『交際指南』 投稿者:久々野 彰 投稿日:12月14日(土)22時21分
「俺と……付き合ってくれませんか」

 交際を申し込まれた。
 相手は自分の良く知っている人間。
 誠実な人間。
 真面目な人間。
 真摯な人間。
 ちょっと気さくなところもある人間。
 優しい人間。
 暖かい人間。

―――そう、彼は人間だった。

 私は死神として世に現れ、今日の日まで存在してきた。
 人は親から生まれ、大地にて死す生き物で、死神は人の死を見取り、その魂を天界
に還す存在。
 死神である私には自分を世に送り出した親と言うものは存在しない。
 もしかしたらしていたのかも知れないが、少なくてもそれは人や動物、生命育む存
在達のそれとは違う存在であろう。
 仮に自分に親という存在がいるとしても私はその顔すら知らないのだから、私個人
に関してはいないと言っても問題はないだろう。
 私は自分という存在の意識を持った頃から死神として働かされ、それを仕事として
従事することでその存在を続けていた。
 だから私は「生きて」いるのかすらもわからない。
 私がなぜ死神として存在しているのかもわからない。
 そして昔の私はその「なぜ」すら考えることもなく、ただただ死神としての仕事を
毎日毎日続けていた。

 そんな私が変わったのは私という個を私が意識し始めた時だ。
 その理由は簡単で、私を「死神」として見ない存在が現れたからだった。
 私を「死神」という大きな存在の括りではなく、「私」個人として見るものが現れ
たからだった。
 その日からだろう、私が自分というものを考え始めたのは。
 そして今まで疑問にも思わなかったことを疑問に思うようになったのは。
 その存在――今では私の一番の「友人」と呼ぶことの出来る存在の彼女、イビルに
は心から感謝している。
 何一つ疑問すら感じずに過ごす日々が、あんなにも恐ろしいものだと知ることが出
来たのだから。
 そう思えるような今の自分のきっかけをくれた相手だから。

 そして死神としての力を持ちながらも、死神としての組織の中で居続けることがで
きなくなった私を救ってくれたのが、今の私の主人という名前の雇い主のルミラ様だ
った。
 何の当てもなくただ様々な世界を流浪していた私と、一緒についてきていたイビル
の二人を何も聞かずに引きとってくれたのが彼女だった。
 イビルは別として、神でも悪魔でもない私を吸血鬼という魔族の中でも貴族階級に
あたる彼女が、どうして引き取ろうとしてくれたのかはわからない。
 ただ、彼女は私達に当時の魔界の勝負の流行だった麻雀というゲームを時折するよ
うに命じたぐらいで、それ以外は仕えると言っても自由にさせてくれた。
 彼女の優しさというよりも、気まぐれからの行動だったと今では確信している。
 それができるだけの資産家であったのも、理由の一つだろう。
 私達は彼女の退屈を紛らわせる要素の一つとして、そこに存在することを許されて
いた。

 そんなことから、ルミラ様の周りには私たちだけでなく沢山の存在が集まってくる
ようになった。
 貴族である彼女の家の近衛隊長として先祖代々仕えているというアレイに、これも
何処からか引き取られてきた自動人形のフランソワーズ、ふらりと人間の世界から流
れてきた魔女メイフィア、いつの間にか住み着いていた妖猫たま、今では皆が仲間と
して互いに信頼しあえるだけの存在になっていた。
 それは私がかつて属していた存在よりは遥かに矮小だったのに、その絆はずっと強
固なものに感じられた。
 そしてそれはルミラ様がある相手との大勝負に負け、魔界の広大な領地を全て奪わ
れ殆ど無一文で人間界に放り出されるようになってからも、続いている。
 他の皆もそうであるように、私もルミラ様の為なら何でもできると思えるほどの心
境になっている。
 そしてずっと皆で変わることなく、過ごすことが出来れば良いとも思っている。
 どんな状況でも、皆がいれば……そう思える今の自分を、私は嬉しく思っている。
 そう考えると私は今、どうしようもなく「生きている」のだと実感できる。

 人間界は私が死神だった頃から馴染みのある場所で、そこを支配する人間達は、か
つての私にとって畏怖されるだけの存在でしかなかった。
 私と出会う者は皆、私が死神だと知ると、恐れ、逃げ、泣き、戸惑い、一部の例外
はあっても、大抵はそんな反応ばかりをされてきた。
 皆、私を「死神」という存在でしか見ることもなかったし、私もそう見られること
に疑問は持たなかった。
 しかし、今こうしてエビルという存在でこの世界に降り立ち、沢山のものを見たり
聞いたりしていくと、それがどんなに寂しいことだったかということが判った。
 そんな関わり方でしかいられなかったことが、寂しかった。
 人間はこんなにも沢山いて、こんなにも色々な顔を見せ、面白い存在なのに。
 私たちと変わらない部分や、私たちからすれば信じられない程の脆さと、末恐ろし
いほどの強さを持っている人間達。
 悪魔や天使と呼ばれる我々のような存在が見守ったり、そそのかしたりとちょっか
いを出したくなるのがわかるぐらいに人間達は輝いている。
 そして「生きて」いる。
 私達がこの人間界で人間達に混ざって生きていくことが、こんなにも楽しいことだ
とは思わなかった。
 人間を良く知るルミラ様はそんな私の感動を面白がってみているようだったが、私
はもう暫く、いやできれば出来る限り長くここにいたいと思うようになっていた。
 早く魔界に帰りたがっているイビルや、かつての栄華の復興を願うアレイには言え
ないことだったが。
 けれども、私はここが好きだった。

 私達はそれぞれ、毎日生きる為の糧を得るために働いている。
 それぞれ自分の能力や特性を生かして、様々な業種で人間に混ざって稼いでいる。
 そうしないとここでは生きていけないから。
 元々はかつて失ったルミラ様の財産を取り戻す為に始めた筈の資金稼ぎも、今では
毎日の生活の為の労働になっていた。
 人間達が、そうしているように。
 元々、ルミラ様の財産はこんな日銭を稼ぐ程度のやり方で取り戻せるものではない
のは誰もが知っている。それでも違う方法を考えたりせずに日々の労働に従事してい
るのは、皆も気づかないうちにこの人間界での日常を楽しんでいるからではないだろ
うか。
 私はこの世界で働くことが楽しい。
 人間に混ざって、人間のように働くことが楽しいと感じている。
 労働が楽しいというのとは違うし、人間と同じことをしているからというのとも違
う。この感情は上手く説明できるものではないし、自分でも理解しきれていない。今
の私は働くことが楽しいと思っていることだけは間違いないのだけれども。
 そして私は幸いにもその仕事場の人間達にも恵まれていたようだ。
 アルバイト先の店長や店員達は、私に含むところなく接してくれる。
 私が死神と呼ばれる人ではない存在だということも気づかず、人として接してくれ
る。だからこそ、彼らの為に、自分以外の存在の為に私はもっと役立ちたいと更に仕
事に励むように考えている。
 私は、人になりたいのだろうか。
 否。
 人になりたいのではなく、人のように生きたいと思っている。
 綺麗でもなく、汚くもなく、個人という自分自身の混じり気を抱えて、生きている
彼らのように。
 だからそんな彼らのなかで働くことが、彼らのように自分が生きていられるようで
楽しい。
 そして、そのアルバイト先の先輩の一人と親しくするようになった。
 理由は彼が私と同じ正社員ではなくアルバイトだということと、私の正体を知って
もなお、今までと変わらずに接してくれているという二つからだ。
 彼は由緒あるエクソシストの血を引き、天使と組んで人間界を荒らす悪魔を退治す
る役目を持っているのだそうだ。
 そんな彼と、人間の中に溶け込むようにひっそりと暮らしていた私達とは本来ぶつ
かる必要はなかったのだが、ある天使の陰謀で争う羽目になった。
 彼の祓魔師としての能力は強く、一時はルミラ様をはじめとして私達全員が窮地に
立たされたのだが、幸いにも今は互いの誤解も解けて和解することができた。彼と私
の関係は変わらずに、その店の同僚として続くことができている。
 そんなことがあってからも彼はずっと私のことを、仕事場の後輩としてあれこれと
以前と変わらずに親しく接してくれていた。私が何者だとか全く気にせずに、仕事仲
間として見てくれることが私は嬉しかった。


 その彼が私に交際を申し込んできたのがつい先日のことだった。
 彼はひどく純粋で、とても正直で、大変明快だった。
 最初は顔を赤くしながら早口でまくし立てるように喋っていた彼は、急に畏まって
私に告白してきた。
 私の最初の感情としては驚いたということだった。
 彼が私に優しくしてくれていたのは感じていたが、はっきりとした好意的な感情を
持たれているとまでは全く気づかなかったからだ。
 仲間から言わせるとこういうことに関しての私は「鈍いヤツ」らしい。
 自分ではよくわからない。

 私はその場で即答することができず、彼もまた答えは後日で構わないと言ってくれ
たので、その日から私はずっと悩んでいる。
 私は断ろうと思っているのだが、言い出すのを躊躇う感情がどこかにあった。
 断った時の場合を恐れているのではない。
 仮に私が交際を断ろうとも、彼の性格からして表面はそれほど気にした素振りを見
せずに、これまで通りの関係を続けてくれることだろう。
 私が悩んでいるのは、戸惑っているからだ。
 今までこういう経験をしたことが一度もなかったし、起きると思ってもみなかった。
 私と彼が人間同士のような恋愛をすることができるのだろうか。
 否。
 私は人間ではない。人に混ざり人に似た生き方はできても、人として生きることは
絶対にできない。
 そして彼は人間である以上、死神という人ではない存在である私と同じ時間を生き
られない。
 そう思えば彼は同じ種族である人間の相手を見つける方が、正しいことだと思うし
筋だと考えている。
 けれども、そんな理屈で当て嵌めていいものだろうか。
 そんな迷いが私の中にあって、未だに答えが見つからない。
 いつまでも待たせるべきではないと感じながら、私は彼に対して断りの言葉を言い
せないでいた。

「あら、エビルじゃない。今日はアルバイトなかったんだっけ?」
 じっとしているのも落ちつかないので気晴らしに外を散歩していると、メイフィア
が小ぶりの茶色の紙袋を片手で抱えるように持ってやってきた。
「メイフィアはまたパチンコか?」
 彼女は普通に働くことはあまりしない。人間界に来てからもギャンブルでお金を稼
いでいることが大半だった。元々彼女がルミラ様の元に来たのも麻雀というギャンブ
ルがあったからこそに違いない。
「そっ。あたしは他に取り柄がないからね」
 紙袋から食料品と煙草の箱が覗いていた。今日は調子が良かったらしく機嫌も悪く
ないようだった。
「取り柄がないのではなく、単に面倒臭がり屋なだけではないのか?」
「あらあら、最近の若い子は遠慮がないわねぇ」
 メイフィアは私達の中では一番何でもできるような気がする。他の面子が魔界暮ら
しが長かった中、彼女はずっと長く人間界で生き続けていたせいもあって、飲みこみ
も早いし要領もいい。それに彼女は元々は人間であったらしい。詳しく知らないのだ
けれども。
「できれば博打よりも、安定収入をしてくれた方が助かると私は思う」
「いやあ、面目ない。これはあたしの性でね」
 少しも悪ぶれた風もない。
 その呆気らかんとした彼女なら、私と違ってどんなことが起きても動じない気がし
て羨ましい。元々、無一文になった私たちが人間界の中で暮らすことになり、この国
を選んだのは彼女だった。その理由は当時は分からなかったけれども、世界情勢とい
うものを知るたびに今では納得できる。
 彼女の頭の周りは抜きん出て良い。ここ一番で頼りになるのは彼女だろう。
 ただ、そのお遊びが過ぎる性格が困りものだが。
「で、どうしたのこんなところで? もしかして最近調子悪そうにしているのと関係
あるのかしら」
「そうか……メイフィアには調子悪そうに見えたのか」
「まあね。伊達に長生きしていないわ」
 そう言ってクスクスと彼女は手を口元に当てて笑い、
「ねえ、エビル。もしよかったら事情を聞かせてくれないかしら?」
 見透かしたように聞いてきた。
 メイフィアはこうやって自分を使い分けることが上手い。
 こちらの顔色を察すると、さっきまでの冗談を言い合うような雰囲気とはガラリと
変わって、親身な肉親の姉の様な感じになる。肉親とは無縁の存在の私が言うのもお
かしな話だとは思うのだけれども。
「…わかった」
 事実、こういう時のメイフィアは頼りになる。素直にその好意を受け入れることに
した。
 近くの公園のベンチに向かい、缶ジュースを片手にベンチに並んで腰をおろし、打
ち明けることにした。
 私は言葉を選ぶゆとりもなかったので、ありのまま話した。

「えーと……」
 何故か聞き終わった直後のメイフィアは困ったような表情を浮かべていた。
「やっぱり私はおかしいのだろうか?」
 その表情に、こういう事態に不慣れな私は不安になる。
「いや……あんた達、付き合っていたんじゃないの?」
「………」
 何を言っているのだろう。
「だってほら、あたし達がその子と会った時、いい雰囲気だったじゃない」
「……いい雰囲気?」
 よくわからない。
「あんただって彼のこと気に入ってるとか言ってたし、横から聞いてて『あー、この
まま付き合うんだー』とかルミラ様と二人で思ったんだけど……」
「………」
 どうしてそうなるのだろう。
「あれから何の進展もなかったの? だって帰りが遅くなってたりしたじゃない」
「時折一緒に食事をしたりはしていたが」
「……『それが何か』って顔ね」
 メイフィアが腕組みをしてため息をつく。
「男が女を頻繁に食事に誘うのは……まあ全てが全てそうとは言えないけど、その気
ありよ」
「そうなのか」
「ええ」
 言いきられる。やっぱり私は「鈍いヤツ」らしかった。
「で、どう返事をしたらいいか判らず迷っている……ということかしら?」
「いや、どう言って断ろうかと迷っている」
「え?」
 メイフィアが心底驚いたような顔をして私を見ていた。
 彼女のこんな顔を見るのは珍しい。
「あ、そ、そうなんだ……あたしはてっきりお似合いだとばかり思ってたけど」
「お似合いかどうかは判らないが……彼は人間だ」
「そうね。人間相手じゃ物足りない、か」
「いや、そうではない。彼と私は生きる時間が違うということだ」
「……それで?」
「それ以上の理由が必要なのか?」
「………」
「?」
 今度はハアと大袈裟なほどのため息をつくメイフィア。
「固い子ねぇ……」
「硬い? 私がか」
「まるで良家の跡取息子にプロポーズされた貧乏長屋の孝行娘みたいよ」
「そうなのか?」
「……皮肉よ。だって彼はそれも承知の上で告白してきたんでしょう」
「そうかも知れないが、彼は今までの彼の寿命以上長い時間を生きた経験はない。私
と彼の寿命の差は埋めることが出来ないのだし、それに……」
「目の前で彼が老い、死んでいくのを見るのが辛い……ということ?」
「辛いものなのか、私には判らない」
「ま、それこそあんたに経験がない、ことですものね」
 わざと私の言い回しを使って微笑む。
「つまるところ……彼がどうこうじゃなくて、あんたが怖いんだ」
「怖い?」
「ええ。怖がってるんでしょ。だから迷ってる」
 メイフィアの言っていることがわからない。
「彼と付き合うことで、今までの自分とその周りが変わっていくことが怖い……そう
解釈するの一番納得できるけど」
「それは……」
 違う、そう言いかけて口篭もった。本当に違うのだろうか。
「あたしが見る限り、今のあなたは無理して断りの理由を探し出して、それでも踏ん
切りがつけられないでいるように見えるわ」
「いや、断ろうと言うのは……」
「それも判っていないの? 嫌いじゃないしけど付き合いたい程好きでもないという
のなら、さっきの様な変な理由はとってつけたりしないわ」
「変な理由?」
「ええ。『自分のような存在と人間は同じ時間を同じようにいきられないのだから、
彼は同じ時間を生きられる人間を選ぶ方がいい』だっけ? 傍目には後立派なご意見
だけど……そんなのは当人同士の問題にはなりようがないじゃない」
「なぜだ」
「喩えあなたにとって一瞬の時間、彼にとっての一生でも好きな相手と共に生きるっ
ていうのは、その相手を好きである以上何よりも嬉しいことじゃない。そして何より
それを欲しているのは当の彼でしょ。今更そんな寿命云々なんて変な話持ち出して納
得するわけじないじゃない。最初っからわかってることだもの」

『江美さんが、たとえどんな人であっても、全然気にしたりしませんから!』

 不意に彼の言葉が脳裏に浮かんだ。
 彼が私たちの正体を知った日のことだ。
「………」
 彼は構わないと言ってくれた。
 そして更にこれからも一緒に働き続けたいと言う彼に私は何と答えたのだ。
 彼にそれ以上の心遣いをさせないようにと、最初から気にしていないと答えた筈で
はなかったのか。
 彼はずっと本気で言ってくれていたのに、私は有耶無耶に逃げてしまっていたので
はないか。
 今の自分可愛さに。そして、彼の優しさに。
「………」
 私は彼に甘えていたのだろうか。甘え続けることを望んでいたのだろうか。
 そうだとするなら、何て失礼な真似をしていたことだろう。
「ルミラ様風に言えば『自分が相手と共に老いないのが悪い? バカねえ、人間の男
なんて相手がいつまでも若いければ喜ぶことはあっても嘆くことは無いわよ』ってト
コじゃないかしら?」
 メイフィアはちょっと話がズレちゃうけどねと舌を出して笑う。
 この人はどうしてこんなにも……。
「メイフィア」
「なあに?」
「メイフィアは人間を好きになったことはあるのか?」
「さあ」
 余裕の笑み。彼女の一番得意な笑い方だ。
「………」
「冗談よ」
 私が頷くよりも先にベンチから腰をあげて立ちあがった。
「あなたは結論を出して今の自分や周りの関係が変わるのが怖いかも知れないけど、
もう動いちゃっているんだから……あなたが望む、望まずに関係なく。建前はこの際
抜きにして、自分の気持ちで決めなさい。彼を好きなのか、そうではないのか。今は
それだけ考えて、下手な遠慮や、気を廻すのはやめて答えを決めなさい」
「メイフィア……」
「ま、お節介ついでに言わせてもらえれば、こうしてあなたが断ることを迷っていた
という時点で、答えは出ている気がするけどね」
 メイフィアはイビルの目がますます釣り上がるんでしょうねと、また笑った。
 彼女は実に良く笑う。
 その言っている意味は私にはわからなかったけれども、自分がどうしたらいいのか
は判った。
「彼のところ、行くんでしょ?」
 私は自分でも気付かずに頷いていた。
 彼の住むマンションの場所は知っていた。
 ここからすぐ近くだ。
「どんなことになっても、その時はその時。今から考えてもしょうがないって」
 私も彼女に倣って立ちあがる。
 微かに腰に痛みを感じるのは長い間座りつづけていたからだろうか。
 痺れただけかも知れない。
「じゃ、あたしは先に帰ってるから」
「わかった……」
 それぞれ私達二人は違う方向へとゆっくりと歩き出す。
「………」
 メイフィアの表情が楽しげの中に、若干寂しげなものが浮かんでいることに別れ際
に気づいた。
 だが、それを考えるのは先のことになりそうだ。
 今は考えることが多過ぎる。
 きっといつかその意味を判る日が来るだろう。
 この人間界で生きていくつもりなら。
 その時にはきっと、彼女のことももっと知ることができるだろう。
 何があっても私達はみんな、掛替えの無い大事な仲間だろうから。
「………」
 そして私は考えるのを止めて、視界と共に意識を前に向けた。
 目指す場所はすぐ近く。
 彼のいるマンションへと、私は知らずに駆けていた。
 彼は私が来たことを喜んでくれるだろうか。
 笑ってくれるだろうか。
 そんな事を考えるようになるなんて、まるで自分じゃない生き物のように感じて不
思議だ。

―――私はこの世界の本当の住人になることができたらしい。

 そんな実感が不意に沸く。
 歩きながら私は嬉しくて、知らず微笑んでいた。

                             了