『夢、そして退屈な時間』


2001/05/03




 目が覚めた。
 僕ははっきりしない頭を抱えたまま、ぼーっとして目を閉じる。
 まだ完全に起きていない。



 僕がまず思った事は今まで見ていた夢の事だ。
 現実のようであり、初めから夢の中だと判っていたようであり、そのどちらでもあ
った中を僕は過ごしていた。
 その中で僕は楽しかったり、辛かったり、嬉しかったり、苦しかったりしていたよ
うな気がする。
 そのどれか一つでもあり、どれでもなかったような気もする。
 ただ、夢の中でまで退屈しているような事はなかったと思う。
 それは幸いな事だ。


 そして、当たり前の事だ。



 僕はこうして自分が寝ていた事を当たり前のように思い、次いで今の自分を思い出
す。


 代わり映えしない一日。
 誰からも注視されることもなく登校し、
 自分なんかに関心を払う事も無くまっすぐに下校する。
 部屋で手近にあった漫画雑誌を手にとっては飽きつつ眺め、
 ラジカセのスイッチを入れては我慢できるまで適当な有線放送を聞く。
 母親に呼ばれる声。



 …あ……。



 夕食を食べた後、そのままベッドに潜り込んでいた事を漸く思い出した。
 簡単に横になるつもりがそのまま眠っていたらしい。
 瞼が重く、頭も何かがまとわり付いているように窮屈で不愉快な状況だった。
 このまま寝ていたくもあり、この状態を維持するのも鬱陶しくもあった。



 瞼を開ける。
 いい加減に手を伸ばし、所々ぶつかりながらも目的の枕元の目覚し時計を掴むと自
分の目の前に持って行く。
 そして時間を見る。
 僕は二時間ほど、眠っていたらしい。


 面倒ながら身体を動かして時計を前の位置に戻す。
 手だけで済まそうとすると大概首の筋を違えて痛い目を見てしまう。
 置き終わると再び仰向けになって軽く目を閉じる。
 さっきの夢を思い出そうとする。
 何も、思い出せない。
 起き抜けに憶えていた僅かな事ですら、思い出せない。
 憶えているのは夢を見た事だけだ。
 内容は、一切思い出せない。



 夢の中の僕は楽しかったのか、辛かったのか、嬉しかったのか、苦しかったのか、
何一つ判らないし、思い出せない。



 僕は上半身を起こして、ベッドから出る。
 寒い。
 素足が特に寒く、冷たい。
 暖かい布団の中が恋しくなる。


 同時に、膀胱が尿意を訴える。
 僕はよろよろとしながら、トイレに行くべく部屋の扉を開けた。
 居間の蛍光燈が酷く、眩しい。
 真っ暗にしていた部屋の暗さとは対照的に居間は明るい。
 どうってことのない普通の明るさだというのに、酷く眩しい。
 僕はそう感じた。



 トイレに入って便座を降ろし、その上に座りながら用を足す。
 立ってするには今の僕には辛い。
 ちょっとの間だというのに、酷く脚が萎えてしまったような気がする。
 降ろした腰が重い。
 もう二度と立てないような不安さえ呼び起こすように。


 僕は疲労していた。
 寝ていただけなのに。
 起きただけなのに。


 僕は座ったまま子供のように用を足しながら、これからどうしようかと考える。
 今日は宿題を出された教科はなかった。
 あったとしても憶えていないのだから重要な教科ではなかった。
 明日の時間割を思い出す。
 その前に、今日が何曜日かを思い出す。
 なかなか思い出せなくて日付を思い出そうとするが、更にわからなくなる。
 曜日を思い出す。
 時間割も一つ一つ思い出して行く。
 体育があった。
 体操服は洗ったばかりの筈だから明日持って行くのを忘れないようにしなくてはな
らない。どうせ、ジャージを着るにしてもだ。
 そして二、三、予習をしておけば明日の授業が楽になるかもしれない科目があるこ
とを思い出す。
 が、考えないようにする。
 今までもあまり予習をしたことがないのだから、今更別にする事も無い。元々、も
う殆ど理解できずに置いていかれているのだから。
 それ程というよりも全くといっていい程、僕は勉強熱心ではない。




 従って、「退屈」していた。




 何もすることが思い付かないまま、僕は腰を上げてズボンを直し、水を流してトイ
レを出た。
 日付は最後まで思い出せないままだった。



・
・
・




 ――そしてそのまま、椅子に座り、机に両肘をついたままぼんやりする……




 それが僕の日常だった。
 今までの、ずっと永遠に続くのではないかと思えるほどの日常。
 ゲームをしたり、漫画を読んだり、音楽を聴いたり、勉強をしたり、それらを組み
合わせたり、また寝直したり、数少ない選択肢をやりくりして、過ごしてきた。
 いや、それは今もあまり変わってはいない筈なのだ。



「…………」



 僕は重い頭を動かして横を見る。
 熱い息が僕の胸にかかり、空気を吸う音と吐く音、そしてそのどちらにも属さない
音、それら全てがほぼ同じ場所から感じる事が出来る。



 ――寝ている。



 今、間違いなく彼女は眠っている。
 顔を見る限り、心地は良さそうだ。
 彼女は夢を見ているのだろうか。



 僕は彼女を起こさないように気を使いながら目覚し時計に手を伸ばす。
 夜と言うよりも、朝と言った方が近い時間だ。
 ただ、冬の朝日が登るまではまだまだ時間がある。
 少なくても、もう一眠りする分には一向に構わないだろう。
 特に、誰に気兼ねする事も無い。


 本来、一緒に住んでいる筈の僕の両親は泊りがけで出掛けているし、
 彼女の親への連絡は彼女自身がつけていた。
 どう話したのかは僕は聞いていない。
 ありのままを話したとは思えないが、特に気にかける事も今はない。
 学校も期末テストが終わると同時に実質的な冬休みに入っていた。



 このまま眠りこけたところで、何も気にする事はない。



 そこまで考えた時、僕の背中がスースーしていることに気が付いた。
 暗がりの中、よく見ると布団がずれていた。
 身体を丸めている彼女に、巻き取られているように布団がずれていた。



「…………」



 僕はもう一度、改めて彼女の寝顔を見た。
 笑っているような、そんな顔をしていた。



 僕は寝直す事も布団を直すのを諦めて、彼女を起こさないように気を付けながらベ
ッドから出る。
 そして脱ぎ捨てたままの自分の服を持ちながら、ゆっくりと自分の部屋を出た。



 居間から差し込む蛍光燈が、やっぱり暗闇に慣れた目には眩しかった。



 電気が点けたままになっている居間のテーブルの上は綺麗に片付いているし、電気
ストーブのスイッチはちゃんと切ってあった。
 明るいのに、とても肌寒い。



「……ックシッ!!」



 くしゃみが出た。
 僕はすっかり冷たくなってしまった空気の中で、持っていた服を――寝間着を改め
て着直す。
 もし、ここに鏡があっても絶対に見ない。
 TVのブラウン管に反射して写っているだろう自分の姿にも目を合わせない。
 最後まで、服を着るまでは。



 着替え直すと僕はソファーに腰掛けながらぼんやりと考えた。
 TVのリモコンのスイッチを入れて砂嵐をを鑑賞するか、台所の流しの水の入った
たらいの中に浸してある食器を洗うか……どっちにしろ音が五月蝿いので選択できな
い。起こしてしまっては意味が無い。それに、どっちにしろするつもりもない。
 このままソファーで眠る事も考えなくも無かったが、それをするにはちょっと寒か
った。
 何も、することが思い付かない。



 僕は、「退屈」している。



 一人だった頃と、今までの僕とあまり状況は変わりが無い。
 今、この時点についてだけ、だが。
 でも、今の僕にはそれだけで十分だった。
 とても、退屈している。



 何か変わったようで、根本的なところは何も変わっていない。
 人はいきなりは変われない。
 十数年も生きて続いてきた事は、一年やそこらで変わる事は出来ない。
 世間も激動した訳ではないのに、僕一人が劇的に変われる理由も無い。
 僕という人間は今までと同じ様にこれからも特にどうということもなく、年月を、
日時を、過ごして行く。
 今までが悪かった訳でもないし、今が特に良い訳でもないのだから別に変わる必要
はない。
 そう思ってきたし、今もそう思う。



 僕は僕で、現在進行形で生き続けている。
 今の僕を僕があれこれと論じる事の出来ないように、過去の僕も僕がどうこうと論
じる事は意味がない。
 僕が何か変わろうとしていたとしても、外から見た僕の評価が、他人の判断がなけ
ればそれを証明する事は出来ないのだから、意味はない。
 変わろうとする事に、意味はない。



 そう屁理屈をこね続けていても、この寂寥感は埋まらない。
 自分の部屋の椅子に座っている筈の僕が、居間のソファーに腰を下ろしている事ほ
どの違い以上のことが僕には判らない。



 今の僕は、退屈している。
 それは前から、変わらない。



 それだけが確認できる。
 それだけが自覚できている。



 でも、



 寂しいのに
 不安なのに
 詰まらないのに
 飽きているのに
 何もろくな事が思い浮かばないのに
 時間を無為に潰し続けているのに



 何か、違った。
 全て前と同じなのに。
 同じ思いしか感じられないのに。
 何か物足りないような気分から、何かを得ているような気分になっている。




 ――今の僕はひとりではない




 それは判っている。
 それが理由だという事も理解できている。


 判っている。
 だから悩む必要はない筈なのに。
 何も難しく考える事はない筈なのに。


 それだけでは「何か」が埋まらない。
 僕は納得出来ないでいる。


 スタートもゴールも判っているのに、途中の経緯が見えないような気分でいる。


 僕が「馬鹿」だからだろうか。
 僕が「愚か」だからだろうか。
 それだから、判らないのだろうか。


 単純な図式。
 誰にでも判る結論。
 明確な理由付け。




 ――僕はどうして判らないのだろう。




 そこまで考えて、改めて時計を見る。
 退屈な時間が少しばかり過ぎていた。
 こんなことを考える事の出来なかった昔に比べれば、よっぽどマシになった。
 前は殆ど何も考えずにただじっとしていただけに。



 忘れてしまった夢を思い出す事が出来ないように、こうして考え続けて結論が出る
事はない。
 だからそこで考えるのを止める事にする。
 眠ろうか、起き続けようかと迷う中途半端な時間。
 明日が学校なら起き続け、休日なら眠り直す程度の時間。



 冬休みの今なら、どっちがいいだろうか。
 去年までの僕なら、どっちを選んでいただろう。




 ただ寝る時間が増えるだけの冬休みを過ごしていた僕なら。




・
・
・



 僕はコーヒーでも煎れようと薬缶に水を入れてガスコンロに火を付ける。
 マグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、お湯が沸くまでぼんやりとその
場に立って待つ。




「祐くんは砂糖3つだっけ?」




 振り返ると、笑顔の彼女がそこにいた。
 こんな時間なのにいつも通りの笑顔がとても溌剌としていて元気そうだ。
 僕もつられて笑ってしまう。



「僕はいつもブラックだよ。沙織ちゃんでしょ、砂糖を入れるのは」
「あれ、そうだっけ?」



 ベッドシーツを纏っただけの姿なのに、凄く暖かそうだ。
 僕は一瞬、彼女の分のコーヒーも用意しようかと思って彼女の分のマグカップを手
にとって、そして元の場所に戻す。
 次いでに、薬缶を掛けていた火も止める。
 沸騰する寸前まで来ていたお湯が、抗議するようにジュウジュウと音を立てる。




「あれ? 祐くん飲まないの?」
「やっぱりもう少し寝ようかなって……沙織ちゃんも起きたみたいだし」
「えー? 何で何で?」
「ううん、ただの気まぐれだよ」



 茶色の粉を入れたままのカップを台所に放置して、僕は彼女の頭を撫でるように触
れる。



「え? 何?何?」



 僕の気まぐれに彼女のまだ頭が付いてきていないみたいで、首を竦めながら上目遣
いで僕の顔を困ったように見詰める。
 両手はシーツの中にくるめ込むように掴んでいて、出す事も出来ないでいるようだ
った。



「僕は二度寝するつもりだったけど……」
「え……?」



 そう言って手を伸ばしてシーツの中の彼女の地肌に触れると、頬が見る見るうちに
紅潮して、顔全体が真っ赤になる。
 肩を抱いて見せただけでさっきまでは低血圧の人が羨むほどの元気を身体全体で表
していたのに、きゅうに淑やかに大人しくなってしまう。
 緊張と、恥じかみの混ざったような顔をして僕を見て、下を向く。




 今の僕は退屈をしていない。
 退屈をさせてくれる暇がない。




 だから退屈を楽しめるのかも知れない。




 彼女が顔を真っ赤にしたまま僕の手を握り、そのまま僕の部屋に引っ張って連れて
行かれるのに身を任せながら僕はそんな事を思っていた。




 さっき、彼女の顔を見て、気づいたことを……。






                            <完>


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