by 久々野 彰
校舎から、一人の男子生徒が出てきた。
その男子生徒のしょぼしょぼしたような目つきが、明らかに彼は眠たげだと語っている。
事実、藤田浩之は眠かった。
「ふ・・・ぁぁぁ・・・・・・たりぃ・・・」
深夜番組の見過ぎだと言えばそうなのだが、特に見たい番組があったわけではない。ただ何となくやっていた洋画やドラマを適当に見ていただけだ。
別段見ないで早寝してもいいのだが、基本の生活習慣がそうなっていて、浩之の体内時計は深夜にならなければ眠らせてくれない。
不健全、この上ない。
…今日は寄り道しねーで帰って寝るか。
そうして寝ると、また遅くまで起きていないと夜眠れなくなることぐらいは浩之もわかるのだが、こういうことは理屈でない。
幸いというか、何というか今日に限ってはそんな彼を窘める幼なじみも、馬鹿にする友人もいない。それぞれ用があるらしい。
昇降口を出て、他の帰宅する学生同様に校門をのんびりした足取りでくぐろうとしつつ、大きく伸びをする。
「ふわぁ・・・ぁ・・・」
「やっほー、浩之ー」
「・・・ぁ・・・ん・・・?」
大欠伸と共に、全ての事がまるでうざったいと感じているみたいな表情をした浩之が顔を声の方に向けると、校門の脇で綾香がにこやかに待っていた。
「・・・よう、綾香」
「元気?」
「ああ・・・何だ、先輩か葵ちゃんでも待ってるのか?」
鞄を後ろ手に肩に提げたまま浩之は目を微かにつり上げるようにしながら、綾香を見て訊ねる。
ちょっと目つきが悪いせいで誤解されそうだが、浩之には他意はなく、ただ単純に訊ねただけだ。
そして、その目つきについて元々気にしないタチなのか、気付くほど繊細でないのか、恐らく前者な綾香は、軽くその質問に首を横に振った。
「ううん・・・姉さんには家で会えるじゃない。それに葵なら此処で待たなくても会えるわよ」
葵なら殆ど神社で稽古をしている。そっちで待った方が効率がいい。
「あ、そっか・・・じゃあ・・・」
「私は浩之に用があるの。ねぇ・・・今日、これから暇?」
綾香にそう言われ、浩之はちょっと驚いたような顔をする。
「オレは暇だけど・・・お前こそ・・・大丈夫なのか?」
浩之自身はこのままどこかに立ち寄るか、家に帰るかぐらいの選択肢しかないが、綾香の方は習い事も多くあるし、元々家の方が煩い筈だ。
「馬鹿ねー、だったら誘ったりしないわよ、最初っから・・・」
「ま、それもそーか・・・ふわぁぁぁ・・・」
浩之はあんまり深く考えずに納得したことにして、色々と考えることをしない。
深く、追求しようとは考えない性質故に。
代わりに出るのは大欠伸だけだ。
「眠そうね」
「まーな」
だから綾香の意地悪そうな顔をして投げかける言葉にも平然と答えて見せた。
綾香は動じずに相変わらず、軽快に、話し掛ける。
そのはっきりした雰囲気は、芹香と同じ姉妹とは思えないほどだ。
だが、何処か妙に似ている部分もあると浩之は感じていた。
「何かあるのか・・・」
「ううん・・・特に何かって訳・・・じゃないんだけどね・・・一緒に帰らない?」
「ああ、いいぜ」
浩之は時たま、綾香に会う。
葵の一件や、芹香との一件の時に出会って以来、街で会ったりしている。
それは遊ぶを約束した上だったり、単なる偶然だったりしつつも、お互いそれぞれが特に気を使うこともない、対等な立場になれる関係を築いていた。
以前には結構、浩之は綾香に色々な場所に連れ回されたりした。お嬢様学校に入れられたせいもあって、なかなか遊ぶのも大変らしい。
「今日は神岸さんと一緒じゃないんだ」
「べ、別にいつも一緒ってわけじゃねーよ」
「ふふ・・・どーだか」
浩之からすれば、他の友人同様に「誰に対しても自分の気持ちのままに付き合う」行為だが、特別扱いされることが普通な綾香には、それは新鮮でもあり、初めてそれに気付いた頃は軽い驚きでもあった。知らないからこその態度かと思ったのだ。
特に綾香を意識しないでいられる浩之に対して、綾香自身、安心感みたいなものを感じている。
二人して並んで歩きながら、商店街の方に足を向ける。
こうなった以上、そのまま帰ることはない。
適当に喋りながら、買い食いをしながら、遊びながら、二人は放課後を過ごす。
その解釈の差はあれども。
流石に町中で綾香が誰かは判らなくても、その容姿と制服はそこそこ学生など、周囲の目を惹く。
同時に、横にいる浩之も注目を惹く。
のんびり喋りながら歩いても、二人の意識は微妙にずれている。
綾香には周囲の視線を感じるだけの繊細さがある。
同時に笑い飛ばせるだけの、無視できるだけの剛胆なところもある。
逆に浩之は考えない。
自分が思い付かないものは、他人も大体はそんなものだと思っている。
杓子定規なものの考えしかできないので、自分の理解外のことは他人に任せる。
だから、自分が今、ほんの少しだけ特別だと言うことなど全く気づかない。
それが判る綾香には、ため息を付くしかない。
感嘆でもあり、羨望でもある。
「それでさぁ・・・姉さんったら・・・」
「ははは・・・先輩らしーな」
…誰にでも、同等に優しいヤツ・・・
それは、綾香にもわかっていた。
だからこそ、同等に・・・
「最近、葵の練習見に行ってないんだって?」
「あんまり邪魔しちゃ悪いからな・・・」
…同等にチャンスがあると思ったのにな・・・。
綾香にとっての浩之よりも、浩之にとっての綾香は同等以上ではなかった。
浩之は、浩之だった。
綾香には、それが浩之と会えば会うほど、話せば話すほど、痛いほど感じた。
わかってしまった。
ただ、それが誰にでも同じでないことに気付かされてしまって以来の事だったが。
それまでは、浩之から注がれるもの全てが、自分にも同じ分だけ降り注いでいるように感じた。
他の誰とも変わることなく。
だからこそ、綾香は注がれる側の自分の態度で、どうにでもなれると思った。
綾香が他の誰よりも積極的に誘えば、他の誰よりも近づけば、他の誰よりも・・・好きになることが出来さえすれば、好きになってくれるような気がした。
彼女の、愚かな誤解だった。
気付かなかった。
浮かれていた、舞い上がっていた自分一人ではきっと。
だが、それに気付かされてしまった今では、それは酷く残酷に感じた。
浩之が最初から自分たちに与えていたのがある女性への「余った愛」だったこと。
そう、気付いてしまった。
そうとしか解釈できなくなっていた。
今では。
だから、もう駄目だと綾香は自分で思う。
自分では、浩之にとって同じじゃない女性になれないと思う。
勝てないと、思う。
それ以前に、
周囲に、
自分の好きな人達に、
負けていた、
譲っていた、
そんな自分では、元々、駄目だったのかも知れない。
そう綾香は思うようになっていた。
自分を見つめ直してみると、失点を探し出そうとしてみると。
そしてそんな自分を自覚しつつ、
見てくれるかと、
気付いてくれるかと、
そんな風に考えた時点で、やっぱり駄目だったのだろうと綾香は心の中で幾度となくため息を付く。
無論、そのため息は隣にいる浩之には気づかせないし、気づかない。
臆病になった理由も、探し出せばある。
幼い頃の、思い出。
受け身では駄目だと、知っているのにその過去がちらつく。
そうしているうちに、浩之の誰にでも注がれる優しさの毒に犯されてしまっていたのだろう。
きっと。
「でさ、今度・・・あかり達とまたカラオケ行くことになってんだけど・・・綾香達も来るか?」
…酷いヤツ・・・。
ちょっとだけ、綾香はそう思う。
自分が全く傷つくことのない場所にいつでも立っているようで、悔しい。
「そうねー、嬉しいんだけど・・・ちょっと分からないわね」
「そうか? じゃあ、一応日時が決まったら連絡するよ。こっちも雅史の都合に会わせてやらねーといけなくてさ・・・」
誰にでも向ける気遣い。
…浩之はきっと、ずっとこのまま・・・変わらない。
綾香はそう思う。
夢中だった昔より、ほんの少しだけ視野を広くできるようになった今では。
でも、浩之を嫌いになれない。
広くできて、結構、自分が本気だと気付いてしまったから。
自分の本当の気持ちを分かった瞬間に、それが叶わない理由を見つけてしまった。
何だか、酷く寂しかった。
それにきっと気付くことのない浩之に対して。
気付いても、振り向こうとしないだろう浩之に対して。
「んじゃ・・・オレはここで・・・」
「あ、そっか・・・。じゃあ・・・また今度ねー・・・」
「ああ、またな」
綾香は手をあげて、軽く振る。
その手は、ヒラヒラと浩之の姿が見えなくなるまで、指だけを揺らせ続けていた。
「ふぅ・・・」
綾香は浩之の姿が見えなくなってからゆっくりと、その手を下ろす。
…やっぱり、勇気、出せなかったわねー。
綾香は、そう思いながらも、不思議と悔しさは憶えなかった。
満足している訳でも、ないくせに。
「さぁて・・・あたしも・・・ここでいっちょ、真面目に恋でもしよーと・・・」
綾香は自分に言い聞かせるように両拳の関節を交互に鳴らし、楽しげにきびすを返すと自分の家に向かって走り出した。
迎えの車がどうなっているかは考えなかった。
綾香はいつまでも振り返る思考など持ち合わせていない。
それが、自分にしかない利点だと言い聞かせて。
そう、思い込むことにして。
だから、綾香は・・・笑顔が似合う。
<完>