『合い言葉はしあわせ』
1998/04/20 



「耕一さん……何だか、不思議な気持ちです」
「不思議って……?」
「貴方とこうして二人並んで歩く事が出来るなんて……」
「そんな大層な……」
「いいえ。大層でも何でもないです。正直な、気持ちです」
 病院からずっと並んで歩く俺達。タクシーを呼ぶと言ってくれた病院側の配慮を断
って千鶴さんは俺と共に徒歩で病院を出た。

「………」
 じっと俺の顔を見つめる千鶴さん。俺は何だか照れくさくなる。
「いい、天気ですね……」
 だからだろうか、こんな馬鹿な事を言ってしまう。間が持たないのと、照れくさい
のと両方から。
「本当に……」
 千鶴さんも顔を上げて、正面を向いた。
「本当に、いい天気ですね……」
 まるでそれさえも嬉しい事柄の一つのように、微笑んでくれた。

「……大丈夫ですか、キツクありません?」
「ふふふ……耕一さんったらさっきからそればっかり……」
「御免。でも普通はもう少し、寝てたりしてるし……病院の人だって、言ってたし…
…」
 ちょっと罰が悪そうに頭を掻きながら弁解するが、千鶴さんは相変わらず微笑んだ
ままだ。
「……大丈夫ですよ。これくらい、柏木の女にはなんてことはありません」
 そう、きっぱりと言ってくれた。
「それに……」
「それに?」
「いざとなったら……」
 そこでちょっとはにかんでみせるのが分かる。鈍い俺だが、こういう事は瞬時に理
解する。
「支えて、下さい……」
「……任せておいて下さい」
 と、かなり大袈裟に胸まで叩いてみせると、再び微笑みに変わる。


「そうだ、耕一さ……きゃっ!?」
 緩い勾配の坂道を下りながら歩いていると、急に千鶴さんが躓いたようにバランス
を崩す。
「わぁっと!?」
 慌てて俺は、千鶴さんと、彼女の手の中の珠を抱き留める。
「大丈夫!?」
「す、すみません……履き慣れない靴だったもので……」
「ははは……でも、こいつ、微動だにしないよね」
「眠っているときは、大人しいですね」
 二人で彼女の腕の中で眠る珠、俺達の赤ん坊を覗き合い、そして顔を見合わせて微
笑んだ。


「少し、寄り道しても、いいですか?」
「別に、構わないけど……どこに?」
 家までかなり近い距離に来た時、急に千鶴さんはそう言いだした。
「叔父さまにも、この子を見せたいから……」
「親父に?……ああ、そうだね」
 そこで親父の墓がある寺の裏山まで登り出す。流石にキツイので、赤ん坊は俺が預
かった。寝付きが良いのか、今でも俺の手の中でぐっすりと、眠っている。
「千鶴さん、キツクない?」
「平気ですってば」
 と、今日、何度目かの俺の質問に流石に、ちょっとムクれて見せる。だが、頬を膨
らませた程度の、可愛げがあるものだったが。
「よっと……」
「あ、すみません……」
 石段の最後で、手を引いてあげると、素直に感謝してきたところを考えると、やっ
ぱりちょっとはキツかったのかも知れない。頑固な所があるから、気が抜けない。
「どうせなら、線香や花でも用意すれば良かったかな……」
「今日は報告だけですから……」
「そうだね……」
 そう言って、俺も千鶴さんに倣って墓石の前にしゃがみ込んで両手――は抱えてい
る赤ん坊の事もあって合わせることは出来なかったが、目を閉じて、黙祷する。
 気のせいか千鶴さんがごにょごにょ言っている声が唇から漏れているような気がし
た。まあ、報告なのだから、いいのだが。

 …親父、生まれたよ。これからが大変だけど……まぁ何とかやってくつもりだ。
 見守っててくれとは言わないけど、見放さない程度にはいて欲しいな……。

 一度、結婚する時にも寄っているので、特に語りかける言葉もなく、俺は軽い今の
気持ちを伝えて、目を開けた。隣の千鶴さんはまだ終わっていないらしく、目を閉じ
たままのごにょごにょが続いていた。
 最後に、「……ありがとうございました」というのだけは、はっきりと分かった。
 そして、目を開けて、こっちを見る。
「やだ、聞いてらしたんですか?」
 と、顔を真っ赤にする。
「ううん、殆ど同時だと思う。丁度千鶴さんが目を開けるのに気付いて……」
 慌てて手を振って言い訳をしてから、
「さてと……そろそろ行きましょうか?」
 立ち上がって、抱えていた赤ん坊を持ち直す。

 …こいつ、もしかして死んでいるじゃないだろうな。

 全く動じないで寝ている。寝顔を確認すると微かな呼吸を感じてそこで納得する。
「耕一さん、どうかしました?」
「いや、何でも……」
「ふふふ……気になります?」
「え……いや、その……」
 何についてだか分からなかったので、言葉を濁す。まさか、生死についての事では
ないだろう。多分。
「ふふふ……」
「な、何ですか、その笑いは」
 わざとらしく微笑んでみせる千鶴さんに、俺は訊ねるが答えてくれない。


「私、耕一さんと一緒になれて……本当に良かった」
 代わりではないだろうが、そう呟いた。

「私、しあわせ、です」
 笑顔が眩しかった。

・
・
・

「ただいま……」
「お帰りなさ〜い」
「お帰りなさい。千鶴姉さん、耕一さん」
「おう、帰ったか。二人とも、」
 玄関を開けるとすぐに姉妹が出迎えてくれた。で、すぐに、
「うわぁ……」
「血色いいね――」
「健康過ぎて困るくらい」
 と、取り囲む。病院でも見た筈だが、まぁそれなりに久しぶりの対面であるから当
然かも知れない。


 家に入ってからも料理の為に場を外した梓以外は離してくれない。千鶴さんと赤ん
坊を楓ちゃんと初音ちゃんが、囲んでわいわい楽しげに雑談していた。
「そうだ、耕一お兄ちゃん。お風呂沸いてるよ」
 やることがなくて手持ちぶさたにしていた俺に、初音ちゃんがいいタイミングで言
ってくれたので先に入らせて貰うことにした。

 …しかし……ひょっとして俺、今日はこのまま蚊帳の外?

 赤ん坊に嫉妬してどうする、俺。


「ふぅ……」
 風呂からあがり、バスタオルを頭に乗せたまま、風呂上がりの一杯を求めて廊下を
歩いていた俺が居間の前に来たとき、何だか不穏な空気が流れ出してきた気がして眉
をひそめる。見ると……
「あぐあぐ……」
 赤ん坊がむずかりだした。要注意だ。って言うか、俺はエルクゥの防御本能のまま
のスピードで……。


 耳を塞いだ。


「おぎゃぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁあああっっっ!!!!!」
 その騒音に、抱いていた千鶴さんは仰け反り、初音ちゃんは目を見開いたまま硬直
する。楓ちゃんは流石というか何というか動じた様子は見られなかったが、動けない
ようにも思えた。
「あ……ああ、よしよし」
 と、千鶴さんが揺さぶったり撫でたり色々して、あやそうとするのだが、てんで駄
目らしく、
「うぎゃぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁあああっっっ!!!!!」
 炸音機の様な大音声が止むことはなかった。普段大人しい分、こうなると大変なの
だ。
 病院で散々聞かされていたが、慣れる類のものではない。
「おしっこかな?」
「おしめ、取り替えたばかりだし……」
 初音ちゃんの問いに楓ちゃんが答える。
「ミルクは?」
「初音が、さっき与えたばっかりじゃない……」
「うん」
 楓ちゃんの質問に、千鶴さんと初音ちゃんが答える。早い話、俺達の次元では原因
不明って事だ。
「わぎゃぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁあああっっっ!!!!!」
 延々と続く、泣き声。どこにその力があるのだろうか。焦るより先に感心してしま
う。
「あ、あああああああ、ど、どうしましょう。耕一さぁ〜ん」
 千鶴さんは泣きそうな顔をして俺の方を見て、訴える。
 因みに、病院でも一度たりとも千鶴さんが自力で泣きやませた事はなかった。いつ
も看護婦さんらのお世話になっていた。
「早く、慣れて下さいね」
 と、言われ、コツをその度に伝授された筈なのに、である。いい加減自力で何とか
してもらわなければと、後半は手助けしてくれなかったのだが、あまりにも泣きやま
せる事が出来なくて、周りの迷惑になるとの事で、最後はいつも手伝ってくれた。
「よしよし……お願いだから泣きやんでねぇ〜」
 立ち尽くしたまま涙を浮かべる千鶴さんの手の中で泣き続ける赤ん坊をあやそうと
必死に初音ちゃんが呼び掛けるが、聞こえているとも思えない。
「抱き方が悪いんじゃないですか?」
 と、楓ちゃんの助言に、千鶴さんも何度か抱き直すが、どうやっても一向に泣きや
む気配がない。それどころか手を滑らせて逆さ吊り状態にさせたりしていた。

 …オイオイ……。

「あぎゃぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁあああっっっ!!!!!」
「あ!? あ!?」
「お、お姉ちゃん!?」
「頭、頭。危ない……」
 動転するあまり、宙づりのまま振り回しかけて、慌てて赤ん坊の頭を押さえる俺達
3人。だが、物事の根本的解決、つまり泣きやませることには成功しなかった。


「何してんのよ……耕一ぃ、千鶴姉ぇ。全く……仕方がないなぁ……」
 と、この騒ぎの中でも健気(?)に台所で料理を作っていた梓だったが、一息入れた
のか、聞いてられなくなったのか(多分、後者だ)、居間にやってきて、おろおろする
俺達を後目に、足首だけ持って慌てふためいていた千鶴さんの手から、赤ん坊を奪い
取ると、自分の胸に抱きかかえる。
「ほぅら、よしよし……」
 と、小刻みに揺らしながら、あやし始めると、俺達の努力をあざ笑うようにあっさ
りと泣きやんでしまった。
「………」
「………」
「………」
「………」
「ようし、いい子、いい子……素直なもんじゃないか」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 固まる俺達。何か、馬鹿みたいだ。
「……って、もう寝るか? 随分寝付きがいいんだな」
「赤ん坊は寝るのが仕事だから……」
「梓お姉ちゃん、凄ぉ〜い」
 再び訪れた平和に、梓を中心に輪が出来る。
「さっきまでのが……嘘みたい」
「気持ち良さそう……」
「ふふ……やっぱり可愛いよな。こうして見ると」


 輪を離れていた俺の隣で、何だかこの世の全てを失ったような顔をして佇んでいる
千鶴さんが、首の音を立てるようにしてぎこちなく動かし、こっちを見た。
「……もしかして、私のこと、嫌いなんでしょうか?」
「いやぁ、それはないと思うけど……」
「でも……」

 …泣かないでくれ、千鶴さん。頼むから。

 だが、そんな千鶴さんと赤ん坊を抱きかかえて嬉しそうな顔をしている梓を見比べ
て、気付いたことがある。いつも千鶴さんに苦言を呈していた看護婦さんの体つきも
同時に思い出す。

 …ひょっとして、胸のせいか?

 これは誰にも言わないでおく。ああ、決して言うもんか。

 俺はそう一人で自己完結すると、ゆっくりとTVのリモコンに手を伸ばした。この
先がどうなるかは分からない。だけども、梓がいれば暫くは何とかなるだろうと思い
つつ、俺は楽観的に決めつけることにした。
 隣では、千鶴さんが加わって笑顔で赤ん坊を取り囲む、皆の姿がある。
 俺がいて、千鶴さんがいて、俺達の子供がいて、梓がいて、楓ちゃんがいて、初音
ちゃんがいる。いつまでも皆が一緒にはいられないかも知れない。でも、こうして一
緒でいられる日々が続く限り、俺達は大丈夫。そう、何があっても大丈夫。最強の一
家なんだから。

 …だから、お前も安心して、生きてくれよ。皆で、護ってあげるからな……。

 我が子の寝顔にそう、俺はそっと呟いてみせると、
「耕一さん。見て下さい、ほら……」
 と、抱きかかえたまま千鶴さんが近寄って来て見せてくれた。

「気持ちよさそうだね……」
「ええ、さっきまでの騒ぎが嘘のよう……」
 幸せそうに微笑んで眠っている子供を俺と二人で覗き込みながら、喜んでいる千鶴
さん。

 それこそが、俺の一番大切な、掛け替えのないもの。

「千鶴さん、俺さ……」
「え?」
「俺もだよ。俺も……」

 …俺も、幸せさ……。


 照れくさくてここでは言えなかったから、代わりに心の中でだけ、言って見せた。



                            <完>


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