『何でもない一日』
 




 スピーカーから、今日幾度目かのチャイムが鳴り、放課後になる。
 その日、掃除当番だった浩之は、教室を数人の生徒と共に箒で掃除をしていた。

「ふわぁ……」
 浩之は箒を持ったまま大きく、欠伸をした。
 そしてむず痒くなった頭を指の爪でポリポリと掻く。
 爪の間に挟まった頭皮の糟――つまりはフケだが、それを別の指の爪で取り除いて床に落とす。
 箒の先にたまったゴミと一緒にして。
 別に不潔にしている訳でもなく、特に考えないでやっている行動。
 ただ、それでも間違っても美男子には出来ない行動だ。
「ふ、ふわあぁぁ……」
 もう一度、大欠伸。
 今日は寝不足でもないのに、やたらと欠伸が出る。
 どうも気が抜けている。
「やれやれ……眠くてたまんねーや。あーあ……ふわぁ……」
 まるで何かに対して文句を言っているように、浩之は愚痴を零す。
 それでも掃除をキチンとこなすのは、浩之の性格なのか、単にサボろうとするだけの気力も無いのか。
 多分、後者だと浩之自身では思う。
「……いしょっと、これで、終わり……と……」
 そう言って、箒で集めていたゴミを、ちり取りで全て掬い、ごみ箱に入れる。
 そしてそのまま、箒とちり取りを掃除用具の中に入れる。
 他の掃除当番の生徒も似たようなペースで掃除を終えているようだった。

「あ、藤田君……」
「ん……?」
 浩之が机の横に掛かっていた鞄を取って肩に担いだところで声がかかる。
 女生徒の声。

 浩之が振り向くと、意外な顔が近くにあった。

「あー、松本?」
 自信無げに聞く浩之だったが、当の彼女の方はそんな浩之の怪訝そうな表情は気にした様子も無く尋ねる。
「ねぇ、藤田君。今日、忙しい?」
「ん……いや、別に……」
 初めは彼女がおどおどしているような様子に思えたが、それは単に彼女が視線と身体に落着きがない人間だということだけのようだった。
 浩之はよく知らないが、普段からこうなのだろう。
 そう思いながら答えると、松本はすぐに笑顔になる。
「良かった。じゃあ、ちょっと付き合ってくれない」
「今からか?」
「うん。実はね、カップルで行くと半額のお店があるの……でね……」
「……ん?」





 気がつくと、浩之はその松本の言う喫茶店と言うよりケーキ屋に近い店にいた。
 周りの客も、近所の女子高生が中心で、松本の言う半額サービスの効果かどうか知らないが、カップルも多少、見ることが出来た。
「本当に良かったぁ」
 ケーキとアップルティーを前にしながら、満悦の表情をした松本が目の前にいる。
 浩之の目の前には、チーズケーキにコーヒーが置かれている。
 本当はコーヒーだけに予定だったが、松本に「ここの焼きチーズって全然甘くないから男の子にも人気あるんだよ」とか言って、勝手に注文した結果だった。
「半額券、期限が今日までだったんだぁ」
「へぇ……」
「それがね、さっき、掃除してて気づいて、でも、そんな急に誰か誘うのって難しいし、勿体無いなぁって思ったら、藤田君が丁度いたんで声かけたんだぁ」
 いつもなら浩之に特に話し掛けてこない人物が話し掛けている。
 愚鈍そうなたれ目に、抜いて形を整えているくせに泣き眉。
 制服を中から持ち上げているような普通よりも大き目のバストの膨らみが、彼女をあまりにも利発でなさそうな雰囲気に仕立て上げている。
 いや、実際に頭が弱いタイプのようだ。
「なぁ、松本」
「何?」
「今、思ったんだが……」
「?」
 砂糖を入れた訳でもなかったが、スプーンでコーヒーの中をぐるぐるといかき混ぜながら、何か身を乗り出しているような格好の松本に言う。

「オレに奢ったら結局、一人分支払うのとあんまり変わらねーんじゃねえか?」

「……え?」
 松本は浩之をここに誘う際、「藤田君の分も私が奢るから付き合ってぇ」と両手で拝んで誘ってきていたのだ。
 その時は、深く考えていなかったのだが、落ち着いてみるとそのさっきの言葉の通りの事を思ったのだ。
「…………」
「…………」
 一瞬、気まずい沈黙が流れるが、松本はポンと手を打って
「あ、そっかぁ。藤田君って頭いい〜」
 と、宣う。感心したように。
「おい……」
 浩之は思わずテーブルにつっ伏したくなった。
「あはは、私全然気がつかなかった。数学とか得意じゃないしぃー」
「…………」
 能天気にあははと笑う松本に、浩之は苦笑いを残した顔をして見ていたが、その松本の悪意の欠片の無い屈託の無さに、次第にほだされたような気分になる。

 …ま、いーか……。

「ねぇ、藤田君」
「ん?」
 いつもながらの物事への拘りの無さを見せながらカーヒーカップを傾けると、松本が浩之の方に身を乗り出してきていた。
「あれから、保科さんと上手く行ってる?」
「っ!!」
 思わず、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。
「な、何だよいきなり……」
 気管に入りかかったコーヒーを咳をしながら戻しつつ抗議するが、
「えーだってぇ、気になってたからぁ」
 松本は平然と答える。それほど他意はないらしい。
「あのな、オレはただあの時は純粋にだな……」
「でも、聞いたよー。あの後も結構、保科さんに色々言われたんでしょ? 凄いよねー、藤田君。好きでもない限りなかなかできないよ、そーゆーの」
 お茶にたびたび口を付けながらそう喋る松本に、浩之は
「オレはそういう奴なんだよ」
 と、憮然とした表情を作って答える。
「……ふーん。私、てっきり藤田君って神岸さんと付き合ってるとばっかり思ってたから結構、驚いてたんだけどなー」
「だからオレは、ああいうのが純粋に嫌いなんだよ」
 浩之は誤魔化すように重ねて言う。
「ふーん」
「…………」
「…………」
 浩之がそう強引に押し切ると、わかったようなわからないような表情のまま、松本はフォークで一口大に切ったケーキを口に運ぶ。
 多分、判らなかったのだろう。
「……オレからも聞いていいか?」
「何〜? 保科さんとのデートスポットか何か? だったら今ね、駅前のファンシーショップでね、すっごく可愛い……」
「違うっ!!」
 思わず、声が大きくなってしまう浩之。
 近くの人間の注目を浴びて、それに気付いた中腰になっていた姿勢を戻し、椅子に座り直す。
「藤田君って怒りっぽいんだ。やっぱりねー」
「そうでもねーんだけどな……」
 調子が狂いっぱなしの浩之は、それども表情を引き締めて、セットの追加を注文している松本に改めて訊ねる。
 漠然と思っていたこと――智子に対する苛めの経緯や理由を。
「うーん……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 ちょっと小首を傾げる様な仕種を松本がしてから、時間だけが経つ。
 本当に真面目に考えているのかと浩之が疑いだした頃、松本がポツリと呟くように口を開く。

「やっぱり……恐かったから、かな」

 松本は生まれつきかもしれない呆けた顔のまま、それほど真剣味の無い声でそう言った。

「恐かった?」
「うん」
 ウエイトレスが来て、追加のケーキセットが松本の前に並ぶ。
 既に半額サービスがあっても足は出る計算になるが、浩之は別に指摘しなかった。
「私って、人に嫌われるのが恐くてー、保科さんってちょっと何か言うとツンツンして恐いからー」
 初めは他愛の無い口喧嘩くらいからだったそうだ。
 岡田が無愛想な智子に、注意をしたのが始まりらしい。
 岡田がどんな風に言って、智子がどんな風に言い返したか、浩之には簡単に想像がつく。
 徐々にそれがエスカレートしていくうちに次第に岡田とつるんでいた松本や吉井も巻き込まれるような形になったのだという。
 癇の強い者同士の諍いが、片方は一人ぼっちで、片方は仲間がいた。
 それが岡田の甘えに繋がり、智子の強情に繋がり、残りの二人の態度にも繋がっていったのだろう。
 元々は、誰が悪いという事でもなかったのだ。

―――元々は、だが。
 浩之自身、よく考えてみると、ちょっかいを出している筈の三人の方が押されているように感じていたのを思い出す。
 松本の言うとおり、恐かったのかもしれない。
 中途半端に有耶無耶に出来るほど、ほっとけるほどの余裕が無かったのかもしれない。
 いつでも仲間がいる岡田に、智子は腹立たしい気持ちがあったのかもしれない。
 それが、この松本や吉井への態度に繋がったのかもしれない。

 …好意的に考え過ぎかもな。

 浩之は自分の中でそこまで膨れ上がった思考を中断する。
 目の前で幸せそうな顔をして二つ目のケーキを平らげていた松本を見て、浩之は頭を軽く横に振る。
 松本の口調も表情も素振りも、浩之から見る限り真剣味を感じないが、いい加減な事や、都合のいい事を言っているとも思えなかった。
 気がつくと、浩之のコーヒーに湯気が昇っている。
 お代わりが来て、注いでくれたらしい。
「でもよ……」
「あ、藤田君も恐かったよー。あの時なんか凄く恐かったもん」
「……まーな。大人げないとは思ったけどよ、やっぱりあん時は……」
「うん。吉井も言ってた。ちょっとやり過ぎたって」
「委員長には謝ったんだろ?」
「うん。恐かったけど」
 それは智子自身から聞いていた。
 岡田だけはどうも、納得していないようだったらしいが一応、三人で謝りには来たらしい。
「ま、それならいーんだ」
 浩之はそう適当なことを言って強引に話を打ち切る。これ以上、詮索しても仕方が無いことだし、今更どうでもいいことである。
 これ以上、首を突っ込むべきではないだろうとも思った。
「でも、本当に藤田君。保科さんと何も無いの」
「ねーよ」
 松本の声は興味津々と言うより、ちょっと期待していたのとは違ったような、残念さが浮かび上がるような感じだった。
「じゃあ、神岸さんとは?」
「あいつとはただの幼なじみ」
「ふぅーん」
 松本がそこでニコっと笑った。
 それは安っぽいグラビア紙に出てきそうな微笑みに似ていたが、それは生まれつきなのだろう。不思議といやらしさは感じなかった。

「あ、そろそろ出ようか?」
「え、あ……ああ」
 思ったより時間を取ったらしく、浩之は時計を見て時間の経過に軽く驚く。
 そして、残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「あ、オレが出すよ……」
「えーでもー、誘ったのは私だしー」
「いいっていいって」
「……」
 そう言って、カウンターで松本を抑える様に制して支払いを済ませている浩之に、先に外に出た松本は、
「ふぅーん」
 と、浩之の姿をしげしげと眺めていた。
「悪ぃ、待たせたか?」
「うん、全然」
 釣り銭の受け取りに時間が掛かったので、それを聞くが松本はにこにこしたまま首を横に振る。

 浩之は、何処となく悪感を感じた。

「あ、じゃあオレ……」
「ねぇ、ほらほら……藤田君。プリクラ撮ろうよ」
 松本の指差す先にはゲーセンがあった。
「い、今ごろ、プリクラかぁ……?」
「いいからいいから、ほらぁ……」
 そう言って腕を組んでくる松本に、動揺する浩之。
「あ、ちょっと待て……オレは……」
「今度こそ奢るからぁ」
 浩之はその自分の腕から伝わってくる暖かさと柔らかさの正体について考えないように努めつつ、逃げようと腕を引っ張る。
「いや、その……な……オレは……」
「藤田君って―――」

 そこで、松本が言葉を切る。

「優しいんだね」

 そう言って、もう一度笑った。

「え……」
「…………?」
「え? あ……ああ。プリクラだっけ?」
「う、うん」
「しゃーねーな、一枚だけだぜ」
「うん!」

 お互いに何でもない一日だった筈のその日、

 ――浩之が夕焼けに照らされた松本の笑顔に見とれてしまったこと
 ――松本の生徒手帳に目つきの悪い男とのシールが貼り付けられたこと

 お互いにとって何でもなくない一日になっていたことに、それぞれが気づく筈もなかった。




                           <完>