『ゆりかごにゆられて』
 





 海にやってきた。
 季節はまだ六月の初め。

 暑さはそこそこ夏に近いけれど、当然ながら海水浴など出来ようはずもないから、
今はまだ眺めるだけ。

 そもそも、海は眺めるものだ。
 陸上生物たる人間としては、そう思う。
 海は陸と陸とを隔て、人と人とを切り離す。
 人が空を飛べなかった頃には、その広大な蒼い平原は、酷く遠くて手の届かないよ
うな錯覚を人に憶えさせる。
 昔の、話だ。

「ヒロユキ、潮のにおいがするわね」
「ああ。でもやっぱり、この時期だと誰もいないなぁ……」

 海岸沿いの道路に止めた小さな赤い車。
 ドアを開けて外へ出ると、カモメの鳴き声が出迎えてくれる。

「…………アメリカは、遠いね」
「…………ええ。遠いわ」
 いくら目を細めたところで、太平洋の水平線から先は見えない。
 どう手をかざしたところで、何も見えない。

「…………」
「…………」
 二人で、じっとみつめていた。
 海を。
 海の向こうを。

「……どうしてますかね」
「きっと、元気にやっているわ」
「ええ、そうですよね」
「ええ」
 別にわざわざ喋らなくていいことを、喋ってみる。
 黙っていられなくなったから。

「今日、学校良かったの?」
「そっちこそ……仕事、いいんですか?」
「私は休暇、取ったから……」
「……オレも有休、取りましたから」
 二人して、顔を見合わせて笑った。


『ゆりかごにゆられて』


 一般的な高校生の恋愛の事情は今、どうなっているのだろう。

 マスコミが煽り立てる爛れた性。
 恋愛小説が書き上げる幻想的な性。

 どれもが間違っていて、どれもが見当はずれでない実態。

 まず、「高校生」というくくりでくくろうとしているのが間違っている。
 一番、多種多様な年代で、個人差が激しい時期だ。
 それまではそれ程の差異はない横並びの延長で、以降はそれぞれが違う世界へと細
かく別れ、それぞれが適当に似たもの同士が群がる。
 そんな人間が共同生活を送る最後の状況が、高校と言う閉鎖された空間だ。

 まぁ、別にオレは他人がどうだとか、自分はどうなのだろうかと不安になっている
訳ではない。
 ちょっと、思っただけだ。


 ……今の、オレの恋愛を。


「どうかしたの?」
「いや……なんでもないですよ」
 オレはいつの間にか起きていたのだろう、傍らの彼女にそう返事を返す。
 我ながら変に丁寧で自分の台詞ではないみたいだ。よく人からは(特に一人の女か
らは)ぶっきらぼうだの、無愛想だの、言葉遣いが乱暴だの、敬語を知らないだの、
目上を敬う心を持っていないだの、言いたい放題に言われ、見られてきているが、何
のことはない。外では威張りくさっている男でも、こうして、ベッドの中では頭が上
がらない。まぁ、相手が年上と言うこともあるが。

 ここは海岸淵の切り立った崖にまるで灯台のように建っている小さなホテルの、適
当な一室。
 その中途半端な高さの建物は、典型的な安ホテルをイメージしている。
 無論、他に客がいるかどうかもかなり怪しい。恐らく、いないだろう。
 だが、場所はこの際、関係ない。
 いや、考える意味がない。
 ここがホテルであって、灯台や気象観測所でないのなら、問題はない。
 二人が、こうしていられる場所であればいいのだから。

「ふふ……へんなヒロユキ」
 口元に微笑を残して、軽く頬に口づけをしてくる。
「あ……」
「ふふふ……」
 オレの顔を見てまた、可笑しそうに笑う。

 女は、偉大だと思う。
 別に世界中の全ての男は女の腹から生まれただとか言う気はないのだが、そう思わ
ざるをえない。到底、男は女に勝つことなど出来やしないのだ。
 別に、オレの周りにいる女が強いからではないぞ。
 そりゃ、志保はあんなでなかなかへこますことは出来ないし、委員長で口で勝つこ
となんかまず無理だし、あかりはあれはあれで強情なところがある。いくら「ちゃん
」付けを止めろと言い聞かせたところで、未だに聞きやしねぇ。それに琴音ちゃんも
頑固なところがあるし、葵ちゃんは別の意味で強い。あ、言葉通り強いの間違いか。
理緒ちゃんは境遇からか打たれ強くなってるし、綾香はべらぼうに強い。流石はスー
パーお嬢様と言ったところだ。あんなヤツに男なんて出来るのかね? 甚だ疑問だ。
先輩も得体の知れない芯を持っているし、レミィ……そう、レミィも強い。
 間違いなく、強い。

・
・
・

「Hey! ヒロユキ!!」
「よぉ、レミィ」
 勢いよく手を挙げて、駆け寄ってくるレミィ。
 オレもその元気さを内心で羨みながら、軽く手を挙げて返す。
「そこらまで、一緒に帰るか?」
「はい、御一緒シマショウ!!」
「なんだ、それは……」
「アハハハハッ」

「でさ、その時の志保の顔と言ったら……まぁ、見物だったぜ」
「ニャハハハハッ、それはケッサクデース!!」
 相変わらずレミィは太陽みたいな眩しいぐらいの笑顔をオレに見せてくれる。
「だろ。なのにあかりのヤツ、「志保に悪いよ」だってよ。あんなヤツに気を使う事
もねーだろーに」

 その笑顔が崩れる時、それは不意に太陽が風に流れる雲で隠れたみたいだった。

「ねぇ、ヒロユキ?」
「なんだ?」
「ヒロユキ……アカリのこと、スキなの?」
「え?」
「ドウなの?」
「いや、別にどうって言われても……特にどうということもねーけどな」
「じゃ、じゃあ……」
 慌てたように、焦っているように、勢い込んで聞く。

「……ワタシのこと、スキ?」

・
・
・

 軽く頭を左右に振った。
 沸き上がる記憶を振り払うように。
 楽しい思い出より、辛い思い出の方が自分が思い出そうとしなくても勝手に思い出
される。不公平な気がする。
 これも、罪悪感という身を縛る鎖がなせる業なのか。

 それともただ、後悔したいのか。

 目の前に広がるなだらかな曲線を舌でなぞる。
「あ……ヒロユキ?」
 その中央にある突起を見つけて、銜えるようにしてしゃぶり付く。
「……ぁン……もゥ、いけない子ね」
 もう一つの突起は指で摘んだ。

 白くて、白くて、そして、そこだけが赤い。

 後悔は、していないと言い切れる。
 こうして彼女を好きになったからこそ、レミィにだけははっきりした態度を取らな
ければならなかった。
 いつから好きになったのかは判らない。初めて会った時から、惹かれていたような
気がするし、幾度か会う機会があって話しているうちに、一緒にいるうちに無性に欲
しくなったような気もする。嫌なことはいつまでも付きまとって思い出させるくせに
こういうところの記憶はいつも曖昧だ。
 ただ、告白した時の事は覚えている。
 恥ずかしい、忘れてしまいたいような出来事を含んだ記憶だからだ。

・
・
・

「その……シンディさんって、今誰か付き合っている人、いるんですか?」
「ふふっ、シンディでいいわよ。ヒロユキ君」
「オレも浩之でいいですよ」
 初めはそんな会話からだったと思う。
 今、考えれば街中でのナンパ野郎と何ら変わりない。「可愛いね」「今、暇?」「
彼氏いるの?」……科白廻しこそ、もう少しマシだったかも知れないが意味合いが同
じならば大して代わりはない。

「そうね……知りたい?」
 シンディさんは口元を綻ばせながら、その口元に指を当てて、思わせぶりな仕草を
して聞き返す。
「ええ」
 と、頷いて自然と身を乗り出す格好になっていたオレの姿はさぞかし滑稽だっただ
ろう。

 だから、
「ふふ……女性にそんなことを聞くものじゃないわ」
 と、笑ってかわされた時はかなり恥ずかしかった。
 だから、オレはその内心の恥ずかしさを突き破るようにして、思い切り言った。


「あ、あの……オ、オレっ!!」


 勢いよくテーブルについた手にぶつかり、砂糖の瓶が地面に落ちた。

・
・
・

 夢中で、乳首にしゃぶりつく。
 吸って、舐めて、唇全体でくわえ込んで口内の溜まった唾液を擦り付ける。
 まるで、幼児だ。
 赤ん坊にしては図体の大きい厄介で可愛げのない赤子だが。

・
・
・

「今度ネ、帰ることになったの」
「帰るって……?」

・
・
・

 レミィは最後まで笑顔だった。
 その顔がいつか崩れるとは思えなかった。
 爽やかな太陽のようでは無かったけれど、向日葵ぐらいの微笑みを最後まで見せて
くれた。
 こんなオレに。

 そのレミィの強がりに、甘えるしかないオレは、何なのだ。
 そう、思う。

「…………」
「……ヒロユキ?」
「……あ…………」

 どうしても、思い出される。
 脳裏から無理矢理押し出されてくるように。
 拒絶してはいけないのか、振り払えない。

 そして思い出すと、泣きたくなった。
 いや、泣いていた。
 オレに泣く資格なんかとっくに、とっくの昔に捨ててしまった癖に。
 今更、今更のくせして。
 我儘で身勝手で、図々しい限りだ。
 そんな自分に腹が立つ。
 だが、涙は止まらない。

「…………」
「…………」

 …好きなだけ、泣いていいのよ……。

 そんな幻聴を聞いた。
 彼女は、そんなことは言っていない。
 ただ、泣きじゃくるオレの頭を抱きしめながら撫でているだけだ。

 「ヘレンとは……どうなの?」
 「どうって……別に……普通ですよ」

 ……オレとの事を深く悩んでいたくせに。

 「一回り、違うのよ」
 「だから……何です?。年下は嫌……ですか?」

 ……自分から年の差を気にしていた癖に。


「…………」
「…………」

 それなのに、
 土壇場で心が裏切っているオレをこうして優しく包み込んでくれる度胸は何故なん
だろう。


 女は強い。


 そして、そう心に刻みつけられたオレに、彼女の言葉が突き刺さって離れない。


 「恋した女は、もっと強いのよ」


 だからオレはその強さに縋っている。
 赤ん坊のようにしゃぶりつくだけで、全てを頼っている。


「…………」
「…………」


 少しだけ開け放たれていた窓から、潮の臭いとカモメの鳴き声が聞こえてくる。
 さっきまで、聞こえなかったのに。
 今の今まで聞こえなかったのに。

 酷く、自分じゃない、他人の事のように思える。
 他人の身体に入っているような気がする。
 今、こうしている自分を素直に認めたくない気がする。
 全て、自分で選んだ道なのに。
 それは卑怯だと、思うのに。


 ゆりかごに、揺られている。


 そんな気がした。
 大きい、大きいゆりかごに、オレは揺られている。
 そして、その大きな胎児となったオレを彼女は抱きしめ、包んでくれている。
 お互いがそれぞれの今までの何かを捨てて、振り払って。


 …これで、いいのかな。


 オレは微かに乳の香りがする錯覚を鼻孔に感じながら吸い続け、思った。


「好き……だよ」
「…………」


 オレの呟きに、シンディは微笑んで見つめてくれた。


 それでいいのだと思えた時、オレの恋は終わるような気がした。





                            <完>