『卒業 〜Graduation〜』
1998/03/14 



「あれ? 千鶴姉。これ……」
 土曜日の午後。
 昼食も食べ終わり、各々がそれぞれのんびりしていた時、奥の部屋から梓が妙な声
をあげる。
「どうしたの? 梓」
「あ、千鶴姉。これ……」
 千鶴がその声に誘われるようにその部屋に入ると、押し入れが中途半端に開けられ
たまま、その前でしゃがみ込んだ姿勢でいた梓が顔を上げる。
「なあに?」
 長い髪を手で抑えながら千鶴は屈みこんで梓の持っているものを覗きこんだ。
 そこには一冊のアルバムがあった。


 そしてそこには高校の制服、セーラー服に身を包んだ千鶴の写真が写っていた。
「あら」
 随分と懐かしいものだった。
「千鶴姉にも、こんな時期あったんだ」
「まぁ、失礼ね。そんなに昔の事じゃないじゃない」
 千鶴は内心で懐かしいと思ってしまった自分に反発するように、同じ感想を漏らす
梓に文句を言う。
「そう、だよなぁ……。そんなんだよなぁ」
 千鶴がそう言って頬を膨らませていると、梓は感慨深そうにそう繰り返す。
「遂、こないだの事……なんだよなぁ……」

 校門の前で、笑っている千鶴。桜の花びらが散りかけるその場所で、左手には卒業
証書を持ちながら。

「笑ってるね……」
「そうね……」
 卒業式。学校の行事が概ね退屈なもので占められる中、唯一、娯楽以外で素直に浸
れる可能性がある式典。
「私は、地元の国立大学が決まっていたから……」
「そうか……」
「ええ。友達とも、そんなにはお別れ、しなかったしね」

 二度と会えなくなる訳じゃない。一緒の大学に進学を果たせなかった人や、下級生
とは電話で話せる。会いたくなれば会えばいい。これで、お別れではない。

「千鶴姉は……誰かから、第二ボタン貰ったり、あげたりした?」
「そんなのないわよ」
 そこで手を口元にあててクスリと笑う。
 千鶴はそれで優雅さをアピールしたつもりだったが、梓には千鶴の大人をそこに見
ていた。
 彼女にとってセーラー服の時代は遥か昔に過ぎ去っている。
 梓はそんなところでも改めて、実感していた。
「でも、実際に貰ってた娘もいたわね……いつから、始まったのかしらね?」
「ホントだよなぁ……」
 再び、二人は写真に目を落す。


 でも、戻らない。
 二度と、戻らない。

 この、時間。
 この、思い出。
 この、瞬間。
 この、空間……。



『卒業 〜Graduation〜』



 ――嗚呼、これで終わりなんだなぁ……。

 そんな事、思ってた。
 退屈な校長の話さえ、許せてくるから不思議だ。
 3年間……この3年間を、同じ空間を、同じ顔ぶれで、同じだけ過ごした。

 勉強も、
 部活動も、
 体育祭も、
 文化祭も、
 林間学校に修学旅行も、
 皆、この短い時間で行われてきた、事。

 楽しいことばかりじゃない。いや、楽しいことの方が少なかったかも知れない。

 他愛もない教室でのお喋り。
 昼休みのお弁当。
 中庭での円陣バレーボール。

 当たり前だった、事。


 ――もう、無いんだ……。


 学校なんて、好きじゃなかった。

 気になる相手がいた訳じゃない。
 好きな科目なんて、なかった。
 親友と呼べるほどの友人も、いない。

 でも、

 ――もう、無いんだ……。

 もう一度繰り返す。
 更に実感がわいた。



「――――柏木、梓」
「はい」
 返事をして、講堂奥の壇上の脇にある階段を上る。
 ゆっくりと中央へ歩き出す。
 あたしの前の生徒が、中央の階段から下に降りる。
 マイクの前に立った担任をやり過ごす。
 穏やかな顔つきをした校長が、こっちを見る。


 それで、卒業……。


 ――もう、二度とない、この世界……。


 証書を受けとって壇上から降りる。
 その儀式は呆気ないほど、単調なものだった。



「ねぇねぇ、梓。これ、書いてよ」
 渡されるサイン帳。
「え、ああ。うん」
 サインペンでスラスラと、名前と、その娘へのメッセージを書く。そのついでにち
ょっとだけ、ページを捲る。「また、会おうね」とか、「いつまでも、友達だよ」と
か、綴られているサイン帳。中には有名人のようなくずし文字を気取ってサインを書
いている奴もいる。
 みんな、あたしのクラスメート。
 この同じ時間を過ごした、やつら。
「あ、書き終わった?」
 お互いに書いたりしているのだろう。書きにくくなるとあたしに気遣って側を離れ
ていたその娘も、ペンを持っていた。
「はい……」
「ありがと……と、ちょっといい?」
 と、あたしの横にしゃがんで並ぶと、片手を伸ばして使い捨てのカメラを自分たち
の方に向ける。

 フラッシュがたかれる。

 ちょっとだけ、眩しかった。



「あずしゃせんぱ〜い。うぐっ、えぐっ………」
「かおり……」
 廊下に出ると、真っ先にかおりに掴まった。この後、あたしたちは外で見送られる
事になっていた筈だが、どうやら抜け駆けしてきたらしい。
「ボタン……貰っていいですか?」
 苦笑しながら、頷く。周りも、笑っていた。
 が、何故かいつもの笑いではなかった。
 暖かいような、微笑ましいものを感じるような、微妙な笑い。
 こんな光景も見納めかかと、ちょっと寂しそうにしている顔まであった。


 3年生と呼ばれていたのが、卒業生と呼ばれる日。
 卒業式。

 一度、集合写真を撮ってから決められたコースを、決められた順番で歩いていく。
 出席番号。
 これも、最後……。


 涙。
 不思議だよね。
 卒業式で泣いていた娘も、
 お喋りしながら、笑っていた娘も、
 不思議だよね。


 在校生。
 まだ、ここを離れない、特異な時間の流れに身を委ねている後輩達。
 そんな彼等彼女等にに送られる、あたしたち。

 この見送りが終われば、今日はお終い。
 在校生は講堂の後片づけが残っているが、あたしたちは、お終い。


 もう、何も、ない。


 今までは「放課後」と呼ばれた時間。
 学校が終わる時間。

 でも、今日は……
 今日からは……


 もう、なかった。


 参列に見送られると、思い思いに散らばった。
 部活の固まりに消える。
 仲の良かった娘同士、泣き合う。
 見馴れない、ツーショット。
 先生と、話し込む。

 皆、少しでも居続ける。
 少しでも早く帰りたかったくせに。
 少しでも早く、出ていきたかったくせに……。
 今日は、ちょっとでも居続けたい。

 流れてくる吹奏学部の演奏。
 式でも流された曲。
 卒業式ではちょっと気取って違う曲も流したくせに、
 「銀行じゃないんだから「蛍の光」はやめようよ……」
 そう言っていたくせに、

 流れるのは「仰げば尊とし」……。


 誰かが口ずさんでいる。

 ちょっと恥ずかしい奴。
 それほど大きい声じゃないケド、あたしは苦笑する。

 誰かと、歌う声のする方を見る。
 何気なく、振り返る。

「おしえのにわにも はや いくとせ〜」

 ちょっとだらしなく見える格好。
 両手をポケットに突っ込んで、
 お気楽な表情をして、
 ゆっくりと、歩いてくる。


「こ……耕一……」
「思えば いととし このとしつき〜」
 歌いながら、マジで馬鹿に見えるが……こちらに歩いてくる耕一。
「ど、どうして……?」
「いまこそ わかれめ〜………よ」
 軽く、手を挙げる。
「終わった……のか?」
「……うん」
 あたしの手にある卒業証書を見て、聞く。
「何か、出たのか?」


 ――次に聞く言葉が、それかよ?


 でも、ちょっと笑える。

「一応、ね……」
「ふ〜ん」
 その場で、立ち止まる。
 あたしの前で、立ち止まる。
「………」
「………」
 暫く、沈黙が続いた。
 あたしは感情だけが沸き上がって、何を言いたいのか判らずに。
 耕一はそんなあたしの言葉を大人しく待っていた。
「わ、あたしね……変なんだ」
「何が?」
「何だか……ホッとしたような、残念なような、ごちゃ混ぜになった気分……」
 ごちゃ混ぜの感情が乱雑に言葉として積み重なる。
 会話になっていない。
 それでも、耕一は静かに口元に笑みを残しつつ、言葉を返してくれる。
「もう、最後だから……か」
「そうかも知れない。あんなに卒業したかったのにさ……」
 目を閉じて、手に持った証書の入った筒でポンポンと自分の首を叩く。
 耕一の前という照れが、あたしに落ちつきを多少たりとも取り戻してくれる。
「嬉しくも、悲しくも、ないんだ……」
「そっか……」
 気のない、声。真面目に聞いているのだろうか。
 でも、笑えてしまう。
 あまりにも耕一らしかったから。
「忘れちまったなぁ……正直」
 耕一は上を見上げて、桜の木を見つめる。
「懐かしい……わけじゃない。でも、何だか寂しかったのは……思い出すな」
「……ふぅん」
 耕一の視線をなぞるようにして、あたしもその桜の木を見ていた。

 散る、早咲きだった桜。
 繰り返される、演奏曲。
 いつまでもとどまり続ける、卒業生(あたしたち)。

「第二ボタン……取られたんだな」
 今頃気付いたのか、苦笑して言う耕一。
「欲しかった?」
「ははは……」
「笑っちゃうわね」
「そうか?」
「そうさ。だってさ……」

 ――だってさ……

「たかが、ほんの僅かな時間じゃない……たった3年。長い人生の3年間よ」
「………」
「それだけの事じゃない。それだけの……」

 ――それなのに、どうして?

「ホラ」
「あ、ありがと……」
 ハンカチを渡され、拭う。
 くしゃくしゃのハンカチだったけれど、十分だった。

 零れかけた、雫。


「へんだよね……」
「………」
「いつまでも、このままで………いたいよ………」
 目を閉じて、身体を耕一に預ける。
 何故か自分が耕一に甘えているという自覚はなかった。
 こんな自分を晒せるのは耕一の前だけだというのに。

 ――どうして、このままでいられないのかな?

 耕一の身体に押しつけるようにしてくぐもらせた声でそう呟いた。
 泣いているつもりはない。
 身体は震えていたけど。
 しがみついていたけれど。
 あたしは泣いていない。

 悲しかったわけではないから。
 ただ、胸が苦しくなるほどの切なさだけがあたしの心を占めていた。
 どうしてこんなにも淋しいのだろう。
 判らないから、縋りついた。
 耕一の広い胸に抱きつくように。

 その時、風が吹き抜ける。
 ざざぁと枝葉が鳴り、桃色の花びらが空を舞う。
 耕一の胸元に頭を埋めていたあたしの中にそんなイメージが浮かんだ。
 そしてそれはきっと顔を上げれば見る事のできる光景。
 だから顔は上げなかった。


「………つき」
「え?」
 暫くそうしていると、断続的に吹いていた風の音が止みかけた拍子に耕一が何か喋
っているように聞こえた。
「いまこそ わかれめ……」
「耕一?」
 繰り返される演奏に合わせて再び小声で歌う耕一に、気づいたら目を開けて怪訝そ
うに見上げてた。
「いざ……さらぁば……」
「………耕一」
 耕一の顔。
 見つめているのが恥ずかしくなって目を伏せた。
 そしてもう一度顔を上げて、ゆっくりと再び、目を閉じた。

 重なる、唇と唇。
 桜の木の陰。
 風のざわめき。
 周囲の喧騒。
 何も、聞こえない。
 何も、見えない。


 ――あたしは、忘れない……絶対に、忘れない……


 きっとこの季節が来るたびに、
 こんな風が吹くたびに、
 桜の花を見るたびに、

 あたしはきっと思い出す。
 この胸の気持ちと唇の感触を。
 その時に、この思いは思い出に変わる。
 きっと楽しい思い出に。


「さて……帰ろうか」
「もう、いいのか?」
「うん」
 素直に、頷いた。
「じゃあ、あんまり遅くなると……な」
「そうそう」
 ゆっくりと、校門に向かって歩き出す。
 流石に、周りも帰りだしている。
 一人、二人と校門をくぐって外の世界への消えていく。
 もう二度とこの光景を見られないと思うとまた感傷的になりかける。
 そう思った時に、不意に耕一が寄ってきた。
 あたしの手に、重ねられる、手。
「……耕一?」
「行こうぜ」
 見上げると何気ない表情をしていた。
 いつもの耕一の顔がそこにあった。
「うん」
 あたしは、その手を力強く握り返した。
 手を繋いだまま、あたし達は桜の花びらが散る校門をくぐっていった。
 校門の向こう側の、これからの世界へ向かって。
 あたし達、二人で歩む世界へと。


 ここでの記憶を二人の思い出の一つに変えて。



                            <完>



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