『僕だけの太田さん』


1999/04/26



 細いシャープペンシルの芯をかちかちと伸ばし、意味もなくノートのうえを走らせ
る。
 やがて芯はポキリと弱々しく折れて、僕の頬をちくりと刺激した。

 窓から流れ込む緩やかな風がゆらゆらと麻色のカーテンを揺らし、色のない無声映
画のような授業風景をよりいっそう別世界のことのように感じさせている。

 西日の差し込む教室で、舞散るチョークの粉を肺いっぱいに吸い込みながら、濁っ
た瞳の生徒達がかりかりかりかりと文字の羅列をノートに書き続けている。

 ここ数日の僕は、なにか不思議などろりとした時間の中を漂っているような気がし
ていた。
 毎日、同じ時間が同じ映像で繰り返されているような…そんな奇妙な錯覚を覚えて
いる。

 繰り返される、なんの代わり映えもしないくだらない毎日。

 やがていつの頃からか僕は、この退屈な世界から音と色彩が失われてしまっている
ことに気付く。

 それでも僕は、そのことにはさしたる関心もないまま、言い知れぬ熱っぽさを体の
中に抱いて、いつものようにノートの落書きに没頭するのであった。


・
・
・


「きゃああああああああっ!」


 そのとき、寂然とした教室の空気を引き裂くように女生徒の悲鳴がこだました。
 生徒達は息を飲んで見ていた。
 太田さんが、掌で自分の顔を抑え、その両手を血で真っ赤に染めている、その光景
を…。


「……あ、すみません……ちょっと……」


 呆然と見ていた教師がはっと我に返り、慌てて太田さんに駆け寄った。


「御免なさい。ティッシュ……貸してくれる?」


 教師はすぐに太田さんの手を抑え込んだが、もう既に彼女の顔と制服はトマトジュ
ースのような鮮血で真っ赤に染まっていた。


「おいおい、興奮でもしたのか?」
「ハツジョー?」
「もう、馬鹿ねー。何言ってるのよ」
「たまってるんじゃねーの?」
「コラッ! お前達っ!!」
「チョコの食べ過ぎなんて言い出すんじゃないでしょーねー」
「ちょ、ちょっとただの鼻血だってばぁ!」



 不気味な静寂のなか、生徒達は異様な緊張に包まれていた。


「……えと……長瀬……君?」


 教師に抑えられた血だらけの太田さんは、


「そりゃ、血だらけと言えば血だらけだけど……」


 そのあとすぐに保健室へと


「行かないわよ。これぐらいじゃ……」


 僕は不思議と、彼女にいいようのない親近感を抱くのだった。


「頼むから抱かないで」


 …そう、彼女はもうすぐ僕が行くはずだった狂気の世界へ、


「きょ、狂気って……」


 ほんの少しだけ先に足を踏みいれてしまった


「入れてない!!」


 …ただそれだけのことかも知れないのだ。


「いい加減にしろー!!」



  ガツンッ!!


・
・
・


 気がつくと、僕は保健室にいた。
 後頭部が痛む。


「あ、気がついた?」


 さっきのことを思い出す。


「……」


 僕はティッシュを鼻に詰めた太田さんに椅子で殴られたのだ。


「だ、だってあんな事言うから……」


 僕は妄想していた。


「は、はいぃ?」


 ある女の子と仲良くしている妄想である。


「は、はぁ……」


 太田香奈子。


「え、何?」


 それが彼女の名前だった。


「って……あのー。もしもし」


 生徒会の副会長。
 綺麗で可愛く、明るく前向きで、同性にも異性にも好かれるタイプの女の子だ。


「そ、そんないきなり……」


 休み時間は、いつも人集りの中心にいる。
 友達が多いのだ。


「それほど多くは……人並みよ」


 いわゆる妄想癖を持った暗い性格の僕なんかとは、まるで住む世界の違う女の子だ
った。


「…………」


 だが、こともあろうに僕は、そんな太田さんに恋をしてしまったらしいのだ。


「えっ!?」


 僕自身、そのことに気が付いたのはごく最近のことだった。
 特に、何がきっかけになったわけでもない。


「…………」


 ある日、突然、好きになってしまったのだ。


「え、えーと……その……」


 最初は、何となく気になる程度でしかなかった。
 だが、その感情が日増しに膨らみ、僕は次第に彼女のことを意識し始めた。
 鼓動は高鳴り、胸は締め付けられるほど切ない。


「そ、そんなこと言われても……」


 他の男と親しげに話しているのを見ると、激しい怒りを感じる…そんな嫉妬心すら
芽生えた。
 目を閉じれば浮かぶのは彼女のことばかり…いつの頃か、そんな状態にまで陥って
しまった。


「困ったな……何て言ったらいいのか……」


 はっきりいって、叶うはずのない恋だった。
 ライバルは多い。
 男としての魅力で計るなら、妄想することが唯一の特技でしかない根暗な僕は、間
違いなく下位にランクされることだろう。


「ほ、他に特技……無いの?」


 彼女の眼中には、僕など映ってはいない。
 判りきったことだった。


「…………」


 だいたい僕は、まともに彼女と口をきいたことすらないのである。
 もともと年中妄想にふけっているような暗い僕には異性はおろか、同性の友達すら
もいなかった。
 僕という人間を知っているのかさえ疑わしかった。


「し、知ってはいるわよ。えっと……ほら、昔話したことも……えっと……」


 それでも好きなものは好きなのである。
 この気持ちは変わりようはない。


「あ、その……ありがとう……」


 だから僕は、叶うはずのない彼女との愛を妄想の中で夢見て、心を満たすのだった。


「どーしてそーなっちゃうわけ?」


 クラスメイトはさらに僕から遠ざかっていったが、


「そりゃあ、まあ……」


 いまさら連中と付き合うくらいなら、たとえ妄想の中でも彼女と愛を育んでいた方
がはるかに楽しかった。


「うーん……困ったな……」


 妄想の中の彼女は、僕だけを見つめ、僕だけを愛してくれた。


「それは困るわ。やっぱり」


 なぜなら、妄想の世界で僕たちは、この世界に二人きりの存在だったからである。


「え、えーと……」


 二人きりなのだ。


「きょ、強調するの……」


 あ、太田さん


「い、今頃、気付いたの……や、やっぱり、まだ後遺症があるのかな……?」


 どうしてここに


「そ、そりゃあ、やり過ぎたとは思うけど……元はと言えば長瀬君が悪いんだからね」


 いつからそこに


「えっと……そのー。謝った方がいいかなって思って……そのー」


 そうか。


「あのね……」


 これは妄想の世界なんだ。


「違うわ」


 だからふたりきりなんだ。


「保健の先生が用があるからって言うから……」


 じゃあ、愛し合おう。


「おいこら」


 さぁ、マイハニー


「人の話聞けってば」


 僕だけの太田さん


「あの……瑞穂待たせてるから」


 愛してるよ


「あ、ありがとう……それじゃあ……」


・
・
・


 私は気味が悪くなって、挨拶もそこそこに保健室を出た。


「御免、瑞穂。遅れちゃって……瑞穂?」


 瑞穂がいない。
 いや、瑞穂どころかまるで学校中、誰もいなくなったように静まり返っていた。


「え? ……え!?」


 私は廊下を歩き、人を捜す。
 窓から校庭を見下ろす。


「……え?」


 誰も、いない。


「どうして……」


 不意に背後で人の気配がした。
 私は思わず振り返った。


・
・
・


 僕の妄想は続く。


「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 だが逃げ場なんかありはしない。あるはずがない。


「こ、来ないで!!」


 地球そのものが、地球という世界そのものが、壊れて無くなってしまうのだから。


「じょ、冗談でしょ!?」


 足がもげるほど、肺が焼け付くほど逃げ続けても、世界の終わりからは絶対に逃れ
られない。


「せ、世界の終わりって……何よ?」


  「お願いだ、助けてくれ」
  「こんな目にあう理由が分からない」


「私が分からないわっ!!」


 そして僕は、もったいぶるようにゆっくりと右腕を持ち上げ、彼らの悲鳴の泣き叫
ぶ声を聴きながら無慈悲にも最後の爆弾を描くのだった。


「ば……爆弾?」


 僕は……




「いやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――っ!!!!!!」



・
・
・



 その後が大変だった。
 泣きじゃくる太田さんの前に、「街角のスター、ドッキリマル秘報告」のプラカー
ドを持った藍原さん以下、撮影していた生徒会スタッフがやってきたが、太田さんは
号泣するだけでどうにも手がつけられない状態だった。


 言い出しっぺは月島先輩だった。鼻血の仕掛けも彼だった。
 藍原さんは太田さんが最初にああ言えば僕をどつくのは間違いないからと、保健室
を予め手配していた。
 それに叔父さんが悪のりした結果、文化祭に公開する用のビデオ撮影を行う事にし
たのだ。
 僕が保健室に運ばれるのを合図に生徒全員、速やかに下校していた。



 ちょっとした悪戯だった。





 で、数日後。

 彼女の背中を撫でつつ事情を説明した桂木さんは頬に爪痕が残る程の傷を負った。
 隅っこで笑い転げていた吉田さんは、右拳を骨が見えるまで踏みつけられた。
 月島先輩は、消火器を頭に叩き付けられ、血の海に沈んでいた。
 藍原さんは虚ろな目をして「セックス」しか言わなくなっていた。
 叔父さんは上手く立ち回り、学校に来ていない。多分次回のテストでは太田さんは
百点だ。良かったね。



 かくいう僕も全身を包帯まみれになるほどの有様だった。
 従って、今、病院で入院中だ。
 悪ふざけも行き過ぎると大変だ。
 でも……



「全く……人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ」
「御免御免……」


 僕の横に林檎を剥いている太田さんがいる。
 太田さんは僕を襲う前に聞いた。
 「全て、嘘だったの?」と。
 僕は、君への気持ちだけは本心だと答えた。



 そうしたらすることはきっちりしたが、それ以来、毎日来てくれている。
 太田さんは意外にも、人から「好きだ」と言われたことが今までなかったらしい。



「また何か妄想をし始めるんじゃないでしょうね……」
「してないって……」
「もぅ……ならいーけど……」
「もう二度と泣かせたりしないよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ……」


 太田さんが唇を突き出す。
 僕は軽く、触れるだけのキスをした。


「もう一回……」
「駄目だよ。そろそろ看護婦さんが来る時間だから……」


 甘えた声を出す太田さんをそっと窘める。
 すると、


「うふふふ……来ないわよ」


 と、太田さんは笑った。
















「ここは、私の世界だから」














「え……?」


 彼女は髪をすくい上げながら言ったのだ。


「私ね、ずっと前からあなたのこと好きだったのよ」
「え…?」
「…私、ずっと以前は、平凡で、すごく根暗な女の子だったの。勉強も運動も全然駄
目で、綺麗でもないし可愛くもない、男の子となんてちっとももてなかったわ…」
「な…なんのこと?」



「そのころの私は「お願い癖」があったの」



 彼女はニッコリと笑った。




                         <おしまい>


BACK