『チャット・ゲーム』
1998/07/27 




 平日の午前中。
 それでも人気の少なくない街並み。
 飽きる事の許されない日々の繰り返し。

 私は、茶色の帽子を深く被り、チェックの柄のTシャツに薄い抹茶色の長ズボンに
身を包み、足下はサンダルでもなく、少し薄汚れた白のスニーカーを履いていた。
 肌は化粧より乳液を選び、唇はルージュよりリップクリームで自分を演出する。
 目つきがややキツくなっているのは日差しのせいか、心のせいか。

 ――いつもの自分でない自分を演出する為の細工。

 駅を出て、歩き馴れた道を歩き、目的のビルの最上階へと迷わず登る。
 途中、エスカレーターの端でパンフレットを手渡されそうになるが、無意識のうち
に軽く手で拒絶の意を示す。
 笑顔に隠れた不機嫌そうな視線を余所に、私は最上階へとたどり着く。

 他人が休みの時、働く苦痛と、他人が働いている時、遊ぶ快感。
 それらがないまぜになって生きている今。
 それを感じる瞬間。
 少しの背徳感は、優越感の海へと沈んでいき、それは繰り返される日々のうちに泡
のように消えて無くなる。
 そしてただ、詰まらない日常のひとこまへと埋め込まれていく。
 それが、私という人間の今であり、限界でもある。

 内心のそんな苛立ちを抱えたままだったせいだろうか、仕事柄、身に付いた足取り
の勢いの速さを気が付きつつも、直せないでいることに苦笑しつつ、私はエスカレー
ター脇の目的の場所へと脚を運んだ。

「――開いているかしら?」
 主語に"今日も"の意味が隠れている事にこのカウンターの女性店員は気付いている
だろうか。

 私はここでは普段の自分を捨てる。
 忌まわしい過去に苛まれている自分を解放する為。
 あの日以来、悩ませられ続けていた自分を変えるには自分を捨てるしかなかった。
 それが、一時しのぎのものだとしても。

 ここにはもう、相田響子という女性ライターは存在しない。

 世界中に今、チャットゲームなる新たなる電子ゲームが存在している。
 そこは欧米や日本は勿論、韓国や中国までもに広がりを見せている、新しい分野の
世界である。
 これほどまでにこの分野が進出できた理由こそ、

 ――普段の自分でない自分を生きることが出来る

 から。

 だから私はここにいる。
 インターネットカフェ。
 そして入る、チャットルーム。

 カメラの入った鞄をリュックに変え、携帯電話がMDウォークマンに変わっていて
、肌身離さず持つ手帳はフロッピーディスクに化けていた。
 ここの私は私じゃないから。

 女性店員の誘導に任されたまま、私は一台のマシンと向き合う。
 見馴れたパソコンと向き合う。

 自分のマンションにもパソコンはある。
 だが、相田響子という女の匂いの染みついたあの部屋では、自分を捨て去ることな
ど到底出来ない。
 だから私はここにいる。

 私は、誰。
 あなたは、私なの。
 いいえ、ここに私はいない。
 あなたが私でないなら、それでいいの。


 それが、満足のいく答えだから。
 だからこそ、私は演出する。


 精一杯の演技力と演出を身に纏って。
 取り繕う。
 自分を。
 私でない自分を。


 …こんにちわ。みなさん

 …――さん、こんにちわ


 ここでの私は一人の男に過ぎない。
 よく女性が演じる男は粗野で乱暴で、豪快さばかりを押し出すことしか出来ないと
酷評される。
 だが、私が演じるのは気障で、繊細で、臆病を気取りながらも冷静さを保つやや自
己主張の出来る、男。
 今まで、誰に疑われたわけでもなく、疑われたと言っても、誰もそれを口に出した
りはしない。
 それが、不文律のルール。
 お互い、自分でない自分を演じているから。

 ――否、自分の全てをさらけ出せる人間がどれほどいるだろうか。

 気付かないうちに、どこか、見栄を張ってしまう。自分を飾ってしまう。


 全ての人間が自分を偽る。人前ですらそうだろう。夫婦の間でさえそうだろう。親
子の間でもどこか、素直にさらけ出せないのが人間だ。
 意識的にせよ、無意識にせよ。

 それは生物の防衛本能によるものか、人間が生まれつき卑怯な生き物だからか。


 ――だが、人間はそれだけではない……


 自分の知らないことを知りたがる欲望。
 自分だけが知らないことに耐えられない恐怖。
 自分だけが知り得る事への優越感。

 知る、こと。
 見る、こと。
 聞く、こと。
 自分をさらけ出さすに、相手を得ようとする欲求。
 これもまた、人間だ。


「――さんですか?」

 不意に、近くの席から男が呼び掛ける。


 ……これもまた、人だから。


 私は顔も上げずに苦笑を口元に浮かべて、キーボードを叩く。


 ――この○○○野郎っ!!


 私は男を見る。
 男は笑った。
 私も、笑った。


 私は一つを失い、一つを得た。
 この男を。

 男は一つを失い、一つを得た。
 この私を。


 損得などそこにはない。


 ――これもまた、人間故に。


 私はその日、男に誘われるまま、休日の午後を過ごす。
 私と違い、見た通りの、思った通りの男。
 演じているのかどうかも気付かせない、変わらない男。

 でも、私と同じ条件である。
 知るまで、知り合えなかった事であるから。
 損得など、そこにはない。


 男と駅で別れ、私は自分の匂いのする部屋へと戻るべく電車に乗る。
 知らないうちに汗で貼り付いていた帽子を取り、額を手の甲で拭う。
 窓に映る自分を見て、思う。


 きっとまた、私はあそこに行くだろう。
 自分を偽りに。
 自分を演じに。


 チャットでの私。
 普段着の私。
 相田響子の私。
 相田響子でない私。


 それもまた、私でしかないことに気付きながらも、私はまた、自分でない自分を演
じに、あの店に行く。

 それが、私が私であることを忘れる一瞬であるから……。


                             <完>


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