『晒されたもの』
 





「先輩……お疲れさまでした」
「はぁっ……はぁ……はぁ……はぁ……」



 今日もまた、同じことの繰り返しだった。



「……えっと……サンドバッグしまいましょうか?」
「はぁ……はぁ…………」
 首を横に振る。
「……あ、それじゃあ……えっと……」


 その少女は困ったような顔をして、どうしたらいいか判らない手を宙に漂わせたま
ま、その場に座り込んでいる体操服姿の自分より一学年上の少女を見ていた。


「じゃあ、今日はこの辺で……その……また明日……来てもいいですか?」
「……は、はい……」
「良かった。それじゃあ、また相手して下さい……ありがとうございました!」


 制服姿のまま方の少女は明るい声を出して言うと、そそくさとその場所、神社から
立ち去っていく。
 残されたのは、その地面に座り込んで荒い息を整えている少女一人だった。



「はぁ…はぁ……くっ……」



 息が完全に整った訳ではなかったが、歯を食いしばるような顔をして立ち上がると
、吊したままのサンドバッグに向き合った。



 ……………。



「たぁっ……たぁっ……たぁっ……」



 そして、また、境内に掛け声と、激しく叩かれる音が響いていく。
 これもまた、いつも通りの出来事。

 身体中の汗がその動きに飛び散り、内側から新たな汗が噴き出す。
 そして、涙も滲み出すように零れる。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 ふらりと現れたその娘……どう見ても格闘をするとは思えない何処にでもいる平凡
な雰囲気な女の子だった。
 その子が、新入部員扱いで、ここに通うようになって以来……松原葵は振り回さ
れていた。



『晒されたもの』



 初めて彼女がここに来た時、入部希望というより、道場破りに近かった。


 先に空手部の方に行ったのだが、主将を初めとした3、2年生全てを叩きのめして
しまい、出入り禁止になってここに来たらしい。
 空手部には坂下好恵もいたが、彼女は相手をしなかったらしい。彼女は試合以外、
稽古以外の組み手は極力しない主義なので、それも頷ける。葵とのあの日の戦いは彼
女にとっても特別だったのだ。そして、あの日以来、彼女はその主義を極力貫いてい
る。だからこそ、主将に選ばれる実力を持ちながらも、選ばれなかった理由だろう。
 ただ、自分や綾香達とは目指す道は違っても、求めているものは同じだと信じてい
るし、互いにわかっているつもりだ。


 そんな訳で、その好恵に薦められたと、彼女はここに来た。
 新入生勧誘にも参加したし、事ある毎にアピールしているつもりだったが、聞くま
で知らなかったようだ。
 そんなものと、言われればそんなものだが。


 そして、初の手合わせをした時……まともに渡り合うこともなく、負けた。
 力を出し切るとか、それ以前の次元だった。


 今までにない不思議な気持ちが、胸に沸いたのを今でも覚えている。


 その日、数十本組み合ったのを皮切りに、それ以来、まるで稽古でも付けて貰って
いるように葵はその下級生の女の子と手合わせと言うより、真剣勝負じみたことをし
ていた。
 かかっていっては払われ、向かっていっては返され、飛び込んでいってはかわされ
る始末で、全然実力に差があるのか、拳一つ、脚一つ、その身体に触れる事が出来な
かった。まるで、相手にならなかった。


 今日もまた、転がされ、はね返され、あしらわれた。


 別段、馬鹿にされている訳ではないし、見下されたりしている訳ではないが、そん
な風に見られているのではないかと、自分では思い込んでしまっている。
 ただ、相手は身体を動かすことを、人と闘うことを純粋に楽しんでいるだけにしか
見えないのに、そう単純に思えない。


 ……悔しかった。


 自分は勝敗に拘ってはいないつもりだったけれど、負けて悔しいという感情を初め
て知った気がしていた。
 こんな気持ちは初めてだったから。
 昔、エクストリームで自分の本来の力を出せなかった時の悔しさとは別に、勝負で
負けることがこんなにも悔しいことだと、今まで知らないでいた。
 今までは負けても、相手の方が強いと認めれば認めるほど「少しでも相手の域まで
鍛えて強くなろう」と思ったりするだけで、こんな気持ちになったことはなかった。



 相手が年下だったからだろうか。



 だから、負けて悔しいのだろうかと自問する。
 自分がそんな事を考える人間とは思っていなかったが、そうとしか思えなかった。
 素直に尊敬したり、教えを請うような気持ちになれなかった。
 近付きたいとか、越える目標にしたいとか、考えられなかった。
 ただただ、負けることが悔しかった。
 悔しくてたまらなかった。



 そして、そう思う自分が情けなかった。



 自分が相手の年齢、経歴、そんな外側だけで態度や気持ちが決まっていたのかと思
うと、情けなくて涙が出た。
 綾香に対する憧れ、好恵に対する敬意、それらが目上だから先輩だから年上だから
先達者だからだと言う理由からだと思うと、申し訳ないような気持ちになった。



 そんなことの繰り返し。



 こんなにも辛い経験は今までなかった。
 格闘技を初めて今まで。


 少しでも格闘技を止めたくなった。
 こんな苦しみを味わうことがあるとは、知らなかった。
 心技体……この言葉を本当に今、思い知らされた。



 きっと今、私は、分岐点に来ている。



 きっと止めたりしないだろうけど。
 投げ出すことが出来ないから。


 きっと忘れることも出来ないだろうけど。
 振り払うほど強くないから。


 相手を負かすことがきてるようになっても、なれなくても私はもう今までの私では
なくなることにかわりはない。


 笑えなくなるかも知れない。
 素直ではいられなくなるかも知れない。


 でも、歩き続ける。


 歩くことしか知らないから。
 歩くことぐらいしかできないから。



 歩くことで、どうなるのかはわからない。
 でも、私は歩きたい。
 そう思える。




 そして、そのことを彼女に教えることが出来るのは、きっと私しかいない。


 彼女は、かつての私だから……。




 その時、ムキになった理由が一つだけわかった。



 サンドバッグを蹴りつける。
 幾度も。
 幾度も。


 かつて、私の周囲にいた人がしていたように。





                            <完>