『失恋未遂』
――これより、第三十一回生卒業式を始めます。 …卒業式に遅刻する人がありますか …すみませーん …あなたは最後まで変わりませんでしたね …あはー …もう、早く並んでらっしゃいっ …御免なさーい …あのさ、あのさこの後、ヤック寄ってかない? …いいね、いいね。そうしよ。和子も来る? …あたしはいい。寄らないといけない所あるから…… …あー、もしかして …違うわよ、そんなんじゃないってば …あやしいなぁ …ねえ …もぅっ!! …あははっ …こらー、そこ私語が大きいぞ …あ、やべっ …最後だからって弛んでるぞ …はーいっ …それじゃあ、この後そのまま滝沢ん家に集合な …昼飯食ってからにしようぜ …後、俺、親と出かけなくちゃいけないから …おいおい、友達甲斐のないやつだな …じゃあさ、こうしようぜ 「…ったるー」 「本当。とっとと証書渡して終わらせてくれればいいのにね」 「大体、こんな式典でカンドーする奴なんて親とかしかいないんじゃないの?」 「まぁ、これが最後だと思えば我慢しますか。ねぇ瑞希もそう思……瑞希?」 「……」 「瑞希?」 「え?」 「何よー、一人感慨に耽って」 「そ、そんなんじゃないって。昨日遅くまで起きてたから眠いだけよ」 「ほんと〜う?」 「あ、でも確かに少し腫れぼったい。駄目じゃん」 「今のうちに少し寝たら。話長いし、まだ続くし」 「う、うん。ありがと。でも大丈夫よ」 「でさ、由美。昨日の『激ネフ』見た?」 「うん。アレでしょ? 宍道湖に……」 「……」 今日一日の喧騒が全て遠く感じる。 全てが他人ことで、自分とは関わりのない世界。 目の前で起きていることさえ、遠い国でのできごとのように感じてしまう。 今更にしてそんなことを感じている自分がとても情けなく、けれどそう思うことさ えもどうでもよくなってしまっている。 全てを拒絶しているわけではないけれども、無関心なことには変わりがない。 卒業式。 今日を最後にあたしはこの学校という敷地内から、高校という勉学の場から、教室 という空間から出ることになる。 他の皆と同じように。 形としては、全ての「クラスメート」と別れることになる。 勿論、別れるといっても実際に今後完全に別れてしまうことはまずない。 仲の良い友人はもちろん、家が近かったり大学や予備校が一緒だったりすれば今後 もつき合いを続けていくことになる場合もあるから、そんなにはっきりと「別れ」と いう位置づけは、この卒業式にはないかも知れない。 ただ、高校生活が終わるだけだ。 ――これを最後に、高校生でなくなる日。 そんなこと実が今日という日。 ただそれだけのことだから、あたしの人生における特別な日とは言えない。 けれども、区切りであることに間違いはない。 高校という舞台で、クラスメートとして当たり前に過ごしてきたことが、なくなっ てしまう。 それまで当たり前に思ってきたことが、そうでなくなる。 それが今日と言う日だった。 ここに来れば、当たり前のように会える人がいる。 当たり前のように喋る相手がいる。 当たり前のように一緒に過ごすやつがいる。 それは全て、友人だという以上に、クラスメートという身分があったからだ。 別に、今更こんな風に確認しなくたって判ることだ。 『当たり前のことだったのよね』 そうして毎日過ごすことが当たり前だと思って疑わなかった。 いつまでも続くとばかり思っていた。 ここにさえ来れば、必ず顔を合わせて、減らず口を叩き合い、他愛もない馬鹿話に 花を咲かせ、笑い合えた。 それが当然のことだったからだ。 顔を合わすことだって、 減らず口を叩き合うことだって、 他愛もない馬鹿話に花を咲かせることだってここでなくちゃできないことでもない し、外でも普通にしてきた筈だったけれども……学校で、自分達の教室でお互いの席 の近くを行き来して興じるものとは違うものだ。 「……」 感傷的になっているのかとも思う。 事実、そうなのだろう。 けれども、それだけではない理由が存在した。 少なくても、今日を最後に暫く会うことができなくなるやつがいる。 そんな人がいる。 それなのに…… あたしはぼんやりと近くの空席を眺めていた。 あいつがいなくちゃいけない筈の、その席を。 「……」 視線を天井に移した。 あいつ、千堂和樹と初めて親しく口を利いたのは一年の文化祭の時だった。 いや、文化祭の準備をしている時だった。 あたしが分担で割り当てられた出し物の準備として、立て看板を作っているのを和 樹が手伝ってくれたのがきっかけだった。 「高瀬、これはこんなカンジでいっていいかな?」 「あ……」 「どうかしたか?」 「キミって、絵上手なんだ……」 「そりゃあ、いちおう美術部員だし……」 「美術部って……いいの?」 「なにが?」 「美術部は全部員、作品を展示するんでしょ? できたの、千堂くんは?」 「んにゃ、ぜ〜んぜん」 「じゃ、じゃあ……」 「だ〜いじょうぶじょぶじょぶ。んなもん、一瞬で終わるって」 「でも、もう日にちが……」 「じゃ、この看板急がねえとな。ほら、高瀬もさっさと塗れって」 「千堂くん……」 それまでずっと和樹のことが嫌いだったし、そういう態度で接していたあたしに和 樹は特に意識もしないで手伝ってくれた。 「そうだ、高瀬」 「な、何?」 そして和樹の横で黙々と白く塗るだけの作業を続けていたあたしに、和樹の方から 話しかけてきてくれた。 あたしは今までの自分の態度のこともあって、和樹に自分から話しかけるのにため らいを感じていただけにホッとしていた。 そのせいで教室には他にも数人ほど、違うことを担当しているクラスメートも残っ ていたのに、同じ空間にはあたしと和樹しかいないような、一人で重苦しい気分を味 わっていたから、向こうがそんな意識を持っていないでくれたのが嬉しかった。 「こいつが終わったらさ」 「う、うん」 「俺の方の絵、手伝ってくれねえか?」 「え、う、うん。いいけど、その、あたし……」 何もできないと言いかけたあたしを制するように、和樹が話を続ける。 手は動かしたまま。 「何、黙って突っ立っててくれればいいんだ」 「え? なに?」 「なにって、モデル。絵のモデルだよ」 「え? え? で、でもそれって……」 「嫌か?」 「あ、あたしなんかでいいの……」 「いや、誰でもいいんだけどさ……部員の誰かを描くのもつまんねーし……たまには 違った奴を描くのもいいと思ってさ。いいか?」 「う、うん……」 「じゃ、決まりな。それじゃあ、まずはコレをとっとと済ませないと……」 「うん」 大した会話でもないけど、こうして少し話したおかげで気が楽になった。 そしてたまに互いに二言三言話したりしながらも、作業を続けていく。 「ふぅ……一休みしようか」 「あ、うん。あたし、何か飲み物買って来る。千堂くん、何がいい?」 「じゃあ吾輩はコークのライトを頼もうかな」 「きゃああああっ!!」 「うわっ!!」 音も立てずにドアを開けていきなりぬっと出てきたのは九品仏大志だった。 「た、大志! いきなり出て来るなよっ!」 「び……びっくりしたぁ……」 「美術部の部室を覗いたがいなかったようなので探しに来たのだが……」 そこでもったいぶるように間を置き、そしてゆっくりとあたし達を見つめる。 「お楽しみの邪魔をしてしまったようだな」 ずれた眼鏡を中指で直しながら、ニヤリと口の端を歪めている。 しかしこれほどガクランの似合わない男もいないと思う。 わざわざ、似合わなさそうな感じの派手なフレームの眼鏡をずっと愛用しているせ いもある。 密かにあたしの高校生活の邪魔モノランキング堂々の初登場一位を獲得していた。 そして二位がずっとこの大志と一緒にいることが多い和樹だった。 「ちょ、ちょ、ちょっと変なこと言わないでよっ!」 「わかっている。高瀬瑞希。みなまで言うな」 「全っ然、わかってなーいっ!」 「おいおい……二人共いい加減にしろよ。大志はずっといなかったけどすること済ま せたのかよ? それに高瀬は飲み物買ってきてくれるんだろ?」 「あ、そうだ! もぅ、アンタが出て来るからすっかり忘れちゃったじゃないのっ!」 「ふふふ……照れ隠しに吾輩を責めても仕方がないぞ。高瀬瑞希」 「て、照れてなんていないわよっ! 何、でたらめなこと言ってるのよっ!」 「やめろって。ったく、ケンカなら向こうでしてくれ」 「ほらほら、早く行かないと日が暮れるぞ」 「……もぅっ!」 「でだな……同志和樹よ、大事な話がある。今月の「ビビット」の情報によると…」 大志もあたしを無視して和樹に話し掛けていたし、あたしもこれ以上口論する気も なくて、そのまま教室を出た。 そして最寄りのコンビニに飲み物とお菓子を買ってすぐに帰って来ると、和樹と数 人のクラスメイトがそのまま作業を続けていたけれども大志はいなかった。 ちょっとホッとするが、和樹が困ったような顔をしているのに気づいた。 「買ってきたわよ。あれ? どうしたの」 「…あ、サンキュ」 和樹に買ってきた三谷サイダーを手渡しながら、その視線の先を追う。 そこにはあたしがほとんど塗り終わって乾かしていた立て看板があった。 白く塗っただけの立て看板だったものが。 「な、な、なによ、コレはっ!」 「いや、大志の奴が……」 白ペンキで塗られただけのはずの看板には、デカデカとアニメ絵の女の子が描かれ ていた。 ご丁寧にフキダシまでついて「来てみろりん♪」などと描かれている。 「やっぱりマズいよな……いや、消しておくから。上塗りすれば大丈夫だし……」 硬直するあたしに、和樹は横で色々言っているようだったが、聞こえていなかった。 「こ……」 「こ?」 「こんのばぁかぁーっ!」 「うがっ! か、缶を投げるなっ!」 あたし達のこんな関係は、この日から始まった。 そして今も続いていた。 「……」 視線を天井からまた、和樹の――あいつの席に戻す。 本当は今日、色々と自分自身悩むことがあると思っていた。 昨日の夜、ずっと思ってた。 色々なことばかり思い浮かんで、悩んで、苦しんで、いつ眠ったのかも憶えていな い。 起きた時、何故か泣いていた。 夢を見たのかもしれない。 見なかったのかもしれない。 ただ、目尻から涙が溢れていた。 それだけがあたしにとっての感情の全てで、名残でしかなかった。 だから起きあがって顔を洗い、全ての跡がなくなった頃には、もう何も思い浮かば なかった。 昨日あれだけ思いつめていたくせに、今日、ここに来る間ずっと、妙に達観したよ うな自分がいた。 そして、こうして講堂で出席番号順に割り当てられた席に、あいつがいないのに気 づいた時には何だかホッとしてしまった。 不在の理由をあいつの親しい友人に聞いたり、先生に尋ねたりすれば良かったのに、 その気にもなれなかった。 その時、既にもう諦めきってしまっていたのかも知れない。 あたしのせいでもなんでもないのに、まるでその空席があたしの意志を反映した結 果のように思えてしまった。 きっと今日、このまま何ごともなく終わるのだろうと思う。 今日という日を通過してしまうのだと思う。 そしてその空席が、そのことをまるで肯定しているようだった。 それをあたしは後で後悔するのだろうか。 それはわからない。 ただ、今のあたしは……何か既に終わってしまっているような気分だった。 少なくても、今更どうかする気分にはなれなかった。 今の自分に後で後悔するにしても、なじるにしても、きっとずっとずっと後のこと になるのだろう。 今、こうした自分の気持ちが理解できないほど、ずっとずっと後に。 そんなことを考える自分に多少、嫌気がささないわけでもなかった。 『別段、今日が今生の別れとかいうわけじゃないし』 そんないいわけがあたしの頭をよぎる。 この妙に落ち着いてしまったような今の気分は、ここからきているのだろうか。 そんなことは、悩み慌てていた頃もずっと思っていたことだった。 けれども、その時はそれではいけないとあたしは思っていた。 そんな考えは絶対に駄目だと思っていた。 何がいけないのか、判りもしなかったし、 そのことが今こうしてあたしが落ち着いている理由に足るのかどうかさえもわから なかった。 『今日という日が最後のチャンスだとか、機会だとか、きっかけとかいうわけではな いし……』 あれ? あたしは、何がしたかったのだろう。 『それはわかっている』 でも、本当は何がしたかったのだろう。 『きっと、判っている』 そしてどうして諦めてしまったのだろう。 『判っているくせに……』 「ふぅ……」 煩悶としてしまう。 「おーい、瑞希。何、今頃ため息なんかついてるのよ?」 「そうそう、いつまでも辛気くさい顔してるんじゃないわよ」 「え? うん。そうだね」 今度は自分達の指定されている席を離れて、中腰であたしの近くまできていた普段 からも仲が良い友人たちが話しかけてきた。 自分でも作り笑いと分かるくらい、顔がぎこちない。 それから近くの娘たちとも一緒に、周りの皆と同じような退屈凌ぎのおしゃべりを 続けた。 あまり話もしなかったし、聞いてもいなかったけれども、何も考えなくていいのは 楽だった。 普段とそれほど変わることがないおしゃべり。 これさえも、この時間、この場所でやることは今日が最後だ。 だからといって特に感慨にふける雰囲気にはならなかった。 今日が終わったとして、これからどうするのかどうしたいのかと言うことを本当は 考えるべきなのだろう。 今日が最後じゃない。 今日で終わりじゃない。 そう考えているならなおさら、これからのことを考えるべきだ。 けれども、 『確か、あの美大って最初の二年間は寮生活なのよねー……』 パンフを見せられたので間違いない。 あたしじゃなくて、あいつのことだ。 あたしは既に自分の通う大学は決まっていた。 その大学の受験に行った時は……あいつも一緒だった。 それはあたしが自分の第一志望の大学を受験しに行く当日の朝のことだった。 「ふぁあい。もひもひぃ」 『あ、瑞希か! 和樹だ』 「……和樹?」 『ああ』 「……」 『おい、瑞希。起きてるか?』 「え? ええっ! な、なんなのよ! 朝っぱらからっ!」 『お前の受ける大学……――大学だよな』 「そ、そーだけど……?」 『今日、受験だよな』 「う、うん」 『そこ、どうやって行くんだっけ?』 「はぁ?」 あいつは高校の美術部に入る前から、いくつか名の通ったコンクールに入賞したこ ともあるくらい絵がうまい。 だからあたしはあいつがそこそこ有名な美術大学を受けると聞いても驚かなかった し、普段から絵について色々と語っていたあいつがそうするのも当たり前だと思って いた。 そしてあいつの目指す先は、あたしとは関係のない道だった。 そう思った時、あたしは受験勉強という口実を作って、あいつから自然に距離を取 っていた。 実際の理由はあたしがあいつといつまでも一緒にいられるわけではない――そんな ことがようやくながらにしてあたしの頭でもわかったせいだったのだろう。 自分でも説明できないほど、あやふやで複雑な感情だった。 別に無理して距離を置く理由もわからないのに。 そして特に学校で会っても話したりすることもなく過ごしてきていたので、起き抜 けの突然のあいつからの電話にかなり面食らってしまった。 そしてその電話の内容もふざけていた。 「う……受けるぅ!? あんたが!?」 『まーな。なんかそうなっちまった』 「あ……あのねぇっ!!」 『ははは、まぁ、軽いデモンストレーションってコトで』 「それ、大学の前で言ってみなさいよ。袋叩きにあうから」 『だろーな。でもさ、それは余裕で受かる奴のことであって、俺の場合間違いなく落 ちるだろーから、大丈夫だって』 「だったら何で受けるのよ」 『それはホラ……』 「何よ?」 初めて言いよどんだ和樹に、あたしは嫌な予感がした。 聞きたくないことを言いそうな予感だ。 『大志の奴が俺の名前で勝手に申し込……』 「あー、もうっ!! その名前は一生聞きたくないわっ!!」 よくわからなかったし、わかりたくもなかったが、あのろくでなしな男がどうも関 わっているらしい。 もしかしなくてもきっとあの男もあたしと同じこの大学を受けるのだろう。 そう思うとかなり意気込みも萎えてきたが、今更どうしようもない。 たかが一人の男の為にあたしの人生設計を狂わされるわけにはいかない。 それに本当に悔しい話だが、あの男と違って自分の頭では今更違う大学に逃げるわ けにはいかなかった。 後はあの男がもっと上の大学に受かるか、あたしかあの男のどちらかが落ちてくれ ることを願うばかりだ。 そして今、問題にしているのはそのことではない。 「だったら今日もなんであいつと一緒に行かないのよっ!!」 それから電話を切り、朝食を食べながら身支度をして外に出た時にはあいつはもう、 家のすぐ近くまで来ていた。 久しぶりに会ったと言う感慨よりも驚きと苛立ちから、つい怒鳴ってしまう。 「それはほら……なんだ、その……」 「なによ、人の顔見て」 「……瑞希と一緒に行ってみたかったんだよ」 「はぁ?」 「そんな顔、思いっきりするなよ。本当はあいつの顔を見たくなかったからだ」 「だったら一人で行けばいいじゃない。わざわざ、一緒に行って遅刻しそうになるあ たしの身にもなってよっ!!」 「それはほら、俺も道知らないし……」 「あんた、ずいぶんとナメてるわね……」 試験勉強の時のように電車の中でも単語帳を開いたり、問題集から抜粋したメモを 必死になって何度も何度も繰り返して覚えていたあたしにしてみれば、ケンカを売っ ているとしか思えない。 「まぁ、本命への準備運動として……」 「運動って……まぁ、いいわ。本当にこれ以上つき合ってたら遅刻しちゃうから…… ほら、行くわよ」 「ああ」 そして駆け出すと、あいつもついてきた。 本当はゆっくり行ってもまだ十分に間に合う時間だった。 けれども、走る足は緩めなかった。 「……」 「でもさ……」 「何よ、無駄話なら帰りにしてよねっ!」 「頑張れよ、受験」 「なっ、ひ、人のこと言えるの。あんたは!」 「まー、それはそれだ」 「もぅ……あたしはあんたに心配されるようなヤワな頭してないわよ」 もう目指す大学はすぐ近くだ。 同じ大学を受けるのだろう、色々な学校の制服姿の男女が歩いている。 そこでちょっと安心して足を止める。 これがいい思い出になるかどうかはわからないけど、今はあいつと接点がまだある ことがただ嬉しかった。 「あんたこそ一応とは言えここ受けるんだからそれなりの成果はあげなさいよ。いく ら美大たってそこそこは勉強できなきゃ入ることはできないんだから」 「いや、そこそこって言うが……それほどレベルが低いわけじゃないぞ」 「だったらなおさらでしょーがっ!」 「まぁ……そりゃ、そーだ」 そんなちゃらんぽらんな顔をするあいつが受かるなんて思わなかった。 それは合格発表の日。 自分の番号を大学の掲示板で見つけて、家に電話して自宅にも郵送で合格通知が届 いていることも聞いて、上機嫌でどうなったかとあいつの家に立ち寄った時にそれを 知った。 「ええっ!? あんたも受かったのっ!?」 「まーな」 見るとその手には郵送されてきたものらしい合格通知があった。 「どーだ、見直したか?」 このまま同じ大学で、同じキャンパスライフを送る――そんなことを考えてみた。 けれどもそれは、あいつの夢じゃない。 「でも、あんたの場合は本番はこれからでしょ?」 あいつの夢は、これからだ。 「ま、それで精根尽き果てたなんてことがないようにせいぜい頑張んなさいよ」 「へーへー」 美術大学で更に多くのことを学んで、自分の納得する絵を世に送り出す。 自分の好きな絵を多くの人に見てもらう。 その話を聞いた時、あたしは凄いと思った。 あたしと違う世界を、あたしとは違った夢を持つあいつがそこにいた。 あたしとあいつの接点は、高校生活の今日を最後に大部分を失う。 一緒にいる時間は、極端に減る。 特にあいつの向かう先では最初の二年間は、山間の別のキャンパスで寮生活を営ま なくてはならないらしい。 だとすれば、ますますあたしとあいつが会ったり話したり、遊んだりする機会はな くなっていくのだろう。 今までのようにあいつに気安く話し掛けるのも、家に遊びに行くのも、一緒にテニ スをしたりするのも、クラスメートだった今が最後になってしまうのかもしれない。 「……」 体育館を兼ねた講堂ではパイプ椅子しかないので、頬杖もつけずにただ座っている だけの自分。 きっと可愛くない顔をしているだろうと思う。 『あたしは何をしてきたんだろう』 『何を望んでいたんだろう』 『そして、何をしなくちゃいけなかったんだろう』 いよいよ卒業――今日と言う日が近づいてくるに従って、そんなことばかり思って 悩んできた。 何も考えないでその日その日を楽しんできた。 詰まらないことで笑ったり、怒ったりするだけで、そんな毎日を過ごすだけで満足 してきた。 それなのに今、迷っている。 どうしたらいいのか、悩んでいる。 そこまで考えて、この期におよんで焦っている自分がひどく可笑しかった。 そしてこれが最後じゃないと再び付け加える。 今までより会ったり話したりする機会はなくなっても、いきなり疎遠になったりす るほど、他人じゃない。 きっと何か機会があれば集まったり、遊んだりもするだろう。 だから、このまま別々の大学に、別々の道を行くことになったからといって、慌て ることはないのに、今までの自分達でなくなることが不安でたまらない。 そして卒業というタイムリミットが迫れば迫るほど、何もしてこなかった自分への 苛立ちと焦りが増幅していった。 そんな何かに押しつぶされそうな苦しい毎日が、昨日の夜まで続いていた。 そして今日、妙に醒めてしまっていた。 なるようになると言えば聞こえがいいが、自分で勝手に諦めてしまったのだろう。 『今まで何もできなかったくせに、今更慌てふためいてドタバタしたって何かできる わけないじゃない』 そんな自嘲が脳裏に響く。 これがあたしの結論だった。 あたしらしい、諦めだった。 そしてあいつは今日、学校に来ていない。 どうしてだか理由は判らない。 病気か、何か意味があるのか、こんな日にただのサボりとは思えないから、しかる べき理由があるのだろう。 今日、このままあいつと会わなければ、そのままあいつとの関係も終わってしまう 気がした。 そしてそれを受け入れているあたしが今、ここに座っている。 今までの自分を責めるだけで、何もしようとしないで諦めているあたしがいる。 『格好……悪い』 既に式はメインイベントとも言える卒業証書授与もほとんど終わっていた。 形としては校長から一人一人手渡しで受け取るものの、一度壇上から降りた時に受 け持ちの先生に返して、教室で改めて受け取ることになる。 理由は滞りなくイベントを消化する為だ。 私が校長から受け取った証書には、出席番号で三人後ろのクラスメートの名前が書 いてあった。 そしてあいつの名前は、何故だか最後まで呼ばれなかった。 どうしてしまったんだろう。 それを知ることはあたしにはできない。 「……」 卒業式も滞りなく終わり、皆でゾロゾロと在校生に送られるようにして教室に戻る と、後は担任から証書を改めて受け取るのを待つだけになる。 今日が最後だからという特別な雰囲気もなく、いつものように教室は騒がしかった。 「学校終わったからって何か変わるわけじゃないしなー」 出入り口付近で、寄りかかりながら友人らしい隣のクラスの生徒としゃべっている 男子生徒の声が耳に届く。 それ程遠い距離でもないくせに妙に遠く聞こえる。 けれども、しっかりと耳には届いた。 「あんた、四月からどうするの?」 「一応、予備校に通うことにしてるけど……」 「そんなんで大丈夫かぁ?」 「あのなー、今年はちょっと運が悪かっただけだって」 「でもなぁ……」 「てめぇっ! てめえこそ、どうするんだよ?」 「あ、俺は叔父さんのトコ、手伝うことにしてるから……言っただろ」 「え? あれ、本気だったんだー」 「まーな」 別のグループからのやり取りが聞こえてくる。 結局、他愛のないお喋りをちょっとしただけで終わらせ、あたしは今度は自分の席 でまた、座ったままぼんやりと喧騒に身を浸らせていた。 カサッ 「……?」 教室に戻って自分の席について以来、頬杖をつくだけで他にすることがなかった手 を、頬杖をつくのも疲れたという理由だけで、特に意味もなく机の中に入れたら意外 な手触りがあった。 この数日間、文字通り空っぽの机にしていたつもりだったので、驚いてその姿勢で 固まってしまった。 「……あ、そうか」 手に触れたものを恐る恐るゆっくりと引き出すようにして、ちょっと覗いたところ ですぐに納得した。 見覚えのある濃い茶色の包装紙で包まれた箱が入っていた。 十四日のホワイトデーに、あいつから貰ったお返しだった。 受験生と言うことで励ましの意味を込めてと、散々前振りを入れてあたしが初めて 買って贈ったバレンタインのチョコへのお返しということだった。 その日、他に多く持ち帰らなければいけない荷物が多かったので、中身が日持ちす るクッキーだと聞いたところで持ち帰るのは翌日にしようとその時は置いて帰ったの だ。 別にこれじゃなく他の物を置いて帰っても良かったのだが、照れてしまった。 喜んで持ち帰ったように見られたくなくて、「一日ぐらい放置しても平気よね」と 言ってしまったのだ。 嬉しくなかったわけはないけれども、素直じゃなかったと言うのもちょっと違う気 がする。 どうしていいか判らない、自分の気持ちさえはっきりしないままだった。 だからこそ、昨日今日と最後まで悩み続けて、最後の最後で諦めが入ってしまった のだろう。 机の奥に入れてあり、包装紙の色からこうして手を入れない限り気づくことはなか っただろうし、実際今の今まで忘れていた。 何となく、今日の自分に相応しい贈り物のような気がして可笑しくなる。 「あは……」 そのまま「馬鹿みたい」と言おうとして、口が歪む。 目尻がちょっと熱くなっていた。 「……」 泣くつもりはないし、泣きたくない。 そう思って目を強く指で擦る。 「あ、瑞希ー。ちょっといい?」 そして気を紛らわすには丁度良いタイミングで、後ろの席から友人のサイン帳が回 ってきた。 幸いにもそれぞれの雑談に夢中なのか、誰もあたしのことを特に気にかけていなか ったらしく、声をかけた彼女もあたしが今の今までボーっとしていたことに気づいて はいないようだった。 あたしは鞄から筆入れを取り出してサインペンを持つと、一言二言ありきたりなこ とを、そして一言だけその友人へ気持ちを込めて書き込み、最後に自分の名前を入れ る。今まで頼まれたサイン帳と同じことを繰り返した。 そして前の席の友達に渡すと、そっと周囲に気付かれないように筆入れと共にクッ キーの包装紙を鞄にしまった。 『これからもまた、遊ぼうね…』 さっき書いた自分の言葉を反芻しながら、でもそれは決して今までと同じ立場では ないことを自覚しながら……あたしは目を閉じた。 自分のためらう心から、背を向けるようにして。 今日という日を、 あいつへのあたしの卒業式にするつもりで。 ガラガラガラッ ドアの開く音がした。 担任が来たらしい。 「ふぅ〜、間に合ったぁ……」 「あ、千堂! お前、何やってたんだよ!」 「それに間に合ってないぞー」 「最後の日まで寝坊かよ、オマエ大胆だな」 「違うってそれがさぁ……あ」 聞きなれた、あいつ――和樹の声を聞くまではそのつもりだった。 目を開けてドアの方を見たあたしと、息を乱したまま自分の席に向かうあいつの目 が合った。 「おーい、瑞希。喜べ、来年からも一緒だぞ」 「……へ?」 多分、その瞬間のあたしは、高校生活最後のあたしを象徴するに相応しい顔をして いたと、思う。 「フッ、遅かったではないか。まい同志」 「た、た、大志! 誰のせいでこんな…」 「こんな? 吾輩の配慮には感謝してもらいたいものだがな」 「だからって今日まで黙ってることはねーだろーがっ! しかも手の込んだ真似しや がって」 「つまらぬ式典になど興味がないと常日頃から言ったのはおまえだぞ」 「だ、だけどなぁ…」 「浪人生活が安易に許されぬ家庭環境だと言うのは吾輩のせいではないぞ」 「け、けどなぁ…」 「ちょ……」 いつのまに沸いたのか大志と口論をしている和樹の姿を見て、あたしは駆け寄って いた。 「ちょっとどういうことよ! 和樹!」 大志を両手で押しのけるように和樹の前に出て訊ねる。 「その、美大……全て落ちちまった」 「落ちたぁ〜!?」 しかも全て? 本命のところ以外聞かされていなかったので、一体和樹がいくつ受けたのかは知ら ないが全てとは。 昨日、唯一補欠で引っかかっていたところも駄目だったのだそうだ。 「そ、まさか全部落ちるとは思わなかった……それでな結局受かったところってお前 と一緒のとこだけだったんだ。それで今日、締め切りギリギリに入学手続きを済ませ てきたんだけども……いやー、焦った焦った」 「……」 「お、どうした。感激のあまり声も出ないのか?」 「こ、こ……」 「「これで来年も一緒にいられるのね、瑞希嬉しい」か?」 「こんのぶわぁかぁ――――――――――――――――――――――――――っ!!」 何時の間にか教室中の全ての視線はあたし達に向けられているようだった。 勿論、そんなことを気にしている程、あたしに余裕はない。 「だいたい、どうしてそれじゃあ浪人しよーとか、何か専門学校に行こうとか思わな いのよ!? あんたから絵をとっちゃったら、なんにも残んないくせに」 「いやー、それも考えたんだけど……」 のんきに頭に手を当てている和樹の顔に悲壮感はない。 いつもの楽天的な表情を浮かべている。 それがあたしの怒りを増す。 「第一、受け付けの締め切りってもうとっくに過ぎてる筈じゃ……」 「それがさ、大志の奴が何か延長の手続きしてくれてたらしくってさ」 「じゃあ、何? この高校3年間だけでもうんざりだったのに、これからまた4年間 ……あたしは同じ大学の同じ学部でまた同じようにあんたのお守り!? 何よそれ!?」 しかも考えたくないが、大志も一緒に違いない。 「いやぁ……」 「いや……って……あんたは――っ!!」 思わず和樹の首に手が伸びる。 「高瀬……」 それを遮るように声をかけられる。 「何よっ! ……って、あ……」 あたしの肩を叩いたのは担任の八重樫先生だった。 大志のやつはちゃっかりと自分の席に座っている。 立っているのはあたしと和樹の二人だけだった。 八重樫先生は困ったような呆れたような、やや疲れたような顔をしていた。 「千堂との痴話喧嘩は後にしてくれ。証書、配るから」 もちろん、教室は爆笑の渦だ。 「大志。これはどういうことよ」 あたしは真っ赤になりながらも自分の席に戻ると、すぐ近くの大志に訊ねる。 前では八重樫先生から出席番号順に証書を入れる筒と共に、証書が配られていた。 「さぁな?」 「とぼけないでよ。どうせまたあんたが悪だくみしたに決まってるでしょ」 「ふ… こうなることは、この大宇宙が始まる前からすでに決まっていたのだよ、ま いしすたぁ」 「っ!」 思わず半腰になるが、ここで騒いだらさっきの二の舞だと思い必死に自制する。 「いずれわかる」 そう言って順番が来たのか、立ち上がって自分の証書を受け取りに行ってしまった。 そのいつもながらのもったいぶった言い方が癪に障る。 「だがな、まいしすたぁ」 もうすぐ自分が呼ばれる番だと思い、席から立ち上がるとすれ違いに戻ってきた大 志が声をかけて来た。 「おまえが吾輩に感謝する日もそう遠くないのではないと思うがな」 「……」 あたしはもうこれ以上、相手にしないことにした。 「くくく、いつもながら素直ではない」 「……」 いつものびょーきだ。気にすることはない。 そう念じてあたしは自分の証書を受け取った。 その後、全員の卒業証書を配ると、校舎の前で後日郵送される卒業アルバム用の最 後の記念撮影が済まされ、そのまま三々五々に解散する。 それで終わって本当にいいのかと思うほど、実に呆気ない終わり方だった。 あいつは校庭の隅で教育指導主任の先生に怒られたり、近くのクラスメート達にか らかわれたりしながらも終始、笑っていた。 でも、皆と別れて一人でいた時は、流石に疲れているように見えた。 もしかしたら、やっぱりショックはあったのかも知れない。 少し、声がかけ辛い。 「和…」 「ふわぁ……眠……」 「……」 「ん? 瑞希。どーした。あ、一緒に帰るか?」 「心配したあたしが馬鹿だったわ」 あたしの方が疲れた気分だ。 「?」 それから当然、話は和樹のことに戻った。 本人が平気な顔をしている以上、躊躇う理由はあたしにはない。 「大体、どうして今日になってなのよ……普通は補欠にしたってもっと早く当落ぐら い判る筈でしょうがっ!」 そう言うが、二次三次募集ともなればこの時期でも未だに試験を受けている生徒だ って僅かではあるが存在する。 幸い、そういう立場にはならなかったけれども。 「それがさぁ、聞いてくれよ。大志の奴が……」 「もう、あの男の話はしないでっ! 頭がおかしくなるっ!」 鞄を振り上げ、投げる気はないがこうやって構えを見せることで黙らせる。 「そう言われても、聞いたのは瑞希だろーが」 「だけど、あいつの話は聞きたくないのっ」 「へいへい」 しょうがねぇなあという態度をとる和樹に、あたしは大きくため息をついてみせた。 「折角、あんたとの腐れ縁も今日で最後だと思ってたのに……」 「そーゆー早合点するところが、おまえの悪いところだぞ。最後の最後まで人生って 言うのは何があるかわからないもんだ」 「……反論する気も失せたわ」 当の本人がへらへらしているのを見ると、怒る気力も沸いてこない。 もう一度、大きくため息をついてから高く掲げていた鞄を下ろす。 と、同時に蓋が開いて中から鞄の中身が飛び出した。 「あっ……」 叫ぶが、両手で鞄を持っていただけに間に合う筈もない。 そのまま音を立てて、他の物と一緒に茶色の包装紙にくるまれたケースが和樹の前 に落ちた。 「しょーがねーなー…あれ……瑞希、これ……」 まとめて拾い上げながら、気づいた和樹があたしを見た。 「……」 とっさに視線をそらすがごまかされてはくれそうもない。 「ご、ごめん。今日の今日まで持って帰るの忘れてたわ」 「あ、ひっでーな、それ」 「あはは、本当にそら、この時期色々と忙しかったし……ごめんね」 「まー、いーけどさー」 「ごめんってば……」 「へー、へー、瑞希様はおモテになりますからねー、俺からの何て机の肥やしか何か にしてたんでしょうよ」 「もう、すねないでよ、もぅ……ほら……大丈夫。中は砕けてないわよ。あーん」 「あー?」 あたしは包装紙を雑に破って、中の白い紙の箱から緩衝材に包れるようにして入っ ていたクッキーの袋を取り出すと、ひとつ摘まんで和樹の口に放り込んだ。 「どう?」 「どうって……お前なぁ……」 「えへへー」 「ったく……」 あたしのごまかしに乗ってくれる気になったらしい。 苦笑ながらも、笑ってくれた。 それを見て、あたしもひとつつまむ。 「あ、結構、美味しい」 「結構ってなんだよ。結構って」 「あはは、ごめん。それでこれからどうするの? 住む所とか……まさか大志の所に 同居するなんて言い出すんじゃないでしょうね?」 「バカ言えっ! 誰が……」 「怪しいわねぇ」 「ちゃんと、住む所は決めてあるって……も、もうすぐ、引っ越す段取りまで決めて あるんだから」 「本当ぅ〜?」 「い、いやその予定ってことで……」 あたしが疑わしそうな目を向けると、案のじょう、焦ったような顔をしてきた。 何かこんなこいつの顔がこれからも当たり前のように見られると思うと、嬉しくな ってくる。 「もぅ、一人じゃなんにもできないんだから」 「そんなことはねーぞ」 そう言って自分がいかに今日、色々なことをしてきたかを延々と語る和樹を見て、 落ちたショックが少なくても表に現れていないことに改めてホッとした。 「…少しは心配したんだぞ」 「へ?」 聞き返してきたが、あたしは無視して話を戻した。 「引越しする場所とか日とか決まったら教えなさいよ。手伝ってあげるから」 「本当か? 助かるな、そりゃ」 「仕方ないわよ。腐れ縁なんだし……」 そう言いながら、あたしは無愛想な顔を作る。 今頃気づいたけれども、かなり嬉しがっている自分がここにいた。 本当に、今頃だった。 『けれども、今更じゃない』 そう、心の中で反芻した。 「まー、こういうことになるとは思わなかったけど……これからもよろしく頼むな」 「……うん」 そう答えながらはにかみが押さえ切れない自分がとても、 可愛く思えた。 <完>