「………」
私、来栖川綾香は今、海岸にいる。
容赦なく降り注ぐ夏の日差しにいつもならただ単に閉口するところだが、水着を着ている時だけは別だ。
この暑さがどことなく頼もしさを演出してくれる。
思いきって奮発した新しい水着も、思ったより似合っていた。
周りから浮いている感じでなかったのでホッとする。
浩之がわざわざ誘ってきただけに、気合いが入る。
無論、姉さんと一緒だが。
ついでに、セリオも連れてきていた。
車だとセバスの監視がつくので、わざわざ電車を乗り継いで行ったがそれでも道中楽しかった。
が、ここに着いて、ひとつ面白くないことがあった。
「はーい、彼女、一人?」
「――いいえ」
「………」
横を見る。
セリオが軽薄そうな男に声をかけられている。
これで……7人目だ。
「あ、悪いね、兄ちゃん。その娘、オレの連れなんだ……」
「――浩之さん」
「ちぃっ……ふん、邪魔したな」
そしてそれを見た浩之が、割って入って事なきを得る。
これも7回目だ。
「ったく、セリオは可愛いんだからボーっとしてちゃ駄目だぜ」
「――可愛い、ですか?」
そして浩之が笑いながらセリオの頭をポンポンと撫で付けながら、
「ああ。だから、こんなに声を掛けられるんじゃねーか」
「――はぁ」
さっき姉さんに言っていたことと同じ様なことをセリオにも言っていた。
姉さんもさっきからひっきりなしに声をかけられていた。
その度に浩之が割って入らなくてはならなかった。
右を向けばセリオが、左を向けば姉さんがと浩之はそれぞれ追い払うのに忙しい。
けれども……
「ちょっと、浩之……」
「あ、綾香」
まるで今気づいたみたいな反応をする浩之に、私は気分を更に害す。
ずっとここにいたというのに。
「それじゃあ、私はどーなるのよ」
「は?」
「同じようにこうして一人で突っ立ってるのに、全然声がかからない私は可愛くないワケ?」
そうなのだ。
この私、来栖川綾香にはまだ、その手のナンパなお誘いは誰からも来ていないのだ。
無論、それが目的ではないし、誘われたからと言ってOKするつもりなど全くないのだが、声すらかからないのは何となく癪である。
しかも、同行の二人にはさっきから忙しいほど、声をかけられているだけに女としての何かが引っかかる。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか浩之はおざなりにちょっとだけ、首を傾げてから、
「ああ。そうだな」
とだけ、言った。
いや、言いやがった。
グサッ!
何か突き刺さったような古典的表現。
が、紛れもなくその擬音が今の私の心境にピッタシだった。
「え……」
「綾香はあんまり可愛いって感じじゃねーからな……そういうのは遭わない気もするな……」
「――あ、綾香様……」
浩之の言葉の半分も聞かずに、私はフラフラとその場を離れた。
結構、ショックだ。
きっぱりと言われた。
多少は自惚れが入っていたとしても、そんなに容姿に自信がないわけでもなかっただけに、そう言われてしまうとかなりショックだ。
しかもよりによって浩之にそう思われていたことは。
…あーうー……
沢山の人で賑わう海岸も、まるで目に入らない。
両端が断崖絶壁の吊り橋の一本道をふらふらととぼとぼ歩いているような錯覚が私につきまとう。
ここに人はいない。
人は、いないのだ。
ただ、そうしなければいけない罪人みたいに、私はぼんやりと歩いていく。
行き先も分からずに。
今までの私はなんだったのか。
実は女性にしかモテていなかったのか。
ぐるぐるとそんなことばかりが頭の中を駆け巡っていた。
すると、
「っと……」
蹴つまずいた。
視界が海岸に戻り、急に周囲が明るくなる。
無様に転ばないのはやっぱり日頃の鍛練の賜物なんだろう。
が、今は強くふんばるだけの気力もない。
そのままへたり込んでしまおうかとも思った時、見馴れた姿を見つけた。
「あ、もしかして……好恵!?」
まるで競泳選手かと思わせるような濃紺の地味なワンピースの水着姿で浜辺を歩く姿は間違いなく同好の士、坂下好恵であった。
たとえ後ろ姿でもあのお尻の形は見まごう筈がない。
私にはすぐにわかった。
そして何となく、救われた気分になった。
「ん……あ、綾香!?」
好恵にしては珍しく焦っている。
まるで一番会いたくない人間に会ってしまったと言わないばかりに。
だが、同じ男に縁のない、むしろ自分以上に男に縁遠そうな彼女を見つけた気分になった私には彼女のそんな動揺には気づかなかった。
「奇遇ねぇ……好恵」
「あ、ああ……」
「ねぇ、もしかして一人?」
何故か優越感。
どうしてだろう、いけないとわかっているのに。
でも、そんな今までの彼女の気持ちも今、この時だけは判ってあげられそうな気がする。
二人で語りたい、心ゆくまで。
男なんて、と。
「あ、その……」
「良かったら一緒に……あら?」
そこにそれ程身長も高くない、穏和そうな落ち着いた感じの青年が近くにいる事に私はそこでようやく気付いた。
少し戸惑ったような顔を私に向けていた。
そして好恵を見る。
真っ赤な顔をしていた。
今まで、彼女が怒り顔以外で顔を赤くするのを初めて見た。
「あ、そ……その……従兄の――さん。今週からこっちに遊びに来ていて……で、こ、この人が来栖川綾香。一応、友人なんだけど……」
それほど背が高いわけでもないのに、顔が見えない。
いや、顔が見れない。
「どうも、初めまして」
「ど、どうも……」
ガコンッ!
またしても古典的擬音が私の脳天を襲った。
取り敢えずその男に挨拶をしながらも、更にショックを受けていた。
信じていたものに裏切られた瞬間とはこういうものだろうか。
「……あ、綾香?」
「ば、ばいばいきーん……」
…あの好恵に男……あの好恵に…あの……これは夢よ、夢なんだってば……
ぐるぐると、私の頭の中で生み出される幾何学模様が万華鏡のように回転していく。
この世の全てを否定したい、この世界の全てを拒絶したい気分だった。
そして意志もなくそのままやっぱりフラフラと私はその場を離れていた。
…寒い。
暫く私は一人で岩場に座っていた。
太陽は相変わらず高く昇ったまま、ジリジリと私の肌を照らし続けているのに、私の心はいつまでも凍てついてとても寒く感じていた。
「あーあー……」
こなきゃ良かった。
「どーせ、浩之は姉さんを誘いに来ただけなんだし……」
まるでこれでは自分が道化か、お邪魔虫ではないか。
そして今やそれ以下だった。
情けない。
「折角、水着新調したのになぁ……」
今日に備えて、デパートの試着室でウキウキしていた頃の自分が本当に馬鹿らしく思えてならなかった。
「何やってるんだろ、あたし……」
そのまま岩場に寄りかかるようにしていると、その当の浩之がやって来た。
「あ……」
非常に会いたくない時に会いたくない男が来た。
顔が紅潮してくるのが自分でもわかる。
「何だ、こんなトコにいたのか。捜したぜ」
やれやれといった表情の浩之に対して、私は首を逸らした。
こんな顔は見られたくない。
「どーせ、あたしは可愛くないもん」
「何、拗ねてるんだよ、お前は……」
そう。
私は拗ねていた。
「だって、浩之が……」
あの時、私は世辞でもいいから誉めて欲しかったのだ。
それだけで良かったのだ。
「………」
ふて腐れている私に、浩之は大きく溜め息をついてみせた。
…どうせ私は可愛くない女だ。今更、何を言われても……
が、浩之は私の予想とは裏腹な言葉を言ってきた。
「だから言っただろ。お前は「可愛い」ってゆーより「綺麗」なんだって」
「………」
「だからちょっと軟派な男には寄りつきがたいんだよ」
そうだろうか。
調子の良いことばかり言うからまだ信用できない。
「美人だって言うなら……」
そう。
姉さんやセリオの方は誰が見ても美人顔だ。
「ほら、先輩にしたってセリオにしたって、どっかぼーっとしてるって言うか、声かけたくなるような雰囲気持ってるじゃねーか」
「………」
そうだろうか。
そうかも知れない。
「それに……これが逆に黒のナイトドレスとか着て夜の街を歩いてみよろ。きっと誰もお前を放っておかないぜ」
そこまで言われて、私はちょっと想像してみる。
悪くない。
確かに、悪くない。
「そ、そうかな……?」
機嫌の直りかけている自分に気付く。
浩之も気付いているのだろう。
うんうんとわざとらしいほど、頷いてくれた。
そして、
「ああ。なぁ、セリオ。それに先輩もそう思うだろ」
いつの間にか近くにいたのか、姉さんとセリオに浩之が声をかける。
二人は浩之と反対側、私の後ろに二人して立っていた。
「あっ、い、いたの!?」
じっと4つの物言わぬ目で見つめられると非常に恥ずかしい。
「――………」
「………」
「あ、そ、その……」
一人拗ねているところを皆で宥められるのは非常に恥ずかしい。
「なぁ、野郎は放っとかないよな。きっと」
が、恥ずかしかったのもここまでだった。
「………」
「――「一晩、いくら?」とか聞くのですか?」
「………」
「あ、綾香っ!」
私は駆けていた。
泣きながら。
波の音が絶え間なくゆるやかに聞こえてくる。
「………」
あれから何時間が経過しただろう。
私はずっと赤く染まった海を見つめていた。
「そろそろ……戻らないと……」
そうは思ってもなかなか腰は重かった。
「情けないわね、来栖川綾香」
自分で自分を叱咤する。
今の私の顔はきっと負け犬顔。
葵なんかには見せられない顔だろう。
「………」
風が出てきた。
このまま暗くなったら急激に冷え込んできそうだった。
「帰ろ」
私は腰を上げてゆっくりと歩き出した。
波打ち際を歩きながら努めて何も考えないようにした。
自分一人が勝手に舞い上がっだだけで、皆に迷惑をかけた。
ひどく、情けないと思う。
「………」
自然に唇を噛み締めていた。
ただ、自分がモテないというだけで。
モテないだけで。
モテ…
「あの…」
急に声をかけられた。
「え?」
振り返ると、道路沿いにヨットパーカーを着た若い男の人が一人私の方を向いて立っていた。
身体つきは良さそうだった。
「あ、あの……」
何か頼りなさげな声をしていた。
瞳が少し揺れている。
少年のような素朴な顔だった。
「寺女の来栖川……綾香さんですよね」
「え…、あ、あの……そうだけど」
まさかこんなところで自分の名前を知っている人がいるとは驚きだった。
もしかして熱心な格闘技ファンだったりするのだろうか。
それとも…
「やっぱり。でも、まさかこんなところで会えるなんて!」
それとも…
「え? な、なによ?」
見るからに彼は興奮していた。
幼さが残る顔を赤くしながら、私のことを見つめていた。
「あ、あの……いきなりで……その、突然ですが……」
こ、これはもしかして…
「ぼ、ぼ、僕とっ!」
「え……」
ひょっとして…
「僕とっ!」
まさか…
「果たし合いして下さいっ!」
彼は深々と私に頭を下げていた。
「――何やら吹っ切れたようですね」
泣きながら相手にハイキックを繰りだしている綾香を見て、セリオは浩之に言った。
一見して無表情に見える彼女だが、浩之には慈愛の籠もった母親のような顔に見えなくもなかった。
「そーだな。じゃ、オレ達は先に帰るか」
そっとしてあげた方がいいと言う建前と、巻き添えはゴメンだという本音が浩之にそう言わせた。
「………」
従ってコクコクと頷く芹香に浩之は自分の上着をかけてやりながら、くるりと背を向けて歩き出す。
その後をセリオが荷物を持って続く。
「ていやーっ!」
この日、夜の海岸では号泣に似た掛け声がいつまでも響き、それは波の音にも消えることは遂になかったらしい。
Fin.