『気付いてしまったこと』
 





 音がしたのは憶えています。


 軽い、乾いた音。


 全然、簡単な音でした。
 ひどく、呆気ない音でした。



 それが何の音か何て、深く考えなかったような気がします。
 その音に、何か意味があるだなんて思いもしませんでした。



 視界だけが勝手に動いたような気分でした。
 何で急に他の人たちが傾いていくんだろうって思いました。



 徐々に傾いて、
 段々傾いていって、



 身体に衝撃を感じて初めて気がついたんです。



 私が、倒れていた事に。



 それからすぐに藤田先輩が慌てて駆け寄って来て、何か叫んだような気がします。
 何か話し続けてきたような気がします。
 私は、何だか倒れてしまった自分が恥ずかしくって、それだけが恥ずかしくて照れ
笑いを浮かべながらすぐに立とうとしました。
 支えようとする藤田先輩の手を押し留めて。
 多分、「大丈夫です」と私は言ったと思います。
 取り繕う言葉として、無意識に一番使う言葉でしたから。



 払った筈の手が、掴まる手に変わるなんて、思いませんでした。
 私が藤田先輩の手を掴んだのか、藤田先輩が私の手を掴んだのか……実は憶えてい
ません。
 私の意識は、そこになかったから。
 既に、そんな事に気が回るような状態でなくなっていたから。




 大袈裟じゃなくて、本当に脳天に響くような気分でした。
 一瞬、自分に雷でも落ちたんじゃないかと思うような気分でした。
 悲鳴を漏らしたような気がしますが、きっと声になっていなかったと思います。
 自分の中の全てが弾け飛ぶような、そんな衝撃でしたから。



 全身から汗が噴き出ました。
 脂汗だと思います。
 身体全体にサンオイルか何かに浸されたような、背中と顔から流れる液体はとても
、冷たかったです。
 そして暫くして、ジンジンと足が痛み出しました。
 身体が冷えたのは、そこだけに体中の熱が集中してしまったからだと思うほど、と
ても熱くて、そして痛みが続きました。



 その時の私は一人きりでした。



 側で藤田先輩がいたのに、それどころか恐らく私の身体を支えてくれていた筈なの
に、きっと私の様子に対して色々と話し掛けたり聞いてきたりしていたと思いますが
、それでも私は一人きりでした。
 景色だけが、周りの景色だけがそのまま維持され続けて……きっと藤田先輩やその
外のこの世にある全てのものと共に維持されていて、私だけがそこから抜け落ちてし
まったような感覚……。
 私はそこに存在し続けているのに、その筈なのに私は一人でした。
 暗い黒い空間に冷たい汗を身体から流しながら、熱い足の熱に気を取られている私
が一人、存在していました。
 それは、私が作った空間なんでしょうか。私の心の中で創り出した空間なのでしょ
うか。
 判りません。
 けれども、私はそこにいました。


 そして、震えていました。
 身体の奥底から響いてくる寒さに。
 同時に、脅えていました。
 足から伝わって来る煮えたぎるような熱さに。





 ……それからの事は、憶えていません。





 目が覚めた時、自分の家のベッドじゃないと気付くのが精一杯でした。
 途切れて以来の最初の記憶。



 漠然と思った事。



 ここは、病院みたいなところだと思いました。
 そして、私に何かあったらしいと思いました。




 …こうして、松原葵の物語は終わりを告げたんです……。





『気付いてしまったこと』




 ――無理したつもり……無かったんですけど……



 周囲が騒いでくれたせいか、自分でも不思議なほど落ち着いています。
 実感が湧かないのかも知れません。



 足が重いのはギブスで固められているからです。
 何か中で蒸れてしまっていて、気分が悪いのですがどうすることも出来ません。
 たまに痒くなっても、関係無いところを掻く事で誤魔化さなくてはいけないのがも
どかしくて、じれったくて、掻く時だけでもいいから外れて欲しいと思います。
 そして、それが出来ない事も理解しながら。


 身体もずっと気持ちが悪いままです。
 あれだけの汗をかいた後、シャワーを浴びていません。
 お母さんに濡れたタオルで幾度も身体を拭いてもらったけれども、やっぱりさっぱ
りしません。
 身体ぐらい自分で拭くと言ったけど、強く擦ってしまうだけで、皮膚が赤くなるだ
けで全然さっぱり出来ません。
 今まで当たり前にしてきた事が出来なくなるって事、本当に辛いんですね。
 実感して初めて分かるものだって……本当ですね。


 私、そんな事も判らなかったんです。
 考えもしなかったんです。


 私、今まで何をしてきたんでしょう。
 私、何をして生きてきたんでしょう。


 今までの私、
 そして今の私


 比べて判る事。
 唯一、ずっと打ち込んできた事。
 そして、今失われてしまった事。




 ……お医者さんに宣告された時に、もう出来ないと言われた事。




 ――私、何も残っていないんです……



 私がそう言うと、藤田先輩は困ったような顔をしています。
 困らせるつもりはないのに、どうしてこうなってしまうんでしょう。



 私が聞かされた事を、初めて藤田先輩に話した時、私、顔が笑っていました。
 笑うしかなかったからとか、感情を通り越した故の笑いだとかじゃ全然なくて、気
がついたら頬が緩んでにやにや締まりの無い顔をしていました。
 情けなかったから、そうなったのかも知れません。


 でも、藤田先輩は怒りませんでした。
 不真面目な顔をしていた私を怒りませんでした。
 殆ど同じ様に告げた時の好恵さんは怒鳴ったのに、藤田先輩は黙ったまま、私を見
ていました。
 そして、励ましてくれました。
 気休めじゃなくて、そうなるのが当たり前のような顔をして。



 ――私、何も出来ないんです……
 ――そんなっ ……そんなことねーって!


 藤田先輩の否定。
 最初は弾き返すように、そして押し付けるように。


 でも、言葉は力任せじゃなくて……。


 いつも、不思議に思っています。
 藤田先輩の言葉は、いつも根拠がありません。
 時には理由すら分からない事もあります。


 でも、聞くと安心してしまうんです。
 納得してしまうんです。
 信じてしまうんです。



 言葉で奇跡を起こせる人がいるのなら、きっと藤田先輩のような人だと思います。



 言い聞かせる訳でもないのに、自分自身の言葉を信じられる。
 信じる事に躊躇が無い。


 私には、出来ません。


 私が自信を持てる自分の言葉は確実な裏付けがあったり、明確な理由があったり、
何か支えてくれるものがない限り、信じきるどころか、言い切る事すら出来ません。


 羨ましいんです。
 でも、絶対に出来ないと諦めていたりします。



 藤田先輩が特別なんだって、そう思って自分に納得させてしまう。



 だから、私には……



 ――私には、奇跡は起こせない……
 ――諦めちゃ駄目だっ! 諦めちゃ、何も出来ないっ!!
 ――でも、私は……
 ――「でも」じゃないっ!!



 その後、綾香さんが来た時に藤田先輩が、色々と医療関係の事で調べたり、聞きま
わっている事を知りました。



 出来る事はなんでもやる。
 出来ない事でも、出来ると信じ込んでやる。
 出来る限り、それ以上、無理してでもやる。



 自分の事でもないのに、そう行動出来る藤田先輩は凄いです。
 そして、怖いです。




 どうしてそこまでしようとするのか……判らないから。




 藤田先輩は口癖のように、「だって友達じゃねーか」って言います。
 それが理由になる、それでこれだけの事をしようとする藤田先輩は凄いし、怖いで
す。
 放っておいて欲しいと思う事があります。
 そっとして欲しいと思う事があります。
 でも、藤田先輩はそうさせてくれません。
 ただの度の過ぎたお節介なら、鬱陶しい気分になるのに……押し苦しい気分にな
るのは……何ででしょう。



 ――奇跡、起こるかも知れませんね。
 ――起こるんじゃなくて、起こさなきゃ。



 リハビリをすると、いつもそう言って励ましてくれます。
 どんな世話だって焼いてくれます。
 藤田先輩と話していると嬉しい反面、底知れぬ怖さがあります。




 藤田先輩の気持ちに応えられないと、そのことで申し訳ない気分になってしまいま
す。
 自分の事なのに、自分の事でなくなるような、そんな錯覚すら覚えます。
 圧迫されます。
 脅迫すらされているような、そんな追い詰められる心境になります。



 そして、藤田先輩が諦めたら……見放したら私はどうなってしまうのでしょう。



 それは何も、変わらない筈なのに……。
 最初の時に諦めていた時点で変わらない筈なのに……。





 ――葵ちゃん。今日は調子、どう?
 ――あ、はい……今日は昨日よりちょっと頑張ってみようかなって……
 ――あんまり、無理しないほうがいいよ。どーせ、先は長いし、焦ってどうなるも
  のでもないし……
 ――はい。大丈夫です。




 私は……何も残っていません。




 でも、本当に無くしてしまったのはいつ頃からだったのか……
 倒れるずっと前、藤田先輩と一緒にいるようになった頃から無くしてしまったよう
な、そんな気が最近はしています。
 狡い考えでしょうか。




 今、私はかなり臆病になりました。
 何か物音がする度に、過敏に反応してしまうんです。





 音がする度に





 何か気付いてはいけない事を、気付かされてしまうきっかけになるような気がして。





 そして、それに気づいた時は、本当の手後れのような気がして……





                            <完>