距離。
 二人の距離。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
「ハクオロ様」
「ああ」
「今は、このままで‥‥」
「?」
「‥‥‥‥」
 サクヤはハクオロの目を正面から見つめると、
「行きましょう、ハクオロ様」
「え、あ、ああ」
 サクヤが背中を撫でて促すと、再びムックルが歩き出す。
 ハクオロもそれに続いた。
 首を曲げると、背中越しにクーヤの寝顔が見える。
「ハクオロ様は、これから暫くはもっともっと忙しくなりますよ」
「‥‥そ、そうだな」
 サクヤの言葉の意図が掴めずに怪訝な表情を浮かべる。
「あたしのことは構いませんから、クーヤさ‥‥」
 続けるサクヤの言葉を軽く手で遮った。
「あ‥‥」
「サクヤ」
「は、はいっ」
 ハクオロはそれ以上は何も言わずに、サクヤのの髪を撫でた。
「‥‥‥はぅ‥」
 サクヤから見たそのハクオロの目は、彼女が本当に言いたかった事を見透かしたように、優しい目をしているように見えた。


 ―――収まるべきところに、全ては収まる。


 楽しげなサクヤの横を歩きながら、ハクオロはもう一度空を見上げた。



「そ、某は果報者ですにゃ〜」
「ああ、痙攣が激しくっ!?」
 約一名、大変なことになってはいたが。





<完>
_________







あとがき
――――――――――

 もしかしましたらご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、はじめまして。
 久々野(くくの)と申します。
 今更今頃このような在り来たりな感じの作品を出すのも何ですが、一応形になるまではいったので投稿してみようと思いまして、お邪魔させていただきました。
 ゲームでは他の面子に比べてサクヤの反応が「見て」いるようだったのと、ハクオロとすればエルルゥに会いに行くとしても最初から村にではなく、まずは自分達の皇城の方に向かうのではないだろうかと思ったあたりで書き始めたのですが……なんか纏めきれないままになってしまいました。
 作中では適当にアレっぽいことを言ってはいますが、当たっているかどうかは自信はありません。
 そんな訳ではありますが、うたわれ初チャレンジということで多少でも温かい目で見て頂ければ幸いです。