『里帰り』
1999/08/30 




「……ん……」
 部屋全体がジリジリと照りつけられた暑さで暖まっている。
 そんな空気自体の暖かさが、体感として暑さを増幅させる。

 否応なく起こされる程に。

 初音がゆっくり寝ているように言っていたことを忘れたわけではなかったが、寝て
いられる状況ではなかった。
 全身から汗が噴きだしているようで、気持ちの良い目覚めではなかった。

「あじー」

 そう、呟いてみる。
 だらしなく舌を出したのは、雰囲気だ。

 ジジジと庭から蝉の鳴き声が聞こえてくるのがわかった。


 夏はもう、半ばに差し掛かっていた。




 『里帰り』




 昨日から久しぶりに、実家に帰った。

 東京の大学に出て、一人暮らしを初めてもう三年目だ。
 たった、三年だ。

 それなのにこの家に帰ってきた時、自分の家の気がしなかった。
 あれだけ長く住んだこの家よりも、東京に出てきてから借りた安アパートの事の方
が、自分のいる場所に相応しい気分になっていた。
 二年の時は夏冬共に帰ってこられなかったが、一年の冬には帰ってきていたのだか
らこの家に戻ってきたのはもっと短い間隔だと言うのに。
 自分がいないことが、この家にとって普通だということがあたしに感じられるから
だろうか。

 懐かしい、でももう今の自分とそぐわない生活の場所。

 そのくせ、部屋を出て洗面所、トイレに行く足取りは無意識のままで動くことが出
来る。
 懐かしさを感じた時点で、今の自分との関わりは薄れているくせに、こういう習慣
は一生変わることはない。

 洗面所で顔を洗って、部屋に戻って寝間着を脱いで体を拭き、箪笥から服を取ろう
として引き出しに手をかけたところで動きが止まる。

「あ……」

 その手を、そっと下ろす。
 そして、視線を床におろす。
 大きめの旅行バッグが目に入った。

 数年ぶりの自分の部屋が、荷物置き場になっているどころか、いつも掃除がされて
いたせいで、久しぶりに部屋に入ったときはその数年前に戻ったような気分になって
いた。
 ただ、自分までその頃に戻れなかったのは、やはり時代が経っていると感じたから
だ。部屋全体が色褪せて見える。
 はっきりとわかるポスターとかを貼る趣味はなかったが、流行遅れの品々は部屋の
至る所で見つけることが出来る。
 懐かしいと感じると共に、この部屋の時間が自分がいなくなった時から止まったま
まだということを実感する。

 バッグから取りだした着替えを終えると、ベッドのシーツ、タオルケット等を剥い
で自分の脱いだ寝間着や下着と共に洗濯籠に入れておく。後でまとめて洗濯すること
にする。これも昔からの習性だが、不思議と懐かしさは感じなかった。

 シャッ トン
 シャッ トン
 シャッ トン

 トントントン……

 包丁が野菜を切る音、包丁の刃が木のまな板を叩く音。
 何も昔のまま、変わっていない。

 換気扇が回る音。
 電気釜から漏れてくる蒸気の音。
 ガスコンロの炎の音。

 変わらない、音。

 ただ違うのは、今、握っている包丁が、木製の柄が自分の手の形にすり減っている
かつて使っていた包丁ではなく、ステンレス製の軽い包丁に変わっていることだ。
 包丁が軽くなった分、切る時に力がいると思った。

 かつては毎日この時間、ここで包丁を動かしていた。
 この音に囲まれて、この台所に……あたしはいた。

「あ、梓お姉ちゃん……」
「おぅ、初音。お早う……」

 ガラス製の器に切った生野菜を盛りつけた頃、初音がやってきた。

 あたしがこの家を出て行ってから、彼女がこの台所の主となって久しい。

「朝食の支度はわたしがするっていったのに……」

 言葉の奥にちょっとだけ、恨みがましいニュアンスが込められている。
 彼女にとって、自分の料理の腕をあたしに見せつけたい気分が少しあったのだろう。
 彼女の最初の料理の先生は、あたしだった。
 昨夜の彼女一人で作ったという料理は絶品だった。

「梓お姉ちゃん、ゆっくりしていていいのに……」
「御免。暑くて寝ていられなくて……それにほら、あたしって貧乏性なのかじっとし
ていられなくてさ……」

 そんな言い分にも、

「もう、梓お姉ちゃんったら……」

 もう、しょうがないなぁといった顔を向けて初音が微笑む。
 こんな妹の顔は相変わらず、昔のままだ。

「じゃあ、一緒に作ろう」
「ああ。じゃあ、初音は……」

 そこまで言いかけて、ハタと言うのを止める。

「何か、昔みたいだね」

 そう初音が言って、また笑う。
 あたしも、同じ事を思った。
 だから、笑って見せた。

「何か、こうして二人並んで台所にいるとね……」

 味噌汁のダシの取り方から、魚の焼き方までそれ程違いがあるわけではない。
 あれこれと話しながら、あっと言う間に朝食が出来上がっていく。
 昔と違うのは、初音の手際の良さだけだ。

「ふわぁ……あ、おはよぅ……」
「あ、千鶴お姉ちゃん、お早う」
「千鶴姉、早く顔、洗ってきな。朝メシ、すぐに出来るから」

 昨日遅くまで仕事があったらしい千鶴姉が、のろのろと起きてくる。
 すっかりだらけきっているが、これも初音が家のことをしっかりとこなしている何
よりの証拠と言えた。
 無論、千鶴姉の事を考えれば、誰でもしっかりせざるをえないのだが。

 元々しっかりしていた初音は、見ないうちに更にずっとしっかりしていた。
 大学生になった初音だが、東京の私大を選んだあたしとは違って地元の国立大学を
選択した。千鶴姉の母校でもある。

 単純にこの家を離れたくなかったのかなとも思ったし、
 逃げ出した格好のあたしに変わって千鶴姉の面倒を買って出てくれたのかなとも思
う。

 それとも、彼女にとってこの家以外に自分が存在することなど、考えられなかった
のかも知れない。
 実際の所は聞いてみないと判らないが、聞いてみる類のものではない。
 ただ、将来的に千鶴姉さえ許せば、鶴来屋に就職したい旨を漏らしていた。

 初音はここを動くことを考えていない感があるが、実際の所は考え方もしっかりし
ているし、別に理由があるのかも知れない。
 それだけ、初音はしっかりしていた。
 多分、今の初音の頃のあたしと今の初音では、ずっと初音の方が大人びていて、し
っかりしていて、落ち着いた雰囲気がする。

 ……それは前からか。

「あ、そろそろ梓お姉ちゃん、起こしてきてよ」
「え?」
「わたし、お鍋見てるから……」
「あ、そうか?」
「うん」

 その笑顔には思わず、あたしでもどきりとする程美しさを感じた。

 既にもう、初音は可愛いと言われる雰囲気ではない。
 本人は照れたまま本当のことを言わないが、かなり求愛の方も色々な男からひっき
りなしにされているようだ。
 もっとも千鶴姉に言わせれば、自分も今の初音ぐらいの歳にはかなりもてていたと
いうが、兎に角今の初音には美少女という表現がぴったり似合う。

 まぁ、あたしが男でもやっぱり放って置けない。
 それ程の美人だ。

 …そういえば、かおりはどうしてるかな?

 そんな事を考えていたせいでもないが、高校時代、レズの噂がありやたらにあたし
に懐いていた少女を思いだした。

 あの忌まわしい事件が、全てを変えてしまった。
 保護されて病院に入院していた彼女の顔は、いつも怯えきっていた。

 …今、どうしてるのかな……。

 いつしか彼女が退院して、家族と一緒に引っ越したことを随分後で知った。
 今は何処でどうしているか判らない。
 ただ、心身共に良くなってくれていることを願うばかりだ。
 ただ願うしか、あたしには出来ないから。

「梓お姉ちゃん?」

 不思議そうに、あたしの顔を覗き込む初音。
 その覗き込むような格好は、以前の可愛らしさの面影が漂っている。
 いくら綺麗になろうとも、身長だけは変わらない。

「あ、悪い……じゃあ、ちょっと頼むわね」
「うん」

 慌てたように言ってその場を離れるあたしに、クスクスと口元にお玉を持った手を
当てて微笑む初音。
 いつまでもあたしが姉で、初音は妹のままな筈なのに、距離が昔より縮まったよう
に感じてしまうのは、初音が大人になったのか、あたしが変わらないままなのか。


 台所を出て、廊下を歩いて二階の部屋に登る階段の前で、千鶴姉と出くわした。
 今度はキチンと身だしなみを終わらせた後らしく、スーツに着替え、化粧も済ませ
ているようだった。

「あ、梓……」
「千鶴姉、起こして来てくれなかったの?」
「……へ? あ……ええ」

 曖昧な返事は肯定なのか、否定なのか。
 昔から、こういう些細なことから肝心なことまで惚けたり、誤魔化したりする癖が
この姉にはある。
 そしてそれが発覚すると子供っぽい笑いで済ませてしまおうとする。
 意識してしているだけに、始末が悪い。

「じゃあ、起こしてきた方がいいんだね……」
「…………」

 すれ違った千鶴姉からは、返事は返ってこなかった。
 あたしが振り返ると、こちらに背を向けたまま居間の方に足取りを早めていた。

「……ったくっ」

 聞こえが良しに、舌打ちをしてみせる。
 が、それを気にした様子もなく行ってしまったところを見ると、起こしには行った
らしい。
 きっとこちらに見えないところで舌を出しているに違いない。
 自分では可愛らしいと思っている仕草で。

 …いつまで経っても、変わらないな……。

 それが安心できるようで、腹立たしいような気分にもなる。
 きっと、こっちは一生変わらないのだろう。


 ちょっと老後の姉の想像をしてみる。
 少しだけ気が晴れた。

 そんなことを考えながら、目的の部屋の前に辿り着く。
 そう言うと大袈裟だが、あたしは大きく息を吸い気持ちを落ち着かせる。
 そうしてから、あたしは勢いよく襖を開けて叫んだ。


「耕一っ!! いつまで寝てるんだよっ! 朝食の時間だよっ!!」

 昔と変わらないように、意識してみた。
 そう言っても、こういう呼び掛けをしたのは、僅かな日々のなかの事だったが。
 でも、あれが全ての始まりで、今のあたし達がいる。

「わかってるって……ったく……さっき来た千鶴さんとはエライ違いだな」
「そりゃ、結構! 起こされているんだったらもっとしゃっきりしなさいって!!」
「へいへい……」

 社会人になったアイツと、大学生になったアタシの……

「耕一さん……お早うございます」
「お、楓ちゃん、お早う」
「……」
「ほら、楓だって待ってるんだから早く着替えろよ!」

 この家抜きの、生活を……。

「別に夏休みなんだからそんなに慌てる必要もないだろう?」
「…………ご飯、冷めてしまいますから……」
「ほらほらほら、急いだ急いだ」
「はいはい。ったく、アパートじゃ大人しいくせに」
「耕一っ!!」
「あっ……」

 耕一がこの家に居場所を求めなかったように、

「イテテ……」
「耕一さん、大丈夫ですか?」
「ああ。なぁ、楓ちゃん。俺、目が覚めたよ。やっぱり俺には君しかいない」
「こ、耕一さん……」
「こらこらこら……馬鹿言ってないで、ほら早く早く……」
「へいへい……じゃあ、着替えるから……楓ちゃん」
「はい……」

 この家があたしの居場所でなくなって、遠くなっていく。

「耕一ぃ……アンタねー」
「ははは、妬いた?」
「馬鹿っ………………んっ……」
「……ぅん…………じゃ、着替えるから……」
「…………は、早くしろよ」
「ああ」

 そして、あたしも変わっていく……。


                            <完>


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