『君と過ごした、初めての今日と言う日』


1999/03/12




 登下校。
 春の気配はまだ遠い感じがするくせに、暦の上では春と呼ぶ三月。


 校門から自宅へと帰る生徒達の姿がまるで、解き放たれた羊の群のように混雑で、
統一された制服という奇妙な慣習が、その比喩を裏付けしているように見える。


 そんな群達を揶揄するように時折、冷たい風が吹き付けるが、

 手袋、マフラー、コートとまだ寒さを凌ぐ用意を怠らなかった、逆に言えば暦の上
の季節を信じていない生徒達には、その風は大した意味を持たなかった。



 ――そんな中、


 長瀬祐介は校門の前でただ立ち止まっただけで、群からはぐれていくような奇妙な
孤独感を感じていた。
 別に、群の一員になりたくなかった訳ではない。


 ただ、単に立ち止まっただけだ。


 だがその立ち止まるという行為こそ、今日の彼にとって大事な目的でもあり、楽し
みでもあった。
 そのまま校門の隅に張り付くようにして、後から後から押し寄せる人の波をやり過
ごす。それ程の人数がいるわけでもないが、そうするのが自然に思えた。

 そんな彼に目を留めることもなく、人の群はそれぞれの学校という閉じこめられた
世界から、外の世界へと、自分たちの生活により近い場所へと急ぐようにして歩いて
去っていく。

 この場所から逃げているような錯覚を覚えながら。



 しばらくすると、まだ各クラスのHRが終わってから十数分しか経っていない筈の
時間で殆ど出ていこうとしていた生徒はこの校門から出ていき、教職員を除く生徒は
後は用事がある者、用事がないが単にいる者、そして祐介みたいに用事がある者を待
っている者達だけがこの学校という場所に存在していた。


 祐介は晴れているのに明るくない空を見上げながら、ぼんやりと校門の前で寄りか
かっていた。
 別に何をどうと言うでもなく、ただそこにいた。
 そこで待つと言い残したから、待っている。

 何も、考えることもなく。



 彼の腕には腕時計があり、彼が待っている間ずっと、時間の経過をほぼ正確に刻ん
でいたが、彼は時間の経過を感じてはいなかった。
 一人、時間が止まっているようにそこに存在していた。




 それから暫くして校舎の昇降口の方から息を切らせて、沙織が走ってやって来た。
「祐くん!! 御免……待たせちゃった!?」
 それに合わせるように、止まっていた彼の時間が再び動き始める。
「ううん……僕も日直で、少し居残りがあったから……」
 祐介はそう言って、校門に手をかけて切れた息を整えようと下を向いている沙織に
笑いかける。嘘と呼ぶには余りにも、可愛らしい虚言を交えて。


「本当に御免ね……ちょっと先生捜しちゃって……」
 その気遣いに気が付くゆとりもなく、沙織は大きく息を吐いて呼吸を整えると、踏
みつぶしたままになっていた靴の踵を右足、左足の順に足を曲げ、後ろ手で直すと、
はにかむように笑って見せた。そうして初めて祐介の笑顔に気付き、少し、顔を赤く
する。

 それは図らずもはにかんだ笑顔に彩りを添えた結果になった。


 それを見て、祐介も少しだけ、頬を赤くする。


 忙しない空気と、のんびりしていた空気が一瞬、共に止まる。
 そうしてふたつの異なる時間の流れが、ここでひとつになった。




 校門前の待ち合わせ。
 初めはドキドキで、タラタラで、バクバクものだった筈の待ち時間だが、慣れてし
まった程の月日が、祐介に自然な笑い顔を作らせるまでになっていた。


「慌てて来たんだ?」
「う、うんっ!! だって……」
「だって?」
「一緒に帰ろうって誘ったの……あたしだし……」

 こうして赤く、照れた顔をするのも、祐介よりも沙織の方が多くなってきた二人。
 沙織は顔を隠すように爪先で頻りに地面を叩いて、靴の踵を直す仕草を繰り返す。

 祐介はそんな沙織をからかうように、
「あれ?、スカートのジッパーしっかり上がってないよ」
 と、彼女のスカートを指差す。

「え、嘘!? ……ほんとに、ヤダッ!?」
 祐介の指摘に慌てふためいて、鞄を地面に落として両手でジッパーを探ろうとする
沙織に、
「……嘘」
 と、祐介は言って笑う。
「え……もぅ、やだぁ!! 祐くんったら……」
「ははは」
 しっかりと確認した沙織に両手で胸を叩かれながら、もう一度笑う。
 以前なら、人目を気にしてそそくさと学校を出ようとして、沙織に文句ばかり言わ
れてきたくせに、今ではこんな余裕も持てる。


 素直に、明るく笑える。



「……じゃあ、行こうか」
「うんっ!」


 祐介はアスファルトの地面に落ちた沙織の鞄を拾い上げて、軽く汚れをはたく。
 その鞄を沙織が受け取ろうと手を伸ばす。



 一瞬、重なる手。



「い、行こうか……」
「う、うん……」



 それでも、ピュアと言える関係。



 いつものように校門を出て、いつもの通りの通学路を歩いていく。
 時折、季節に相応しい風が吹き付けるが、他愛もないお喋りに熱中できる二人には
、左程の意味もないようだった。


 テストの出来のこと。
 最近見たTV番組のこと。
 部活動のこと。
 先日のデートのこと。


 話す話題には事欠かなかった。
 それら全てがどうでもいいことばかりでも、話すこと自体を楽しく感じられる二人
には気付かなかったし、気付く必要もなかった。


「ねぇ……祐くん」
「ん……何だい、沙織ちゃん」


 沙織は改めて、自分たちに気付く。
 自分たちの関係を。
 そして、ちょっと望んでみる。


「寒く……ない?」
「え……あ、うん……そうだね……別に……」

 そこまで言いかけて、祐介は沙織の表情に気がつく。

「ちょっとだけ、寒いかな」
「うんっ、私もっ!!」

 そうニッコリと沙織は微笑むと、祐介の腕を取ってぎゅっと引き寄せる。

「……ととっ」

 少し、その勢いの強さにバランスを崩しながらも、

「ほら……」

 と、祐介は沙織の肩を抱く。



 …照れている癖に、その感情を受け入れるゆとりが出来た祐介。



「……あったかい……」
「うん……」

 目を瞑って祐介の腕にしなだれかかる沙織に、祐介は顔を多少赤くして視線を宙に
泳がせる。



 …そんなゆとりに、身を委ねる素直さを出せるようになった沙織。



 膨大で平坦な世の中を前に閉じこもる事で歪んで見つめていたのが嘘のように、平
凡で在り来たりな将来を前に足掻く事もしないで諦めていたのが偽りだったかのよう
に、二人はこうして身を寄せ合っていた。
 互いの重さと、あたたかさだけを感じながら。



「……どこか……入ろうか?」


 しばらくして、のぼせそうになる頭を持たせるようにそう言う祐介。
 彼の予想では、ここでよく立ち寄る喫茶店や、甘味処、ヤックなどが挙げられる筈
だったのだが、沙織の答えは、



「ううん……もう少し……このままでいたいな……」


 そう、言っただけだった。



「じゃあ……公園に……」
「うん……」



 特に目的がある訳でもなく、二人は公園のベンチに並んで座った。
 何をするでもなく、何かを語るでもなく、ただ二人、寄り添って座っていた。


 少し前まで、ひっきりなしに喋っていたのが嘘のように、大人しく、静かな時間を
二人は得ていた。


 二人で、いられるだけで……。



 二人でいることだけで楽しく、嬉しく感じられる時間を持てること。
 そんな幸せに二人は、今、気付いていた。



 時間が止まる錯覚。
 時を必要としない刻をしばし、過ごす。


「…………」


 沙織が微かに、口を開く。
 祐介には何を言ったのかはわからないし、知る必要もなかった。
 間違いなく彼女と同じ気持ちを、持っていたから。


「…………」
「…………」
「…………」


 この時間の経過に退屈を覚えない。
 祐介はそう思いながらも、ひとつだけ、思い出したことが頭をかすめた。


 それは、今、すべきことだった。


 名残を惜しみながらも祐介は、まるで止まった時間を動かす為のように、静寂な空
気には不釣り合いとも異物とも感じるほどのけばけばしく感じる、水色と黄色のスト
ライプの有り触れた色をした包装紙でくるまれた袋を鞄から取り出した。
 そしてその存在感を誇示したような色の小さなあめ玉の入った袋を同じ様に時間を
動かし始めていた沙織に、自分の彼女に手渡した。
 そして、祐介は静かに微笑んだ。
 これまたやっぱり、自然に出た笑みだった。




「バレンタインのお礼。ありがとう、沙織ちゃん」





 その日、祐介は生まれて初めてのホワイトデーを、恋人と過ごした。



 静かに
 騒がしげに



 二人、それぞれ違いながら同じ様な時間を共にして……。





                             <完>


written by 久々野 彰 『Thoughtless Web』

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