『やつあたり』
2000/05/12 




「ちーちゃん、今、帰りかい?」


 聞きなれたその声に千鶴は立ち止まり、振り向いた。


「あ、足立さん……」


 足立が千鶴のことを昔からの愛称で呼ぶ時は必ず身内の中での時だ。
 だから丁度、周りに人気が無いからとはいえ、ビルの玄関口で彼がそう声をかける
ことは珍しかった。


「ええ。さっき終わらせたばかりで……今、帰る所です」


 千鶴は作り物でない、自然な笑顔を足立に向けて答えた。
 彼女のその柔らかい本来の彼女の持つ笑顔を見ることが出来る人間は限られている。
 そして足立もその一人だった。


「良かった。危うく行き違いになるところだった」
 微かに息を切らしているのはどうやら会長室に寄っていたらしい。
「何か急用ですか?」
 不安げな表情を浮かべる千鶴に、いやいやと片手を振ってからもう片手で持ってい
た包装紙でくるまれた小さな包みを、
「いや、急用って訳じゃないんだけどね。ほら、今日は……」
 そう語尾を濁しながら見せる。
「え……? 覚えていて下さったんですね」
「ちーちゃんの誕生日を僕が忘れる訳ないじゃないか」
「本当にありがとうございます」
 嬉しそうに丁寧に足立にお辞儀をする千鶴。
「今日はやっぱり定時だし……これから色々とあるんだろう。だから急いで渡してお
かなくちゃいけないと思ってさ……」
 足立が笑いながらそう言うと、千鶴は今度はちょっぴり寂しそうな微笑みを浮かべ
て、
「でも、もうそうやって誕生日をお祝いできるような歳じゃなくなってしまいました
わ」
 と言って足立からプレゼントを受け取る。
「そうかい、まだそんな風に言う程じゃないと思うけど」
 そう足立は言うが、千鶴はその寂しげな微笑みを浮かべたままだった。
「それに今年は特に何もする予定はありませんから」
「え、そうなの?」
「ええ。楓や初音はクラブがあるとかで今日も遅くなるみたいですし、梓は向こうに
行ったっきり連絡が無いし……耕一さんも……」
「……」
 最後の「耕一さんも……」の部分で一段とトーンが落ちていたが、それを自分で押
し隠すように、
「ですから今年は特に何も予定してないんです」
 と、再び千鶴は言った。
「何だ、そうだったのかい」
「ええ」
「だったら、どうです? 一杯ひっかけていきませんか?」
「え?」
「いや、折角の誕生日に年寄りと酒を飲むというのも退屈でしょうが……勿論、奢り
ますよ」
「そんな……悪いですわ」
「いや、どうせ僕もこのまま帰るだけだしね。あ、ちーちゃんさえよければ、だけど
もね」
「んー?」
 そこで人差し指で顎を下から持ち上げるような仕種をして考えると、
「じゃあご馳走になっちゃいましょうか」
 ペロリと舌を出す。
「ええと……じゃあ、行きましょうか」



 足立が千鶴を連れていったのは、市街でも有数の料亭だった。



「実を言うと、ここには仕事では来ないようにしているんだ」
「あら、そうですの」
「うん。どーしても落着かないからね。だから仕事ではここじゃなくて、駅前の方の
店を使うことにしているんだ」
 上着を脱いでハンガーに掛けながら足立が言う。
「あら、そんな事、公言して宜しいんですの?」
「いやぁ、向こうには信用できるから選んでると言っていますし」
「まぁ」
 二人が笑い合ったところで、徳利と箸受けの小皿が運ばれてきた。
「それでは、ちーちゃんの誕生日を祝して……」
「はい」
「かんぱーい」


 そして暫く酒を飲み、料理をつついていたところで、足立がそれまでの雑談から話
題を変える。


「ところで……耕一君は、鶴来屋を継ぐ気はあるのかな」
「どうなんでしょう? 耕一さんとしては血縁者というだけで椅子に座る気はないよ
うですけど……」
「僕としては、彼にちーちゃんを支えて欲しいんだけどね」
「私もそうなってくれれば心強いんですけど……楓もこっちで暮らしたいでしょうか
ら」
「うーん。でもまさか楓ちゃんとはねぇ……ちょっと意外だったかな」
「そうですか?」
「うん。こう言うと悪いけど」
「でも、とてもお似合いだと思いますよ。あの二人」
「楓ちゃんも昔みたいによく笑うようになったしね。賢治君の面影を感じ取ったのか
も知れないね」
「でも……それとはまたちょっと違うみたいなんですけどね」
「それで、梓ちゃん達とも……」
「ええ。特に何も問題は起きていないようですけど」
「ふぅん……やっぱり初恋は実らないのかなぁ……」
 そうため息と共に言い出す足立に、
「!? あ、足立さん……そんな、いきなり……」
 千鶴は赤くなりはじめていた顔を更に赤くして狼狽する。
「え? 何だい?」
「そんなわ、私……初恋……じゃ、その……」
「え? ……あー、いや……あはは。ごめん。僕が今考えてたのは、梓ちゃんのこと
で……」
 足立が、困ったような顔をしてからそう言うと、
「あ、あず……さ? え、ええ。そうですね」
 一瞬、呆けた顔になるが、すぐに自分を取り戻す。
「紛らわしかったかな。御免御免」
「ほ、本当に……ビックリしちゃいました」
 そして照れ隠しのように杯を干すと、大きく息をついて
「でも皆、耕一さんが楓の事を真剣に思っているのは判っていますし、楓の気持ちも
知っていますから……大丈夫ですよ」
 真面目な顔をしてどう呟くように言う。
「もう、いいんです……」
「……ちーちゃん」
「大丈夫。私、強いんですよ」
 足立に向かって、千鶴はニッコリと微笑んだ。


 その一時間後。


「ち、ちーちゃん」
「にゃに。あどぁちさん?」
 真っ赤に染まった顔をした彼女の目は完全に据わっていた。
「もう、そろそろ引き上げた方が……」
「あによー、ひょうはとことんのもーっていったじゃないのよ」
「いや、それは……」
 ずっとくだをまいている千鶴に、足立は防戦しか出来ないでいた。
「だいたいねー、ぜんせなんてものもちだすなんてひきょーよ」
「……」
「わたひだって……こうちゃんがはんずぼんはいてたころからめーつけてたんだから」
「あー、いやその……」
 それはショタとか言う部類に入りそうな趣味の世界である。
「むねらってあのこよりはあるんらからぁ!」
「ち、ちーちゃん。ほら、あんまり大声では……」
「なによー、ほらみてみなさいよーっ!!」
 スーツの上着を脱いで、ブラウスのボタンを外しかける。
「ちょ、ちょっとちーちゃんっ!?」
「これのどこがひんずーだっていうんです!? そりゃ、あずひゃみたいなおばけま
んじゅうにはかないませんけどね」
「あー、そ、その……」
「あ、あの……そのだね……」



「こうひちさんのぶわぁかーっ!!」
「はい?」


 その耕一が座敷の入り口から顔を出す。
 場が硬直する。



「…………」
「…………」
「…………」
「こ、こうひちさん?」
「こ、耕一君?」
 耕一が目を点にして見ている光景は、暴れて半裸になった千鶴が倒れた足立の上に
跨っているような格好だったりする。
「あ、その……まさかこんなこととは露知らず……」
「ど、どうして……」
「……」
「い、いや……その千鶴さんの帰りが遅いから、ちょっと探しに来てて……」
「……」
「……」
「きょ、今日は千鶴さんの誕生日だから梓も色々作って皆で待ってたんだけど……あ
、あー、いやその、ぜ、全然他意はなかったんでその……」
「……」
「……」
「み、皆には俺からて、適当に言っておくからその……じゃ、じゃあ!」



 完全に誤解したらしい耕一は転がるように座敷から出ていく。


「ちょっ、ちょっと……」
「お、お呼びでない? こりゃまた失礼しましたーっ!!」


 そのまま店を飛び出すように駆け出していく耕一を慌てて足立が追いかけるが、鬼
の脚力を生かした耕一の姿はあっという間に夜の街へ消えていった。



 事の急展開に愕然としたまま足立が戻ると、そこには真っ白な石灰像になった千鶴
がサラサラと足元から崩れはじめていた。




 一方、柏木家では千鶴の帰りを、千鶴を探しに行った耕一の帰りを姉妹が待ち続け
ていた。
「……」
「……」
「……」
「……千鶴お姉ちゃん、遅いね」
「ホント、どこほっつき歩いているんだか」
「……料理も暖め直さないとね」
「耕一さんも遅い……」
「あいつも何やってんだか。あたしもちょっと外出て探してみようかな」
「あ、それだったら私も行く!」
「耕一さん……」




 そして夜の繁華街では、

「どうしよう! どうしよう! みんなに何て言ったら!?」

 パニックになった耕一が通行人をなぎ倒しつつ風のように走り続けていた。






 こうしてこの騒動は翌日の足立副社長解雇の辞令が出てもなお、各々の心の中に引
き摺ることになった。




「なぜ私がっ!?」






                          <おしまい>


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