『君の名は』
 





 その日、浩之はブラブラと街を歩いていた。


「あら、藤田じゃない?」
 そこへ、とある女が彼を呼び止めた。

「ん……?」
 浩之は振り返る。
 そこで、女を見る。

 短くさっぱりと切った黒髪。
 ピンと張りのある声。
 どこか頼りがいのある雰囲気を醸し出している。
 浩之は彼女に見覚えはあった。

 だが……


 浩之は小首を傾げる。


 …誰だっけ?


「あ、ああ……」
「一人なんて珍しいわね。いつも誰か侍らしているのに」
 その女は、浩之に親しげに話し出す。
「あ――……え――……」
「? どうしたの?」
「えっと……ほら、お前……」
「ちょっと……」
 その様子で、浩之が自分の事を忘れていることに気付いたらしい。彼女は表情を曇
らせる。


「あ、思いだした。竹下っ!!」
「違うわよっ!!」
 手を叩いて、すっきりした表情で叫ぶ浩之に、怒る女。


「あ、悪い……坂上だっけ」
「「飛びます飛びます」……って何やらせるのよっ!!」
 お約束のように二郎ちゃんの物まねをしてから、やっぱり怒る。


「えっと……」
「ちょっと、マジで私のこと、忘れたって言うの!!」
 再び、思考の海に流されていく浩之に、苛立ったように自分を指差す。


「そりゃ、いつもと違って花柄のワンピースなんか着てて、自分でもちょっと似合わ
ないかなって自己嫌悪しつつも、「女の子なんだから」って母親に説得されて、近所
の男の子に笑われつつも、健気にここまで来たんだから……忘れないでよっ!!」
「あ……その……」
 女が自分で言う通り、確かにその女にはちょっと似合ってない雰囲気の可愛らしい
ワンピースを着ていたが、浩之は関係なく彼女の名前を覚えていなかった。


「忘れてないって……ほら……えっと……葵ちゃんの……その……」
「…………おい」
 女が握り拳を固めた時、


「御免なさい……遅れてしまって……あ、藤田先輩!!」
 その場所に救いの神が現れた。


「葵ちゃん!!」
「葵っ!! いいところにっ!!」
 葵が、浩之と待ち合わせていた女と両方に呼び掛けられて、びっくりしたような顔
をする。
「え?」
「葵、コイツ……私のことを忘れたみたいなのよ……」
「悪い悪い……」
 女が葵に浩之を指差しながら文句を言うと、葵はそこで合点がいったような顔をし
て軽く笑って、
「藤田先輩……坂下さんですよ」
 と、改めて紹介する。
「あ、そうそう……そう言おうとしてたんだよ」
「嘘つけっ!!」
 ケロッとしたように言う浩之に、女こと坂下はすかさず突っ込むが、
「坂下芳樹さん」
「好恵よっ!!」
 葵がそう続けたので、そっちの方に向き直る。
「確か盗み撮りが得意なんだよな……」
「だから違うってっ!!」
 浩之が記憶の糸をたぐり寄せるように言うのを、涙目で抗議する坂下好恵。


「まぁ、それはどうでもいいとして……」
「よくないわよっ!!」
 騒ぎ立てる坂下好恵を無視するように葵に話し続ける浩之。
「葵ちゃん。待ち合わせ?」
「はい。綾香さんと、坂下……由伸さん?」
「好恵っ!!」
「そうとも言いますね」
「そうとしか言わないわよっ!!」
「自称、坂下芳美さんと……」
「だから……好恵だってっ!! それに自称って何よっ!!」
「……と、三人でボクシングの試合、見に行くんです」
「へぇ……」
「訂正しなさいよっ!!」
 坂下好恵が抗議していると、


「待った? あ、浩之じゃない」
 綾香が現れる。

「よう……」
「綾香さん、遅いですよ」
「御免ね。ちょっと姉さんの儀式につきあってたら遅くなっちゃって……ん?」
「綾香綾香……」
 言い訳をしていた綾香の服を掴んで引き寄せる坂下好恵。
「何よ?」
「貴女は私の味方よね」
「へ?」
「なぁ、綾香。こいつの名前、言えるか?」
「へ?」
 浩之の言葉にキョトンとした顔をしてから、しがみつく坂下好恵の顔を見る。
「坂下好恵でしょ?」
 そして、あっさりと言ってのける綾香。
「おお〜」
「流石は綾香さん……」
「当然でしょうがっ!!」
 坂下好恵が感心している二人を怒鳴りつける。



「で、サッチー……」


・
・
・


「ねぇ、どうして好恵、泣いていっちゃったのかしら?」
「さぁ?」
「やっぱり本当は義経だったんじゃ……」
「困ったわね……じゃあ、浩之。代わりに行く?」
「ボクシングだっけ?」
「ええ。結構、他の格闘技って参考になるんですよ」



 朗らかな、秋の日の事であった……。





                           <おしまい>