『浮浪』
 





 ――…………。


 ふと喚声が耳に届き、重く感じる顔をゆっくりと上げる。
 ぼんやりとした視界が明瞭になるにつれ、目の前の光景が知覚できるようになる。
 見るとすぐ近くで女の子が一人で遊んでいた。
 その動きは僕の存在など気にしていない。
 彼女も、誰も、全く、気にしていない。


 たったそれだけのことだった。
 たった。


―――そう、たったそれだけのことだったんだ……。




『浮浪』



 僕はいつからここにいるのだろう。
 いつまでここにいるのだろう。


 夏の真っ盛りともいえる暑い日差しの元、僕は駅近くの公園の地面に腰を下ろした
まま、ぼんやりとしていた。

 近くで群がっていた鳩が飛び立つ。
 誰かが横切ってきたらしい。

 小五月蠅い、耳障りな羽音がする。
 一匹、一羽ならともかく、これほどまとまった数だと、ちょっとした騒音に近い。
 気持ちは馴れていても、感情は馴れるものではない。

 その騒音の主達は暫く周囲を低空で旋回しながらも、結局はすぐ近くにまとまって
降り立ち、何ごともなかったかのようにアスファルトの上を闊歩し、隙間に挟まった
ゴミを啄んでいる。

 危害を加えられるなどとは思っていない。
 ただ、しばらく離れていれば問題ないと多寡をくくっている。


 その薄汚れた身なりは僕と何ら変わらない。


 だからこそ、同じように人から目を背けられる。
 だが、気にする素振りも見せない。


―――鳩も、僕も。


 いつ頃からこうするようになったのだろうか。
 正直なところ、日付は覚えてはいない。
 人生の転機などという大層な問題に直面したとは思えない。
 歯車とやらが狂ったとも考えにくい。


 だが、僕はここにいた。
 間違いなく、佐藤雅史はここにいるのだ。


 僕は特に変わったところがなかった。
 勉強は、出来なくなかったし、
 運動も、サッカーで特待生になれるほどのものだから、十分だと思う。
 友人関係だって、良好だったはず。
 家族にしたって、皆円満に暮らしてくる。

 親友と呼べる幼なじみ。
 先輩後輩と呼びあえたサッカー部員。

 女子にも人気はあった。
 それほど、興味があったわけではないけど。


 そして高校を出た。
 サッカーで入れたと言われたくなかったから、必死に勉強してそこそこの大学に入
れた。
 小学生から一緒だった親友達とは一緒ではなかったけれど……。


 それからだと思う。
 それから……。


 今、ここにいる。
 僕は大学のサッカー部の中心選手の一人として活躍していたはずだ。
 大学に不満はなかった。
 サッカーにも不満はなかった。
 親友とまでは呼べなくても、そこそこ気を許せる友人関係も築き上げてきた。
 昔からの友達だって、たまに会ったりして友好関係を続けてきた。


―――だけど、何故かここにいる。


 いい加減、大学も夏休みに入っているのだから、僕がこうして日中、ぼんやりとし
ていても問題はない。
 だが、僕はかなり前からこうしている。
 大学の講義がまだ、あった頃から。
 サッカーの試合があった頃から。


 …どうして、ここにいるんだろう……。


 別にずっとここに座っていたわけではない。
 時には別の街だったり、
 田舎だったり、
 人が居そうもない場所だったり、
 そんな所で座っていた。
 それは別に悪い事じゃない。
 学校にも行かず、家にも帰らず。
 何をするまでもない、ただ、ぼんやりと座っていた。


 見上げるのは、青い空。
 思い出すのは、昔のこと。
 考え込むのは、…………なんだっけ。


 僕は人からあれこれ言われるのが好きじゃない。
 僕は人が思っているほど、自分が好きじゃない。
 僕は人が考えているような、できた奴じゃない。


 …ただ、浩之だけは僕にあれこれ言ってくれたっけ……。


 昔のことを思い出してふと、口元に微笑が漏れる。
 髭は濃い方じゃないが、流石に目立って仕方がない程だ。
 そしてばりばりに固まっているから、自分のイメージ通りの微笑みをしているかど
うかの自信はないけど。

 僕は別に苦しくなった訳じゃない。
 逃げ出したつもりもない。

 でも、ここにいる。
 何かをしたくて、
 でも、何もしたくなくなって……。

 日が落ちてきた。
 風の質が変わってきた。
 しばらくしたら、雨が降るのかも知れない。


 …昔は分からなかったことが、分かるようになった。


 首がかゆくなって、手を伸ばす。
 そんな感覚は既に失ったと思っていたけど、忘れた頃に思い出す。
 初めの頃は、ひどく敏感だった。


 その時、僕の視界に少し離れた正面に、人影が映る。


―――ブランコ……。


 ありふれたブランコ。
 子供が三人。
 二人がそれぞれ乗っていて、もう一人の女の子がそれを見ていた。
 それが僕の目に写った。
 さっきから正面で捕らえていたはずなのに、今、目に写った。

 ちっぽけなブランコ。
 そして子供たち。
 ただ、自分の力で漕ぎ出し、前後に揺られるだけの単純な遊び。
 でも、楽しそうにしている。
 笑っている。
 乗っている子も、見ている子も。


 あの頃の僕達も、あんなだった。
 あんな風に笑ってた。
 僕と浩之、あかりちゃん。
 いつも一緒だった。


 どうしてあんなに楽しかったんだろう。
 一緒にいるだけで、楽しかった。
 つまらなかったり、
 苛立ったり、
 怖かったり、
 泣いたり、
 怒ったり、
 色々な事があった筈なのに、思い出すと皆同等に懐かしくて、楽しかった。


 …僕はいつからああして笑えなくなったんだろう……。


 ずっと一緒だったのに、ずっと変わらない筈だったのに……。


 その時、再び鳩の大群が蠢き、
 僕の視界を遮るように隊列を組んで低空飛行をする。
 グレーの幕が僕を包むように。
 そしてその鳩達はまた僕の近くに降り立ち、アスファルトと格闘する。

―――………。

 僕はただ、その動きを眺めていた。
 首も頭も動かさず、目で追いかけていた。
 空色と灰色の斑の生地が空を舞い、そしてそれは地面で再び鳩達に還る。
「………」
 薄汚い野鳩達。
 よく見るとそんな鳩の中にも羽根の色が白っぽかったりする鳩もいる。
 ちょっとだけ、群からはぐれている鳩もいる。
 ひねくれた、鳩。
 流されないでいる、鳩。


 …浩之みたいだ……。


 僕はまた、笑う。
 口の両端が痛いが気にしない。
「………」
 その時、ふと再び視界が曇った。
 今度は鳩は飛んでいない。
 灰色ではなくて、虹色の幕が僕の視界を覆う。


―――歪む。

 見えない。
 何も、見えない。

 熱いアスファルトの地面が冷えゆく中、僕は考える。
 見えないから、考える。
 見えないから、考えつく。

 嫌気。
 羨望。
 孤独。

 我が儘……。


 僕は、酷く寂しい。
 人と同じ事をしている自分だから、寂しい。
 取り残されたような気分になる。

 流されてしまったから。
 考えなかったから。

 僕は、僕だ。
 佐藤雅史だ。
 藤田浩之の親友の佐藤雅史だ。
 神岸あかりの親友の佐藤雅史だ。


 なのに、どうして僕はここにいるんだろう。
 何故、寂しがるんだろう。


 僕は、何もしなかったじゃないか。
 今まで。
 ここまで。


 ただ、見つめていたし。
 ただ、諦めていたし。
 何よりも、何もしなかった。
 僕は。
 僕自身は。


 それに気付かないで僕はここにいる。
 流離っていた。
 求めている事に気づき、求めているものを捜していた。


―――僕は、何をしなくちゃいけなかったんだろう。


 僕は必要とされていた。
 でも、僕は必要とされていることをどれほど考えただろう。
 ただ、受けられるものは受け、自分から取りに行かなければいけないもの……そ
れを考えないでいた。


―――僕は……何もしなかった。


『泣いちゃ……メ』

 僕の心にあかりちゃんの声が聞こえてきた。
 昔から、僕が泣くと慰めながら泣いてくれた。
 そして浩之が怒るのだ。
 泣く僕を。
 僕を泣かせたままで泣いているあかりちゃんを。
 だから、あかりちゃんは僕を諭す。
 泣いちゃ駄目だと。


 …泣いたまま、何もしない僕を。


「メ……だよ……」
 僕はティッシュを目元に擦りつけられていることに気付く。

「あ……」
 隣で遊んでいた女の子が、僕の顔を、ティッシュで拭いてくれていた。
 彼女は、いつのまにか僕の目の前に立っていた。
 僕の顔をじっと見つめながら。

「だメだよ……」
「う……ん………」
 はっきりと気がつく。
 その女の子は涙よりも、垢と埃の汚れを少しだけ拭っただけのティッシュを持った
まま、僕の顔を覗き込んでいた。
 そして呆然とした僕にそう確認すると、ニコッと微笑んでパタパタと駅の方に駆け
ていった。
 手に汚れたティッシュを持ったまま。
 まるで彼女に蹴散らされたかのように、逃げ飛ぶ鳩の群をかき分けるように。
 その姿を見ながら僕はもう一度、泣いていた。


 …帰ろう……。


 ただ、それだけを強く思った。
 ただ、それだけを。

 そう気付いたから。
 そう思えたから。


 …まだ、大丈夫……。


 そう信じることが出来たから。
 だから帰れる。
 僕はまだ、帰ることができる。


 浮浪することのない、僕の場所へと。




                            <完>