『同棲しようか』
「ふぅ……」 「どう? レポート、完成した?」 「ああ。なんとかな」 平日の夜。 自分のマンションで必死に俺が取り組んでいるのは原稿……ではなく、大学のレポ ートだった。 明日提出で締切厳守。 ……すっかり忘れていた。 「全く……あたしがいなかったらどうしていたのかしら?」 「教授に泣いて謝ってたか、単位落としてたかどっちかだろうな」 「その両方じゃないの?」 「かもな」 そう言って、二人で笑う。 笑った後、瑞希は大袈裟に肩をすくめる。 「もう、全く自覚がないんだから……」 「悪い悪い……ありがとな」 「誠意が籠もってない」 「じゃ……これで……」 俺は瑞希の肩に手を当てて顔を寄せてキスをする。 いつの間にか二人はこんな関係で、こういう関係であることがずっと前から当然の ように感じられるまでになっていた。 ほんの少し前からの事の筈なのに。 「もう、またそうやってちゃらんぽらんに誤魔化す」 「瑞希も、誤魔化されてくれるしさ……」 「もう……」 もう一度、キスをする。 文句を言うべく尖らせかけた唇を、そっと唇で押し潰すように押しつける。 「ん……」 「んん…………」 瑞希の口を離した時の、切なそうな潤んだ目が俺はとても好きだ。 すごく、ドキドキする。 何度でも、見たくなる程に。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 瑞希の表情を堪能したところで、俺は寄せていた身体を離し、本来今夜やる予定だ ったものをすることにする。 余韻に浸っているのか、潤んだ表情が戻りきっていない瑞希だったが、俺が机に引 き出しから原稿の用紙を出すのを見て、 「あれ? それ、漫画の原稿?」 と、首を傾げる。 「ああ。そろそろ描いておかないと間に合わないからな」 「でも、確か仕事は小説のカット絵だったんじゃ……もしかして次の仕事?」 「いや、これは……」 瑞希が俺の手元を覗き込む。 前なら「こんな時までマンガマンガって」と母親の様に言い出すだけだったのに、 考えてみると変われば変わるものだ。 「和樹。もしかしてまだ、同人誌続けるの」 ……ホラ、わかってるし。 「悪いか?」 「だってもうプロになった訳でしょ?」 「まぁ、なんとか……な」 その俺の言葉に隠された意味を感じ取ったらしく、瑞希も口元に笑みを浮かべる。 「色々、あったよね」 「ああ、色々、あったさ」 お互いに、色々、を思い浮かべているのか会話が続かない。 不要、だから。 「今まで」をそれぞれが思い浮かべる。 きっと同じものを思い浮かべている。 あの一年間を。 ほんの数ヶ月前までの一年間だったのに、酷く遠くて懐かしいものに感じる。 「……それで、最初の質問に答えて貰ってないんだけど」 先に、瑞希の方が「今」に戻ってきたらしい。 俺はまだ浸っていたいのだが、仕方がない。 「ああ。ほら普通の作家だってやってるだろ。あれと同じだよ。どうしても商業誌だ と自分の思うがままに描ける訳じゃない。それに好きな時に好きなものが描けること も出来ないし、それに……」 「それに?」 「やっぱ、あそこが恋しくなるんだ」 そう、何か恋しい場所。 俺にとって全ての始まりで、夢を提供して、実現させてくれた場所。 瑞希が大嫌いだった場所で、好きになってくれた場所。 俺にとっても、瑞希にとっても大切で、一生の思い出の場所。 俺と瑞希が一緒になることが出来た場所。 「まぁ、去年みたいに毎月はとてもじゃないけど無理だけど、たまにぐらいなら、戻 ってきたいと思ってさ。別に一般参加だけでもいいんだけども……」 「……そうだね」 「皆にも、会えるし。まぁ、あそこでなくても会えることは会えるんだけど……」 俺の言いたいことはわかるとばかりに、瑞希も頷いた。 そして、 「じゃあ、原稿手伝ってあげようか?」 と、言ってくれた。 カリカリカリと俺のペンの音が夜の静けさにしっかりと聞こえてくる。 隣では瑞希が、筆でベタを塗ってくれている。 初めはぎこちなさが目立ったが、今では俺より丁寧で、早く塗れるようになってい た。 熱心に練習したらしく、以前、瑞希の家の屑籠に黒く塗られた紙を見つけたことも ある。 俺がマンガを始めた頃には、到底考えられなかった光景がここにある。 思いもしなかった現実がここにある。 俺も。 瑞希も。 それはとっても、 とても嬉しいことだ。 「……ん?」 「あ、御免。邪魔しちゃった?」 視線に気が付いて顔を上げる。 瑞希は既に自分に割り当てられた作業は終わったらしく、俺の手元をじっと眺めて いた。 …なんかもどかしいなあ。あたしじゃ、マンガのこと、よくわかんないからなあ。 そんな事を言っていた癖に、今では俺の優秀なアシスタントで立派な読者様だ。 内容に注文こそつけないが、素直に色々と思ったことを言ってくれている。 「じゃあ、もう一方の方のやつを定規で線……」 俺の脇に置いた筈の場所にその原稿はなく、瑞希の横に置いてあった。 「うん。引いておいた」 「…………」 「…………」 仕方ない。 こっちも頑張ろう。 俺は再び、作業に戻った。 「どう、今度のこみパに間に合いそう?」 瑞希が声を掛けてくる。俺の顔を見たまま。 「まあ、何とかな」 「「何とか」ってダメだよ。しっかり描かないと。疎かにして売れ残っても知らない ぞ」 「ああ、わかってるって」 「なら、いいけど……」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「な、何だよ。じっと見て……」 瑞希の視線が手元ではなくて、こっちの顔に向けられている気がして、気になって しまう。 「…………格好いいなって」 「え?」 微笑んだままの瑞希の口元からポロリと漏れた言葉に、思わず俺は聞き返してしま う。 「一生懸命、マンガ描いてる和樹の顔……なんか凛々しい」 「そ、そうか……」 「あ、照れてる?」 「ば、馬鹿……」 瑞希の視線を避けるように、顔を下に向けて再び原稿に向き合う。 「ふふ……邪魔して御免ね」 「いや、いいけどさ……」 のんびりとして、気負うことのない平穏な心地よさが、ここにはある。 そう、俺は実感していた。 ・ ・ ・ 「…………」 一応、区切りが良いところでペンを止め、時計を見た。 思いの外、時間が経っていた。 「ふぅ……」 「一息入れる? お茶、煎れてくるけど……紅茶にする?」 「ああ」 俺の邪魔しないように本を読んでいたらしく、瑞希は栞を挟んで本を置くと台所に 向かう。 前はコーヒーばっかりだったが、こうして瑞希と一緒の時は紅茶の方が増えてきた 気がする。 瑞希が初めて買った同人誌が役に立ったのか、瑞希が煎れる紅茶は特に美味しく感 じる。 「ん……?」 瑞希が読んでいた本に目がいく。 小説だとばかり思ったら、詩集だった。 ちょっと意外だった。 「はい。おまたせ」 「ああ、ありがとな」 「熱いから気を付けてよ」 「おお」 瑞希からマグカップを受け取ると、鼻孔に紅茶の香りが吸い込まれるように薫って くる。 凝った疲れに、浸み入るような気がした。 「美味しい?」 「ああ」 「クッキーもあるけど、食べる」 「うーん。今はいいや」 「そう?」 「ああ」 瑞希も紅茶らしく、両手でカップを押さえるようにして少しずつ飲んでいた。 瑞希のカップは大分前からここにあった。 瑞希が俺のマンションの方にいることが多くなる前から。 それが瑞希自身がここに来たがっていた、繋がりを持ちたがっていた……その現れ だと、最近になってようやく気付いた。 瑞希自身、多分、気付いていなかっただろうけど。 「何よ?」 「いや……なんでもない」 じっと瑞希の顔を見る。 俺がここにいて、瑞希がここにいる。 それが自然で、当たり前のことになるまでには、一年かかった。 他の一年以上の、何年分もの経験をして。 俺が瑞希を好きになって、瑞希が俺を好きになってくれたことが、 俺達が一緒に夢を追い続けることが出来るようになったことが、 こんなに嬉しくて、 楽しくて、 それが出来なくなると考えただけで、凄く胸が苦しくて、痛くて、身震いしたくな る。 「変なこと考えてる?」 「いいや」 「もう、ニコニコしちゃって……気味が悪いなぁ……」 そして、今、俺が思っていることを瑞希も思っている。 ずっと、ずっと前から。 俺が瑞希の気持ちに気づく前から。 自分自身の気持ちに気づく前から。 瑞希は、怒りっぽくなって、泣きっぽくなって、 意地っ張りになって、強情になって、 ずっと、ずっと俺を見続けてくれた。 そのくせ、 俺のことを心配して、思い続けて、悩んで、 余計過ぎる気まで使ってくれた。 「お前って……たまにどうしようもない程、弱気になるよな」 「ど、どうしようもない程って何よ」 「いや……さ」 そう言いながら、ベランダの外を眺める。 視線を外したつもりだったが、風が吹かないようにと閉め切られたガラス戸は、瑞 希を映し出していた。 瑞希は、ここにいる。 俺とここにいてくれる。 こうして俺といてくれるまで、ひどく時間がかかったのは俺のせい。 瑞希はそうは思っていないだろうけど。 そして、そう俺が思っているから、少しも離したくない。 我が儘で、独善的で、自分勝手で、 それを自覚しているから、 「あのさ……」 少しでも長く、一緒にいたい。 こののんびりとした、時間を共有していたい。 だから、言った。 前から考えていたことを。 「……同棲、しようか」 そう、聞いてみた。 <完>