天使が消えない


 ちょっとばかり疲れた。
 何かをやって疲れたとか、何かがあって疲れたとかではない。
 ただ、気がついたら疲れていた。
 強いて原因を挙げるのであれば、この十数年生き続けたことに対して疲れを覚えていた。
 木田時紀としてこの世に生を受けて以降、自分という存在を持ち続けていることに疲れを感じていた。
 何もかも億劫で、面倒で、退屈で、厄介で、無為そのものだった。
 苛立ちを覚えている間はまだ良かった。
 現在に不満を感じているというのは、現在にまだ未練と希望を持っていたということだろうから。
 でも今はせいぜい諦めぐらいしか残っていない。
 そんな状態だから、疲れたと思ったのだ。
 その言い方が正しいのか、考え方が合っているのか、そんなことはどうでもいい。
 もう、全てに、飽きていたのだ。
 自分自身に。

 俺がどんな抵抗をしようともこの世というのは存在し、支配下にある俺を時の枠組みへと組み入れていく。
 人間で、十代で、日本国民で、と社会というものが親会社となって、常識という法律を楯に、俺をこの世界の一部に括りつける。
 幾らかは反抗はできるだろうが、笑われる程度の些細なことしかできないし、反抗しても反抗した者への役割という形でまた縛りつけられるので、逃れることなどできやしない。
 そんなことが判らないほど馬鹿ではないし、それに対して何かをしようと考えるほど意欲に満ちた人間ではない。
 適当にお茶を濁し、適当に悪口を言い、適当に時間を過ごす、しかない。
 現実という偉いものから少しでも目を背け、極力考えないことで為されるささやかな逃避。
 この僅かな恩恵を得て、多大な時間を費やすことで、自分を保つ。
 そんな人間は大概において、駄目人間と蔑まれる。
 勿論、支配されるがままに生きるだけではなく、要領よく自分の楽しめることを見つけたり、楽しむフリで自分を誤魔化したりする、人生を楽しむと呼ばれる人間の生き方も世間的には賞賛されるのだろうが、どちらにしろ世界に妥協した生き方でしかない。
 時に支配された人間という概念そのものを捨て去るだけのものがない。
 勿論、そんなことは可能ではないということは理解しているので、諦めるしかないのだが。

 そんな人間という存在の中で、俺は極めて馬鹿な位置にいる。
 何もしたくないのだ。
 怠惰に過ごしたいという意欲すらない。
 本当に何もしたくないのだ。
 朝起きなくて済むのなら起きずにいたい。
 眠らずに済むのなら寝ずにいたい。
 食べなくていいのなら食べたくない。
 動かないでいいのなら動きたくない。
 見なくていいのなら見たくない。
 聞かなくていいのなら聞きたくない。
 幾らでも挙げられるが、結局のところは存在しなくていいのなら存在していたくないというところだろうか。
 死にたいとかというのともちょっと違う気がする。
 別に死んでしまいたいと思ったことは無いから。
 どうでもいいのだ。俺の生も俺の死も。
 何もしたくない。
 だから、生きていたくないと言えばその意味に少しは近づける気もした。

 そこまで思うようになったのは最近の気がする。
 きっかけは覚えていないのだ。
 それまでは、この世に退屈したり、人生にケチをつけたりしながらも、生きてはいた筈だった。
 それがいつの間にこうなったのかがわからない。
 しかも考えるのも億劫だから考えていない。
 どうでもいいじゃないか。
 今、俺がこう思うことに対して俺が納得しているのだから。
 そんな公式見解で、俺は仕方なくこの世に存在を続けていた。

 俺はまだ学生をやっていて、学校に通うことを続けていた。
 授業を受ける確率は半々よりは少々分が悪いぐらいのところで、殆どの授業時間を屋上と路上で費やしていた。
 時間を使うことも億劫で、流れるのをただ待つだけだったから教室で自分の椅子に座っていたって構わないのだが、あそこは屋上や路上と違って他人から干渉される可能性が高い。
 何もしたくないし俺は何もされたくない。
 だからこそ、人のいない場所へいない場所へと選んでそこでのみ存在することにしていた。
 そんなわけで学校自体にも行きたくないのだが、行かないでいると別の何か存在する為の状況を作らないといけなくなる事態が発生するだろうから、それが面倒で辛うじての学生というのを続けている。
 働きたくなんかないし、家に引き篭もっているのも煩わしくなくことになるに決まっているからこその妥協だった。
 学校がそんな理由があるからこそ仕方なく通っているのと同じ理由で、幾つか俺は何かしない為に何かをすることが多い。矛盾しているが、しないで済む方が、仕方なくする方に比べて断然面倒だったり厄介だったりする以上、仕方がなかった。
 そんな生き方を暫く続けてきて、漸く至ったものが「疲れた」だった。
 全てに、疲れた。
 勿論、投げ出せないことなどわかっている。
 だからこそ、疲れが溜まっていっているのだ。
 そんなことを理解するのに、これだけの年月を生き続けたのかと思うと、多少呆れてしまった。何て間抜けな話だと思わざるを得ない。俺がそう思う以上に、きっと世の人間は思うのだろう。
 まあ、他人はどうでもいい。
 問題は、この疲れをどうするかということだった。

「お兄ぃ……」
「ん……おはよう」
「う、うん……おはよ」
 毎日の日課のように俺に対してキャンキャン騒いでいた恵美梨が、腫れ物に触るようになっていったのは、俺が疲れという存在に向き合っていた最中のことだった。
「今日も弁当は用意できるが、どうする?」
「いい……学食で食べるから」
「そうか」
「うん……」
 居心地悪そうに答える恵美梨。
 起きて身支度をして降りてくると、椅子に座って俯き加減でずっと黙り込む。
 まるで覚めることの無い悪夢にどっぷりと浸ってしまって抜け出すことを諦めたかのような元気の無さだった。
「今日は起きるのが少し遅くなったから、昨晩の残り物中心でいいか?」
「うん……」
 冷凍しておいたご飯を解凍してそれぞれの御飯茶碗に盛ると、豆腐となめこの味噌汁に目玉焼き、秋刀魚の塩焼き、大根とタコの煮物にポテトサラダなどをテーブルに並べる。
 梅干とピーマンだけでなく、食わず嫌いが多い恵美梨には他の食べ物で栄養分をまかなう様に考えるのが一流の料理人なのだろうが、流石にそこまでは気が回らないので、嫌がるものを退けるぐらいでしかない。
「じゃあさっさと食べるか」
「……いただきます」
 向かい合ったテーブルで黙々と咀嚼するだけの二人。俺も必要以上に喋りかけることもないし、恵美梨の方は少し怯えるぐらいになってきていて、今ではこれが普通の状態になっている。
「……あのさ、兄ぃ」
「ん?」
「本当に、無理してない?」
「気にするな。そうしたいから、しているだけだ」
 嘘だけどな。
「……」
 何度も聞かれた質問だ。
 いきなり本を片手に料理を始め、朝晩の食事を作るようになった俺に初めは仰天しながら尋ね、何かを企んでいるのではないかと躍起になって、今では掃除洗濯と雑用をほぼこなすようになっている俺に対しては、得体の知れないものに対する恐怖を持っているようだった。
 勿論、俺は突然勤労意欲に目覚めたわけではない。
 頼まれもしなければ、特になることも何ひとつないこれらのことをやるのは、面倒でしかない。
 退屈に押し潰されそうな自分を忘れたいとか、押し寄せる疲れを紛らわそうとか、そんないい加減な理由が一番近い。
 実際のところ、何もしないようにしないように生きてきて疲れたのであれば、逆にできそうなことを色々としてみたらどうだろうという逆転の発想みたいなものを思いついて実行してみているだけだった。
 本気でそう信じてやっているのなら殊勝な話かも知れないが、所詮はただの思いつきの延長だ。いつ終わるかしれないし、終わることは間違いない試みだった。
 ただそれでも、お手並み拝見と高を括っていた恵美梨が、不安げな表情を浮かべるぐらいにはマメに徹底していたし、続いていた。
 一人暮らしをしていると思えば、それほど大層なことをしているわけではない。
 だから恵美梨がどう思おうとも、全然凄いことでもなんでもない。
 せいぜい、今までの俺からすれば考えられないというだけの話だ。
 それが恵美梨にとっては大事なのかもしれないが、そこまで思いやるだけの甲斐性は持ち合わせていない。無愛想にならないぐらいに応対するぐらいの改善が限界のところだろう。それ以上馴れ馴れしくするということは考えてもいないし、できそうにもない。

 逃げるように出て行った恵美梨の分と自分の分の食器を水に浸けると、俺も軽く身支度を整えて学校に向った。
 真面目に勉強をするということはなかったが、屋上でタバコで時間を潰すという機会もなくなった。真帆ちゃん経由で恵美梨から家での変貌振りと合わせて知っている功ぐらいは驚いていたり茶々を入れていたりもしてきているが、大多数の他人は別に気にした素振りも無く、最初からそうだったかのように対してきた。
 そうして過ごしてきた中で気づいたのは、結局殆ど何も変わらないということだった。無関心でいられる存在には変わらず無関心でいられたし、関わりあう存在に対しても恵美梨に至っては会話がずっと減ったぐらいで、助かるぐらいだ。言い争っていた頃の鬱陶しいと感じていた自分を思うと、馬鹿らしい。逃げるから追われるというのと一緒で、下手に関わりを曖昧にしようとするから突っかかられるのだ。普通に過ごせば、最低限で済む。勿論、俺のほうから無駄を増やさなければの話だが。功の軽口も以前よりスムーズにあしらえた。そこそこ向き合うだけで、それ以上は踏み込んでこない。下手に一歩も踏み込まれるのを拒絶するからこそ、相手も余計に強く足を踏み出そうとするのだ。一事が万事なのか、橘も会うたびに嫌味の数が減っている。互いに無関心でいられるので関係は良好と言えよう。ついでに言えば榊もそうで、下手にからかわずにさっさと謝ってさっさと改善すると何も言わなくなる。向こうはそれでどう思っているのかは知らないが、うざったい時間も回数も減るのだから、万々歳だ。
 それでも、結局は何も変わらない。
 タバコ片手に空を見上げる時間の代わりに、夕飯の材料を始めとした買い物リストを練り上げる時間が入り、部屋でぼんやりしている時間の代わりに、家事に精を出す時間が入る程度だ。心身共に疲れるが、時間が潰れるという意味合いで言えば同じことだし、それが俺にとっての全てなのだから全く変わりが無い。
 他人からどう思われ、どう見られているかというのはあるかも知れないが、それは俺自身のものではない。興味はなかった。
 俺は俺の為に存在しているのだから。
 別に家事手伝いなどせず、勉強の真似事などせずとも良かった。
 路上で刃物を振り回し、ゲーセンに入り浸っていても良かった。
 それらは全く同じことだから。
 ただそうしなかったのは、その方がより面倒にならず、より楽になれるのではないかという浅はかな考えでしかなかったのだ。
 そして、何をどうやっても変わらないと気づき始めた時、より一層の疲れが身体に溜まってきていた。

 生きているということだけで、疲れるのだ。

 そんな漠然としたことでさえも、今となっては金科玉条な格言に思えてしまうから始末に終えない。
 つまるところ、俺は人よりも大分馬鹿で、そんな当たり前のことでさえもこうして実感しないとわからないということだった。
 不真面目と言われそうなことと、真面目と言われそうなことのどちらにどう偏ろうとも、俺は俺でしかない。結局は疲れたと感じる俺は変わらない。
 何もかにもが馬鹿らしい。
 それでも以前の日々に戻らなかったのは、退屈を紛らわすことの方が今の状態を続けることよりもより厄介で面倒だと感じたからに過ぎない。そして他人からの干渉も少ないという現在の境遇にも多少の魅力はあった。
 こうして、少しでも疲れるものが減るようにと楽な方に傾く努力だけはしているのだった。
 何とか生きていくだけの自分に対して、何の魅力を感じない。
 それでも、死ぬということに対しての羨望もさしてない。
 どっちでもいいから生きているだけ。
 死ぬことの方が生きていることよりも楽だとわかったら、死ぬことにしよう。
 それに死ぬことはいつでもできる。
 一方、死ぬ方が厄介だったからじゃあ生きるかというわけにもいくまい。
 それに痛いのはマゾではないので、好きではない。
 死ぬ時にどれほどの痛みや苦しさを伴うのかは判らないのだけれども、安易に選ばないだけの理由の一つぐらいにはなる。
 自分様というものに向き合うようになって以降、少しは正直になれたと思う。
 安易に物事を他人や社会のせいにしないだけの、悲劇の主人公ぶるまでにはいかないまでの、甘ったれが甘ったれであると自覚できる程度の判断力はある、と思う。
 だからこそ他人がどうでもいい。
 以前の俺はずっと他人に依存してきた。仕方がないだのなんだのと最後の逃げ道を自分以外のものに向けて、安寧を図っていた。
 自分は屑以下の存在で、それが大袈裟な自己卑下だったり傲慢さの裏返しだったりしないだけの自意識を持てるように、それだけは何とかしようと思った。
 自分の問題は、自分で片をつけるべきだった。
 それさえ判っていれば、死ぬのもメンドくさいと思えることはなくなるだろう。
 死ぬ時は、普通に死ぬ時だった。当然の選択として。
 人生は完結していても、死体であっても、誰かのお荷物になっている以上は、この世では他人様以下な屑でしかない。


 校門が見え、学校に辿りついたことに気づく。
 この学校に行くまでの道、通学路を覚えていて覚えていない。
 数え切れないほど通い続けていて、何処に何があるのか知り尽くしているようで、実は何も覚えてない。道の一部分が突如変わった時にその変化に気づけても、電柱の上に何が増えようとも、家のレンガ塀から出ている樹木が違うものになっていても、常に見続けている視野の外にあるものの変化には気づかない。何度その道を通ろうとも不必要な情報は一度も頭には入ってこない。
 この世界の他人にとって俺の存在とはそういうものだ。
 卑下でもなんでもない。
 俺がどう変わろうとも、それらの人間に影響を及ぼすことは滅多に無い。
「あ、あの……木田くん、おはよう」
「ん」
 滅多のひとつ、栗原透子が教室に入ってきた俺に気づくと席を立ち、わざわざやってきて朝の挨拶をしてきた。
 無視すると挨拶のやり直しが続くし、普通に接すれば更に余計な会話が続く可能性もあるので、目で見て微かに反応するだけに留める。
 そのぞんざいな態度に普通の人間なら気を悪くするだろうに、この女は嬉しそうな顔をして自分の席に戻った。毎日毎日わざわざ律儀なヤツだ。
 この頭の足りなさそうな――もとい足りない女こそ、不愉快だが全てのきっかけだった。このバカを見ていて、自分の馬鹿に気付いたという点ではきっかけと言っても間違いはないだろう。
 言葉で説明するにはそれこそあまりに馬鹿馬鹿しいぐらいに間抜けなきっかけで、俺は自分の苛立ちを全て曝け出して、この女にぶつけた。それがわからずに苛々だけが募って更に当り散らして、その自分の醜態に腹が立ってと、散々繰り返した。

 自分が周りから笑われるバカだと知っていて、それから少しでも逃れようとした結果、俺という逃げ場所を見つけてしまったコイツと、俺という人間に期待を持って接するというコイツに怖気が走り、こんなヤツに舐められたくないという意地と、自分の中の鬱屈したものを晴らせるならばと関わってしまった俺。
 後戻りしたくないと貪欲に先へ先へと掻き進もうとするアイツに、何もしないことで苛立ちに包まれた俺の退屈の世界は掻き乱された。自分を騙そうとして騙しきれなかった、悟ったつもりの俺のあさはかさをこのバカは、俺の世界への苛立ちや自分へのムカツキなど全てを自分に徹底的に向けさせることで、暴き立てたのだ。
 無論、意図があってやったわけではないだろう。そしてコイツが望んだこともそんなことではなかったのだろう。
 お互い、あのままではどうしようもないぐらいな状態だっただけのことだ。
 諦めるしかないのに諦めきれない未練が残った空気が、アイツを自棄にさせ、俺をムキにさせた。
 一度きりの過ち――そんな言葉は適切ではないが、結果的に俺があのバカ女とセックスをしたのはあの時限りだ。
 それからは暫く、俺は混乱と迷走を重ねていた。
 初めて知ったセックスで得た快感への余韻と、その相手という栗原透子の存在だけが、俺の頭から離れなかった。
 向こうも意識していたお陰で、自分は悪くないという自己弁護に走ったり、殺意と性欲がそれぞれ更なる欲求として膨らんだりしながら、振り回され続けた。
 そんな状態で辿りついた回答が、考えることの馬鹿らしさだった。
 全て深く考えることを放棄して得たものが、仮初の安寧の地である退屈な気持ちだったのだと気づいたのだから、思い悩むことで消えてしまうのは当然なのだ。
 退屈と思えてきたことが、自分で退屈にしようとしてしていただけということに気づければ、何も問題は無かった。
 それ以降こっちから彼女に声を掛けたことは無い。
 自分の持っていた世界を更に磨き上げることに終始した。
 漠然とやっていた頃とは違い、ある程度自分がわかっての行動だったので、退屈を退屈とできるだけの、最低限思い込むというだけの努力もあって掻き乱されることはなくなった。
 それなのに、このバカは未だに何か期待するように未だに俺に接触を求めてくる。
 犯すぞと言えば喜んで尻を振るだろう。
 恥ずかしいだのなんだのという感情を持ちながらも、自分が求められる、何か人の為にできるという、自分という存在が他人から認められ、許さるという状況に喜びを覚える。そこまで不遇な人生を送ってきたのが栗原透子という女だ。
 だが、だからこそ馬鹿な女なのだが。
 別に必死になってまで他人から求められようとする必要がどこにあるんだ。
 そんな馬鹿を横目に、俺は退屈を覚えることに対してまで疲れを感じていた。
 そして漸く、俺は全てに対して疲れという感情を持っていることに気づいたのだった。だからこそ、きっかけと言える。この女に掻き乱されなければ気づかなかっただろうから。

 何事も無く午前中の授業、昼休み、午後の授業と時間割通りの進行をこなし、バイト先で言われるがまま仕事をこなし、商店街で考えておいたままの買い物をして帰宅する。
 恵美梨は先に帰っていたようだが、部屋にいるらしい。特に俺を出迎えてくることも無い。そのまま部屋で簡単に着替えると夕飯の支度を始める。「超ブキミ」と言いながらアイツが様子を窺うこともないので、誰に干渉されることも無く時間を費やすことが出来る。俺にしてみれば部屋で引き篭もるのと何ら変わりがない。頭と腕を使うか、愚痴を聞かされるかの二択で前者を選んだだけだ。少なくても自分自身は自分の不快さをかき立てない。
 時間を貴重だと思ったことはない。
 今というこの瞬間を大事にしたことはない。
 タバコを吸うことで潰すように、フライパンを振って時間を過ごす。
 作るという充実感はそこにはない。
 だから出来たものが本当に美味しいのかどうかはよくわからない。
 不味くなければいい。不味ければ文句が出る。面倒なコミュニケーションのきっかけにしてしまう。
 昔のように向こうの言葉に食ってかかったり、大仰に聞き流す素振りをして挑発することはないが、それでも厄介事は御免だった。そうなりたくないが故の選択の結果なのだから当然なのだけれども。

 疲れを紛らわせる生活を選ぶことで、俺は本当の人付き合いの仕方を知ることができた。
 恵美梨との関係もそうだ。
 いつしか暴力を振るうことがなくなったように、諍いを持つことがなくなった。
 自分のことは自分で、二人のこともできるだけ自分でやる。向こうからやりたがったことは全て譲り、ぶつかる部分をなくしていった。こちらからは話しかけない代わりにアイツの話は適当に聞き流すことに終始した。どうでもいいという態度をあからさまにして反感を得るのではなく、向こうから俺にとって自分の事などどうでもいいのだと気づかせることのほうが上手くいった。
 顔を見て話を聞きながら、顔を記憶しない。
 たとえ恵美梨の顔ではなく、へのへのもへじやのっぺらぼうがそこに立っていようとも気づかないだろう。視覚していないから。相手の顔という認識を最低限持つだけだった。
 その甲斐あってコイツの好物であるハンバーグが献立であっても、特にはしゃぐでもなく静々と席に着き、黙々と食べ、早々と席を立つ。最初に出した時は、ケチをつけていた気がしたが、どういう理由だったかは覚えていない。もう言わなくなったということはその問題点は片付いたのだろう。結構なことだ。まだ数少ないレパートリーの中から一つ献立を減らさなくて済むのは助かる話だ。
 洗い物をして、少し居間でそのまま寛いで、自分の部屋に戻る。
 勉強でもすべきなのだろうが、授業中とテスト直前以外で教科書を開きたくは無いので、そのままベッドの上で寝転がる。天井の汚れを眺めながら全身の力を抜いた。
 入れ替わるように階下の方からTVの音が聞こえてくる。入れ替わりに恵美梨が居間に降りたのだろう。毎週この時間はドラマを見ているらしい。
 こうして俺は家の中では恙無く、上手くいっていた。

 同じ行動の繰り返し。
 僅かに土曜日と日曜日が違うだけで、朝の義務をこなし、学生の義務をこなす。
 栗原も、無理には近寄ってこない。
 相変わらず功と馬鹿話をしたものの、特に厄介な気分になることはない。
 自分で弁当を作っていることに関して最初は散々笑われ、今でも時折からかいの種にはするが、俺が乗ってこないので話としてそれほど発展しない。一度、真帆ちゃんに大層感心されたことを僻んでいるのかもしれないが、知ったことではない。
 バイト先の維納夜曲でもそれは変わらない。おやっさんには覇気が無いだの、明日菜さんにはつまんないだのとそれぞれ事ある毎に好き勝手言われるので、仕事で忙しい方が助かる程度だ。もう一人、バイト仲間に須磨寺がいるがこれはどんな奴かは良く知らない。けれども、こちらからも向こうからも必要以上に関わらない一番理想的な関係を彼女とは築けていた。最初に言い出した明日菜さんの評によれば俺と彼女は相当に似ているらしい。
 何にせよ時間を費やすことが出来るという点では、元々は渋々始めたに近かったこのバイトはもっと職場の人間関係がどうこうあるものでない以上、嫌じゃなかった。
「……」
 さっきから二度ほど店の前を通り過ぎていたように見えた制服が、入店してきた。
 入り口に一番近い俺が、マニュアル通りの応対をする。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「……お兄ぃに会いに来たんじゃないからね。先輩がいるって聞いて」
 須磨寺に会うのに俺が邪魔だったので躊躇していたのだろう。それだったら学校の中ででも会えばいいのにとも思ったが、関係のないことなのでそれ以上は考えなかった。
「かしこまりました」
「え?」
 何にせよコイツの目的は須磨寺だ。彼女も別段忙しいわけではないので、後ろを向いて須磨寺を呼ぶ。
「須磨寺」
「はい? あ、恵美梨ちゃん……」
 俺に呼ばれて来た須磨寺が恵美梨に気づいて声を掛けてくる。
「先輩」
「こちらのお客様の案内を」
「……お兄ぃ?」
 以前、恵美梨に言われていたことを思い出し、務めて他人顔でその場を離れた。
「え?」
「う、ううん。いえ、何でもないんです」
「そう? じゃあ席に案内するわね」
 恵美梨と須磨寺の声を背に、店の奥へと引っ込むことにした。
 忙しくないし、奥でおやっさんの手伝いでもあればしにいこうと決めたからだ。
 のんびりしていると先ほどから手招きしている明日菜さんに捕まるし、恵美梨も須磨寺に用があるのなら俺がいない方が気が楽だろう。
「彼女、キミの妹さん?」
 結局、そう都合よくはおやっさんから仕事もなく、須磨寺と話をしていたらしく暇になった明日菜さんに捕捉される。
「何でです?」
「だってお兄ぃって呼んでたじゃない」
「そうでしたか」
 明日菜さんの位置まで聞こえる声とも思わなかったのだが、元から知っている筈は無いので嘘ではないのだろう。
 恵美梨が須磨寺の知り合いだと知ったのはいつだったか忘れてしまった。
 恵美梨の方から聞いた気もするし、須磨寺から木田の姓で尋ねられたのがきっかけだったかもしれない。
 元から人間に関心がない須磨寺だから、俺たちに対してそうであるように恵美梨にも関心はないだろう。部活が一緒なわけでもない恵美梨がどうして須磨寺と知り合ったのかも聞いた気がしたが覚えていない。まあ、俺に厄介なことがないのならそれで良かった。
「でもそれにしてはさっきは随分とあんまりな態度だったんじゃないの」
「公私のけじめをつけた方がいいと思いましたので」
 無論、嘘だ。
「ふうん。でもあの子、寂しそうにこっち見てるわよ」
「そうですか?」
 明日菜さんの罠だと思ったので振り向かなかった。内容までは聞き取れないが、恵美梨と須磨寺の声が聞こえる以上、そんな見え透いた手には引っ掛からない。
「……もう」
「あはは」
 作り笑いが上手くなったのは接客業のお陰かも知れない。これは大層便利なので、助かっている。明日菜さんには通用しないが。
「キミ、少し斜に構え過ぎじゃない。それじゃあ誰の気持ちも伝わらないわよ」
「そうですね……」
 そのままだと開き直っているように見られると思い、下を向いて答えた。
 後は勝手に向こうが解釈してくれる。
 気持ちが伝わる?
 だとしたら、それは厄介なことだ。
 俺の望むものではない。
 疲れを、少しでも和らげたいだけの俺にとっては不要なことだった。

 そのまま明日菜さんと他愛無い話をしていた頃には須磨寺が加わった。
 どうやら恵美梨は帰ったらしい。
 須磨寺は俺と恵美梨が兄妹ということは知っているが、俺に対して特に何も言ってこなかった。
 いつも通り明日菜さんが話題を振って、それぞれ相槌を打ったり、軽く切り替えしたりするだけの時間。
 明日菜さんの話を聞くことは苦痛ではない。特に好きでもなかったが。

 時間通りにバイトが終わる。
 バイトの日は今まで通り恵美梨が夕飯の支度をする。
 昨日ハンバーグだったのは失敗だったかも知れないと帰りながら気づいた。
 実に、今更だった。
 だが、帰ってみると夕飯の支度はできていなかった。
 それどころか、家の中の電気もついていない状態で、恵美梨がまだ帰っていないのではないかと思ったが、靴はあった。
 二階に上がる前に居間を覗くと、そこに恵美梨がいた。
 ソファーに寝ているようにも思えたが、俺が入ってくるとすっと立ち上がって俺の方にやってきた。
「夕飯は俺が作るのか?」
「お兄ぃ」
 俺の言葉は聞こえていないようだった。
 薄暗がりの中、恵美梨の身体は緊張しているように見えた。
 制服姿のままで、まだ着替えてもいないようだった。
 その割には、帰ってきたばかりという感じでもない。
「ん?」
「あたし、お兄ぃの気に障ることした?」
「してないと思うが……なんでだ?」
「じゃあ、今日はなんで……っ!」
「今日?」
 朝はいつも通りだったし、学校では会っていない。だとすると思い当たるのは夕方の維納夜曲での事ぐらいしかない。
「どうしてアタシのこと他人みたいに扱ったのよ!」
「へ? ……ああ。だってオマエ、俺の身内って思われたくないって」
「っ!」
 一瞬だけ驚いたような表情をしたが、
「ア……アホアホお兄ぃのクソバカっ!」
 そう怒鳴って、恵美梨は足音荒く俺の横を通り抜けてそのまま二階の自分の部屋に引っ込んでいった。
「変な奴」
 何か臨機応変に対応して欲しかったのかも知れないが、それを俺に望むのは間違っている。
 どうやら流れとして夕飯は要らないと言うことになるだろうから、俺は冷凍庫からご飯を取り出して余りものと混ぜてチャーハンを作ることにした。
 その前にと自分の部屋に戻って着替えるが、恵美梨の部屋からは病気の犬が呻いているようなくぐもった声が聞こえてくる。別に泣くほどの事をしたとは思わないが、もしかしたらしていたのかも知れない。長引くのであればと思うとため息が出る。全く、他人というのは厄介だった。
 夜中に腹が減って冷蔵庫を漁る可能性を考えて、一食分余計に作ってラップに包んで保存しておく。食べなければ明日の朝飯にすればいい。
「そう言えば……」
 野菜や漬物を刻みながら、ふと思い出す。
 あんな風に怒鳴られたのも久々な気がした。


「二人とも、心がないのよ」
 そう明日菜さんは言う。
 俺と須磨寺に足りないものらしい。
「いいこと、ここはこの皆のお姉さんであるアタシが――」
 明日菜さんの独壇場に須磨寺が苦笑で応対する様を眺めながら、俺は少しも減ることの無い自分の疲れについて考えていた。
 今の日々を選択しているのは、どう過ごしても変わらないからだ。
 出来るだけ楽で、マシな過ごし方を求めているだけだ。
 疲れそのものをどうすることもできない。
 それは生きている限り、ずっと続いていくのだろう。
 一つづつ重なっていくのだろう。
 生きていくことに疲れたのではなく、存在し続けることに疲れるということ。
 俺を維持することに、疲れを覚えるということ。
 だからこそ絶望的だ。
 どうしようもないのだから。
 人間だからなのだろうか。
 この時代だからなのだろうか。
 木田時紀だからなのだろうか。
 わからないし、どうだっていい。
 原因がわかったところで解決策が見当たらなければ意味が無い。
「時紀クン!」
「はい」
 明日菜さんに呼ばれ、意識を戻した。
「ほらほら〜、ぼんやりしてないで、働く働く!」
 久しぶりに聞き流すのではなく、話を聞いていなかった。
 思考を目の前の現象にピントを合わせると、明日菜さんの背後に肩を怒らせたおやっさんが太い腕を組んで立っている。一席ぶっていたら見つかって叱られかけたというところだろう。いつの間にか須磨寺も空いたテーブルを布巾で拭いていた。俺も他にすることが思いつかなかったので、彼女に倣って他のテーブルを拭いて回る。
「木田くん」
「ん?」
 暇つぶしに念入りに拭いていると、須磨寺が声を掛けてきた。
 客でも来たのかとも思ったが、店内には他には誰もいない。明日菜さんとおやっさんの姿も無いのは奥に引っ込んだのだろう。
 だが、二人きりでも須磨寺が声を掛けてきたことは珍しかった。
「もしかして、困ってる?」
「……え?」
「わたしの勘違いかも知れないけど、困っているように見えたから」
 困っている、か。
 確かに、困っているのかも知れない。
 だが、それは須磨寺が思っているものと同じものかどうかはわからない。
 第一、思いつきで言っているだけかも知れない。
 占い師や似非超能力者のあてずっぽうに似た引っ掛け。
 さっき明日菜さんの話を聞いていなかったことに気づいていれば、それぐらいの予想は容易にできる。
「わからないな」
 どうとともとれる返事でお茶を濁す。
 俺たちの会話は、それきりだった。
 本当は「どうしてそう思った?」という問いかけをすべきだったのかもしれない。
 けれども、聞きたくも知りたくもなかった。
 ただ、須磨寺らしくないように思えた。
 須磨寺のことなど知りもしないし、知ろうともしてないのに、何故かそう思った。


 恵美梨が俺の前に極力顔を出さない日々が続いていた。
 別に困ることではないので、その努力を無駄にしないように心がけている。
 偶然家の中で鉢合わせても素通りするだけで、声もかけなかった。
 それを向こうが願っているのであれば、そうした方がいいのだろう。
 特に俺が厄介にならないですむことであれば、問題は無かった。
 今日はバイトのない日だったので、年末に向けて忙しいらしい功にタバコを分けてもらって屋上へと向った。
 かつての『天国』へ行くのは随分と久しぶりだった。
 恵美梨の都合をあわせて時間を何処かで潰そうと考えた結果、そこぐらいしか思いつかなかったのだ。
 屋上はそれまで、俺にとって一番望んだ世界に近い場所だった。
 限りなく何もない、誰もいないただ空だけの世界。
 未来にたどり着くことのない、俺が望んだ仮初の世界がそこにあった。
 それが、子供じみた砂上の楼閣だと気づいてからは足を向けていなかった。
 栗原がこの屋上に足を踏み入れた時、自分の世界が侵害されたと思い込んだ。
 だが、それは違う。
 俺の世界はいつだって俺の傍にある。
 俺が周りを締め出すことが大事で、この場所が大事なわけではなかった。
 それだったら寒さに震えつつ、空を眺めて目の前の世界の終わりを欲し続けるよりも、あれこれと雑務に紛れて時間を潰す方が遥かにマシだと気づいたのだ。
 だから、別にここが駄目という訳でもない。
 久しぶりに足を運ぶことに躊躇いは無かった。
 ただ栗原だけはいてくれるなとは思ったのは否定しないが。

 ドアを開けた時、先客がいるのに気づいた。
 そのまま引き返そうと思ったが、それは栗原ではなかった。
 欄干のむこう。
「……須磨寺」
 須磨寺雪緒が立っていた。
「木田くん?」
 ドアの開く音か呼びかけた俺の声で気づいたのだろう、顔だけこっちに向けて須磨寺は微笑んだ。
「良かった」
「良かったのか」
 意外な顔と、意外な行動を見て驚いた筈だったが、そう答える頃には冷めていた。
「……あれ?」
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
 明日菜さんが、どうして須磨寺と俺が似ていると言ったのかわかった気がした。
 須磨寺が屋上にいたことも、須磨寺が欄干の向こうに立っていることも、それ自体では驚くことではなかったことに気づいたのだ。
 驚いたのはそれまで、会っていなかったことぐらいだ。
「先生とかだったら、叱られちゃうかも知れないって思って」
 良かったの理由らしい。
 秀才と聞いていたが、間は抜けている。
「見つかったら叱る前に落ちるなよ。後でそいつが責められるんだから、せめてそれぐらいは聞いてやるのが筋ってもんだ」
 今では功ぐらいにしか向けない軽口を叩いていた。
「木田くんも、良くここに来るの?」
 須磨寺はよいしょっと、と声を出して欄干を乗り越えてから尋ねてくる。
「久しぶりというところだ。最近は家事に励んでいたからな」
 言いながら気づいた。
 俺は実はもう死んでいるのかも知れない。
 目の前の須磨寺があのまま落ちて死んだとしても、取り乱せたかどうか自信がない。
 むしろ厄介ごとに巻き込まれて舌打ちでもしたのではないだろうか。
 もしこれが栗原だったら……そこまでで考えるのをやめた。
 やはり俺は死んでいない。
 栗原だったら取り乱しただろう。
 必要以上に罵って、馬鹿を連発しそうな自分の姿が想像できた。
 やはりまだ死んでいない。
「恵美梨ちゃんと二人暮し?」
「家庭内別居という感じではあるがな」
 最近はまさにそうだろう。
「……オマエ、須磨寺か?」
 珍しく質問の多い須磨寺に、そう問いかけてみる。
「え?」
 その質問の真意が判らなかったのだろう。ちょっと目を丸くしてから、
「そうね。ちょっと今日はわたしじゃないかも」
 あっさりと須磨寺はそう答えた。

「それじゃ、わたし、そろそろ行くから」
「ああ」
 少しだけ話してから、須磨寺の姿が扉の向こうに消える。
 それから少し経って
「……いや、須磨寺だったよ」
 自然に思ったことが口に出ていた。
 今更タバコを吸う気にもなれない。
 あれは俺じゃない。須磨寺だった。
「はは……」
 足に力が入らず、その場に座り込んでいた。
「やべー、やべー」
 脚が震えていた。
 アイツはここから落ちることに、特に強い意志を必要としないだろう。
 イカれてる。
 だが、これで安心できた。
 同時に、笑いが止まらなくなっていた。
「はは、ははははは」
 可笑しくて堪らない。
 久しぶりに、腹の底から笑っていた。
 安心が愉快に思えるのも悪くなかった。


 それからも無駄に日々を重ねていった。
 恵美梨の機嫌は直ったのかどうか良く判らない。
 いつしか有耶無耶のうちに元に戻っていた。
 それをあげつらう気もないし、意識することも無い。
 それこそ俺が望む関係だったのだから当然だった。
「……お兄ぃ」
 それでも、夕飯を食べている時に呼びかけられたのはやや意外だった。
「ん?」
「今年のクリスマスイブだけど……」
「ケーキか? それなら予約して貰ってるから心配要らないぞ」
「う、うん……そうだけど……」
「帰りが遅くなるのか? だったら……」
「そうじゃなくて、そ、そうじゃ……」
 確か先輩と一緒に過ごすとか言っていたが、その先輩は須磨寺のことなのだろう。
 最初に聞いた時は彼氏なのかとも思っていたのだが。
「お兄ぃは、家にいるよね」
「……ああ」
 少し返事が遅れた。
 実のところ、バイトしてからそのまま行こうと思っていたが、家に一度戻ってもいいと考えていた。
「アタシ、やっぱり止めたから、その……」
 言いよどむ恵美梨の言葉は要領を得ない。
「何がだ」
 言いたいことがあるらしいので合いの手を入れる。
 特に聞きたいわけでもないが、聞かないわけにもいくまい。
「出かけるの……だから、その日は」
「ああ、わかった」
 以前、恵美梨はその日は出かける予定だと言っていたことを運良く思い出した。
「あ、う……うん!」
 珍しく嬉しそうな顔で頷いた。
 両親もいないらしいし、ウチの方が良かったのだろう。
 俺としては何の問題は無い。
「台所はアタシが使うから……」
「OK。その日は近寄らないから」
「うん。ありがとう、お兄ぃ」
 須磨寺と家で二人きりで過ごせるのが嬉しいのだろう。
 この分だと須磨寺は泊まりになるのかも知れない。
 どっちにしろ俺には関係ない。
 ただ、終わった後に須磨寺がどう思うかなとは思った。


 年の瀬に迫る十二月の末。
 ケーキ屋にとってクリスマスは年に一度の大忙しの日だった。
 特注の限定ケーキは予約分のみで完売済みだが、代金と引き換えるのは今日一日だし、他のケーキも飛ぶように売れていく。
 明日菜さんも須磨寺も俺も、無駄口を叩く暇も無くおおわらわで働き通す。
 いつも通りの就業時間が、いつもの数倍の長さに感じた。
 疲れたが、気分は悪くなかった。
 身体の疲れは、心の疲れと違って明瞭だ。
 それにこれが最後だと思うと、初めて俺の中に充実したというものを実感できていた。我ながら現金な気がして、可笑しかった。
「須磨寺」
「なに?」
「もし、なんならケーキお前が持っていくか?」
「え?」
 俺の言葉に帰り支度を終えた須磨寺が不思議そうな顔をする。
 もし須磨寺がこのままケーキも持って行ってくれるなら俺は家に戻る必要が無い。
 そう思って聞いたのだが、通じなかったようだ。
「ケーキって、何のこと?」
「いや恵美梨が予約していたウチのケーキ。このまま家に行くんだろ。それとも一度自分の家に帰るのか?」
「恵美梨ちゃんと?」
 何だかちょっと変な気がした。
 まるでそんなことは知らないと思っているような反応だった。
「木田くん。わたし、恵美梨ちゃんとそんな約束はしてないけど……」
 本当にそうだった。


 須磨寺と見せかけて実は違う誰かいるのだろうか。
 真帆ちゃんという可能性もある。
 どうも功の計画は上手く行っていない風でもあったし、ありえる話だった。
 それとも、本当に男でもいるのか。
 まさかとも思ったが、自信を持って否定はできなかった。
 所詮、恵美梨は俺じゃない。
 俺の知らない部分の方が遥かに多いのだ。
 そういうことがあってもおかしくはない。
 色々考えながらも結局、片手にケーキを持って俺は一人で帰宅することにした。
 須磨寺と話している際、明日菜さんからは「それってクリスマスデートのお誘い? だったら現在フリーで寂しいお姉さんが立候補しても良いかな。それとも雪緒チャンじゃないと駄目?」とからかわれたが、明日菜さんと一緒に帰るわけには行くまい。
「一度、着替えてからにするか」
 一度汗だくになった洋服よりは着替えた方が良いかも知れない。その前にシャワーぐらい浴びる時間が有れば浴びておこうか。いや、湯冷めすると拙いか。でも今更関係ないか。つまらないことを色々考えながら、家に辿りついた。恵美梨は何か作っているらしく、外までその匂いが漂ってくる。働き通しで食事をしていないので空腹感が増す。合鍵を使ってドアを開け、居間に向う。
「あ、お兄ぃ、お帰り」
 湯気の立つ鍋を前にしていた恵美梨が嬉しげに振り返った。
「約束のケーキ、持って来たぞ」
「うん。ありがと」
 恵美梨の機嫌を見ていると、須磨寺のことは言い出す必要はなさそうだ。
 まだ来ていないだし、俺もさっさと着替えて家を出てやった方がいいだろう。
 鼻歌が聞こえそうな雰囲気の恵美梨を残して、自分の部屋に向った。
 そして手早く、服を脱ぐ。
 タオルで殆ど乾いていた汗を拭っただけで、我慢することにした。
 その一方で着替えはトランクスまで変えることにした。
 別にどうでもいいのだろうが、この辺は気分の問題だった。
 そして着替え終わってから一度部屋を見渡した。
 そこには、特に何もなかった。
 財布をズボンの尻ポケットに突っ込むと、そのまま玄関に向かう。
 靴を履きながら、どうやら恵美梨の待ち人に鉢合わせする前に出かけられそうだなと思った時、
「……あ、あ兄ぃ?」
 ひどく、狼狽したような声を背中に聞いた。
 ずっと台所に詰めているだろうと思っていたので、油断した。
「……どこ、行くの?」
 できれば気づかれる前に出たかったが、こうなると止むを得ない。
「ん。そこら辺をぶらついてくる」
 行く場所は決めていたが、わざわざ正直に言うこともないだろう。そう思って言った返事に、恵美梨の声は震えていた。


「…………何で?」


 そこで俺は今にして、自分が何か思い違いをしているのではないかと思い至った。
「何でって――
「そんなに、嫌なの?」
 俺の言葉など聞こえていないように、ポツリとそう呟く。

「アタシが嫌なの?」
 ああ、やっぱり。俺は少し勘違いしていたようだった。

「お兄ぃはアタシが嫌いなの?」
 一言一言、自分の言葉を噛み締めるように恵美梨が綴っていく。
 背中で聞く俺は振り返ることができなかった。
「いいや」
 肩を竦めて呆れたような否定の声を作る気にもなれず、事実だけを答える。
「だったら!」
 恵美梨の声に悲壮感があった。
「だったら、なんで……なんで……」
 今、言うべきだろうか。
 俺が恵美梨をどう思っているかということを。
 どう願っているのかということを。
 俺自身を語るべきなのだろうか。
 そうしなければ完全に誤解が解けることはないだろう。
 しかし、誤解を解く必要があるのか。

 俺は誰からも切り離されたかった。
 親の脛を齧りながら、国家社会の庇護を受けながら、常識という偏見に縛られながら、その全てを厭っていて、それらから逃れるだけの意欲もなかった。
 だからこそそんな自分が嫌で、自分が存在し続けることで疲労感を溜めていった。
 今までただ反発し、目に見える程度のどうでもいいところで達観したつもりになっていい気になることで保ってきた自分も、栗原という馬鹿女とのセックスによってそれがいかに滑稽で欺瞞でしかないかということを改めて突きつけられた。
 気づいても更に自分が望むものに目を向けた結果が、自分が逃避して世界から目立ってしまうおではなく、周囲に溶け込み埋没して消えていくことだった。
 誰からも個として存在認識されることのない自分。
 木田時紀というものから逃れるにはそれぐらいしか方法が無かった。
 そうして木田時紀の妹である木田恵美梨から、俺は解放されるように願った。
 だが向こうは違ったらしい。
 憎まれ口を叩く恵美梨は、両親が不在がちな家を寂しく思っている。俺に突っかかるのも、気軽に話せる唯一の肉親だからという事情があるのだろう。
 そんな俺がアイツの肉親を止めたことで、アイツは俺に話しかけるきっかけを失っていた。
 その時、俺はようやくアイツの本当の他人になることができた。
 しかし、それは恵美梨にとって望むものではない。
 わかっていた筈だが、考え付かなかった。
 それだけで自分の事だけでいっぱいいっぱいだったのだろう。
 同時に俺の興味範囲外だった。
 しかしそのことで今、厄介なことになるのであればもっと上手くやるべきではなかったのか。
 これから最後にしようと思うことへの支障になるのであれば、もう少し丁寧に取り除けるべきではなかったのか。
 微かな苦味を覚えた。
 このまま俺が家を出たら、恵美梨はどうなるのだろう。
 そのまま消えたら、恵美梨はどう思うのだろう。
 自分じゃない存在のことなど判るはずは無い。
 それなのに、躊躇いが生じた。
 くそっ。

 久々に、苛立った。

「……」
 一度、息を吸う。
 そして吐く。
 こんなとき、脳裏に浮かぶのはいつもあの眼鏡だ。
 必死でこの世をもがくあの馬鹿の姿が思い浮ぶ。
 もがいたところで報われることのない、アヒルでしかないアヒルの中の劣等種。
 アイツに何度死ねと言ったところで、死ぬことはないだろう。
「もう……死んでよ……死んじゃってよ、お兄ぃ……」
 俯いているのだろう。鼻を啜る音と、しゃくりあげる声が背中越しに聞こえる。
「お兄ぃなんかに、アタシ……もうヤダよ……」
「少し、困る」
「……え?」
 この後、俺がこのまま学校へ行ったら恵美梨はどうなるのだろう。
 多少はホッとするのかも知れない。しかし、その一言は拙い。
 俺はともかく、恵美梨にとって辛いことになりはしないだろうか。
 やはり気づかれる前に出て行くべきだった。
「オマエは何も関係ない。だからそう、気にするな」
 それだけ言って、すすり泣く恵美梨を置いてドアを開けた。
 最後まで逃げ出し通しだったなと思いながら、
「お兄ぃ!」
 俺は家を後にした。


 それは、須磨寺を見た時に決められた。
 生きていることを休む。
 世界の方は何も変わらず、終わることは無い。
 だとすればこの流れを断つには、俺の方が終わるしかない。
 きっと須磨寺はそれを知っている。
 知っている上で、いつ終わろうか考えている。
 けれども、恐らくアイツは終わらない。
 きっかけがあれば簡単に終わせるのだろうが、彼女が考えるきっかけは恐らく訪れることはない。
 彼女は踏み止まっているから。
 欄干の向こう側で空を見上げていたから。
 そこだけは、俺とアイツの違いだ。
 学校に辿りつく。
 クリスマスイブの日にこんなところに来る奴はいない。
 未練はあるのだろうが、考えているとキリが無いのでやめておいた。
 根性も度胸もなければ、素で現実を達観しきれる強さも、死に縋るだけの弱さも何ひとつもっていない。
 ならばなるべく機械的にコトを行なう方が良い。
 恵美梨のこともある。
 失敗や後悔はもう、いい。


 屋上の扉を開けると薄暗かった筈の外は、真っ暗になっていた。
 凍えるほどに寒い空気が肌に刺さるようで痛い。
 特に決めていたわけではなかったが、先日須磨寺が立っていた場所に向かう。
 立ち止まらないようにしよう。
 そこに道があるように、焦らず、遅れず、自分の歩幅で歩いていく。
 欄干に手を掛ける。
 片足つづ、乗り越えて向こう側に降りる。
 着地で少し縺れたもののあと数歩。
 軽くズボンを叩いて、歩こうとして――――足が、止まった。


「……え?」


 空は望まないので、空なんか見上げなかった。
 だから、見つけてしまった。

 栗原透子という存在を初めて知覚した場所。
 屋上から覗けるコンクリートのタイルで覆われた校庭。
 植え込みの側、人が座ることなどあまり無いベンチのすぐ前。
 そこに両膝に手をつき、息を切らせている恵美梨がいた。
 俺の後をつけたわけではないだろう。
 だとすれば下にいるわけが無い。
 遅れて追ってきたというところか。
 上を見上げない限り、屋上にいる俺には気づかないだろう。
 このままやり過ごすべきだろう。
 まさかアイツの目の前で落ちるわけにもいくまい。
 そう思って、引っ込もうとした時、
「……!」
 目があった。
 上を向く理由などない筈の恵美梨が、俺を見ていた。
「あ」
 理由はあった。
 空から白いものが舞い降りてくる。
 雪が、降っていた。
 この時期に雪が振ることなんて滅多にない。
 そんな十何年ぶりの雪が舞い降りてきて、屋上にいる俺と校庭にいる恵美梨を繋いでいった。
 下にいる恵美梨の口が動いた。
 恐らく「お兄ぃ」と言っているのだろう。単純な奴め。
「よっ」
 そう呟いて、軽く片手をあげる。
 間抜けな遭遇ゆえに、間抜けな挨拶もいいだろう。


「どうして学校に?」
「功ちんにお兄ぃのいそうな場所聞いて……」
 なるほど電話して聞いてから着たのか。恵美梨にしては冴えている。
「本当に屋上にいるとは思わなかったけど」
 俺が屋上を降りて、今は恵美梨が立っていたすぐ側のベンチに座っている。
「そう言えば……」
「何?」
「何で来たんだ?」
「なっ」
「いや口喧嘩は久々だったが、別に仲良し兄妹ってわけでもないし……」
 落ちた後に自分のせいだと思い込んで後悔とかされるのは悪いなとは思ったが、別にあの時点で何か感づかれるものがあったとは思えない。
 そう考えると不思議だった。
「お兄ぃの目、先輩に似てたから……」
「須磨寺に?」
 また、須磨寺か。
 俺もコイツもアイツにどうかしちまったとでも言うのか。
「傍にいても、全然アタシを見てないで……どっか行っちゃいそうで……」
 そう呟く恵美梨の口から白い息が見える。
「結局、一度もアタシを見てくれなかった」
 俺より後に出たくせに室内着のままだった恵美梨にコートを貸してやった。
 お陰でかない寒い。
「先輩は出会った時からそうだったし……多分、今のアタシじゃ何をやっても駄目だと思う」
 須磨寺だからな。
 でも、きっとまだ須磨寺は戻れる。
「でも、お兄ぃは……お兄ぃは最初からそうだったわけじゃない!」
 そこできっと恵美梨は俺を睨んだ。
「急に料理とか始めて、なんだろうって思ってた……もしかしたら心を入れ替えて真面目になったのかって思った……」
 そしてまた再び、自分の指先に視線を戻した。
「どういう理由にしろ、ただの気紛れに終わると思った」
 恵美梨は指先を擦り合わせ、息を吹きかけながら寒さを凌ぐ作業に戻る。
「それが続いて、お兄ぃとアタシが家にいる時、アタシは何もすることがなくなってきたとき、変だと思った。もしかしたら家を出て一人暮らしの予定でもあるのかと思った。でも違った。お兄ぃはどっか遠くに行こうとしてるんだって気がついた」
 もしオマエがそうだったとして、俺は気づけただろうか。
 どこか冷たく生気のない須磨寺の顔を思い出す。
 彼女と同じ顔を俺はしていたのだろうか。
「それには、アタシが邪魔なんだなって……」
「……」
「お父さんもお母さんも要らないように、アタシも要らないんだってお兄ぃに思われているんだって……」
 違う、そう言い掛けて言えなくなった。
 違わない。
 全く、その通りだった。
 俺は、俺すら要らなかった。
 何一つ要らなかったのだ。
「……寒いな」
 雪はもう暫く止みそうに無い。
 このままここに座っていることもないだろう。
「お兄ぃ……」
 一度空を見上げて、軽く反動をつけるようにしてから立ち上がった俺を恵美梨は不安そうに見ていた。
 馬鹿。
 そんな顔するなって。
「ああ……」
 恵美梨は今、素のままの弱さを曝け出している。
 そしてその弱さを武器にして、俺に迫ってくる。
 それは、栗原透子だ。
 不安そうに、俺の後をついていく。
 跳ね除けられて泣かされても、叩かれて追い払われても、結局は俺の側を離れないのは、子供の頃の恵美梨の癖だった。
 昔から両親が不在がちで、頼れるのは兄である俺一人しかいなかったから。
 俺は一人になりたかった。
 けれど恵美梨は誰かにいて欲しかった。
 栗原に、須磨寺にお互い出会う前から、俺たちはこんな状態だったのだ。
 栗原の前に俺は一度はその勢いに挫け、更に募ってきた時には払いのけた。
 ギブアンドテイクと称してそれまでべったりだった恵美梨を払いのけたように。
 なんだ。
 少しも変わっていないじゃないか。
 俺は。
 恵美梨は。
「お兄ぃ!」
 ベンチに座ったまま動けないでいた恵美梨を置いて、俺は一歩二歩と雪で濡れた地面を踏み歩く。
 人はいつでも一人で歩ける。
 だから人が二人で歩くのは馴れ合うからじゃない。
 支え合うからじゃない。
 それは、
 きっと、



「――帰るぞ、エミ公。腹が減った」



 差し出した手に恵美梨の手が重なった。素直なやつめ。
 立ち上がった恵美梨が何か言い、俺も何も考えずに言い返した。
 今日は何もかにも、疲れさえも忘れて、



 たまには、二人で帰ろう。



                             了