『こころ、届けて』


00/08/03



 雪が、降り続く。
 もう、どれだけ待っただろう。
 あと、どれだけ待てばいいのだろう。

 南さんが来ない……そう信じるのが、怖かった。
 考えるのが怖かった。

 …約束……したもんな……。

 自分にそう言い訳をする。
 もう身体中が冷え切って指先一本動かない。

 まいったな。返事をもらえるどころか…
「ふられた……か?」
「…………」
 用意したこのディナーチケットも時間切れか…

 ビッ……
 ビリッ、ビリリリッ……
 ビリビリビリビリビリッ……

 細切れになった紙切れが、風に乗って舞ってゆく。
「………………」
 もう少しだけ待って…帰るか……
 もう少しだけ…
 もう少しだけ………
「…………………」
「……………………………」
 ギュッ…
「…………」
 ギュ…ギュ…
「………ぅ」
 なんの…音だ?
 ギュ…ギュ…ギュ…
「……………」
 ギュ…ギュ…ギュ…
「……」
 雪を踏む足音か……
 何かが…辺りをウロウロしてる……
「……………」
 ギュ…ギュ…ギュ…
 人影だ……まるで何かを…探しているみたいだな………
 ギュ…ギュ…ギュ…
 何か…慌てているのか……後ろめたいのか……慌ただしく周りを見回している……
 ギュ…ギュ…ギュ…ギュ…ギュ…ギュ…
 こっちの方に……

 ズルッ…

「うわっ!?」

 ドサッ…

 転んだ………

「……」
「…………」
「………………」
「……………………?」
 立たない…のか…?
 ペタリと…地面に…座り込んだまま……
 まるで…歯がみして悔しがっているように……肩をおとしてる……
 その肩が……小刻みに震えてる……

「……………」
 誰だろ……よく見えない……
 女の人…みたいだ……
 あれは……
 あの人は…どこかで……

「………………南…さ、いや…」
「えっ…?」
 もうろうとした視界の中で、その人がこちらを向くのが分かった。
 そうか……誰かと思ったら……
「…………………」
「運送屋さん!?」

 ガバッ!

 まどろみの中から一気に目が覚め、慌てて身体を起こすと、まとわり付いていた白
い綿のような物がボロボロと崩れ落ちる。
「和…、いえ、お客さん………」
「え………?」
「あ、あの………」
「ど、どうしてここに…」
「えっと………ま、真心運ぶペンギン便、その真心があれば人の心も運びます」
「人の……心?」
「は、はい。今日は心を……届けに来ました」
「ここ……ろ………?」
「は、はいっ」
「届けに来たって……?」
「その………ここじゃなんですから、向こうへ来て下さい。車を用意してありますか
ら」
「あ、で、でも………」
「南さんの事も……あるんです」
「え……」
 駅の反対側の車道に彼女の運送用に使うコンテナ車が止めてあった。
 二人で乗り込むと、彼女は後部スペースから無造作に置いてある毛布をこちらに放
って渡してくれた。
「さぁ、これで濡れた体を拭いて………風邪、引きますよ」
「あ、どうも……」
「おきゃ…和樹さん、使い終わったらそのまま後ろに置いておいて下さい」
「あ、ありがとう…あれ? どうして?」
「大丈夫ですよ。トラック野郎に後部座席改造のベッドは必需品です」
「いや、俺の…名前……あ、そうか……」
 南さんから聞いたのか。
 俺はそう独り合点した。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………えっと」
「…………」
「……………あの……?」
「………鈴香」
「へ?」
「鈴香………です」
「あ、え……ああ。鈴香さん…か。どうも」
「いえ……少し、飛ばしますよ」
「え?」
 何か、様子が変だったな?
 まさか南さんに何かあったのか?

 それから、トラックは高速に乗り、雪道をひた走った。
 裏道や抜け道を熟知しているのか、単に交通量が少ないのか、あまり止まらずにす
いすいと走っていく。
 一体、どこに行くのだろう。
「…………」
「…………」
 そしてそれを答えてくれる筈の鈴香さんは、ずっと黙ったままで、俺も声を掛け辛
い程、緊張しているように見えた。
「…………」
「…………」
 俺はずっと南さんのことが気になっている。
 耐えきれなくて、何度も聞こうとしたが、上手く言い出せなかった。
「……………あの」
「…………あ、ラジオでも聞きますか?」
「……………いえ」
「…………私、ナガオカさんのラジオ、好きじゃないんですけど、和樹さんは?」
「……………そうじゃなくて、その」
「…………」
 何故か、聞いてはいけない気がした。

 トラックが止まった。
 交通量など殆ど無さそうな県道の隅っこに車は止まっていた。
「あ……?」
 どう考えても、南さんがいそうな場所ではない。
 人気のない場所に思えた。
 どうしてここでトラックが止まったのか俺には理解できなかった。
「あの……?」
「和樹さん……コンテナに入って下さい」
「へ?」
「すぐに、私も行きますから」
「……?」
 よくわからないが、俺は言われるままにトラックのコンテナの中に入った。
 普通じゃない雰囲気に、俺は呑まれていた。

 中は真っ暗だった。
 そして、何も入っていないようだった。
 否――
 冷たい金属の床の真ん中まで進むと急に、何か柔らかいものが敷かれているのに
気付いた。
「あれ……?」
 それが何かを確認する前に、鈴香さんが入ってきた。
 エンジンも切ったのか、静かだった。
 外から差し込む僅かな明るさだけが、俺の視界を支えていた。
「お待たせしました」

 ギィィ……

 鈴香さんがコンテナの扉を後ろ手で閉めかけた為、光が狭められてかなり薄暗かっ
た。
 中から閉めることは出来ない構造の筈だから鍵は掛からない筈だが、殆ど隙間無く
閉まっていて殆どよく見えなかった。
「南さんのことですけど……」
 ドアの前にいる鈴香さんの声が、暗闇にやけに響いた。
 コンテナという閉ざされた空間の中央に俺がいて、扉の前に鈴香さんがいた。
 不思議な距離だった。
「は、はい……」
「恋人………なんですか?」
 意外なことを聞いてきた。
 今まで聞きたかったのに聞けなかったことでなく、考えもしない事を言ってきた。
 思考が、固まってしまう。
「え?」
「南さんのこと、好き………なんですか?」
「ど、どうして……」
「聞いちゃ、駄目ですか?」
「そ、そんないきなり」
「いきなりです」
 彼女はきっぱりと言った。
 声に切羽詰まったものを感じる。
「でも、いきなりでないと駄目なんです」
「え?」
「チャンスだったから……多分、最初で最後のチャンスだったから………」
「え? え?」
 意味が判らない。
 彼女の質問の真意が判らない。
「和樹さん………」
「は、はい……」
「ずっと、見てました」
「へ?」
「ずっと……ずっと……」
「え、え……?」
 そこでようやく、朧気ながら彼女の言いたいことに気が付き、彼女を意識した。

 ――いつもの運送屋さん

 それが俺の彼女に対する唯一の認識だった。
 薄暗がりの中のせいで、彼女の姿をはっきりと見ることは出来なかった。
 いつもの彼女のようで、そうでないようにも見えた。
「これが一目惚れなのかどうかわからないんですけど……」
 俺は誰と話しているのだろう。
 彼女の言葉を聞きながら、そんなことを思っていた。
「初めて和樹さんのことを聞いたのは、よく贔屓にして貰っているお得意さんから和
樹さんの話を聞いた時でした」
 多分、立川さんの事だろう。
「その時には特にどうとは思わなかったんですが……」
 暗がりにいる自分。
「何度か和樹さんを見かけているうちに、色々話を聞いていたこともあってか何か気
になっていて……」
 暗がりにいる彼女。
「いつの間にか自宅に物をお届けに上がったり……」
 俺たちは、何をしているんだろう。
「こみっくパーティー会場で同人誌の受け渡しに行くのが、楽しみになっている自分
に気付いたんです」
 何を、しようとしているのだろう。
「ハハ、いきなりですよね」
 鈴香さんが自嘲気味に笑った。
 確かに、立川さんから物が送られてきて、その代わりに同人誌を渡す仕事はいつも
彼女が来ていた。
 今頃になって、そんな事に気づいた。
「ただ、同時に何か苦しいものも感じていました」
 顔もよく見えない暗闇が、重苦しさを強調する。
「他に仕事柄、南さんのところにもよく出入りさせて貰っていましたし……」
 空気が、言葉が、重い。
「よく、見かけたんです」
「和樹さんと、南さんがいるところ」
「…………」
「そしたらいつの間にか……何か、悔しくなったんです」
「……え?」
「そんな、自分に。物を受け渡しするだけの自分に。和樹さんを見ているだけの自分
に」
「…………」
「そんな二人を見ていて、とても悔しい気持ちになったんです」
「…………」
 見ていて………
 俺が知っている、気付いている程度の事か?
 俺が思っている以上に、彼女は俺を見つけていたのか?

「会うことすら出来ないで、もどかしい気持ちを抑えている訳でもない……」
 彼女の声は少し落ち着いてきていた。
「自分の出来る限りの好意を示すこともしないでいる自分が、申し訳ないような腹立
たしいようなそんな気持ちになったんです」
 申し訳ない?
 その言葉の意味は俺には分からなかった。
「さっき、南さんに電話をしました」
「え?」
 急に話が戻った。
「私からキチンと、説明しておきました」
「な、何を?」
 南さんはやっぱり急な仕事が入ったのだそうだ。
 それでその仕事を彼女に届けてきた鈴香さんが、一人で仕事を片付けている南さん
に俺への伝言を承ったのだそうだ。
 待ち合わせに間に合わないので……待たないでもいいと。
「和樹さんの方もちょっと用事が出来たから連絡は明日以降になると、私から勝手に
伝えておきました」
「………」
「和樹さんが持っていたの……プレゼントですよね」
「………」
「昨日でイヴも終わって……今日がクリスマスですね」
 そう言えば、もうとっくに日が昇っていて外は明るかった。
 全く寝ていないのに、少しも眠くない。
 南さんを待つ間にうとうとしていたこともあるが、そのせいでないのは間違いない。

 バタン…

 扉が完全に隙間無く閉められた。
 後ろ手で閉めたらしく、その動きは見えなかった。
微かに見えていた鈴香さんの姿が、
ほぼ完全に見えなくなった。
「私にも………クリスマスプレゼントを下さい……」
 ガサッ…
 さっきまでとは違う、震えた声だった。
 俺はその場から一歩も動くことが出来なかった。
「南さんの代わりでいいです」
 ガサ…パサッ…
 布が擦れ合う音と、床に落ちる音…
「南さんだと思ってでもいいです」
 パサッ…
 暗くて、彼女の姿がよく見えない。
「今日だけでいいんです………」
 ゆっくりと近づいてくるのが気配と、声で判った。
「抱いて………」
 涙声。
 人が、いる。
 俺の目の前に。
 それだけは判った。
 それだけが、事実だった。
「抱いて下さい」
 そしてそのシルエットは、俺に抱きついてきた。
 俺に抗う力はなく、そのまま押し倒された。

 南さん………
 南さんの代わり………
 南さんだと思って………

 …南さん

 ……南さん

 ………南さん

 …………南さん

 ……………南さん

 ………………南さん

 …………………南さん

 ……………………南さん

 暗闇に唯一見える目の前の身体と、妄想の画像が重なり、俺は現実を忘れた。
 卑怯だし、冒涜だとも思う。
 でも、俺にはこうすることしか出来なかった。
 固く、目を閉じた。

 俺の唇に唇が優しく、そして強く重ねられた。

・
・
・

 全てが終わって、鈴香さんは黙って俺を駅前まで送り返してくれた。
 ずっと、二人とも黙ったままだった。
「あの……これ、南さんから預かったプレゼントです」
「え………?」
 紙袋に入った物………手編みの手袋だった。
「確かに、届けました」
「………」
「………」
「………」
「あ、そうだ……」
 鈴香さんはまるで今、思い出したように、切り出した。
「メリークリスマス。和樹さん」
「メリークリスマス。鈴香さん………」
 彼女の言葉に釣られるように、俺もその言葉を口ずさんでいた。
 そしてトラックに乗り込んだ鈴香さんが、一言
「和樹さん……今日は、ありがとうございました」
 そう言った。
 俺が見送る前を、トラックが走り去っていった。
 彼女の心を運んできたトラックを、俺は見えなくなるまで見送った。
「………………」
 自分の部屋で南さんからの留守電を聞きながら、俺はぼんやりと宙を見つめていた。
 これで良かったのかとか、そういうことではない。
 詭弁でも誤魔化しでも、なんでもない。
 彼女にとって、
 俺にとって、
 大事なこと。
 それは二人が恋に落ちることではない。
 二人の間には既に南さんがいる。
 初めから、わかっていたこと。
 俺も、鈴香さんも
 初めから、わかっていたこと。
 彼女の気持ちを知ってて抱かれて
 気付いてて抱いて……
「…………」
 俺は遅れたのだろうか。
 遅れてしまったのだろうか。
 何が正しくて、
 何がいいことだったのか
 俺には判らなかった。
 今日という日は、
 何だったのだろうか。
 本当に、
 本当に必要なことだったのか。
 今の俺には、
 わからない。
 わかることはないと思う。
 彼女の言葉に
 自分の都合に
 逃げようとした自分に。
 逃げ切れなかった自分に。
 所詮は、善人にも悪人にもなれない
 中途半端な偽善者だった。
 そして、それに苛むことさえ罪に思えた。
 やりきれない。
 本当にやりきれない。
 泣きたくて、
 泣けなかった。
 泣くことも許されなかった。
 結局、
 俺はそのままベッドに倒れ込むようにして寝た。
 眠りながら二度と、鈴香さんには会えないような気がした。

 雪はもう、降ることはなかった。



                          <完>


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