『遺伝子百%』
 




 これはとある不幸な女の物語でございます。
 あるところに、姫川琴音という、それはたいそう美しい女の子がおりました。
 しかし、琴音は普通の女の子ではありませんでした。

 普通の人が両親から二十三個ずつ、計四十六個の染色体を受け受精卵として出発するのに対し、彼女はその半分の二十三個しか染色体を持っていなかったのです。
 本来両親の染色体を受け継ぐ筈の子供が、父親側の染色体を一切持たないで成長したということで両親の不仲を招き、結局父親は家を出てしまい、残った母親からも不和の原因として長く疎まれて過ごしておりました。
 でも、彼女の不幸はそれだけではなかったのです。
 そんな琴音が小学生になったある時のことです。
 琴音の級友が彼女に対して意地悪をした時、彼女は悲しくなると同時にその級友が酷い目に遭うような妄想を仕立て、自分の心を慰めておりました。
 するとどうでしょう。その級友は彼女の他愛もない妄想通り、空バケツに足を突っ込み、そのまま階段から転落したではありませんか。
 まだその時は彼女は軽い痛快さと共に、世の中にはこんな偶然があるんだなあとしか思い至っていませんでした。
 しかしそれ以来、琴音の周りには不思議なことが起きるようになりました。
 抜き打ちテストの結果、成績が芳しくなかった琴音を叱った教師が、突如外れたスピーカーで頭を打ち入院したのを皮切りに、彼女のことをからかっていた男子生徒が、傾けていた椅子が滑り後頭部を強打して入院し(嗚呼、何と気の毒な事でしょう。彼はこの年頃の男の子特有の好きな娘に対しての意地悪だったと言うのに)、消しゴムのカスをぶつけた生徒は、図工の時間に彫刻刀で手の甲を削ってしまいこれまたショックで入院し、肩が触れただけの気の弱い生徒は、廊下のワックスに滑って股関節を脱臼しやっぱり入院しました。
 琴音がそれらの出来事に自分が関わっているのではと思ったのは、彼女のクラスが病気でもないのに学級閉鎖に追い込まれた頃でした。
 自分がちょっと思ったことが現実となる。
 そんな気がすると、怯えと共に興味もわきました。
 そこで彼女は考えたのでございます。
 この力を、正しい方に使えないかと。
 彼女はまず、不仲の両親が仲良くなるように願い続けました。何と優しいことでしょう。ですが彼女の願いも空しく、喧嘩は絶えることを知りませんでした。ただ、いい加減にそれぞれの怒声が五月蠅いと思った直後、共に投げた置物と皿でお互いの口を塞ぎ、気を失ったので彼女は希望を持ちました。

 まだ、修行が足りないと。

 何と愚かな考えでしょう。琴音はまだ、この力が自分次第で何とでもなる考えを捨てきれなかったのです。でも、そんな彼女を誰が責められるでしょうか。
 そこで、幼い彼女はまず近くの公園で蟻塚を見つけました。そして蟻を捕まえ、近くに張ってある蜘蛛の巣に投げつけました。蜘蛛の巣に引っかかる蟻。必死に藻掻いています。そして、震動で獲物の存在に気付いた蜘蛛が近付いてきます。
 そこで琴音は蟻が救われるように祈りました。願いました。ですが、蜘蛛は藻掻き続ける蟻を補足し、見る見るうちに糸を巻き付けてしまいました。こうなってはもう蟻には助かる道はありませんでした。彼女の願いはまたしても受け入れられなかったのです。
 でも、琴音は諦めませんでした。蟻を捕まえては投げ入れ、投げ入れ、時には近くの花に止まっていた小さい蛾までを投入しました。その結果、蜘蛛の巣は大繁盛でした。蜘蛛の糸による繭がたくさん、出来上がっただけでした。その時、琴音は己の無力を嘆き、虫達の犠牲を嘆きました。
 そしてこう思ったのです。

 こんな力は、ない。

 と。
 しかしそんな決意を胸にした琴音を嘲笑うかのように、彼女の周りでは異常な事件が起こりました。中学では琴音の髪を「綺麗だね」と触ってきた近所でも有名な美男子クンが、床屋の手違いで丸坊主にされたり、彼の取り巻きの女の子グループが彼女にいじめを始めたら、全員コックリさんの狐憑きにかかってしまって入院したり、夏休みに北海道に帰省したらしたで、彼女が道中に落としてしまった切符について無慈悲な結論を下した駅員がホーム下に転落したり、彼女が席を譲らないと激昂したお爺さんは入れ歯をトイレに流してしまったり、道ですれ違った子供が彼女のスカートを捲ると肥溜めに落ちたり、もううんざりするような出来事を立て続けに目撃する羽目になりました。そして、新学期が始まる頃には彼女に関わるとろくな事がないと学校中に認知されていました。そして、誰も彼女に近付かなくなってしまったのです。
 そしてその内に彼女はこう考えてしまったのです。
 私の妄想が偶然的中するのではなく、私は未来予知をしてしまうのだと。
 それも不幸なことばかり、と。
 それならば何故、彼女自身の身に何も降りかからないのかを考えるべきだったのですが、自分の不幸にどっぷりと浸かってしまっていた少女には思いが至りません。
 彼女の心はますます鬱ぎ込み、落ち込んで行くばかりでした。
 そんな彼女を救ったのが、藤田浩之という少年でした。
 では早速、物語の幕を開けましょう。



『遺伝子百%』



 冷たい――風。
 オーバーコートにマフラーに手袋を用意するにはまだちょっと早い10月。
 夏服からようやく変わったばかりの制服を、スカートを風に靡くかせるがまま琴音は校門の前で門に寄り掛るまでもなく立っている。
 そんな彼女を誰もが気にするでもなく、見るでもなく、目に入らないように横を通り過ぎて生徒達は下校する。
 いくら琴音が浸ってみても、所詮は自分一人で入っている世界。
 自分が思うほど他人は思ってはいない。
 自分が考えるほど他人は彼女のことを見ていない。
 気づかない。気にしていない。
 だから彼女がそこで思わせぶりに立っていても、
 佇んで見せても、
 憂いを浮かべても、
 騒ぎながらはしゃぎながら笑いながら校門を出て行く皆には気づかれることはない。

『よっ、琴音ちゃん。待った?』
『いいえ、全然……きゃあ!』
『その割には結構琴音ちゃんの手、冷えてるぜ』
『浩之さん……』
『ははは、悪りぃ。待たせちまって。奢るからどっか寄ろうぜ』
『あ、でも……』
『いいからいいから……』
『きゃっ……』

 通り過ぎて行く人、人、人。
 もしかしたら彼女の同級生も混じっているのかも知れないけれども、琴音には良く見えない。
 霞んでいるから。曇っているから。
 見えていても、何も変わりはしないのだけれども。
 そして彼女のぼやけた視界の先に見えるのはただ一人。
 女の子と手を繋いでいるニヤついた男子生徒のニキビ面だけ。
 琴音はただ一言、思いを馳せて言葉に乗せる。
「転べっ!」
 と。

 喧騒から目を背け、琴音はまた一人の世界に没入しようとして留まった。
『あ、また……』
 気が付くと、彼女は身震いしていた。
 ここ最近、一人でいるとかなりの頻度で誰かの視線を感じるようになっていた。
 悪意かどうかもわからないぐらいに、観察でもされているようなその気配はそれだけで少女を怯えさせるには十分だった。
「浩之さん、早く来ないかな……」
 校門前で立ち尽くす琴音はただ、得体の知れない視線に震えながら浩之がやってくるのを待っていた。

 姫川琴音は藤田浩之とつきあい始めている。
 その事は誰かが嗅ぎつけるでもなく、自然と学校中に広まっていた。
 藤田浩之がどうではなく、姫川琴音が有名人なのだ。
 姫川琴音が有名になったのは去年の始業式からである。
 その時は彼女は数多い新入生の一人でしかなかった。
 だが彼女はその時、校長の危機を感知した。
 彼女はそれ以来、その予知能力で有名になった。
 その予知能力は全て良くない出来事のみを現し、一つも防ぐことなくその悲劇はその通りに起こっていった。
 そして、そんな彼女についたあだ名が「疫病神」である。
 初めは興味本位で近寄る者もいないではなかったが、それらが全て怪我をしたり事故に遭ったりして、今では誰もが彼女に近寄ろうとしない、露骨に避けている状態がずっと続いていた。また彼女自身それを認め、極力誰にも近づかない孤立した学園生活を過ごしていた。
 そんな琴音に近づいたのが、藤田浩之だった。
 彼を良く知る者は彼の度を過ぎる程のお節介な性格を、それぞれの主観を混ぜつつ語る。
 アイツは見て見ぬフリの出来ないヤツだから。
 そんな彼が学園で浮いている存在の琴音に気づいたら放って置けなくなったのも当然の結果だった。
 二人がどういうきっかけで知り合ったのかは一部の人しか知らないが、経緯はともなくとして結果、彼は琴音に深く興味を持ったらしい。
 廊下で彼女の後をつけ回したり、彼女のことを彼女のクラスの人間に聞いたりとしつこいほど迫っているようだった。
 そんな彼に琴音は初め、かなりの嫌悪感を抱いているようだった。
 放っておいて欲しいのに、そうさせてくれないでいる浩之を嫌がっているようだった。
 だが、その気持ちも彼が興味本位だけで近づいていない事に気付いて以来、徐々に変化しつつあったようだ。
 しかし、依然として「自分に近づく人間は不幸に見舞われる」と、今度は彼を気遣う意味で避けようとしていた。
 そんな彼女を叱咤激励し、最後には自分の命を投げ出すぐらいに身体を張って、彼女の持つ能力が超能力だと解明した彼に琴音が惹かれるようになったのも自然な流れだと言えた。
 そして幸いにもその思いは、彼女を追いかけていた浩之にも通じたらしい。
 こうして二人は、学園で知られるぐらいのカップルとなっていた。
「……琴音ちゃん! 待たせちまったか?」
「あ、全然大丈夫ですよ」
 琴音がずっと待ち続けていると、ようやくにして浩之がやってきた。
 けれども琴音は遅参の浩之を責めない。
 それどころか、やってきただけで頬を綻ばせていた。
「悪りい、悪りい。ちょっと先生に職員室に呼び出されててさ」
「あ、それだったら言ってくれれば教室の前で待っていましたのに……」
「それが俺も帰ろうとした時にあかりの奴に捕まってさ……って、あれ。救急車?」
 見ると彼女の側、校門の前には凄い人だかり。
 大勢の野次馬に囲まれるようにして停まって救急車に、救急隊員にタンカで担がれた顔も知らない男子生徒が運び込まれて行くのがわかった。
 取り乱す女生徒も一緒に救急車に乗り込んで、サイレンを鳴らしながら走り去っていった。
「なんだ? 事故でもあったのか?」
 事情がわからない浩之は琴音に尋ねる。
「ええ。あまりに人を待たせるものだから……」
「琴音ちゃん、見てたの?」
「いちゃいちゃしててムカついたからつい……」
「え?」
 怪訝な顔をした浩之に琴音は慌てて手を横に振る。
 その笑顔は先ほどの笑顔とは似て非なるものだったが、浩之は気づかなかった。
「あ、いいえ。その、何か急にバク転するみたいに男の人が倒れて頭を打ったみたいで……」
「へぇ、危ないな」
 琴音の説明に浩之はわかったようなわからないような声を漏らす。救急車が走り去ったことで、集まっていた野次馬もそれぞれ散り始めていた。
「ええ。藤田さんも気を付けてくださいね」
「まぁ、そんなドジを踏むことはそうそうないと思うけどな」
 二人の出会いは浩之が琴音の指摘にも関わらず、階段から落ちたことだったが、彼はもう忘れているようだった。
「でも……」
「?」
「もしそうなった時は……」
「ああ、琴音ちゃんが守ってくれるんだろ?」
 琴音の言葉を浩之は躊躇いなく継いだ。
 絶対の信頼感。
 愛する人に頼りにされているという喜びに、琴音は泣きたいぐらいに嬉しがった。
 けれどもその直後に、
「もちろん……っ!」
 また視線を感じて、顔をしかめた。
「どうした?」
「いえ、その……」
 琴音は改めて最高の笑顔を浩之に向けながら、早速彼に今の不躾な視線について相談することにした。
 琴音が感情を表情に出すたびに、視線が強まるように彼女は感じていた。これが気にならない筈がない。
「ストーカーだって?」
 帰路、歩きながら琴音が不安を打ち明けると、浩之は素っ頓狂な声を上げた。
「ここ数日ずっとそうなんです。最初は気のせいかとも思ったんですが……なんだか、怖くて」
 喋っていくうちに自分でも恐くなったのか震え出す琴音の肩を、浩之は優しく抱きながら顔をしかめる。
 彼はそれがかつて琴音の予知によって被害を受けた者の嫌がらせだろうと聞いていて結論付けていた。浩之という恋人を得て明らかに幸せそうになっている琴音を見て腹が立ったのだと思えば納得がいくからだ。だが、浩之に言わせれば元はと言えば琴音を迫害したからこその被害だろうから、その犯人に同情する気にはなれない。ましてや、自分は琴音の唯一の心の拠り所でもある。そんな自分は最後まで彼女の味方でなくてはいけなかった。
「よし。オレに任せておいてくれ。きっと犯人をとっ捕まえてやる」
「でも、それだと浩之さんが……」
「大丈夫大丈夫。琴音ちゃんを怖がらせる奴を放っておけねーし」
 不安がる琴音をなだめながら、浩之は今後の打ち合わせを軽く済ませる。
 犯人は琴音が一人の時を見計らって監視しているようだとのことなので、彼はこのまま同行を避けて少し離れたところから琴音を見張ることにした。
 おとり捜査のようで彼女には申し訳ないと思いつつ、こうすることで彼女の危難を救おうという考えだった。
「すぐに見つかるとは思えないけど、な」
 その浩之の言葉は即座に裏切られることになる。

「琴音、随分と立派になったな」
 打ち合わせてから僅か数分。事件は即解決した。
 さあ行くかとした所で、物陰から姿を出した向こうから話し掛けてきたのだから、それも当然だったのだが。
「お、お父……さん」
 現れた相手。
 琴音は震える声でその男を見る。
 いささかみすぼらしい格好だったが彼は紛れも無く、彼女の記憶の奥にあったかつての戸籍上の父親だった。
 琴音の母と幾度となく言い争い、結果家を出た彼が彼女の前に姿をあらわしたのだ。
「琴音、大きくなったなぁ……」
 感慨の篭った言葉で、男は琴音を見つめる。
 そんな彼に琴音は戸惑った表情しか作れなかった。
「何を今更 アンタは琴音ちゃんと奥さんを捨てて」
 経緯を琴音と彼女の母親から聞いていた浩之は軽侮の表情を浮かべて、彼を見る。
 浩之は琴音を不幸の境遇に追いやった一因として、彼を憎む気持ちがある。もし琴音の問題が解決していなければ、もっと強くなじっただろうが、流石にそこまでは言わなかった。
「その、私、困ります。急に……」
 逃げ腰になる琴音を見て、彼女を庇うように二人の間に入る浩之。
「琴音ちゃん、行くか?」
「その……」
 浩之の言葉に逡巡する琴音を見て、男は慌てて彼女の方に手を伸ばす。
「待ってくれ! せめて話を」
「それは琴音ちゃんに聞くんだな」
 浩之はその手をはたきながら、そう言い捨てる。
「……」
「……」
 互いに見詰め合う父娘。言葉が出ないらしい。
「オレ、先に帰ってようか」
 琴音に気を使った浩之がそう言うと、琴音が頷く。
「あの浩之さん……よろしければウチで待っててくれませんか」
「わかった。それじゃあ」
 快諾して琴音の家に向かう浩之を、眩しそうに彼女の父親は眺める。
「彼は浩之君というのか。いい少年だな」
「……今更、なんで」
「アレにどう言われたかは知らないが、一日たちともお前のことを忘れたことは無かったよ」
「だったら!」
「まあ聞いてくれ」
 そこで初めて彼女の父親は真相について語り始めた。
 夫婦としては破綻していたが、琴音については捨てたのではなく、逆に自分が琴音の母親の手によって追い出されたのだと。
「タコ部屋での日々はそりゃあもう酷いものだった……」
 知らぬうちに契約書を交わされ、拉致同然に強制労働所送りにされたのだと呟く。琴音には俄かには信じられなかったが、これが演技というのなら、彼のそれは迫真過ぎる演技だった。唯一パンツのゴム穴に隠し込んでいた琴音の写真だけが日々生きる糧を与えていたのだと、ボロボロになった琴音の幼い頃の写真を出しながら回顧する頃には思わずつられて涙を流していた程だった。
「でも」
 それでも琴音は忘れなかった。
「貴方は……ママに、私を指差して言ったじゃないですか」
 あの日を決して忘れない。
「私は貴方の子じゃないって!」
 親から親であることを否定された事実は今も深く、琴音の心を蝕んでいた。決して癒えない傷として。
「……」
「それを今更……」
「それは誤解だ」
「私だってはっきり覚えています!」
「あの時そう言ったのは本当だ。だが、それはお前を疎んじていたからじゃない!」
「そんな言い分信じられると思うんですか!」
 取りあえず喫茶店で話そうと提案したことを拒否して良かったと琴音は思った。でなければ今頃店中のガラスが大変なことになっていた。浩之の薦めたこの公園なら、ジャングルジムが初めにあった場所からずれていたり、鉄棒が飴細工のように変形していてもアートという名のほんのお茶目で済ませられる。
「あの時言った言葉は真実だ。だがその意味を取り違えている」
 それこそ琴音の母親の陰謀だと強く訴える。
「じゃあ、何ですか。今頃になって父親として認めて欲しいって言うんですか」
「いや、それも違う」
「だったらなんです! なんで今頃会いに来たんですか!」
「私とお前は倫理的にはともかく、血縁という点では血は繋がっていない」
「だからなんなんですか!」
「その……」
 そこで一度、相手が言いよどむ。
 琴音が眦をつり上げて睨むと、そこで意を決したように彼は叫んだ。
「琴音!」
「なんですかっ」
 その声に琴音は怯みそうになりながらも相手を睨み続けることを止めなかった。
 同時に、遠く公園を囲む鉄柵がぐしゃりと音を立てて曲がったが、二人は気づかない。
「私と……け、けっ、けっ」
「け?」
「結婚しよう!」
「……は?」
 その言葉に目を見開いたまま硬直する琴音。
「あれが若いときにそっくりだ! 今思えばあれほど最高の女性はいなかったが、今、目の前の琴音を見て改めて確信した! 結婚しよう!」
 堰を切ったようにまくし立てる相手に圧倒される。
「な、な……」
「思い出せ。まだお前が幼かった頃を。一緒にお風呂に入った時に交わした約束を!」
「……」
 無論、琴音はそんなことは覚えていない。
「パパのお嫁さんになりたい。その時のお前の言葉を今もなお鮮烈に覚えているからこそ! DNA的にも問題が無く、年齢的にもOK! 離婚もしているからもう二人の間に阻むものは何も無い! さあ、あの時の約束を!」
「…………」
「さあさあさあ!」
 ピシリと何かが崩れ落ちた音がしたのは、公園の遊具の一つだったのか琴音の心の中の何かだったのかは彼女にはわからなかった。
 直後に起きた―――爆音と閃光。
 目撃者は誰一人として存在しなかったせいで、その日その公園に何が起きたのかは誰一人知るものはいなかったとされている。
 不発弾にしては火薬を感知できず、重機で破壊したにしては瞬時の出来事であり、原因不明のままその公園は更地になっていた。


「まったく……あんなんだったらとっくに縁を切ってて正解です!」
 やっぱりママは正しかったと言いながら琴音は肩を怒らせつつ、自分の家へと向かう。
 あの男と血が繋がっていないのが幸いだった。もしあんなののDNAを受け継いでいるとしたら絶望しかねない。
 頭から先ほどの嫌な記憶を追い出すように、二度三度と首を振る。
 不幸だった頃の私よさようなら。
 そして未来へ向かう私よこんにちわ。
 気持ちを切り替え、恋人の待つ我が家へと向かう。
 彼の幼馴染を始め、数多くの彼を取り巻く女性達から奪い取った大切な人だった。
 そんな彼とさっきの赤の他人とでどうして比べられよう。
 きっと今頃心配しているだろう彼に優しく慰められる自分を想像しつつ、琴音は足を急がせた。
「ただいまー」
 鍵がかかっていなかったので、琴音は玄関から声をかけるが返事が無かった。
「浩之さん、二階ですか?」
 真っ先に階段を上がって、自分の部屋を覗くも浩之の姿はなかった。
 玄関に靴はあるのにと、首をかしげてトイレを覗いたりしながら捜索する。
「浩之さん……どこ、ですか?」
 居間や台所を覗くがそこにも誰もいなかった。
 この時までは、彼女は幸せだったと言えよう。
 一番奥にある部屋に行くまでは。

「ねえ、ママいる? 浩之さ―――

 母親の部屋。
 琴音は幸せだった。
 ベッドの上で正座している母と浩之を目撃するまでは。
「ごめんなさい。浩之さんを誘惑していました」
「いえ、こちらこそごっちゃんです」
 琴音は幸せだった。
 しかも何処かで聞いたような台詞を交わしながら、事が済んでいるのを見るまでは。
「ひ、ひ、ひ……」
「あら、琴音」
「お帰り、琴音ちゃん」
「ひ……」
 琴音は幸せだった。
 しかも大して気にしていないような二人を見るまでは。

「ひろゆきさんのぶわかぁぁぁ―――っ!」

 血は、争えない。
 その絶叫の際、彼女はそう思ったかどうかはわからない。
 姫川家が大破し、瓦礫となって四散していく。
 母親が艶やかな顔をしながら吹き飛ばされていく。
 浩之も正座をしたまま、空高く舞っていく。
 琴音はそれを眺めながら、号泣する。
 彼女には父親がいた。母親もいた。愛する恋人もいた。
 だがしかし、彼女の涙は止まらない。


「みんな嫌いですっ! 大っ嫌いですっ!」


 そう、これはとある不幸な女の物語でございます。




                           <完>