『三倍返しが相場です』


2001/02/14



 ここ数日、女たちが浮かれている。
 何故か知らないがこの家に住む月代、高子、それに夕霧を加えた三人で台所に集ま
っては何やら甘い香りをさせながらワイワイと賑やいでいた。
 何か作っているのかと尋ねてたが、月代に「な・い・しょ」と言われてしまい、そ
れどころか台所を立ち入り禁止区域に指定されてしまっていた。
 元々、台所に立ち入ることの少ない――というより冷蔵庫から貯蔵してある物を取
り出したり、食器棚から食器や湯飲みを取り出すぐらいしか用の無い俺だから特にそ
のことに問題はなく、平凡な毎日を過ごしていた。

 今現在、全ての驚異は去ったのかどうか確信はない。
 が、企てを起こした御堂が自滅とは言えあのような形で死に、同じ様に俺を狙って
いた岩切も死んだとあっては、彼らの真の狙いが何であったかとか、俺や彼らを目覚
めさせた者が何者なのかというものが判らなくても、一つの事件としての形にケリが
ついてしまっていたので、必要以上にピリピリする必要はない。
 これが束の間の休息だとしても、平穏な日々に少しくらい甘えてもいいだろう。
 能力を衰えさせない最低限の鍛練を日々行う程度で、この時代に慣れる為に毎日を
のんびりと暮らしていた。
 それが心と身体に消える事のない深い傷を負った月代にとって、少しでもこうした
日々が彼女にとって癒しの意味があるなら俺はいつまでもこうしていようと思う。
 いずれは別れが来るのかもしれない。
 元々、不老不死である俺と人間でしかない月代には埋めようのない差が存在する。
 だが、俺はどんな形で月代が望む限り、ずっと彼女の側にいることを誓った。
 後悔はしない。
 俺は月代の為に生きることを今、何よりも願っているのだから。

 そして数日後、俺がいつものように早起きをして軽く庭で精神集中を行った後、庭
に出てきた月代に呼び止められた。
「蝉丸ー」
「なんだ?」
「あのさ、今日は蝉丸にあげたいものがあるの」
「俺にか?」
「うん」
 そう言って月代から俺に差し出されたのは、綺麗な包装紙に包まれリボンのついた
包みだった。
「? これは……月代?」
 そう尋ねる前に月代は姿を消していた。
 何か判らないがそそくさと彼女の気配が俺から遠ざかっているのを感じると、無理
して追いかける気はなくなっていた。
 そしてすぐにまた別の気配が俺の背後から近づいてくる。
 夕霧だった。
「あの、私からも……」
 そう言って彼女も俺に似たような包みを俺に手渡してくる。
 理由がわからない。
 今日は俺の誕生日……ではない筈だ。
 何か特別な記念日なのだろうか。

 その疑問を俺は、彼女達と同じ様に包みを持って渡しに来てくれた高子にぶつけて
みた。
「今日はバレンタインデーなんですよ」
「ばれんたいんでえ?」
 彼女達の包みを開けるとそれぞれに茶色い塊がいくつか入っていた。
「これは……」
「チョコレートです」
「チョコレートだと?」
 知らない訳ではない。
 自分の記憶にある最後の頃は、原材料のカカオ豆が手に入らないので代わり百合の
球根を代用して作ったと聞いている。
 そこまでして食べたいものとも思わなかったのだが。
 確か漢字では「貯古齢糖」とも「猪口令糖」とも「千代古齢糖」とも「知古辣」と
も言うらしいが、そんな知識を今必要としているとは思えない。
 でも夕霧辺りに話せば感心されるかも知れない。
 だが、そんなことより「ばれんたいんでえ」というのがわからない。
「何だそれは?」
 俺が聞くと高子が困ったような顔をして、「そう言えば蝉丸さんは知らないんでし
たよね」と断ってから話し出す。
「今日は女の子が男の方にチョコレートをあげる日なんです」
「何?」
 何と、男女平等だの雇用均等だの封建制廃止など言われていた筈の今の世の中にも
そのようなものが存在するとは。
 考えてみれば元々、西洋文化が大部分支配している現世だ。こうしたものが残って
いても逆に不思議ではない。

 女が男に物をあげる日。
 女が男に物を…
 女が……

 ふと、閃いた。
「女なら誰でもか?」
「え?」
 いきなりの俺の言葉に高子は面食らったようだった。
「誰でもなのか?」
「え、えっと……そうですけど……
 俺の顔に驚きの表情のまま、ゆっくりと頷く高子。
「そうかっ!」
「で、でも、これは元々女性が好きな男性に愛の告白をすることから来ていて……あ
、でも今はそういうものでもなくて半ば儀礼的に行われるものでもあって……元々は
男性が好きな女性に花束を贈ることがバレンタインデーの起源だったらしいんですけ
ど、それでも日本ではこうしてチョコをあげるというのが何でもお菓子会社のPRか
ら始まって新宿伊勢丹のバレンタインセールから定着したものらしくって……えっと
そのですから私のはその……私、何言っているんでしょうは……その……
 モジモジしながら何か喋っている高子を置いて、俺は外に出ていた。

 タッタッタッタ

 コントロールキーを押しっぱなしのように小走りに走る俺は、この町唯一の病院へ
と向かった。
 未だに謎めいた存在である女医石原麗子に会う為に。

「あの女……いつもいつも俺を見下したような見透かしたような目をして蔑んでいた
が今日は良い機会だ」
 女が男に捧げ物をする日。
 あの小生意気な女が渋々とはいえ、俺に物をやらなくてはいけないのだ。
 月代や夕霧、高子の俺への渡し方やこの恭しい包装紙に包んであることから考えて
も、例え普段親しい者相手でも丁寧に渡さ無くてはいけないのだろう。
 だとしたら表面上は赤の他人でしかないあの女は、相当俺へ礼を尽くして渡さねば
おかしい。
 あの女の悔しがる顔が見れるかもしれない。
 黙って待っていれば渡すことを呆けたりすることもできるだろうが、こっちからわ
ざわざ会いにいってやれば誤魔化すこともできないに違いない。

 ――……待っていろよ、石原麗子。

 今日こそ、お前が俺に平伏す日だ。
 その光景を夢想しながら俺は病院の玄関をくぐった。
「おい」
「あら、いらっしゃい」
 診察室にいた麗子は、いつもの嫌味なほど落ち着き払った彼女だった。
 が、その余裕もそこまでだ。
「具合でも悪くなった?」
「この顔がそう見えるか?」
「何か悪いものでも食べたような顔には見えるけど」
 何て失礼な女だ。
 が、反撃はここからだ。

 ニヤリ。

 俺は彼女の毎度の嫌みを笑顔でやり過ごす。
「その顔で笑われるとちょっと気味が悪いわね」
 お前のツラでそんなこと言われる筋合いはない。
 二度、堪えた。

「今日は何の日だか知っているか?」
「煮干の日でしょ?」

 何?

「全国煮干協会が制定したのよ。2月14日で「に(2)ぼし(14)」の語呂合わせで
……知らなかった?」
「知らなかった……煮干しに協会などというものがあることさえも……」
 語呂合わせになっていないような気もしたが、それは言ってはいけない気がした。
「無知を嘆くことはないわよ。知らなくたって生きていけるもの」
「そうだな……っじゃなくてだな」
「ん?」
 あやうく逸らかされる所だった。
 やはりこの女侮れない。
「他に何かあるだろう。貴様も女として」
「何か失礼な物言いねぇ……」
 知ったことか。

「はいはい。わかったわよ……」
 机の一番下の引き出しを開け、ゴソゴソと業務用お特サイズと書かれたビニールの
袋詰めに入っている小さなチョコを投げて寄越す。
「はい」
「「はい」って……その、なんだ。もった仰々しく渡すのではないのか?」
 無造作に投げ渡された親指大のチョコレートを見つめる。
 包まれた紙に英語が書いてある所をみるとアメリカ製らしい。
「文句あるの?」
「バレンタインというのは女が男に貢ぎ物を捧げる日なのだろう? だったらもっと
だな……」
 どうやら何か俺の様子で何かを察したらしい。
 麗子は呆れたような顔をして、次に苦笑いを浮かべ、最後は子供をあやすような手
振りをしつつ、
「あのねぇ……バレンタインって言うのはね、女性が男性に愛の告白と共にチョコレ
ートをあげる日なの」
「何?」
 そういえば出かけ際、ゴニョゴニョと高子がそんな事を言っていたような。
「だからチョコレートを受け取るというのは、愛の告白を受けるといったことと同意
義なのよ。知ってた?」
「な、な、何?」
 意外な言葉に狼狽していた。

 愛?
 告白?

「よく考えてみなさいよ。貴方にチョコレートを上げに来た娘、皆照れくさそうにし
てなかった?」
「……そう言えば……」
 月代も夕霧もそして高子も一様に紅潮していた。
「貴方が言うように貢ぎ物だったらもっと恭しく仰々しく渡しに来るでしょう」
「た、確かに……」
 悔しいが、この女の言う通りだ。
 俺は少し舞い上がっていたらしい。
 この女をやり込めることのできる機会だと思い込んで先走ってしまった。
「だから本当は皆から二個も三個も貰っちゃいけないのよ。本当に好きな相手から、
その告白を受けるという意味で貰わないといけないの。わかる?」
「………」

 どっと冷や汗が出る。
 だとしたら俺は……
 俺は……

「ま、待て!」
「何?」
「でも確か……」
 俺は必死に出かける直前の高子の言葉を思い出す。
 小声でも聞き漏らすことのなかったこの聴力。
 そして都合よく思い出す記憶力。
 つくづく俺は強化兵で良かった。
「確か元々はそうでも今は少し違ってどうとか言っていたぞ!」
 でもあんまり聞いていなかったので覚えていない。
 だが、このまま黙っていては俺は聞く所による藤田浩之だとか藤井冬弥だとかいう
歴史上の二股者と同類になってしまう。
 例えこの目の前のチョコレートを投げかえしたとしても、もう既に月代と夕霧と高
子の三人からチョコレートを貰っているのだ。
 この国は一夫一妻制のまま変わっていないだろうし。
 でも俺は今の国の法律の対象外の存在かもしれない……と、悩む訳にはいかない。
 俺は月代を護ってやると誓ったのだから。
 ゴホン。

 そんな俺の葛藤を余所に麗子の説明は続く。
「そうよ。今は本命チョコと義理チョコというのが分かれているのよ。本命チョコと
いうのは愛の告白の意味でそのまんまね。で、仕事柄お世話になっている人とか常日
頃付き合いの深い人とか、そういう人に儀礼的に――お歳暮やお中元みたいなものよ
。そういった意味で渡すチョコレートを義理チョコっていうの」
「何と……それは子供の間でもそうなのか?」
「どこまでを指すかは知らないけど、概ねそうよ」
「……では、俺が貰ったのはその……義理、なのか?」
「ええ。きっとね」
「………」
 ズーンと落ち込んでいくのが自分でも分った。
 義理だから哀しいのではない。
 捧げられるものだと勘違いしていた自分が恥ずかしいのだ。
 同時に、意気揚々とせびりにきたこの行動に関しても。
 実際、俺はどうかしていた。
 元々どうでもいいことの筈なのに。

 ――何と言うことだ……

 そんな俺に追い討ちの声がかかる。

「じゃあ、ホワイトデーのことも知らないんでしょう?」
「ほわいとでえ?」
「あのね、ホワイトデーというのはバレンタインデーの反対で……

 その日から丸々一ヶ月、軽率な自分を責めつつ俺は膨大な資金を稼ぐ為、街へ出て
泣きながら働くこととなった。
 真実を一ヶ月後、やはり高子の口より聞くその日まで。





                        <おしまい>


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