『ずっと側に』


2001/06/12



 湖岸の別荘に来ていた。
 別荘と言っても当然ながら俺の個人所有のものではなく、バブルの頃にどこかの企
業のお偉いさんが所有していたものが流れ流れて国が保有し、買い手もつかないまま
放置するのは維持費が大変な上に勿体無いとのことで個人向けに貸し出されていたも
のを、一週間の契約で借りていたのだ。
 それでもそこそこ結構な費用がかかったのだが、漫画家としての収入はそれくらい
の出費は十分に何とかなかった。
 実を言うと、印税をこうしてパーっと使うのは初めてだった。
 これまでそれほどまとまった収入が入ってこなかったということもあったが、駆け
出し漫画家である俺にとって、しっかりとした休みを取れることも今まで一度もなか
ったからだ。
 日がな一日机に向かって漫画の原稿を書き続け、尚且つ大学に卒業できるようにと
真面目に通っていたので、暇な時間など殆ど作ることが出来なかった。
 そんな俺を支えてくれたのが、今のところ俺の唯一のアシスタントであり、恋人で
もある彩だった。
 彼女も俺と同じ大学に通いながら、俺の仕事を全面的に手伝ってくれていた。
 そのお蔭で彼女自身の同人活動は暫く中断させることになってしまった。
 彼女は構わないと言ってくれたが、本当に申し訳無さを感じると共にとても世話に
なったと思う。
 そんな俺の為に頑張ってくれた彩にお礼がしたい。
 そう考えて、思い立ったのがこの休養を兼ねた旅行だった。

 この旅行のお金は俺の初の単行本の収入から出ていた。
 初めて自分が漫画家だと実感したのがその単行本を手にした時なら、初めて自分が
漫画を職業にしたのを実感したのは、その売上げ金が俺の口座に入金されたのを見た
時だった。
 もう引き返すことの出来ない、俺の道を歩み出したのだという実感が沸いた瞬間で
もあった。
 漫画を描いて原稿料を貰う。そしてそれでこれからずっと生活していく。
 そんなことを考えると、改めて身を引き締めざるを得ない。
 今までの同人活動のようにフラフラとするわけにはいかない。
 編集者と一話一話念入りに打ち合わせを重ね、読者を惹きつけて飽きさせないだけ
の漫画をこれからもずっと描き続けなければならない。
 それができなくなることで困るのは誰でもなく俺自身なのだから。
 消費する側にいた時は、漫画も消費するものに過ぎなかった。
 面白いものは読み、面白くなくなったり飽きたときは捨てればよかった。
 が、描く側に回ってみるとそう簡単に捨てられるわけにはいかない。
 飽きられるわけにはいかない。
 一生の仕事になるのだから。
 その収入で生きていかなくてはいけないのだから。
 自然、身が引き締まる。

 しかしそんな状態がずっと続くわけでもないし、ある程度の息抜きも必要だし、休
養も大事だ。
 そんな貴重な休日をこうして彩と二人きりで過ごそうと思い立ち、彼女を誘って今
日はこうして二人して寛いでいる。
 原稿も〆切も編集者の顔も何も考えることなく、のんべんだらりと日々を過ごせる
のは本当に久しぶりだ。
 柔らかい寝床と、味わい深い美味しい食事、そして傍らには心の底から愛し、安ら
げる人を側に置きながらの一日は、何物にも変えがたい幸福な一日だった。

 朝は普通より遅目に何にもせかされることもなく、目が覚めるままに起床する。
 鼻腔に届くのはパンとコーヒーの匂い。
 微笑むのは先に起きて着替えたばかりの彼女。
「…朝食の支度、できています」
「うん。ありがとう」
「すぐに来て、くださいね」

 昼はテラスに出てのんびりとデッキチェアに腰掛け、または背もたれを倒して横に
なりながら森の方から届く自然の澄んだ空気の匂いと風を存分に味わう。
「んー? んん……」
「?」
「あの水辺に二羽ほど見える鳥の名前、何ていったっけ?」
「オシドリ……ですか?」
「そうだっけ?」
「その、実はわかりません」
「あ、そうなんだ」
「ただ、二羽の仲が良さそうに見えたから……」

 夜は部屋に戻って、彼女の手で作った暖かい滋養のつく夕餉をとる。
 そして互いに求め合いながら一つの寝床に入る。
「すぅ……すぅ……すぅ………」
「う…ん……」
「んぅ……」
「ん………」
「…………」
「…………」
 願わくば、夢の中でも一緒でいられるように。

「でも、本当に良かったんですか」
「え、何が?」
「こんなに立派な別荘を貸し切……んぁ……」
 最後まで言わせない。
 唇で彼女の口を塞いだ。
「ずるいです……」
 顔を真っ赤にしてこもごもと抗議をする。
「嫌だった?」
 すぐにフルフルと首を横に振る。
 とても正直で可愛い。
「でも何だ……まだ気にしていたのかい。彩はこういうの嫌だった?」
 そう聞くとフルフルフルと、再度首を横に振る。
「そんなこと……ないです」
「あ、もしかして落ちつかない?」
「………」
 フルフルフルフルと、今度も首を横に振る。
 どうやら純粋に気兼ねしているだけらしい。
「あのさ」
「はい」
「贅沢に慣れてしまう事は良くないかもしれないけど、贅沢を楽しむのはそう悪いこ
とだとは思わないよ」
「そう、でしょうか……」
「しょっちゅうできることじゃないし、贅沢な生活を基準にしてしまうわけでもない
んだからさ」
 そしてもう一度彼女を引き寄せる。
 今度は彼女も目を閉じて待ち構えてくれていた。
 そんな可愛い唇に軽く触れるようにもう一度キスをしてから言った。
「楽しもうよ」
「はい」
 彼女は微笑んでくれた。


 ここは娯楽は何一つない自然に囲まれた場所だから、本当にすることが何もない。
 目の前の池につり竿を持って糸をたらしたり、近くの林の中に入って木立を眺めな
がら散策したりするぐらいしかやることがない。
 食事は自炊だが、バブル時代の物件なだけにガス水道は勿論、トイレやシャワール
ームまで完備しているので、これといった不便さは全く感じない。滞在中の食材は予
め確り買い込んで冷蔵庫の中に保管してある。
 そして俺達はこの毎日をのんびりとボーっとしたり、他愛のない話をしたりするだ
けで無意義に費やしていく。
 今日は珍しく二人揃って早く起きたので、午前中から時間ができてしまっていた。
 別に悪いわけではないが、することがなさ過ぎるのも考えものである。
 そんなことを考えていると、彩が文庫本を数冊持ってテラスの方に行くのを見て声
をかけた。
「彩、それは?」
「本を……、二三冊持ってきました」
「あー、俺も用意してくれば良かったな」
「良かったら読みますか?」
「うん」
 彼女が見せてくれた文庫本のうちの一冊を受け取ると、ゆっくりと頁を開く。
 普段自分では先ず買わないようなジャンルの本なだけに、新鮮だ。
 時間が経っていくにつれ、雲も流れていく。
「風が涼しい、です」
 木立ちのざわめく音が耳に入る。
「まだ夏にはちょっと早いからね。寒くない?」
「ううん……天気が良くて、良かったです」
「来週には天気悪くなるって言ってたからね」
 今は夏よりも逆に日差しが強いぐらいだ。
 梅雨入りは来週ぐらいからと天気予報で聞いているので、滞在中はこんな天気が続
くのだろう。
 無論、山に近い場所なので天気が変わりやすいのを注意はしないといけないが、も
う少しなら大丈夫だろう。
「ふわぁ……」
 俺は読んでいた本に栞を挟むと、背もたれを倒して横になった。
 昨日も遅くまで頑張ってしまったし、今日も頑張るつもりである。
 身体を休めるうちに休んでおいたほうがいい。
 そんなことを思いながら、ゆっくりと目を閉じた。


 カリカリカリカリ……

「ん……」

 カリカリカリカリ……

 聞きなれた鉛筆の音で目が覚める。
 あれからどれくらい経ったのだろうかと考えたが、どうせまだ昼を過ぎたばかりぐ
らいだろうと推測して考えるのを止めた。

 ん?

 見ると、彩が白木のテーブルの上に広げた画用紙に、鉛筆を走らせて何か一生懸命
に描いている。
 この音で目が覚めたのは間違いないようだ。


 距離もあるし、何より今の横になった体勢のままじゃ見えない。
 何を描いてんだろう? どれどれ……。

「…………」
 あ、目が合った。
「…………」
「ダ、ダメです!……」
 俺が覗こうとしているのに気付くと、彩なりに俊敏に手で覆うようにして画用紙を
隠した。
「………………」
 親に内緒で飼っていた捨て猫を見つかった時の子供のように、必死な顔をして隠し
ている。
 どうやら見られたくないらしい。
「じゃあ何を描いてただけでも」
「……………」
「えーと」
「………絵本の…下絵」
「……絵本?」
「はい。その、一度澤田さんに一回描いてみないかと言われてたから……」
「そういえば……」
 そう言えば俺の担当の編集さんの代わりで編集長が家まで原稿をチェックしに来た
際に、彩の漫画の原稿を見てそんなことを言っていたっけ。
 この話作りの上手さと独特の絵柄を生かしてこのまま漫画を描くよりも、童話とか
の方が向いているとか何とか。
「それで、さっきちょっと思いついたお話があって……」
「そっか。うん、判った。見ないから安心して」
「………」
 少し困ったような、哀しそうな顔をする。
「?」
「ごめんなさい」
「え、どうして?」
「怒って……いませんか」
「なんでさ?」
「折角、仕事を忘れるためにここに来たのに……」
「ああ。いいよ、そんなこと気にしてないって。気を回し過ぎだよ」
「でも……」
「それよりもさ、そのクレヨン俺にも貸してくれない」
「え、あ……はい……」
 俺は画用紙の横に並べられていたクレヨンのケースを受け取ると、別荘の中に戻っ
て置いてある自分の荷物の中からスケッチブックを取り出し、戻ってきた。
 このスケッチブックの中身は別に持参していた色鉛筆で仕上げようと思って持って
きていたものだったが、クレヨンでやってみるのも面白そうだと思い立ったのだ。
 そして俺はさっきの場所に戻ると、クレヨンを傍らにおいてせっせとスケッチブッ
クを仕上げていく。
「あ、あの……」
「なに?」
「何を描いて……」
「秘密」
「え?」
「秘密」
「………」
「でも、彩がどんなお話を書いているか教えてくれたら、教えてあげる」
「………」
「あはは、ゴメンゴメン。もう少ししたら教えてあげるから」
 彩は怒ることがあるんだろうか。
 一度怒らせてみたい気もするが、止めておこう。
 怒る前に泣かせてしまいそうだ。
 彩は偶に俺のほうを見ながらも、手で隠しながら鉛筆を走らせていた。
 俺の方が気になるらしい。
 こっちが何を描いているか、想像はついているみたいだけれども。


 ……まぁ、彩の顔を見ながら描いているのだから普通判るか。


 初めはキャンバスと絵の具を用意して絵画にしようとも思ったのだが、それだと大
荷物になってしまうし、何よりも今まで殆ど時間がなかった。
 初めの頃はこちらを意識していて緊張していたような彩だったが、自分の方の構想
が沸いてきたのか、次第に熱心に鉛筆を振るい出してきていた。
 そんな彩を見ながら俺も仕上げに熱がこもる。
 それぞれ鉛筆とクレヨンの音だけが、静かな湖畔に絶え間なく続いていった。

「あの……」
「ん?」
 顔を上げるとそこには彩の顔があった。
 いつの間に。
 熱中していて気付かなかった。
「もうそろそろ、夕ご飯の支度を……」
「あ、もうそんな時間なんだ」
 確かに見ると、もう日が傾き始めている。
「はい……」
 そう言いながらも、彩の視線は俺の手元。
 さっきから広げていたスケッチブックの方だった。
「こ、これ………わたし、ですか?」
「気に入ってくれるといいんだけど」
 もうバッチシ終わっている。
 今更隠すつもりはない。
「そ、その……」
「誕生日プレゼントというには安上がりになっちゃったけど……どうかな?」
 そう言いながら彩に差し出すと、
「そ、そんなこと、ないです……う、嬉しいです」
 彩は俺の描いた彼女の絵を両手で受け取るとそのまま胸で抱きしめる。
「一生……一生大切にします」
 俺はそんな幸せそうな彩の顔を見てから、立ちあがると大きく伸びをした。
「………んんっ……」
 さっきまで彩が描いていた画用紙の束はまだ、テーブルの上に置いてあった。
 風に飛ばされることがないように重石代わりに空のコップが載せてある。

 俺は今、漫画家になるという夢を果たしていた。
 それはまだ全然はじまったばかりで、これからどうなっていくかはわからないのだ
けれども。
 絵を抱きしめたままの彩を見る。
 俺と共に生きてくれることを選んでくれた子。
 だから俺は、今度はこの子の夢の為に、夢を果たすための手助けがしたい。
 彩の夢。
 大好きな人と一緒に読めて、それが思い出になる本を描くこと。
 彩ならそれはきっと果たせるはずだ。

「彩」
「……はい」
 俺の呼びかけに彩は顔を上げた。
「俺はいつでも、彩の側にいる。これからもずっと」
 キュッ……
「………………」
 急に引き寄せられる。
 彩が、俺を抱きしめてきた。
 その腕に力が篭っいるのが判る。
 その押し当てられた柔らかな感触と鼓動が、ハッキリと俺に伝えてくれている。
 彼女の気持ちを確りと。
「………」
「だから……」
 俺はそんな彼女の頬を指先で撫で、指に掛かった髪を軽く払う。
「んっ……」
「………………」
 そのまま惹かれ合うように唇を重ねる。


 今の俺ができる事は彩と一緒に過ごすこと。
 彩と共に、幸せを感じて生きていたい。
 それはきっと、俺達にとって簡単にできることだから。


 短い休暇の間のちょっとした出来事だったかもしれない。
 今までのことを再認識しただけに過ぎなかったかもしれない。
 それでも俺は今この瞬間が、愛しくて嬉しかった。


                           <完>


written by 久々野 彰 『Thoughtless Homepage』

BACK