『そんな彼女の初乗り記念日』
2000/10/18 




「みんないるーっ?」


 日曜の昼時、そんな玄関からの声にそれぞれ居間で寛いでいた梓と初音が表へ出て
行くと声の主である千鶴がいた。
 彼女は今日も午前中から仕事があり、朝早く出かけたきりだった。
 そしてその隣には藤蔓で編んだような拵えの籠のついた白い自転車が止めてあった。


「あー」
「自転車じゃんか……どうしたんだ、これ?」
「買っちゃった」
 千鶴はテヘッと言いながらそう梓の問いに答える。
「買っちゃった……って何で?」
 梓と二人して自転車をしげしげと眺めていた初音が聞く。
「私が乗るからよ」
「乗る? 千鶴姉が?」
「千鶴お姉ちゃん、自転車乗れたっけ?」
「だから、今から練習するんじゃない」
 さも当然と言う顔をする千鶴。
「はぁ?」
「梓、練習するから補助お願いね」
「あ、ちょ…ちょっと……」
「私、着替えてくるから」
 そう言い残すと、ドタドタドタと足音を立てながら家の中へと消えていった。
「………」
「………」
 取り残された梓と初音は互いの顔を見合わせる。


「一体、どういうことだ?」
「さあ?」
「第一、今までずっと車で送り迎えしてもらっていたくせに……」
「千鶴お姉ちゃん。最近、運動不足だとか……」
「ダイエットってとこだな」
「うーん」
 そう断定する梓に、初音は曖昧な笑顔を返すだけで留めておいた。
「にしても、随分と洒落た自転車だな」
「本当だね」
「初音は自転車は乗れたよな」
「うん……梓お姉ちゃんと練習したんだよね」
「そうそう。楓は興味なさそうにしてたからな……つきっきりで一日中……大変だっ
たよな」
「あの時は怖かったよ……」
「自転車がか? それともあたしがか?」
「あはは……」
 またしても初音は曖昧な笑みで誤魔化した。
 彼女はこうして大人になっていく。
「それで傷だらけの初音と一緒に帰った時の千鶴姉の怒ったこと、怒ったこと……」
「うん、すごく怖かった……」
「ああ。あたしも死ぬかと思ったよ……」
 いつしか二人の声のトーンは落ちていた。
 こうしてトラウマというのは確実に人の心に根づいていくらしい。
「そう言えば楓は自転車乗れたんだっけ?」
 梓は頭の中の雑念というか恐怖の記憶を振り払うように話題を変える。
「ええと、未だに乗ったこと無いんじゃないかなぁ…」
「そうか?」
「うん。見た事ないし」
 二人して楓が自転車に乗っている姿を想像するが、思い浮かばなかった。
 納屋に一台自転車があるのだが、たまに初音が使うくらいで殆ど使われていない。
「ふーん。……で、アレは本気でどういう風の吹き回しなんだ、一体?」
「うーん。千鶴お姉ちゃんて時々……」
 初音が何か言いかけると、
「おまたせっ!!」
 バンと引き戸を勢い良く開いて、着替えてきたらしい千鶴が現われる。
 大き目の無地の白の半袖Tシャツに、膝上までの丈の薄いグレーのカプリパンツ。
 自慢の長い黒髪は後ろで念入りに束ねて、結わえ付けてまとめてあった。
 化粧も一度落としてきたらしく、殆どスッピンだった。
 残念ながら、完全にスッピンになれる年齢は去ってしまったらしい。


「じゃあ、早速近くの公園に行きましょう」
「別にいいけど……千鶴姉。どうして今更急に自転車なんて……」
「梓!」
 戻ってきた千鶴は梓の目の前にずいと顔を近付けて言った。
「な、なんだよ!?」
「うふふ、あなたはわかってないわね」
「は? な、何が…?」
 喋りたくてたまらないといった風に、口元をウズウズさせている千鶴に梓は圧倒さ
れる。
「自転車は自分から踊る風と対話できるのよ」
「はぁ?」




 時に激しく 時に穏やかに――

 季節のうつろいと共に 風の密度が変わるのがわかる

 周りを包む 流れる緑や雲も



 全て自分の脚から対話が始まるのよ…



「それって凄いことだと思わない?」
 そう言ってウフフと笑いながらその場でステップを踏んでクルクルと回転する千鶴
を見ながら、
「遂に自分の料理でも食っちまったのか、千鶴姉?」
「違うよ、梓お姉ちゃん。あれはね、漫画の受け売りなんだよ」
 少し離れてヒソヒソ話をする梓と初音。
「漫画ぁ?」
「うん。こないだ耕一お兄ちゃんが来た時にね、部屋にあった漫画の単行本を最近に
なって集めはじめたんだって」
「ああ。確か一冊ウチに置き忘れてた奴か。確か千鶴姉が今度上京する時に届けに行
くとか言ってた……」
 そう言って、千鶴を見――


「二人共、何してるの? 早くいらっしゃい!」


 気づくと、千鶴は既に自転車を押しながら外へ出ていた。
 やる気、まんまんのようだった。


「さ・て・と」
 公園につく。
 千鶴は自転車に跨るとヘルメットを頭に被った。
 他にも肘あて、レガース、サポーターと身体の至る部分をガチガチに固めていた。
「これで少し位転倒しても怖くないわ」
「そこまでしなくても……」
「明日は役員会議があるのよ! 傷だらけの身体で出席する訳にいかないじゃないの」
「明日会議があるんだったら…」
「あなたたちと違って、私は暇な時間はないのよ! さ、準備は良い?」
「………」
「………」
 最早何も言うまいと言った顔をして互いに顔を見合わせる二人。
 初音は漠然と「わたし私達って傷とかはすぐに直るんじゃ…」とか思ったが口には出
さなかった。
 万が一、年齢と回復力が比例していた場合を懸念してのことだった。



 そして、初音が公園脇に止まっていた屋台のクレープ屋で買ったクレープを食べな
がら応援する中、千鶴達の練習は始まった。
「………」
「さ、行くわよ。梓」
「あ、ああ…」
「………」
「Go!」
「うりゃりゃりゃ……そりゃ!」
「あらっ!? あらっ! あらあらっ!? キャッ!!」
「………」


 ガシャッ


「梓!! 何、いきなり手を放してんのよっ! 痛いじゃないのっ!」


 ゲシッ!!


「うぐべっ!?」
「………」
「ほら、倒れてないで押しなさいっ!」
「あ、あのな…千鶴姉……」
「いーから。今度は放す時はそう言って! いいわねっ!」
「………」



「手を放すタイミングが悪いのよっ!!」


 バキィッ!!


「もぅっ! どうして上手く行かないのっ!!」


 グシャッ!!


「あー、もうムカツクわねっ!!」


 ベチッ!!


 地面に横倒しになった自転車を前にして、
「もーっ、いつもあとちょっとのところなのにぃっ!!」
 と、フルフルと首を振って悔しがる千鶴。
「あのー、千鶴お姉ちゃん」
「何よ?」
「梓お姉ちゃんの方が傷だらけだけど……」
「下手だからよ。仕方ないじゃない」
 毅然と言い放つ千鶴の後方で、ボロボロになって倒れている梓が、そう言い切る彼
女を恨めしそうな目で見つめている。
「そ、そりゃー結構な事で……」
「………」
「このバランスを保つにはもう少し握力が必要なのかしら? でも、梓みたいな馬鹿
な力はか弱い私にはないし……」
 馬鹿と力の間に「な」が入っていることを気にかけた初音は、千鶴に背を向けて黄
昏ている梓の肩を叩いて、千鶴を指差す。
「ねぇ、いいの? 梓お姉ちゃん」
「放っておいてくれ……」
 それに対して生気の欠片も無い顔をして梓はそう言いながら、倒れたままの自転車
を持ち上げていると、
「そうよ、私達は無敵のエルクゥ姉妹なのよっ! どうしてこんな事に気づかなかっ
たのかしら?」
 千鶴がポンと両手を叩いて何かを思いついた顔をする。
「へ?」
「その力で自転車を制御すれば簡単じゃない!」
「はぁ? ちょ、ちょっと待…」
「梓、どいてて!」

 ドシッ!

 両手で梓の身体を突き倒すように自転車を引ったくる。
「ぐべっ!!」
 カエルの潰れたような呻き声をあげて吹き飛ぶ梓に、初音は身体を軽く捻って避け
る。巻き添えは嫌らしい。
 そして千鶴は自転車に勢い良く跨った。


「今度はさっきみたいな事はないわよ」
 軽く舌なめずりをした千鶴はそう言うと、目をキリキリと細めた。
 赤く、瞳を光らせる。
 周囲の空気が一変する。
 喧騒が消え、風も無いのに空気が収斂されるような音を立て、不意に温度が下がっ
たような感覚をその場にいるものに与える。
 そしてビリビリと自転車が震え、




  パァン! ベキッ!!




 サドルだけを握り締めた千鶴はアスファルトの上に転がっていた。




「………」
「………」
「………」
 サドルを握り締めたまま横倒しになって動かない千鶴。
 泥まみれになって地面に這いつくばったままそれを見る梓。
 夕焼けを見つめる振りをして横目で確認し、冷や汗を流す初音。
 誰もピクリとも動かなかった。
 いや、動けないでいた。
 その場に静寂が訪れ、だがそれはすぐに破られた。


  チリンチリン


 軽いベルの音。
 楓が家の納屋にあった自転車に乗って公園の敷地内へ入ってきた。
 そして千鶴達の前でブレーキをかけて止まると、転がったままの千鶴を見降ろす。


「あ……」
「楓お姉ちゃん!」
「え……?」
 ポカンとした顔で楓を見る梓。
 唐突な楓の登場に素直に驚く初音。
 ようやく我に帰って隣に来た楓を見上げる千鶴。
 そしてその3人に見つめられながら、楓はポツリと呟いた。





「勝った」





「………」
「………」
「………」


  チリンチリン


 そしてそのまま自転車をこいで楓は立ち去っていく。


「………」
「………」
「………」
 唖然としたまま、去っていく楓の後ろ姿を見つめる三人。
「………」
「………」
「……こっ」
 千鶴の身体が震える。
 ビクッとその姉のオーラに震える梓と初音。
「………」
「………」
「……このガキィィィィィッ! 待てぇぇぇぇ!! 妹の分際でぇぇぇぇぇぇ!!」
 サドルを握り締めたまま、千鶴は走り出した。
 砂煙を上げ、梓を弾き飛ばし、自動車以上のスピードを出して。



 数分後。
「ひょっとして楓お姉ちゃん。こっそり練習してたのかな…?」
 ようやく我に帰った初音がそう言うと、
「……自転車、いらねーじゃん。ウチ」
 梓が公園の記念樹に激突したまま呟いた。





 そんな楓の初乗り記念日。





                          <おしまい>


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