『屋上』


1998/06/05



 私は退屈な、でも有意義である筈の授業を受けている。別に私は特別勉強に愛着が
ある訳でもないし、特別目的もなく放棄する気分にもなれなかった。だから、大多数
の周囲の生徒達に倣うようにして、教師の書く幾何学模様の羅列の忠実に、写し取っ
ていく。意味など理解する必要はない。
 愚直に教師の言葉を聞くものも、殆どいない。それをしなくても困ることがない事
を知っているから。私も、聞き手を意識していない教師に付き合う義理もないから、
余った時間を自分の世界に費やす事にする。
 これは他の人がしているから、ではなく、それが自然な事だと私は思っていた。

 自らの世界へと入り込む。
 深く、深く。
 そこで、まだ闇しかないその世界を、私は構成していく。
 考え、具現化する。
 考える。
 何かを。


 ――あなたは今、どうしているだろうか?。


 最初に考えてしまうのは、私のことではなかった。
 私はいつからこんな臆病な女になったのだろう。
 惰弱で、貧弱で、虚弱で、醜い存在。
 気が付くと私は常に貴方を求め、貴方なしでは考えられないようにまでなってしま
っている。
 でも、驚きはない。
 馴れているから。
 私はいつでも貴方のことを考えている。
 だから、まず最初に貴方のことを考える。
 それこそ、色々と。
 だから、私の世界は、貴方の世界だ。
 貴方だけの、貴方の為の世界。
 その世界での私は、貴方の奴隷でしかない。
 虐げられる事に喜びを感じている訳でも、へりくだっている訳でもない。これが今
の私には自然の考えなのだ。
 そして、いつも思う。


 ――あなたがいないことは、怖い。



 私は放課後になると、ひとり屋上に上がって空を見上げていた。
 季節が変わり、空の色が変わり、風の冷たさが変わっても、この気持ちはあの時と
は変わらないでいられた。
 私がいて、貴方がいたこの場所。
 この屋上で私はあの時のことを思い出す。そして、今を見ることを暫し、忘れるの
だ。

 刹那――

 私は風が吹いた事に気付く。
 風が、私の目を覚ます。
 夏の茹だった風ではなく、皮膚が切れてしまうような、一筋の風。
 その風こそ、私の風なのだと気付かされる。
 私の為に吹いた風。
 私を今も苛む為の風。


 冬に吹く風の冷たさがなんだろう。
 今、吹いた風の冷たさに比べれば、それはあまりにも貧弱で、どうとでもなるもの
でしかない。そう、今、私が感じている冷たさは、決して癒えるの事の出来ない、永
久(とこしえ)の極寒なのだ。


 肌に服が貼り付くような暑さでは、風は心地良いものの筈なのに、私にはその風が
冷たく、寒く感じる。
 途端に、身体が震え出す。


 ――寒い。


 その思いは一端捕らわれ出すと、止まることがない。私はいつしか己の身を両手で
しっかりと抱き留めて、震えを止めようと努力する。
 否、私が努力するのは震えを止めることではない、寒さを、冷たさを感じることを
止めようとするものだった。
 だが、その思いとは裏腹に、身体の震えは徐々に激しくなり、私は立つことが出来
なくなってその場に座り込む。腰が抜けたように正座を崩したようにお尻がコンクリ
ートの地面についた。

 震えは瘧のように止まらない。抱きしめている両手の指が身体に食い込む。が、止
まらない。そして、その手ももう離れることがない。


 ――寒い。


 思い返してみる。
 今は7月の初めである。制服もとうの昔に衣替えを終え、白い服が当然のように目
立ちはじめている。私自身、半袖のシャツの下は、薄い色の下着しか着けていない。
 それでも、先ほどの授業中は、うだるように暑かった筈だ。空調の効いた学校では
ないので、学生達は窓から気まぐれに吹き付ける風だけが唯一の慰めでしかなかった
。下敷きで、ノートで、風を興そうと無益な努力に励み、滴る汗を不愉快そうに見つ
めている。そんな時間が先ほどまでは続いていたはずだ。汗で貼り付くシャツ、放置
しておくと汗疹が出来てしまうようなそんな季節。現に、お尻をつけているコンクリ
ートは日中の強い日差しでジリジリと私の肉を焦がそうをしている。
 それなのに何故、私は寒さに震えていなければならないのだろうか。


 身体の震えは止まらない。
 理屈では、止まってくれない。


 寒い、寒い、寒い。


 全身から汗が噴き出すのを知覚する。全身の毛穴という毛穴から少しでも水分を排
除するように、汗が流れ出す。
 額から、頬を伝わり、顎で落ちる汗の雫。
 髪の毛はもうすっかり黒く、濡れていた。

 気持ち悪さと、息苦しさを感じながら、寒さに震えている私。


 私は暑さに身体を支配されているのに、心は寒さに捕らわれていた。

 あまりの気持ち悪さに吐き気がした。

 眩暈がする。視界が曲がり、コンクリートの地面すら、はっきりと認識できない。
 コンクリートの灰色だけが、ただ、知覚できる。

 灰色の世界。
 ただただ、灰色だけが見える。

 いや、見えていない。
 そう、感じているだけ。
 灰色と、感じているだけ。

 曲がっていた視界が、歪んでいることに気付く。
 気付いたと言うよりも、そう感じただけ。
 目の奥が痛い。

 そして、太股に、熱い雫を感じる。

 汗は、冷たかったのに。
 氷のように冷たかったのに。


 私は、自分が血を流しているのではと思った。
 熱い血が、身体から逃げ出していくのではと思ったのだ。それほど、私の心は冷た
く、寒かった。身体の中の全てを冷やし、凍らせようとするかのように。
 それに耐えきれなくなった私の血が、外の暑さに惹かれて私の身体から逃げ出そう
としていると感じた。

 笑いたくなった。
 でも、顔を、頬を歪めた瞬間、出そうになったのは笑い声ではなく、逆流して来た
胃液だった。

 更に、熱い雫。

 口から漏れる声にならない声。私は何も食べていない。最近、覚えている限りでは
何も口にした記憶がない。したとしても、戻ってくるだけだ。だから、もう、嘔吐す
る事が出来ないのだ。喉の奥がチリチリと痛い。焼け焦げた喉を、爪で引っ掻いたよ
うな痛みが、傷口を消しゴムでこするような痛みが、私を襲う。
 噴き出す汗。
 全身がまるで泉にでもなったように、汗が……毛穴から這い出ていた。
 きっと、もう下着はおろかシャツも、スカートも濡れていない所はないだろう。現
にスカートは座り込んだときに引っかかって捲れたらしく、腰の当たりで重くなって
、ただ身体を締め付けているだけのものになっていた。
 でも、寒い。喉の痛みは熱さを伴っているのに、私の寒さが絆される事はない。


 寒い、寒い、寒い。


 悪寒が全身を駆け抜け、今度はカタカタと不愉快な音を立てて歯が、鳴り出してい
た。時折、舌の端を噛み、血が口に溜まる。嫌悪感と嘔吐感で唾と共に吐き出したく
なるが、何も出来ず、血は喉に入ろうとしてへばりつき、引っかかる。

 血の味を知覚する。
 鉄の味。
 鉛の味。
 銅の味。
 薬よりも苦く、塩水よりも酸っぱく、唾液よりも甘い。
 そして、血は徐々に固形物へと変化し、喉を塞ごうとへばりつく。
 喉が燃える。

 そして、再び熱いものが零れる。


 ……認めなくてはならない。


 私は、泣いている。

 苦しいから?
 寂しいから?
 悲しいから?
 悔しいから?

 貴方はもう、いない。

 私は還ってきてしまった。

 貴方はもう、いないのに。

 私は還るべきではなかったのに。

 私は、ここにいる。
 貴方のいないこの世界に、ひとりでいる。

 自分が、自分の全身が一滴の雫となって、屋上に零れたのに、貴方はいない。


 ――認めたくない。認めてはならない。


 強く否定する。
 強く、強く。


 首を震わすように横に振る。
 硬く閉じた目から更に雫が零れる。
 

 怖い。
 貴方のいないこの世界が。
 辛い。
 貴方のいないこの世界が。
 悲しい。
 貴方のいないこの世界が。


 私は……貴方なしではいられないのに。
 貴方は……私を置いて……行ってしまった。

 そう、行ってしまった。

 何でもするのに、何でもしたのに。

 行ってしまった。

 遠く、遠く、私を置いて。


 残された私は還ってきた。
 私を望む人がいたから。
 私を必要としてくれる人がいたから。
 私に構ってくれる人がいたから。


 でも、違うの。


 私が還ってきたのは……。


 ――もう一度、あなたに会いたかったから……。


 私は貴方を求めて、貴方のいない世界に還ってきてしまったの。
 そして、知ってしまった。
 私が戻ろうとも、死のうとも、このまま生き続けようとも、貴方はもう……。


 ――私は、あなたに必要とされていなかったから。


 認めたくなかった。
 認めてはいけなかった。


 熱い、熱い雫。
 私の血。
 赤くない、心の血。

 痛い。
 とても痛い。
 止まることがない私の血。
 嗚咽が漏れた。


 ――あなたは、もう……。
 ――もう……。


 時間の概念が分からなくなった頃、まるでようやく夢から醒めたように、頭の中の
もやもやが薄れてきていた。
 無意識に、私は顔を上げた。
 首が痛い。
 だが、その首の痛みは気にならない。


 気が付くと私の身体の震えは止まっていた。私が、認めたから。
 食い込んだまま白くなっていた指を、何か引き剥がすようにゆっくりと身体から離
して、そのまま両腕をだらりとコンクリートの地面の上に垂らす。しばらく、そうし
てから忘れていたかのように背筋を、ぎこちなく伸ばす。身体が軋む。腰に鈍い痛み
を覚えながらも伸ばして、顔を上げた。瞼が重く、目がなかなか開かなかった。
 手を動かし、指で目をこする。右目をこすり、左目を指の先で弾くように払った。
 そして、私は自分の視界が晴れてきたのを感じた。屋上から校舎に戻る鉄製のドア
が見える。重そうで、硬そうなドアだった。
 目を下に落とす。スカートが捲れていた。AUTUMN LEAF(枯葉)の様な色をしたショ
ーツがわずかに覗いていた。手で、スカートを降ろし、直してからゆっくりと立ち上
がった。
 脚が、今まで負荷をかけていた脚が軽い痺れと共に、鈍痛を訴える。でも、私はし
っかりと立ち上がって、再び顔を上げた。


 空が見えた。


 いつだって、変わらない空が。


 私は、そんな空を見てから、少しだけ足下がふらつきながらも、支えなく歩いて校
舎に引き返す鉄製のドアのノブを捻る。鞄のある教室に戻る為に、世界に戻る為に。




 ――貴方のいない、世界に還る為に……。




                         <完>


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