『雨の雫 雨の痕 〜ことば足らず こころ足らず〜』
1998/01/31 



 その日は、雨だった……。


 逃げているのは、鬼。
 追いつめているのも、鬼。


「千鶴さんっ! アイツはどっちにっ!?」
「感じませんか? 気配を……?」
 私の前でいい年をした男女が、必死な表情で話し合っている。まるで現実味のない
光景が今、私の前で繰り広げられていた。
 三文小説、二流ドラマ、B級映画……そのどれよりも、嘘っぽい、下らない話に思
える。


 私は、新しい煙草に火をつけた。


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・
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「……さんは、今どこにいますか?」
 数日前の事だ。
 私が彼のアパ−トで窓から珍しく晴れた外を見ながら、ぼんやりと紫煙をくゆらせ
ていると、女性が一人やってきた。

「はい……?」
 私は連絡が取れない彼を一週間近く、このアパートで待ち続けた時だった。合い鍵
は持っている。まぁ、そういう関係だ。
 そんな事情は、知っているのか、どうでもいいのか、その女性は繰り返した。

「……さんは……何処です?」
 その表情は、深刻で、剛毅で、どこか醒めていた。
 実年齢以上の経験を積んだ顔をしていた。
 そして、その口から紡ぎ出された話を私は、漠然と聞き流していた。

 別に、聞く必要を感じない話だったが、聞かない理由も特になかった。

 訥々と流される話。
 多分、多くの人間に話してきたのだろう。
 要約するコツを掴んだという、話っぷりだった。
 いかにも話慣れた感じで、私に聞かせていた。

 彼女の言いたい事は、詰まる話……最近の連続猟奇殺人事件について、彼が関係
していること……だそうだ。
 まぁ、馬鹿馬鹿しい、話だった。

 警察の人間とは思わなかった。だから鼻で笑った。
 少なくても、相手がそう感じるような態度をとっていたと思う。
 こういうのはいつもやっていることだ。
 そして、彼はそんな態度に本気で怒る。
 それが、とても可笑しいのだが。

「信じられないのも、無理はありません……でも、もしここに帰ってきたら、連絡
を下さい」

 鶴来屋。

 この近場で知らない人はいない。
 その鶴来屋の名刺だった。何で、こんな人間があの事件を、そして彼を調べている
のか、私には理解出来ない事だった。
 確か、泊まり客の一人が行方不明になった事件が起きたことがあったのを思いだし
た。
 ただ、それは解決していた。

 泊まり客であった女性は発見された。
 薬物中毒で、精神崩壊を起こしていた青年と共に。
 他の女性の被害者と共に。

 その時、起きていた事件が、今、再び起こっている連続猟奇殺人事件だった。
 初めは犯人は同一人物と推測されていたが、別人説も一部で採られている。
 警察ははっきりとした発表をしていないので、色々言われているようだ。
 ただ、最有力な被疑者で、重要参考人として吉川という男が全国に手配書が出回っ
ているらしい。

 それは兎も角、どこで彼が思考の端に浮上したのか、聞いたが、はっきりとした根
拠はないのか、言わなかった。
 私に言う必要を感じないというより、聞かせたくないという態度だった。

 そんなものが本当にあるとしての話だが。

 真面目な対応をしなかったくせに、話はしっかり聞いている。
 そして、しっかり聞いてからこそ、鼻で笑う。
 その馬鹿馬鹿しく、陳腐な内容に。

 この付近で語られている昔話。
 どこの地方にもひとつやふたつはありそうな、昔むかしの物語。
 雨月山の鬼伝説。

 その鬼の子孫が……
 その呪われた血が……


 嗤うしかできないだろう、やっぱし。


 だから、私は彼女がいなくなった後、名刺を屑籠に放り込み、彼が帰ってきた時の
笑い話にするつもりだった……。

 まぁ、帰ってくればの話だが……。


 最近、度々いなくなる彼。
 不安が無かった訳ではない。
 悩んでいる節が見えなくもなかった。
 だが、彼が殺人鬼などと言う発想には結びつかなかったが。
 ただ、間違いなく感じていた事がある。

 彼は、私を避け始めている……。


 ――その日も、彼は帰って来なかった……。


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・

 その日はそのまま、彼のアパートの布団にくるまって眠ることにした。
 多量の持参したアルコールと、偶然つけたTVの深夜映画がそうさせた。

 子供の頃の夢を見た。
 目覚めると、泣いていたのか、目尻が濡れていた。

 私は子供の頃、ひどい寂しがり屋だった。
 一回りも大きいお姉ちゃんの手を握りしめて離さない、泣き虫の女の子だった。
 でも、いつの間にか私は一人で生きていく事に慣れきっていた。
 年上の姉に憧れ、大人に憧れ、背伸びばかりしていた。
 そして、いつまでも子供扱いする両親に嫌気がさして、一人暮らしを始めた。

 高校を出て、大学で知り合ったのが、彼。
 サークルで知り合った時、私の煙草を取り上げてみせた男だ。
 別に格好いい訳でも、見栄えのいい訳でもない。
 どちらかと言えば、生真面目で、融通が利かない頑固者。
 自分の意見を曲げない、それでいて、つむじ曲がり。
 彼の評価は、概ね、そんなものだった。

 相容れるはずのない、筈だった二人。

 彼は、よく肩肘張り大人ぶる、その本質は子供染みたままの私を叱った。
 私は、そんな鷹揚さも落ち着きも欠けた彼に、苦笑しながら軽くあしらうような態
度しか取らなかった。

 私は斜に構えることが大人らしいと錯覚したまま、孤独を好んだ。
 彼は誰にでも五月蠅い、煙たがれるタイプだった。

 きっかけはよく、覚えていない。
 酒の上で、何かあったような気がする。
 気付くと、私の胸で泣いて寝ている彼がいた。
 そのまま、胸を貸したまま眠っていた。


 だからよく聞かれる。「彼のどこが気に入ったの?」と。


 時折見せる謎めいた憂い顔?
 常に物事に真っ正面から取り組む、そのひたむきさ? 

 どっちも違うと、思う。
 どちらも彼の魅力の一つであり、いいところなのかも知れないが……違うと思う。
 だから、聞かれた時はこう答える。


「それが知りたくて……つき合ってる」


 ――人は、茶化したと受け取る。


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・

 数日して……薄暗くなり始めた頃、ドアの外で気配がした。
「……帰ってきたの?」
 そんな気がして、くわえ煙草のまま、ドアを開ける。

 …怒られるだろうな。

 そう、思いながら。
 その怒り顔と、口上を聞きたいと、思っていた。

「…………」
 彼がドアの前に立っていた。
 だが、彼では無かった。
「………」
 私は息をのむ。
 そこには……見たことのない"生き物"がいた。

 でも、私にはそれが彼と、分かった。
 何となく。


「ぐるるるるるるるぅぅぅぅぅ」

 喉の奥から鳴らしている唸り声。
 獣の声。


 ――連続猟奇殺人事件は、猛獣説がとられている一因……


 霞掛かった頭でそこまで、思い当たった時、衝撃を全身に受けて部屋の中へ吹き飛
ばされた。


「――っ!?」


・
・
・


 外は徐々に真っ暗闇に包まれていた。
 今、玄関前の渡り廊下の淵から見下ろしている私のすぐ下、このアパートの前で、
以前訪ねてきていた女性が、私の目には速いと感じる事しか出来ない動きで、さっき
の獣と戦っていた。
 さっき倒されたのが、彼女が彼に襲いかかって来た衝撃波だと思い当たったのは、
二人して私の目の前から、地上へと飛び降りた後だった。
 人間業とは思えない。
 ビデオテープを早送りしたその動きは、何故か私を滑稽な気分にさせそのまま、2
階のアパートの部屋の前から見物させて貰っていた。
「………」
 銜えたままだった煙草の灰に気付き、叩いて落とす。

 一体の獣が唸り声をあげ、それに応じるかのように男の人の方が獣のように唸り声
をたてる。

 獣の唸り声に対して意外にも恐怖は感じない。
 どこか最初に麻痺してしまったのだろうか。
 恐ろしいと思う感情が欠落してしまったらしく、どこか滑稽にさえ感じるまだにな
っていた。
 他のアパートの住民が出てこないのが不思議な程だが、きっと雨風がそれを遮って
いるのだろう。
 時間からしても、それ程人が起きている時間でもない。

 声が聞こえるような錯覚がある。
 聞き慣れた、声の。

 また、互いに吼えた。
 どうやら彼――と思われる方の獣は狂っているようだ。
 どうしていいのか分からない、そんな姿があった。
 攻撃してくる女性に向かい合いながらも、どこか躊躇いと逡巡があった。

 ――何か……らしいな……。

 ぼんやりと、そう考えながら昔を思い出す。
 付き合いだした初めの頃だ。
「ねぇ…………私の何処が好きになったの?」
 そう、私は彼に聞いた。率直にだ。
「………」
 実のところ、彼が何と答えたのかは忘れてしまった。純粋に照れたように顔を赤く
して、困ったような表情をしていたのを良く覚えている。


 また、吼える。
 彼は、苦しんでる。
 己の意志ではないものに、囚われているようだった。
 どうしていいか分からない……
 そう泣いているように聞こえた。


 ――あれは……私だ……

 口から、煙草が落ちる。
 いつも、何かに怯えて泣いていた私そのものだ。

 惹かれ合っていたのか。
 気付かない内に、互いに。
 傷を舐め合うような関係を、築いていたのか。

 私は、彼をそんな風に感じたことは一度もなかった。
 憧れに似たものを感じていただけだった。
 彼も、きっと私にそれを感じたことはなかったと思う。
 自分では出来ない羨望じみた思いを、抱いているように感じていると察したことは
あったが。

 見えないものが見えた。
 気付かないでいたのに。


 そう……気付かなかったのだ。
 私は……


・
・
・


「や……止めっ!!」
 私は気付くと、鬼を庇うようにとどめを刺そうとする彼女らに向けて、両手を大き
く広げて、庇っていた。
 急いで階段を降りたらしい。
 息がきれている。
 喉の奥に痛みを感じる。


「……!?」
 昼の女性、柏木千鶴の手刀が止まる。躊躇したようだった。
 何故私はここにいるんだろう。
 どうして飛び出したんだっけ。
 あれ?

「あ……私……?」

 ――何をすればいいんだろう……

 ふと、そう思いかけた、その時、
「危ないっ!!」
「――っ!!」
 重い音。
 絶叫。
 呻き声。

 振り返ると、筋骨逞しい男が、鬼の背中から己の腕を貫通させていた。
 鬼は無防備な私の背中に爪を突き立てようと、腕を振り上げていたらしい。
 血しぶきが嘘のように、降り注いだ。
 男に。
 千鶴に。
 私に。

 ――嗚呼、そうか。

 私が駆け出した訳がわかった気がした。
 同時に、私が彼に惹かれた訳も。
 目の前に、いる彼は……救われないままの私の姿だった。


「ガ……ユミ……ゴ……」
 断末魔の叫びでは、無かった。
 くぐもった、籠もったような声が漏れて、男が腕を引き抜くと同時に、地に倒れ伏
した。
 音を立てて、その巨体が倒れた。

「あ……」
 私は、手を口に当てた。
 しまったと言う顔をして。
 きっと、表情もそれに相応しい顔をしていた筈だ。

 ――いけない、邪魔しちゃったんだ。

 二人に申し訳ないと思う気持ちが今頃湧き出た。
 暢気というか、あまりに抜けた反応だ。
 間違いなく、今の私は間抜けな顔を晒している。
 それ以外の顔は、沈痛な面もちだった。
 千鶴も、男も。

 鬼……彼は、死んだ。
 おぞましい姿から私の知っている姿へと戻って、死んでいた。苦悶と、絶望の表情
が入り交じっていた。

 ――殺されなくちゃ、いけなかったのかしら……

 ぼんやりと、そんな事を考える。
 それと同時に、

 ――何でもっと早く……私は気付かなかったんだろう……

 そんなことも思っていた。
 救いを求めていた彼を。
 救われたがっていた私自身を。
 互いで、互いの欠けたものを補うことができたかも知れないのに。
 その可能性に気付いていたからこそ、二人で居たのに。
 私は、彼よりも大分頭が悪い。
 少なくても答えを彼は知っていた。
 だから、彼はこうして私に愛に来た。
 私は、気付かないままだった。
 だから、彼の居なくなったアパートに籠もっていた。

 ――最後まで、一方的だったわね。

 我侭な言い分だけど、少し腹立たしい。
 もう少し親切に、もう少し判りやすく教えてくれても良かったんじゃないだろうか。
 こうして身体を張って私に戒めるよりも早く、もっと簡単にできた筈なのだ。

 そう思いながら彼の亡骸を見下ろす。
 文句ばかりが浮かぶ私の心の声に答えてくれる人はいない。

 ぼんやりと、見下ろす。
 周囲の空気が、痛々しい。
 立ちつくす私に……横たわり血を流し続ける死体に……男女二人に……皆、平等に
容赦ない雨が叩き付けられる。

「……あの……」
「……大丈夫」
 骸を見下ろし続ける私の無言に耐えきれなくなったのか、男はあらぬ方向を見て顔
を逸らし続け、女は……千鶴は声をかけようとする。
 それを、遮る。
 きっと彼女の頭の中では悲劇な私が存在していることだろう。
 だが、実際はあまりにも滑稽で、喜劇過ぎる。
「……」
 多分、どれについて話をしようとも、彼女らには答えられない。多分、彼らもそれ
程強くはないだろうと思ったから。そんな彼らだからこそ、今、沈痛な顔を浮かべて
いるのだ。
「彼も、馬鹿よね……」
 チラリと彼らの沈痛な顔を見、彼の死に顔を見つめる。
「私は惚れてたんだから、口に出せば良かったのよ」
 いや、それを知っていたからこそ彼は口に出せなかったのだろう。
 しゃがんで片膝をつく。
 そっと、指で、見開かれたままの瞼を閉じさせる。
 私は一体彼に何をしたと言うのだろう。
 何も、できないままだった。
 最後の最後まで一方的。

 ――身勝手な奴。

「あの……」
 再び、千鶴が声を掛けようとする。
 今度はそれを、男が止める。

 結局、ただ傷を舐め合うことしかできなかったと言うことか。
 不器用で、無様だ。

「あ……」
 私の目の前で、彼の身体が塵となり……消えた。
「…………」
 塵が降りしきる雨に溶けてしまった。

 酷く味気ない、お別れ……。
 私たちには相応しい気がした。

「後を……濁さないのね……」
 苦笑する。「らしさ」に。
 立ち上がり、男女の方を振り返る。
 雨に濡れて張り付いている髪を無理して指ですくい上げる。
 水しぶきが飛ぶが、雨の中ではさほど意味がない。
 二人の顔や衣服に血の跡が消えていることにその時気付いた。
 きっと、私からも消えているだろう。
 雨で流した訳ではないが、どうでもいいことだ。


「迷惑、かけて御免なさい…………じゃあ……」

 ――後は、宜しく。

 私はそのまま、彼のアパートではなく、自分のねぐらへと戻るべく、彼らを置いて
立ち去った。

「ばぁ〜か」

 彼を思うのは、これで終わりにしようと思う。
 馬鹿な私に相応しいほどの馬鹿には、これが相応だ。


・
・
・


 ――私はこの出来事を、忘れるだろう。

 大した事ではない。つき合ってた男と、別れただけの事だ。
 彼が何者で、何をしていたのかなどは、私にはどうでもいいことなのだ。
 生真面目で、融通が利かない頑固者……それでいて、ひどい寂しがりや。
 そんな男と別れただけのことだ。

 ただ、あれ以来、煙草は止める事にした。
 別に思い出すからではないが、止める事にした。

「吸っても美味しく感じなくなったから」
 人には、そう答えている。


 ふと、外を見る。


 ――今日も雨が降っている……。


 雨は鬱陶しい。


 ――だから、私は好きになれない……。


                          <完>


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