『太田さんがウチに来た』


2001/07/22



 ある日、僕が家でパンを焼いていると、太田さんがやってきた。
 台所で僕が捏ね上げたばかりのパン生地をオーブンに入れていると、太田さんは僕
の背後に来て一言、


「セックス」


 と、言った。
 パンが焼き上がるまでの間、僕は彼女に対して焼き上がるパンの事を説明し、焼き
たてのパンを食べるという行為がどれほど大変で素敵なことかを懇々と説いて聞かせ
た。
 太田さんはいつもと全く変わらない顔をして立っていたが、僕の話が焼きたてのパ
ンにバターを塗って食べることがどれだけ人間の一日の始まりとして重要な事かを解
説し始めると、いきなり立ちあがって僕の家を出ていってしまった。


 …バター、嫌いだったのかな。


 確かにカロリーはマーガリンと比べても高いし、味自体、とても濃厚だ。
 だが、やっぱりパンにはバターだと思う。
 太田さんが、バターを嫌いだとしても。


 次の日、僕が自宅で手打ち蕎麦を打っている時、また太田さんがやってきた。
 台所でよく踏んで寝かせた生地を伸ばし、麺を打って包丁を入れていると太田さん
は僕の背後に来てまた言った。


「セックス」


 僕は昨日のことを思い出しながら、自分で打つ蕎麦がいかに美味しいかを身振り手
振りを交えて話して聞かせる。だが今日もやっぱり、話が生地を力任せに捏ねるので
はなく、ゆっくりと力を込めながらも丁寧に捏ねるのがコツだと言う経験談を話し始
めた頃、彼女は席を立った。


 …食べたかったのかな?


 素直に昼飯にありつきたかったのに、ご託を聞かさせるだけだとウンザリする――
そんな感情が彼女にあったのだろうかと考えると少し悪い気がした。
 だが、僕も僕なりに拘りがある。
 自分で作ったものは、色々と説明ぐらいしたいのだ。
 自慢話がいけなかったにしても、これは仕方がないだろう。



 その翌日、僕が目玉焼きを焼いていると当然のように太田さんがやってきた。
 フライパンから少しも離れていたくなかったので、ドアの鍵を開けたままにしてい
たのが正解だったようだ。彼女が側に来た時に丁度、白身が固まり出したので差し水
を注ぐ。そしてそのまま手早くフライパンの蓋を乗せると、彼女はそれを待っていて
くれたかのように、


「セックス」


 と言った。
 流石に目玉焼きで蘊蓄を語る気にはなれない僕は、焼きあがるのを待ちながら、


「太田さんも食べる。目玉焼き?」


 そう聞いた。


 太田さんは黙って僕の差し出した、直接目玉焼きとハムを乗せた焼いたトーストに
醤油をかけたものを一枚、頬張った。
 それを見ながら僕も同じ物を作って食べた。


「………」
「………」


 その日は結局そのまま、太田さんは無言で帰っていった。
 が、僕の心の中ではどこか満たされたような、そんな幸せを感じていた。


 今度はもっと太田さんが喜んでくれそうな料理を作ろう。
 彼女がセックス以外の言葉を喋ってくれるような美味しい料理を作ろう。
 僕はそう思って料理雑誌を開きながら、材料を吟味する。
 そして材料を沢山買いこんで、わざわざ仕込までして翌日を待った。



「「お邪魔します」するよ」



 その日、僕が太田さんの為にと昨日から仕込んでいたクリームシチューを煮込んで
いると、前触れもなく月島兄妹がやってきた。
 そして僕の返事も待たずに勝手に入りこみ、好き勝手に食べ散らかして帰っていっ
た。
 僕は呆然として、何もすることが出来なかった。
 太田さんは来なかった。


 その翌日も、翌々日も、そのまた次の日も食事を作っている時に奴らはやってきた。
 太田さんは来なかった。



 …狡い。



 僕は太田さんの為に泣いた。




                         <おしまい>


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