『キャッチボール』


2002/08/11



「キャッチボールでもしようか?」
 いきなり、月島先輩はそう提案してきた。

「え?」
「いや、こうやってずっと机に張りついているのもなんだろうし、気晴らしに外にで
も出ないかい?」
「でも………」
 でも折角わざわざ月島先輩がこうして付き合ってくれているのに――そう言いかけ
て口ごもる。
 その割には全然出来ていないのだから言いようが無い。
 僕のノートは筆圧で英文らしき形にへこんでいたものの、幾度も消しゴムをかけて
いるので白紙のままになっている。
 流石に戯れに破壊爆弾を書く勇気は今は無い。

 僕、長瀬祐介は見事に現役合格に失敗し、浪人生になっていた。
 元々、成績が良かったわけでもなく、高校に入ってからずっと無気力に無駄な毎日
を過ごしていたので、当然だったのかもしれない。
 一年生で習っていた基礎部分を全く覚えていなかったので、二年で習う範囲が理解
できず、その遅れを取り戻すことができずに最後まで響いてしまった。
 二年から勉強をやりはじめたといっても本当に終わり頃だったので、実際には二年
近くもマトモに勉強をしてこなかったわけである。
 それでは昔ほど騒がれないにしろ、今だ健在の受験戦争に勝てるわけがない。
 瑠璃子さんと同じ学校を目指すことは最初から諦めていたけれども、同じ都内で通
学できる近隣の大学を探したところ、どこも僕の学力では相当難しいところばかりだ
った。
 模擬試験でD判定やE判定を貰い、担任からははっきりと志望校を変えるように示
唆され、両親からも最初から一年を無駄にするような真似は止せと言われた上での受
験失敗だったので、相当肩身が狭かったのだが、僕が本気で上の大学を目指している
ことを知った両親はその結果にも寛容で、気侭な浪人生活を許してくれていた。
 勉学に励む本当の理由までは気付いていないようだったが。

 月島先輩の部屋には驚くほど物がない。
 見渡しても目に付くのはベッドと本棚ぐらいで、本棚には漫画など一冊もない。
 学術書なのかそれとも専門書なのか判らない、少なくても僕が読みたいとも理解で
きるとも思えないような難しそうな本が並んでいる。
 英語や他の外国語で書かれた本も随分とあるようだ。
 そして机の上にはそんな月島先輩から見れば、飽きれるほど単純でレベルが低そう
な問題集や参考書が広げられている。
 通い出した初めの頃は、かなり気恥ずかしい思いをさせられていた。
 月島先輩がこのように僕の勉強を見てくれているようになったのは、夏休みに入っ
てからだった。
 予備校の夏季講習も受講しているのだが、元々人並みの学力と理解力を持ち合わせ
ていなかった僕は、既に高校時代同様殆どの授業についてこれていない。
 だからこそ今の時期覚えるのでは遅すぎるほどの基礎を、こうして月島先輩に教え
てもらえることは充分にメリットがあった。
 月島先輩は僕の学校でも歴代に名を連ねるほどの優秀な成績で、一流私立大学に推
薦で受かりながらも今は別の某超有名公立大学に通っている。
 普通ならまず、こんな落ちこぼれの浪人生の僕なんか相手にしてもらえないほどの
存在だ。
 それがこうやって懇切丁寧に僕のペースに合わせて無償で、月島先輩の部屋で勉強
を見て貰えているのは実に不思議な構図だ。

 あれから2年近く経とうとしている。
 月島先輩が起こしたあの事件は決して許されることではない。
 彼の行いは裁かれなければいけないことだった。
 けれども、僕はそんな月島先輩に対してやったことは彼の悪行の記憶を消したこと
だけだった。
 別に長瀬祐介という一個人が一個人の彼を裁く権利は無いからだとかいう考えが、
あったわけではない。
 瑠璃子さんのことを思って、故意に見逃してしまっただけだった。
 僕は瑠璃子さんのためだけに、多くの犠牲者の女の子達を無視して、月島先輩を赦
してしまった。
 瑠璃子さんをこれ以上苦しめたくないと言うだけの理由で。
 今の月島先輩には彼が瑠璃子さんを襲った頃の記憶も、それによって得た毒電波を
操って生徒会室で毎晩繰り広げたサバトの記憶も、僕と毒電波で戦った記憶も一切残
っていない。
 今の月島先輩は単に瑠璃子さんを強く想うだけの、どこにでもいる一人の青年に過
ぎなかった。
 今の彼には狂いの色は無い。
 そう見えたし、そう思いたかった。
 僕が彼を見逃してしまったこと自体に罪はないかもしれない。
 けれども、彼がまた同じ事を繰り返してしまったらきっと、その責任は僕にある。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 僕はもう二度と、瑠璃子さんが傷つくのを見たくなかった。
 それだけだった。

「なんでいきなりキャッチボールなんです?」
「いやぁ、二人でやるとしたらその程度かなと思ったんでね」
 月島先輩の返事は答えになっていない。
 けれども、このまま机に張りついていても何の成果も上げることはできそうもなか
ったことだし、その誘いに乗ることにした。
「別にいいですけど」
「そうか。じゃあ外に出ようか」
 そう言ってドアを開けて先に部屋を出る。
 一つしか歳が離れていないのに、随分と落ち着いていて大人びて感じる。
 いちいち感心してしまう僕が単に子供なのだろうか。
 そんなことを考えながら机の上に広げられた勉強用具をそのままにして、僕も階段
を降りる。
「瑠璃子、お兄ちゃん達ちょっと出かけて………あれ?」
 先に一階に下りた月島先輩が居間や台所を見まわしているのを見て、
「瑠璃子さんならちょっと前に買い物に出かけましたよ」
 そう知らせる。
「あれ? そうだったっけ?」
「ええ。ドアの締まる音もしましたし」
「駄目だなぁ。そんなことに集中がいっているようじゃ」
「あ、あはは……そうですね」
 苦笑する月島先輩は穏やかそのものだ。
 本当にあの日、僕と対決した月島先輩とは別人のようだった。
 普段の学校の皆が知っていたあの月島先輩だった。

―――別に普段演じていたわけじゃなくて、あれも月島先輩だったんだ。

 卒業後もこうして付き合いがある僕にはそんなことがわかった。
 逆に高校生時代のほうが、全然接点が無かったために噂程度でしかこの人のことを
知らなかったし、興味もなかった。
 けれどこうやって身近に接してみてはじめて、僕は彼が学校から信頼され、皆から
慕われていたことを知った。

―――あんなことさえなければ良かったのに。

 何もなければ僕が瑠璃子さんと親しくなるきっかけもなかっただろうし、ずっと世
の中を僻んで生き続けただろうけど、その方がずっと良かったに決まっている。
 誰一人泣くことも、苦しむこともなかったのだろうから。
 月島先輩さえ、もう少し分別をつけていてくれていたらと、
身勝手な言い分だと自覚はしているのに、そんなことばかり思
う。
 月島先輩のためにも、悔しかった。
 だからもう、二度とあんなことにはなって欲しくない。
 もう、二度と。

「ここだよ」
「はぁ………」
 月島先輩の後を歩くこと数分、僕らは住宅街の真ん中にぽっかりとできた空き地に
ついた。
 家が取り壊されたまま、まだ次の買い手がつかない更地らしく雑草が一面生い茂っ
ていて、道路に面した場所以外は、見渡す限り普通の住宅が並んでいる。
 月島先輩が用意したのはキャッチャーミットと、普通のグラブだった。
 内野用とか外野用とかあるのだろうが、僕にはわからない。
 月島先輩はミットを自分の手にはめてバンバンと拳を打ちつけて慣らしながら、グ
ローブを僕に渡した。
 手にはめてみると、革が固くて買ったばかりの新品のようだった。
 革の臭いがキツい。
 月島先輩はボールを持ったまま、ゆっくりと距離を取る。
 僕も数歩下がった。

「前も聞いたかも知れないけど――」
 そう言いながら月島先輩が軟式ボールを投げる。
「はい。何ですか?」
 グラブでボールを受け止め、投げ返しながら返事をする。
「本当に瑠璃子と同じ大学を受けるつもりかい?」
「ええ」
 月島先輩から返ってきたボールは、幾分強めだった。
 掌が少し痛い。
「春の段階では全然見込みなしだって言われたんだろう?」
「それでもっ、やってみないとわかりませんし」
 同じ様に強く投げたつもりだったが、易々とキャッチされる。
「そうだね」
 今度は少し大きくフォームを取って、軽くボールを投げてくる。
 緩やかで、取りやすい球だった。
「やってみようと少しでも考えたのなら、やってみた方がいいだろうね。やって後悔
するほうが、やらないで後悔するよりやった分だけ救いがあると言うし」

―――救い、か。

 本当に救いを必要としているのは僕ではない。
 これまでも、そしてこれからも。
「でも月島先輩は凄いですよ。K大学蹴ってまで、T大医学部に入りなおすなんて」
 彼は一浪している。
 普通に受験に失敗した僕とは違って、推薦で受かっていた大学をわざわざ辞めてま
で別の大学へ進んだ。
 そのせいで、推薦を取り付けた学校ともめたらしい。
 きっと今後その大学からウチの学校へは推薦を受け付けてもらえないだろう。
 それぐらい周りに迷惑をかけてまで貫いた大きな決意だった。
「ははは。急にエリート面してみたくなってね」
 瑠璃子さんから聞いた話では、医者をやっている叔父の所業を見て育った影響で、
月島先輩は医者そのものに対してずっと不信感を持っていたのだそうだ。
 だからこそ、彼女にとっても月島先輩の心境の変化は驚くものだったらしい。
「ええと、その……」
 彼が何を思い、そう決意させたのかは僕にはわからない。
 そしてこれからもはっきりと知ることはないと思う。

 けれど、それで良かった。
 これからの彼の人生は彼が決めることだ。
 彼がこのままあの頃のことを思い出すこともなく、一生を終えたとしても。

「ところで、月島先輩は誰かとよくこうしてキャッチボールとかするんですか?」
 月島先輩の雰囲気からはとてもそうは見えない。
 運動は不得意ではないらしいが、特に好きのようにも見えない。
「ん? 何でだい」
「いや、グラブ二つも用意してあるのって珍しいと思ったので」
 しかも一つはキャッチャーミットだ。
 でも、その割には僕の手にはめられているグラブは新品だ。
 月島さんのミットも同じように新品だった。
「実はやったことが一度もなくてね、今日が初めてかな」
 野球部はあったが、学校の授業で野球はなかった。
「へぇ……でも、どうして?」
「人がやっているのを見て何か楽しそうでね……やってみたくなったんだ」
 彼はどこでそんな光景を見たのだろう。
 どうしてそんな風に思えたのだろう。
「こうしてボールを投げて、取ってと繰り返すことが妙に面白くてね」
「そうですか?」
 僕には判らない。
 今まで面白いと感じたこともないし、今も気分転換という意味合いが強い。
「うん。思っていたよりもいい。ずっといいね」
「………」
 その顔は本当に楽しそうだったので、僕は余計な口を挟まなかった。
 月島先輩達は幼い頃からずっと苦労して生きてきている。
 こんな風に誰かと遊ぶことはあんまりできなかったのかも知れない。
「だから長瀬君がこうしてウチに来ることになった時に、一度は相手してもらおうと
思って買っておいたんだよ」
「そんなわざわざ……」
「すまないね、我が侭に付き合ってもらって」
「いえ、そんな」
「一度、瑠璃子に言われたんだ」
「え?」
「僕は難しく考え込んでしまうタイプらしい」
「………」
「自分ではあんまりそんな風には見せなかったつもりなんだけどね、やっぱり見抜か
れていたのかな……」
 そう言いながらコントロールが少し狂った僕の返球をキャッチすると、視線を幾分
落として投げ返してきた。
「それだからこそ、一度失敗をしてしまったようだしね」
「え!?」
 思わず、僕はボールを取り損ねた。
 グラブの土手部分に当たり、地面に落としてしまうがそれどころではなかった。
「そ、それはどういう………」
 もしかして、消し去ったはずの記憶が戻っていたのだろうか。
 同じ様に消し去ったはずの瑠璃子さんの記憶が残っていたように。
 もしそうだとしたら……

「だからできるだけ、深く考え込まないようにしようって思ったんだ」
 動揺しかける僕に、月島先輩はそう言って照れくさそうに微笑んだ。
「瑠璃子に迷惑をかけないようにしようと思って、思いつめた挙句に心配をかけてし
まうようではどうしようもないしね」
 月島先輩が自分の方に転がったボールを歩み寄って拾い上げる。
 そして立ち尽くす僕に手渡した。
「その、失敗って……?」
「………」
 月島先輩は答えなかった。
 そしてそのまま元の距離に戻り、ボールを待っていた。
 僕はボールを投げると、今まで通りにキャッチした。
「実はね……」
「はい」
「ここから離れることになりそうなんだ」
「え?」
 今度はキチンとボールを取ってから驚いた。
「それはどういう……」
「実は次の学期から本格的な授業に入るんで、K県の学部の校舎付近に住まないとい
けないんだ」
「そ、そうだったんですか……」
 僕が投げたボールは左に逸れたが、月島先輩は簡単にキャッチした。
「あのそれは瑠璃子さんには……」
「ああ。入学するときにね」
「そ、それで……」
「ん? どうしたそんな顔をして。折角邪魔者がいなくなるんだからもっと喜ばなく
ちゃ駄目だろう」
「そ、そんないきなり言われても……」
 月島先輩はボールを投げず、手で捏ね回すようにいじっている。
「まぁ、再スタートだ」
「え?」
「失った時間は元に戻らないし、元に戻ることのない欠けてしまったものを探しても
仕方がない」
「え……」
「瑠璃子や君には随分と助けられたと思ってるよ」
「そんな僕は何も……」
「僕ができることは何もないかもしれない。でも、何もしないでいられるほど強くも
ないんだ」
 月島先輩は僕を見ているようには見えなかった。
 そして、その言葉は目の前にいる僕以外に語っているようにも思えた。
「こんな僕が言うことじゃないかもしれないけど……瑠璃子を、頼むよ」
 月島先輩がそう言って投げた球は強かった。
 受け止めた掌が酷く痛む。
 けれども、僕は歯を食いしばって月島先輩を見た。
 そして頷く。

「はい」

 この兄妹は本当は幸せにならなければならない。
 今までの圧迫されつづけた人生のお釣りが来るほどの。
 そして彼らの運命に、月島先輩の身勝手に巻きこまれた多くの人たちも幸せになっ
てもらわなければいけない。
 そのためにできることがひとつでもあるのなら、僕もなんでもしよう。

 どんなことでもしよう――そう決意しながら僕が月島先輩に投げ返したボールは、


「あっ」


 山なりになって、大きく彼の頭上を越えていってた。




                            <完>


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