『THE FAN』


1999/11/19



 ここは中途半端な贅沢な作りになっている目黒の邸宅。
 普通の邸宅と呼ぶにはあまりに広大で豪勢だが、豪邸と呼ぶには何か物足りない程
度の邸宅がそこにあった。

「郁美様。今日のお体の具合は……」
「大丈夫。悪くないわ」
 白い清潔感のある部屋だった。
 床は赤い絨毯が敷き詰められ、庭に面する方の壁には採光の飾り窓が天井まで開か
れていて、丁度外から光を受ける格好になっていた。
 そしてまるで王座の様に設えのあるクラシカルな西洋アンティークの椅子がこの部
屋の唯一の家具であった。
 そう、ここは謁見の間と呼んで差し支えなさそうだった。

 年の頃は中学生くらいだろうか、小柄で可愛らしい顔立ちをした少女がこの部屋の
唯一の家具に腰を下ろしている。
 ただ、その顔は容姿に比べてそぐわない程、冷たく醒めた顔をしていた。
 そしてその傍らに黒いスーツを着た男が控えている。
 扉の脇、窓の側、壁のすぐ近くと、同じ様な格好をした人間がまるで飾りのように
この部屋には多く存在した。

 そして、少女と向かい合うように立つ男がいた。
 それは来客であり、法廷に立つ被告の様であった。
 額から頻りに汗をにじませ、手にしたハンカチで拭きながら立っている。
 茶色の普通の背広だが、彼の年相応な役職に就いている人間なのだろう、仕立ては
悪くない。
 彼は普段は某美術大学の学長を名乗っていた。
 そんな彼が、ここでは脅えきった兎のように畏まって、しどろもどろの弁明を繰り
返している。

 この屋敷と呼ぶには控えめな家の主はこの椅子に座る少女――人からは目黒の御前
と呼ばれる彼女――立川郁美であった。
 そして彼女こそ、日本を裏から操る事の出来る人間の一人。黒幕と呼ばれている中
の一人だった。
 彼女が命じれば日本経済の操作などは容易く、歴代の総理大臣でさえ、御機嫌伺い
にやって来なければ身の保証が無い。
 ただ、彼女には日本の将来などには関心はない。そして彼女は幼い頃から重病を抱
えた身でもあった。

「で、ですから……」
 震えないばかりに畏まって、彼は同じ科白を繰り返す。吹き出させる汗を手にした
ハンカチで拭く仕種まで繰り返しているようだった。
「こ、これは手違いでして……」
 そこで、郁美が口を開く。
「ふぅん。貴方の大学では手違いで学生の当落が決まるんだ」
 若く、年相応の幼い声が静かな部屋をこれ以上無いほど圧迫する。
「あ……そ、その……い、いや……それは……」
 男は更に畏まり、拭ききれない汗が床の絨毯に落ちる。この部屋に居る他の人間は
まるで存在しないように、動かない。
 人形のようにそれぞれの位置に控えたままで居る。
「これはあの採点者が手を抜いてコンピューターに頼っ……」
 来た時から弁明していた責任転嫁の部分を繰り返そうとする彼の言葉を遮って、
「何点なの?」
 と、郁美は聞いた。
「は?」
「何点足りなかったの?」
 抑揚の無い、感情の入っていない声だ。
 声変わりも満足にしきっていない少女の声は、違和感と同時に恐怖を醸し出す。
「………」
「………」
「ひゃ、百点程……」
 恐る恐るといった風に、上目遣いで郁美の表情を見ながら彼は言う。
 が、全く彼女の表情は変わらない。
「ふーん。じゃあ、仕方が無いか……」
「………」
「仕方ないよねぇ……うふふふふふ……」
「………」
「ふふふふふ」
「………」
 何が可笑しいのかニコニコして笑い出す。
 真意が読み切れていない彼はまだ、強ばった表情のままだった。
 他の人間は元から存在していないようなものなので、この部屋で彼女の笑い声だけ
が静かに響くのは異様な光景だった。
「じゃあ、いいよ。今日はご苦労様」
「………はっ!」
 笑いを収めた後も笑顔を崩さずに椅子の肘掛けに肘を乗せて郁美は言った。
 その表情に、学長たる彼も緊張感から解き放たれたようにホッとした顔になる。
「木戸」
「はっ!!」
 数歩下がって拝礼しながら部屋を出ようとする学長を見ずに、郁美が名前を呼ぶ。
 名前の呼ばれた窓の側に居た黒服の男が間髪を入れずに返事をして、すぐに彼女の
前に来て片膝をつける。
「庭の鯉に餌をやってあげて」
「ははっ!!」
 その命令に反応した扉の両脇にいた男達が、今まさに出て行こうとする学長のそれ
ぞれ両腕を掴む。
「なっ!?」
「…………」
「…………」
 学長は驚いた顔をして二人の男を見る。
 そして振りほどこうとするが、少しも動かない。
 勿論、二人の男も掴んだまま声も出さず、全く反応しない。
 学長はハッとして郁美を見る。
 さっきまでと変わらない、いつもの無表情な顔に戻っていた。
「そ、そんな……」
 彼の顔に恐怖の色が浮かび、先ほどの木戸と呼ばれた男が扉を開けて出て行くのに
合わせて、彼を押さえている二人の男も出て行こうとしてその恐怖の確証を得た。
「お、お慈悲をーっ!! 郁美様っ!! お助け下さ……」
 彼が消えると共に、すぐに扉が閉まる。
 彼女のいる部屋にはもう、汗臭い男の声など届かなかった。
「古手川、次は?」
 郁美はさっきまでの事など全く無かったように傍らに居る男に聞いた。
「中学館の社長とコミックZの編集長が控えの間におります」
「じゃあ通して」
「はっ」

「郁美様の御慧眼、まさしく……」
「世辞はいいわ。で、使えるのか、使えないのか聞かせて?」
「勿論それは……」
「貴方の意見はいいわ。現場の方、貴女の意見を聞かせてくれる?」
「…………」
「さ、澤田君っ!?」
「どうしたの? 遠慮はいらないから言って頂戴」

 立川郁美。
 生まれながらにして多くの業を背負う運命にある少女。
 業病を煩い、政治に興味を持たない彼女にとって唯一の気にかかること。
 彼女の唯一つの望みとは……

「鈴鹿さん」
「はっ!!」
「どう、彼の様子は……」
「健康状態は……」
「そうじゃないわ。その……」
「最近よく家に来ている猪名川由宇については報告書の通り……」

「古淵総理がお見舞いに伺いたいと電話が来ていますが」
「電話ねぇ……捨て置いて構わないわ」
「はっ!!」
「それよりもあの大庭詠美の始末ですが……」

「高瀬瑞希についての追加報告ですが――」
「もう、いいわ」
「は? ですが……」
「五体満足なんでしょう。その人」
「は、はい」
「ならいいわ。医師とも話はつけた――彼女に決めたから」
「郁美っ!! お前っ!!」
「お兄ちゃんは黙っててっ!!」
「しかしっ!」
「いいのよ。私と和樹さんの子は、彼女に産ませればっ!!……ごぶっ!!」
「郁美っ!?」
「郁美様っ!!」

「まだ……まだ持つわよね……私の身体……」

・
・
・

「ぐはぁっ!?」
「ふはははははははははははははっ!! 遂にこの手で世界制覇の決意が現実のもの
となる時がきたっ!!」
「あ、甘いぜ……九品仏とやら」
「む、まだ息があったか」
「お、俺を倒したぐらいでいきがるなよ……き、貴様など相手にもならん組織が……
あのお方が居られる限り……」
「何っ!? まさか……言えっ!! 彼女の名前はまさかっ!!」
「へっ せいぜい……脅えて待ってな。彼女に刃向かおうなんて、ヲタクを統べよう
なんて……ごほっ!!」
「待てっ!! 都合の言いところでっ!!」

「ゆ、夕香っ……冗談でしょ、こ、こんなのって……」
「玲子……任務だったとは言え私もあなた達と一緒にやってこられて楽しかった」
「だ、だったら……」
「あなたは触れちゃいけないものに触れてしまった。ただ、それだけ……」
「やあぁっ!?」
「さよなら、リーダー」

「護らないと……和樹さんは……私が護らないと……初めての……初めて私の漫画を
愛してくれた人だから……だか……ら…護らないといけないのに……力が……か……
かず……ぁ……」
「にゃあにゃあにゃあ!? お父さん、お母さん、玄関前で人が……女の人が倒れて
ますぅっ!!」

「解雇っ!? そ、それって……」
「南君。理由は聞かないでくれ」
「……わ、わかりました」
「……すまん」

「あ、あたし……あ、あ、あがりしょうで……その……ひ、ひ、人前でしゃべるの苦
手で……で、そ、それ直したくて……その……あ、そ、そういうことじゃなくて……
え、ええと……人前に出ると……その、頭の中、真っ白になって……」

 ピッ

 …おっと、やっぱ来てるな。いつものように立川さんからだ。今日は何が書いてる
 かな。

『こんばんは、和樹くん。今日、コミックZの編集長にお声をかけてもらったという
話を聞きました。
 コミックZは、いま一番注目されているマンガ雑誌です。
 そのコミックZの編集長に名前を覚えてもらったというのは、和樹くんにとっても
有益なことと思います。
 和樹くんの目指すべきところも、いよいよ見えてきたことしょう。
 私にお手伝いできることがありましたら、ぜひお申しつけください。
 今後の活躍を大いに期待しています。
                                 立川  』


 …なんというか、情報がはやいよな。身内だけの話と思ったのに、なんで立川さん
 は、もう知ってるんだ?





                            <おしまい>


BACK