『旅』


1998/10/03




 僕は、旅に出ていた。


 とくにあてなどなかった。

 いや、あてなど初めからあるような行動ではなかった。


 僕は、あまり良い人間ではなかった。
 悪い人間でもなかったけれど。



 今、僕は駅のホームにいた。
 もうじき、終電も出てしまう時間帯だ。
 ずっと僕は電車に揺られていた。


 遠く、遠く、遠く……。


 本当なら、一直線に遙か遠い場所目指して行くのだろうが、金銭的な面とやはり心
の何処かに心細い物があったのだろう、近場をぐるぐる回っていたに過ぎなかった。
 だが、それも限界に来ていた。
 だから、電車を降りた。

 何という駅かも知らなかった。
 ただ、空気が自分の良く見知った雰囲気とややずれた感があるので、多分、近隣の
県の駅だと思う。
 それでも特に田舎と呼ぶほどではなくて、一杯引っかけたり、純粋に仕事だけで遅
れたかしたサラリーマン達の姿が僕とすれ違って、終電に急いで階段を駆け登る。

 …あ、転ぶ。

 自分の目の前を急いでいた小太りの中年サラリーマンが危なそうな足取りで登って
くるのを見て、僕はそう感じた。僕でなくても感じたぐらいの危なさだったが。

 そして転んだ。
 数段、滑り落ちる。
 うめき声。
 呪いの声。
 そして顔を上げ、僕と目が合う。
 ちょっとだけ照れたような、困ったような顔。
 黄色い歯が覗いた。
 僕は多分、「大丈夫ですか?」ぐらいは言ったと思う。


 自信がないのは、今、改札をくぐったからだ。
 何か、あの場所を嫌悪した。
 もう少し、考える場所にするはずだったのに。
 これからのこととか。


 僕はカプセルホテルか、野宿かの選択を否応なく迫られていた。
 僕は学校の旅行以外に外泊したことがない。
 だから、どうしていいか頭では考えていても、足はただ歩くことしか出来ないでい
た。
 歩いたところでどうなる訳でもないのに、ただ、歩いていた。
 何かを捜すなら駅前の方だろうに、足は一直線に進み、ネオンの光も徐々に遠ざか
るのを自覚していた。
 僕は麻痺していたのかも知れない。
 よくわからない、何か、によって。


 僕はシャッターの閉まった酒屋の前の車よけの柵に腰掛け、自販機の光の元、缶ジ
ュースを飲んでいた。百数円が勿体なく感じるから不思議だ。
 足がかなり痛い。
 歩くことになれていない訳ではないが、別に特に鍛えていたわけじゃない。脹ら脛
を触ってみる。かなり筋肉が強ばっているのがズボンの上からでも分かる。揉み解し
てみる。別段、マッサージに通じているわけではない。ただ、何となく揉んでみてい
るだけで。気休め程度にはなると思って。効果があったかどうかはわからない。ただ
、揉んだ所が軽く鈍い痛みを訴えている。これが一時的なものなのか、そうでないの
か、良かったのか、良くなかったのかわからなかった。
 ただ、缶ジュースは空になった。別段規則があるわけではないが、もう動かないと
いけない気がして屑籠に空き缶を捨てる。思わず潰してしまったのは、家での習性の
名残かと思うと苦笑する。お陰で、所定の穴に入り辛くて苦労した。
 そして歩き始めた。もし、普通に何かをするなら駅前に戻るところなのだろうが、
僕は更に進むことを選んでいた。理由があったわけでも、何でもない。意地になった
訳でも全くない。
 ただ、なんとなく。
 純粋に考えていないだけだ。
 いや、考えてはいた。


 戻らないと宿泊施設は無いだろう。
 このまま進んだって住宅街が適当に続くだけだ。


 でも、歩くことを止めなかった。
 考えるのを拒否していた。
 麻痺したわけではなく、拒否していた。


 足が痛い。
 靴が重くなった気がする。
 これと同じ記憶は、昔、林間学校で受けた登山での出来事ぐらいだろう。
 坂道でないだけ、幾分マシか。
 ただ、足元しか見ることが出来ないのは同じ様なものだが。


 いい加減に、休みたかった。
 どこでもいい。
 そう思った。
 ちょっとでも人目に付かない休める場所が欲しかった。
 いや、そういう場所はいくつかあった。
 ただ、その頃はまだ、限界ではなかった。
 限界になるまでは、足を止めようという気にはなれなかった。
 その気にはなった。
 でも、止まらなかった。理由は分からない。
 使命感があったわけでもないのに。
 そして今は、追いつめられている。

 止まりたい。
 とまりたい。
 休みたい。
 やすみたい。

 今は気付いていないが、きっと眠気だって相当なものがあるに違いない。
 全て、放り投げたい。
 捨てたい。
 自分を捨てたい。
 この肉体を。
 この精神を。
 どこかに、捨てたい。

 そう。
 僕は今、猛烈に死を望んでいる。
 別にたいした理由はない。
 今、この目先の苦しみから逃れたいだけだ。
 例えるならギリシャ神話の地獄で、それぞれ苛烈で残酷な神の罰を永遠に受けてい
るお間抜け三人組といった気分だ。
 別に僕の行為は自分でしているだけで、誰に命じられたわけでも、第一、罰を受け
ているわけでもなかったが。
 ただ、そんな光景が頭に浮かんだ。

 馬鹿みたいだ。


 大きな公園に来ていた。
 多分、公園だろう。そう思うことにした。
 やたら大きく、森のように雑多な樹木に覆われていた。
 山に近かった。だが、よく見るとテニスコートがあったり、遊戯施設があったり、
人の手を感じる場所だった。ただ、この広さに安心させる物があった。区切り区切り
が樹木に覆われた格好になっているせいだろう。そこまで考えてから、僕はそれなり
に周囲を警戒して柵を乗り越えた。
 警察やら管理人やら警備員やら、まぁ誰にでも見つかりたくはない。第一、既に出
歩くような時間ではとっくになくなっていた。荷物は背中のリュック一つ。不審者と
思われても仕方がない。家出でもしてきたと判断されても仕方がない。あ、家出した
のかも知れない。大した断りもせず、無断でこうして家に帰らない状態なのだから、
家出と読んでも差し支え無さそうだ。しかも、準備までしたのだから。蒸発とは言え
ないだろう。
 僕自身は何と呼ばれても関係のない話だった。


 僕は大きな滑り台の半ばよりやや上の当たりで寝そべっていた。
 着ている服のせいかそれほど滑ることもなく、今はピッタリと身体をくっつけて寝
そべっていた。
 足が地面から解放された喜びで、湯気を立てている。そんな気がした。ただ、熱く
なっているのは十分自覚できていたので、靴を脱ぎたい衝動に駆られたが、色々迷っ
た末に履いたままにしておいた。今は石に似たコンクリートの冷たさが背中を始め、
全ての密着部分で伝わってくる。初めは気にもならなかったが、流石に冷たさを実感
する。幸い、汗はそれほどかいていなかった。風が冷たかったからだろう。もし、汗
なんてかいていたら、風邪を引いていたに違いない。いや、引くに違いない。これか
ら。僕はここを寝床にすることに決めていた。いや、もう身体が動くことを拒否して
いた。選択の余地は無かった。ただただ、休みたがっていた。


 星が綺麗だった。本当に陳腐な比喩だが、宝石のようにキラキラと光っていた。月
は見えなかった。場所が悪いのかも知れないが、顔を動かす気にはなれなかった。綺
麗な星が見られただけで満足していたのかも知れない。見馴れている星なのに、別に
綺麗と思ったのは今日に限ったことでもなかったのに、とても綺麗に感じた。そこま
では覚えている。浮浪者が来ないことを祈ったのも。溜まり場だったら救いようがな
いと恐れたのだが、眠気の方が勝った。僕は、寝ていた。多分……。



 明るい朝だった。文字通り早朝だった。日はまだ昇りきっておらず、白い空に空気
がとても澄んでいるような気分になって大きく深呼吸をした。何か森の中にでもいる
ような気分になった。あながち間違いではないかも知れない。腕時計を見る。やっぱ
り早朝だった。あまり時間的には眠っていない。不安の方が強かったと言うべきか。
少しだけ、ずり落ちていた。僕も、荷物も。いずれ人が来ても全然おかしくない。僕
はここを出る準備をした。気がついた。やっぱり足が張っている。筋肉が強ばったま
まだった。背負うリュックがひどく、重い。


 運動系の部活動を始めた頃は、皆、こんな思いをするのだろうか。部活をやったこ
とがない僕だからちょっと分からないがそんな事を思う。ただ、何となくなのか、何
か意識することがあるのかはわからない。少なくても自覚できていない。
 ちょっとだけ家を思い出す。どうしているだろうかと考える。僕についてどう思っ
ているか考える。
 そうだ。そこで思い出す。僕は友人と泊まりがけで出かけたことになっている筈だ
。僕の書き置きを信じたとするなら。狡猾な知恵。いいや、単なる苦し紛れの誤魔化
し。更に言うなら時間稼ぎの手段として。底の割れるような簡単な嘘だが、多分、確
かめようとする方法を採るのは、かなり後のことだろう。少なくても僕がどうにかな
っているぐらいの後。
 養父は僕がいようともいなくても、気づきもしないだろうと思う。顔をろくに合わ
せないから。
 そして妹。彼女はどう思っているだろうか。不安になる。

 唯一の妹。全ての妹。僕の妹。


 月島瑠璃子。
 つきしまるりこ。
 ツキシマルリコ。


 彼女のせいで今、僕はこうしていると言っても過言ではない。
 いや、別段彼女のせいではない。
 僕自身の問題であり、何かあるとすれば全て僕の一方的なものに過ぎない。


 僕は逃げたかったのだから。
 家から。
 自分から。
 瑠璃子から。
 妹の居る場所から。
 全てから。
 僕は、遠ざからなくちゃいけないんだと痛烈に感じていた。


 それは全て、僕のせい。


 このままだと、取り返しのつかない事になる。そう気付いたのがいつの頃だったの
かは分からない。漠然とした思いは遙か昔からあったように思えるし、遂最近に派生
したとしても納得はする。
 僕はおかしかった。どこか、おかしかった。それを僕のせいなのか、周りがそうさ
せたのかはわからない。いや、周りの所為にしようとしている分、やはり僕がおかし
いのかも知れない。
 僕の側には常に瑠璃子がいて、瑠璃子の側には間違いなく僕がいた。それは別段、
不思議なことでも、奇異な事でもなかった。周囲もそれがおかしいとは思わなかった
。父がいない。母がいない。僕は瑠璃子の父であり、母であり、そして兄であった。
形だけでも養ってくれている養父にそれを望むのは酷な話だからだ。そして瑠璃子も
僕の唯一の肉親として心を開いてくれていた。いや、少し開き過ぎていた気もする。
 そこまで考えて、少しでも彼女のせいにしようと何処か誘導する自分の思考に、嫌
悪する。瑠璃子は、瑠璃子なんだ。それ以外の何者でもない。それにけちを付けると
いうのは神を冒涜するような行為だ。別に瑠璃子を神に準えている訳ではない。人の
真理についての喩えだ。ただ、僕は一度たりとも神など信じたことはなかったが。



 僕が危険だとはっきり認知したのは一昨日の夜だ。その辺ははっきりと覚えている
癖にその前後の行動の記憶が曖昧なのは、何処か自己防衛的な物が働いたに違いない
。小賢しい部分だと思う。自分中心な自分の心に怒りを覚えるが、どうにもならない
と諦めるような顔をして安堵している自分がいるようで怖い。自分の心を、制御でき
ない自分を認めるのは、寂しい。何処か、寂しい。僕は、深夜ベッドにいた。寝てい
た訳じゃない。自慰を行っていた。マスターベーションと呼ぶ行為が人間にとって何
処まで必要なことなのかは僕には分からない。ただ、僕はその時はしていただけに過
ぎない。人によってはそれが普通なことだとしたり顔で言う人間もいるだろう。ただ
、僕はもう片手で女性の下着を握り締めていた。匂いを嗅いでいた。妄想の道具とす
るために。
 勿論、その下着は養父の数多い愛人の物でも、近所のコンビニで購入した物でもな
い。その日、脱衣所で脱ぎ捨ててあった瑠璃子のショーツだった。多分、拾い上げた
時には、ただの下着に過ぎなかったと思う。深く、考えなかったと思う。ただ、精射
した瞬間、僕は気付かされた。


 瑠璃子だから……だと。

 その瞬間、全身から鳥肌が立った。急に恐ろしくなった。別に近親相姦云々が頭に
思い浮かんだからではない。僕の今までの行為が、ここまで瑠璃子と共に過ごしてき
た日々が、もし、その所為だとしたら……。


 僕は、打算で瑠璃子を……。

 とても、その時の恐怖は言葉に表す事が出来ないほどのものだった。勿論、頭では
否定したし馬鹿馬鹿しい考えだと打ち消しもした。だが、僕の不安は増すばかりだっ
た。今までの僕は何だったのか、そう考えることが怖くなった。そして同時に気付い
たことがある。僕は、瑠璃子無しには生きられなくなっていることに気がついたのだ
。それを認めるかどうか、考えるのすら怖かった。
 勿論、無意識だっただろう。瑠璃子を愛していたとしても。瑠璃子と性行為をした
い為だけに一緒に過ごしてきたとしても。だが、意識してしまった今は、ただただ、
恐れおののくしかなかった。瑠璃子以外の女性と性行為をすることが出来るだろうか
。瑠璃子が僕以外の男性と性行為をすることを許す事が出来るだろうか。そんな事ま
で考えるようになっていた。僕は、瑠璃子に殺意を覚えた。唐突に。脈絡もなく。そ
うしないと、いけないような気がした。僕を取り戻すために。僕を僕のままでいさせ
る為に。ただ、それが馬鹿馬鹿しいことだとも自覚していた。そして、僕は今までの
自分が瑠璃子と共にいなくては何もできなかったことにも気付かされていた。
 今まで考えもしなかった事が、次々と疑問点として、結論として、自己心理把握の
裏側を覗くような行為のように、思いつき、僕を苦しめた。いや、勝手に苦しんだ。
 全て僕の勝手なことだ。瑠璃子にのめり込んだのも。こうして気付いて苦しんでい
るのも。


 そして出した結論が。逃亡だった。他人を、瑠璃子を傷つけるような行為は出来な
かった。全ては僕の方からの事だから。きっと今もまだ、気付いていない。僕の事を
。僕の想いを。僕自身、気付いたばかりだから。そして死ぬ勇気もなかった。自発的
に自殺するような行動をとる勇気は、僕にはなかった。


 のたれ死にしてくれればいい。誰か、僕を殺して欲しい。そう願わずにはいられな
かった。自発的な死の勇気のない僕の、本当に情けない本音だった。だが、それが非
現実的だと思うだけの常識は幸いにも残っていた。ただ、どうしていいのかと道を見
つけるだけの知謀は持ち合わせていなかった。だから、僕は飛び出した。考えもなく
、ただ、逃げ出した。


 しかしこんな事がいつまでも続くわけはない。僕は駅に戻り、再び電車に揺られな
がらそんな当たり前なことを考える。僕はどうするのだ。わからない。飛び出したと
きは何か少しは考えていた気がする。ただ、今はどうでも良くなっていた。開き直っ
たわけではない。ただ、考えるのが億劫なだけだ。誰も助けてはくれないのに。


 ちょっとだけ、眠った。相当、疲れてはいるらしい。幸い、日曜日だというのに車
内の人気は少なかった。



 そして、気がつくと僕は家の前にいた。
 僕の住んでいる家。
 瑠璃子がいる家。


 僕は、泣きたくなった。
 無性に。
 僕は、無力だ。
 何も、出来なかった。
 逃げることさえ。
 いや、逃げ出したことは間違いない。
 ただ、逃げる場所がわからなかった。
 だから泣くことしか出来なかった。
 赤子のように。
 為す統べのない、無力な象徴の証として。


 僕は、また怖がりながら日々を過ごすことになるのだろう。そしてそれがいつまで
保つのかわからない。
 誰か、助けて欲しい。
 誰か、救って欲しい。

 でも、僕には……自分の心に弄ばれている僕には……。


「あ、瑠璃子……」


 丁度、ドアを開けた妹に出会った。
 玄関前に呆然と立っていた事を恥じる。


「あ、お帰りなさい。お兄ちゃん。早かったね」


 その時、
 僕は、逃げることは出来なかったと思った。
 この笑顔の前に。

 だから、


「ああ、ただいま」


 それしか……今はそれしか言えなかった……。
 心の何処かで怯えながら。



                         <完>


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