『ふたりで歩こう』
 





 穏やかな土曜日の日の午後。
 オレは明朝まで続いていた昨日の仕事を片付けていた昨晩の疲れが取りきれず、欠
伸をしながら居間へと向かった。

「あ、おはようございます、浩之さん」
 居間のソファーに座っていた彼女がオレの気配を感じたのか、振り返るとそう言っ
て挨拶を交わしてきた。礼儀正しさは変わらない。
「まぁ、もうお昼ですけどね……」
 と、言って軽く笑う。そんな所も、変わらない。
「おはよう、葵……」
 オレはそんな彼女が立ち上がる前に、近寄って軽くキスをした。
「あ……」
 思わず漏れる声。そし真っ赤に照れたように、
「もぅ……」
 と、呟く。可愛らしい、顔。


「お昼ご飯、何にします?」
「そうだな……軽いものでいいよ」
「それじゃあ、サンドイッチでいいですか?」
「ああ。頼むよ……」
 台所に行った葵の代わりにソファーに腰を下ろしたオレは、新聞を拾い上げて頁を
めくる。台所から、きっと元唄などないだろう、出鱈目っぽい調子の鼻歌と共に、レ
タスを剥く音が聞こえてきた。二人は今現在、こんな生活が続いていた。


 オレと葵……あの頃は葵ちゃんか。高校時代の半ばぐらいに、オレと葵ちゃんはい
つの間にか学校の公認の仲へと進展していた。初めは二人きりの同好会。まぁ、たま
に綾香の奴が顔を出して来たり、坂下が色々言いながらも、結構付き合ってくれたり
としていたが、二人きりで練習する日々が続いていたりしていた。だが、執念で嗅ぎ
つけてきた志保によって暴かれて以来、まぁ葵ちゃんにしてみれば、本当は隠してい
たつもりなどないのだろうが、色々追求された事によってオレははっきりとした態度
に踏み切っていた。

「オレは……ずっと葵ちゃんと一緒にいたい……」

 その思いは、葵ちゃんも同じでいてくれた。だからオレが大学に進み、葵ちゃんと
は離ればなれになっても、放課後の神社には一緒にいた。その頃になるとオレは自分
を鍛えるのではなく、完全に葵ちゃんのトレーナーになっていた。そして、エクスト
リームでの優勝。勿論、最後の相手は綾香だった。オレと一緒に登り詰めていった葵
ちゃん。そして高校を卒業して、スポーツ推薦を蹴ってまでオレのいる大学へと来て
くれた。それから、数年……オレは卒業して就職を果たし、葵ちゃんも4年生になっ
た時、オレは決断した。「結婚」である。
 葵はオレのプロポーズに応えてくれた。そして、今、彼女はお腹の中にオレの子供
を宿している。彼女は格闘技よりも、オレを選んでくれたのだ。


 遅めの朝食と言うより立派な昼食後、オレは葵の横に座って彼女のお腹を軽く手で
撫でていた。
「しかしもう……立派なお母さんって感じだな」
「え、そ、そうですか……」
 と、照れたように赤くなる葵。それほどでもないが、そう思ってみるせいか、やや
膨らみが増したように思える。
「綾香さんも言ってました。「昔は色々な貴女を想像してみたけれど、今、何かこう
して見ると専業主婦以外にないって感じだ」って……」
「何だよ、その想像してみたってのは……」
「え……その……大したこと、ないです……」
 どうやら、具体的な事を聞かされているらしい。顔を赤くしたまま、下を向いてし
まう。どうせ、綾香の事だ。女格闘家だけじゃあ飽きたらず、映画にでも出てきそう
なアクションたっぷりの女諜報部員とか、色々言ったんだろう。そしてそれに葵は大
いに照れたに違いない。そんな所だって、全然変わらない。
「人生なんて……分からないものだしな……」
「そうですね……全然、分からないですよね……」
 やや少年的だった身体も、月日と共に成長して紛れもなく女性のそれだったし、あ
の頃は特徴的だったショートカットも、今では伸びた髪をリボンで後ろにゆったりと
結んでいた。


 …駆け足で、生きてきた訳だよなぁ……実際。


 勢いだけできていないだろうか。
 たまに不安になる。
 葵はたまに自分を殺してまで、人を尊重する事がある。
 無理させていないだろうか。


 全ての人間が己の人生に不満や後悔を抱かない事はないだろう。


 だけど……

 このどうしようもない不安は、それこそ、どうしようもない。


「浩之さん……私……浩之さんと一緒になれて嬉しいです……」
「おいおい……何だよいきなり……」
 心の中の動きを読んだように、葵はオレの顔を見てそう言ってきたので、動揺して
しまう。
「だって……夢だったんです。こうして誰かと一生の殆どの時間を共有して生きてい
く事が……こうして抱かれて生きていく事が……」
 と、言って彼女はオレに身体を預けてくる。勿論、オレは手を回してその身体を抱
き寄せる。彼女の頭がオレの胸に乗る。自然に、もう一方の手で髪を撫でていた。
 ごく、自然に……。


「大好きです……先輩」


 彼女は、あの頃と変わっていない。
 年を取ろうとも。
 月日が経とうとも。
 成長しようとも。
 大人になろうとも。
 外見が変わっても。
 妊娠した、今でも……。

 彼女の心は変わっていない。


「オレもさ、葵ちゃん……」
 髪を撫でていた手が、滑るようにして彼女の手へと重ねられる。触れ合う指と指、
二つの指輪が重なり合って、鈍い光を感じさせる。


 二人の身体が寄り添うようにして、止まる。
 オレには葵がいて、
 葵にはオレがいる。

 もうすぐ、このふたりっきりの時間は失われる。
「家族」が増えるのだ。
 だけど、オレは怖がらない。
 恐れない。
 お互いの気持ち、分かり合えたから。
 互いのことを信じ合えるから。


「やっぱり……浩之さんで……良かった……」
 もう一度、彼女はそう言った。


 初めは単なる興味から立ち止まった。
 元気の良さだけに気がいった。
 可愛い、そう感じた。
 護ってあげたいと、いつもそばにいてあげたいと思った。


 …いつも一緒にいて欲しいのは……オレだよ……。


 頼られたかった。
 側にいて欲しかった。


 …愛おしい……。


 そんな気分になったのは、いつの頃からだったのだろう。
 でも、それはもう、どうでも良いことだ。

 葵は今、オレの胸の上にいる。全てを預け、安心しきった微笑みを浮かべている。
 それが、オレの幸せ。
 今の、幸せ。


「ずっと……一緒だよ……」

 オレの手を握る、葵の手に力が入った。オレの言葉に応えるように。


 …ずっとずっと……ふたりで……そう、ふたりで……。


 新たにオレ達の輪に加わる「命」を二人で、迎えよう。
 そして、めいっぱい教えてあげるんだ。
 オレの、気持ち。
 葵の、気持ち。
 二人の……今までを、そして、これからを……。


 …歩き続けような、ふたりで。そして、さんにんで……。




                         <完>