生きるものたち


「気がついた……?」
「え?」
 目が覚めた時、須磨寺の顔があった。


 その日以降、俺はこの慌しい年末を病院で過ごすことになった。
 身体中大怪我をしていて、包帯とギブスで固められた状態では病院を出ることは許されなかったからだ。
 仮に大した怪我をしていなかったとしても、すんなり退院させて貰えたとも思えない。
 それぐらいの、せいぜいそれぐらいの想像力は今の俺にも辛うじてあった。

 俺たちは、死のうと思っていた。
 何もかもが嘘になって、生きられなくなって、生きながら死ぬことでこの世界に居続けるよりも、死人は死人らしく、死んでしまった方がいい。
 その方が、ずっといい。
 そう思ったからこその選択だった。
 きっかけは須磨寺にあった。
 その原因もきっと彼女にあった。
 死んでいた彼女を通して、俺は自分が世界に対して死んでいることを知ったから。
 けれど、共に死のうと彼女に誘ったのは俺が先だった。
 消えてなくなりそうになりながらも、壊れようとしながらもまだ、そこにあり続けた須磨寺を死に誘ったのは俺の方からだった。
 彼女は俺を、俺は彼女を、互いに認識した時に気づいたから。
 世界にとって、俺たちの存在が何の意味もないということに。
 俺たちにとって、世界が何の意味もないことに。
 だから死ぬことに、いなくなることに、何の戸惑いも躊躇いもなかった。
 そうあるように、そうあるべきにしたまでのことだった。

 けれど、俺と須磨寺によるクリスマスイヴのダイブは不首尾に終わった。
 校舎の屋上から飛び降りながら、死ななかった。
 俺たちは、死ななかったのだ。

 目覚めた時、俺は生きていた。
 自分が生きていると知ったその直後に、漠然と思ったこと――死の前に全てを捨ててた筈のことを一気に思い出してしまった時、俺は一つのことが終わったのだと思った。
 死に対して思い入れがあるわけじゃない。
 特に強い願いじゃない。
 ただそうすることが一番自分にとっては自然で、そうすることが一番安らげることだっただけだった。

 そのことが、終わってしまった。
 死ねなかった。
 この世界で生きていくことを拒否した俺たちは、この世界から死ぬことを拒否された。
 俺たちが死なないことこそ、世界にとって必然だったのだ。
 死を諦めた時、生き続けていくことを思った時、頭に浮かんだ沢山のこと。
 その一つ一つに意味があると気がついてしまったから。
 目を背けて、耳を塞いでいただけだと判ってしまったから。
 俺には、何の価値もない。
 この世界にも、この世界に住む人間にとっても何の価値もない。
 けれど、俺が生き続ける意味は、幾らでもあった。
 生きないといけない。
 厄介で、大変で、面倒で、嫌になる事しかないのに。
 それでも、生きていかないといけなかった。
 死ぬことを諦めた以上、生きるしか道はなかったのだから。
 どんなにそれが無意味なことで、無価値なことでも。
 俺自身がどうだろうとも、世界がどうであっても、俺がまだ何かを思えてしまう以上は、その何かの為にでも生きることは義務なのかも知れないのだ。

 結局、俺たちは神様とやらに勝ったのか負けたのか、そんなどうでもいいことを考えながら俺は病院の生活を続けることとなった。
 病院の生活は、退屈とは程遠い、賑やかで騒がしいものだった。
 一番最初に恵美梨が来た。
 泣いた。喚いた。騒いだ。罵った。殴った。謝った。怒った。叫んだ。
 とにかく、大騒ぎだった。
 目覚めた時に須磨寺に恵美梨が泣いていたとは聞いてはいたが、ここまでとは思わなかった。長年恵美梨を見た中でも一番鬱陶しかった状態だったのに、俺はそんな恵美梨を切り離すことができなかった。須磨寺にも謝っていたのは、どうやら俺が寝ている間に何かあったらしい。二人ともその事について俺に話すことはないだろうから、きっとそれはわからないままなのだろう。そして恵美梨はその一度きりで、それ以降姿を見せることはなかった。まだあいつの中には気まずいものが残っているのだろう。別に俺がしたことはあいつとはあまり関係がなかったのに。なかったつもりなのに、胸に重いしこりのようなものが残っていた。
 俺の両親以上に、数多く病室にやってきたのは意外にも明日菜さんだった。
 初めは相当お冠だった。考えてみれば、バイトの同僚二人がこんなことをしたのだから、彼女にしてみれば他人事ではなかったのだろう。どうして自分に相談しなかったのだと怒る彼女が妙に可笑しくて、そして申し訳なかった。そういうことではないと言ったところで無駄だっただろうし、聞いてくれそうもなかったから、そのまま須磨寺共々怒られ続けた。説教をしているようで、最後には笑い話として片付ける明日菜さんがちょっと格好良かった。またバイトに来るようにと言われたのはどう解釈していいのか迷ったが、彼女の好意は素直に嬉しかった。ただ連日でこそないものの、今も結構頻繁にやってくるのは何でだろう。それも二人というよりも俺に対してばかりちょっかいをかけてくるし。須磨寺に聞いても笑うだけで答えてくれない。
 功と真帆ちゃんは何故かそれぞれ別に来て、二人で来ることがなかった。
 功は少し怒ってて、真帆ちゃんはかなり怒っていた。お前はそういうキャラじゃないだろうと軽口の一つを叩きながらも、だからセックスぐらいに留めておけと言ったのにという言葉には思わず、その結果がこれだと言いかけて慌てて止めた。隣で聞いていた須磨寺は気づいていたみたいだったが。真帆ちゃんは真剣に心配してくれて、本気で怒っていた。駄目じゃないですかと叱る彼女にはどうも逆らえそうもなかった。それでも最初だけで、すぐにこっちを気遣ってくれてばかりでありがたかった。二人とも何か問題を抱えているみたいで、それと判るぐらいに引き摺っていた。お見舞いを気晴らしにしているようでもあったが、特に立ち入らなかった。向こうも、怪我人に迷惑はかけたくないという素振りだった。恵美梨がここに来辛いという事を知ったのか、忙しい両親とあいつの代わりとばかりに頻繁に真帆ちゃんが顔を出すようになってからは功を見ていない。もしかしたら病院内で鉢合わせをしたのかもしれない。
 驚いたことに、栗原が来た。
 泣いて謝って、謝ってまた泣いた。
 全ての原因は自分にあると思い込んでいるようでもあり、そうでもないように思えた。ただ判るのは悲しそうであり、また安堵しているようでもあったことぐらいだった。丁度居合わせた明日菜さんのお陰で、上手くあしらってくれることができたが、泣きに来たのではないかとしか思えないようなその行動には不可解さしか残らなかった。けれども不可解と思っているのはどうも俺一人らしく、須磨寺も明日菜さんも栗原がどう思ってここに来たのかはそれぞれ判っているような雰囲気だった。僅かに明日菜さんに聞けた限りでは、栗原は俺が生きていたことが嬉しいらしい。その彼女の気持ちだけは判ってあげないさいと言われて、一応頷いたが本当は良く判っていなかった。恐らく、俺は栗原を判ることなど一生無いのだ。けど、栗原の顔を見た時に俺も安心していたことに、後になって気付いた。普段なら苛立たしく思えただろうその事を、今の俺は何故だか多少の混乱は伴いながらも穏やかな気持ちで受け入れられた。
 更に驚いたことに、榊がやって来た。
 入ってきていきなり「本当に死ぬ馬鹿がどこにいるのよ!」と言われてしまった。その言い方が可笑しくて笑うと、「何がおかしいのよ! あなたの頭、おかしいんじゃない!」と仰せられた。榊が来た事で栗原は自分一人でここに来てたんだなと思っていると、その態度も気に食わないらしく更に何か言い募っていたが、正直聞いていなかった。須磨寺が検査の為にいなかったのが幸いだったのか、榊はさんざんこれでもかとばかりに俺を責め立てていた。両親や事情聴取に来た教員らが、自殺未遂という俺たちに腰の引けた、こちらの態度を窺うような姿勢でいたこともあって、その威勢の良さは心地よかった。栗原を楯に取った言い方で、死んだところでどうこうという話をして帰っていった榊と入れ違いに戻ってきた須磨寺によると、廊下の外まで榊の声は届いていたらしかった。なまじ聞き取りやすい発声が災いしたなと笑うと、廊下ですれ違った榊は、この世の全ての罪業を背負ったような表情と態度で萎れていたと言われてかなり驚かされた。別に榊のことなど少しもこっちは考えていなかったというのに、向こうは自分のせいかも知れないと思っていたらしい。意外に難儀な性格らしかった。須磨寺が絡んでいるのだから、おまえのせいでないことぐらい気づけよと思ったがどうしようもない。

 千客万来とも言えるが、逆を言えばそれが俺の付き合いの全てだった。
 十数年生きてきて、俺が俺以外の思えることの全てだった。
 そう思うと、多過ぎる。
 困るほどに。
 これだけのものを抱えて、生きなくてはならないのだ。

 そして俺の隣にはいつも、須磨寺がいた。
 ベッドが隣り合わせだったことで、そう位置づけられた。
 須磨寺の方は一度まとまった人数が見舞いに来ただけで、遊びに来ているとしか思えない明日菜さん以外は特に誰も来ていないようだった。
 僅か数日で準備を終わらせた俺と違って、いつそうなってもいいようにしていた須磨寺の周到さとの差のようでもあった。
 別に恥ずかしくも、申し訳なくもなかった。
 ただ、こうなった今となっては多少それは不便だろうな、を思える程度のものは感じていたが。それも彼女自身が気にしていないのであれば、構わないことだった。
 目覚めた時に動揺しまくった俺に対して、須磨寺は終始落ち着いていたのは俺よりも先に気づいていたのかも知れない。
 終わっている自分と、終わっても終われない生という現象そのものを。


 だからこそ、

「木田君のお友達って、女の子が多いのね」

 寝付けない夜に須磨寺からそう言われた時、彼女がどう思ってそう言ったのかが全くわからなかった。
「友達……か?」
 一応真面目に考えると、友達と言えるのは……辛うじて程度で功一人だ。それも卒業してまで会うほどの間柄でもない。そして奴は残念ながら男なので、彼女の言葉は正しくない。
 しかし、俺の見舞い客という意味でならば、男は親父を抜かすと奴一人しか俺を見舞いに来ていない以上、正しいのだろう。実際、学校や外で話す奴も他に居なかったし、自分の責任になると青褪めてばかりで覇気の無かった橘を数に入れるつもりは全く無い。
 それでも、
「栗原と榊は違うし、明日菜さんもちょっと違うだろ。真帆ちゃんは親と恵美梨の代わりに身の回りのものを持ってきて貰ってるだけだしなあ」
 そんな言葉を口にしていたのは、何か気にするものがあったのだろう。
 須磨寺のその言葉はきっと単なる感想で、そこに何も意味はない。
 それでも、少し弁解めいた言葉になるのは、須磨寺を気にしているから。

 ―――それでも、わたしたち……生きていかなくっちゃいけないんだね……
 ―――生きて……ふたりで……

 ふたりで。
 須磨寺はそう言った時、特に意識していなかっただろう。
 俺も、聞いた時は大して気に留めなかった。
 その言葉が今、こうして毎日生き続けているなかで日増しに重く、確かなものになっている。
 同じことを考え、同じことを思って、同じことをしようとした俺たち。
 それまで全く違って、今でもこんなにも違うことばかりなのに、何であんなにも同じだったのだろう。
 死ぬということが、死のうということが終わった俺たちにとって、生き続けるということだけが待っている。
 生きるという選択肢しか残っていないから生きる。
 同じ道を歩んでしまったからこそ、最後まで付き合うべきだと思うのだ。
 俺が生きている実感を持ち続けたのも、彼女が生きる理由を見出したのも俺たちのセックスだった。
 セックスそのものに心は全く必要はない。
 けれども、セックスの中で浮かび上がる感情に心が関わらないことは決してない。
 それこそが、互いが互いを知り、互いに気づき、そして互いを必要とすることになったのではないだろうか。
 それはセックスでなくても良かったのかもしれない。
 むしろ、今はもうセックスに頼らなくても判ることができるに違いない。
 それでも、セックスによって生まれたのが今の俺たちであることは否定できない。

 セックスで何が変わるかと思ったものだ。
 気持ちが良いもの。それだけだと思っていた。
 馬鹿にしていた。

 そんな俺が今あるのはセックスだと思うと、何とも可笑しい話だった。
 さっきから話が止まったままではあったが、俺よりも動ける須磨寺を見る。
 ベッドに固定された俺の傍に、彼女は立っている。
 目が覚めた時に見た、あの時の位置に彼女はいた。
 彼女は俺より前からずっと、俺を見ていた。
「ねえ」
 瞳を俺に向けたまま、須磨寺の唇が微かに動く。
 次に彼女が何を言うのか、何となく俺には判った。


「セックス、しようか」


 俺も、そう言いたかったから。
 だから、動かせる首で一度だけ頷いた。
 彼女は俺の前で屈むと、優しく俺に口づけをする。
 軽く触れ合うよりは強く、求め合うよりは弱く、彼女の重みを感じるだけのキス。
 身体を抱きしめることも、指を絡めることもない。
 唇同士、それだけの交わり。
 包帯まみれの今の俺たちができる精一杯のセックス。
 須磨寺は顔を上げると、少し照れくさそうに微笑んだ。
 俺もきっと同じ顔をしていたに違いない。
 気恥ずかしかった。

 生きていかなくてはならない。
 生きる以上、生きる何かをしなくてはならない。
 それが俺と須磨寺にとっては、セックスだった。
 セックスしか残らなかった。
 セックスしか、知らなかった。

 身体も心も、俺たちが生きていく為に必要なことだと知っていれば、それでいい。
 今はこうすることが一番心地よくて、そうすることが一番安心できたから。
 生きていく証だった。

 もう一度、俺たちは同じようなキスをする。
 動けない俺に覆い被さるように、須磨寺が唇を重ねてくる。
 ただそれだけの交わりを求めてくる。

 恋人同士のキス、そんな言葉が浮かんだ。
 俺たちの交わりは、きっと生き続ける限り終わることはない。
 俺が生きる以上、彼女が生きる以上、二人で生きる以上は続いていく。
 それは永遠でもなく、真実でもない。



 それは……俺たちが生き続ける為の、大事なセックス。




                             了
投稿者:久々野 彰
2003年10月03日(金) 01時30分52秒 公開
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作者からのメッセージ
 閉鎖されていたのでソースそのままですが転載失礼します。