初出:2000年09月08日(金)

 
『気持ちも一緒に受け止めて』
 




 途中までは車で送ってもらった。
 そして人通りの多くなる雑踏の前で見送られ、私は車を降りる。
 先に車を降りていた運転手に一言二言見送りの言葉をかけられ、それに私は一言だけ答えた。
 この人にも随分と迷惑ばかりかけてるな、と思う。
 そう思うだけで、別に今後何か改めるわけでもないのだから意地が悪い。
 いつものことだけれども。
 だからこれからもまだまだ彼には沢山、迷惑をかけることになりそうだ。
 心の中だけで、軽く謝っておく。
 これもまた、いつものことだった。


 背後で彼が何か言葉をつけ加えたようだったが、私は聞いていなかった。
 軽く、頷くことだけはしたけれども。
 前に、目が囚われていた。
 意識は既に、そちらに吸い込まれていた。


 音が、聞こえる。
 光が、見える。


 私は走り去る車の方を振り返って見ることもせず、すぐにそっちの方へ歩き出していた。駆け出すまではしなかったが。
 沢山の賑やかな音が遠くから響くように聞こえてくる。
 空が暗くなりかけているのにも関わらず、向こうは光が点るように明るかった。


 歩くたびに草履の鼻緒が指の間に当たるせいか、自然と背筋が伸びていた。
 こういう些細な刺激が自分に張りを常に持たせているようで、気分は悪くない。


 今、時間はどれくらいか分らないけれども、まだ開始時間には少し余裕があった。
 そして待ち合わせ時間にも十分に余裕があった。


 濃紺に少し薄い藍色の花をあしらった柄のそれほど派手じゃない藍染めの浴衣。
 着物の下は下着をつけないと言うけれど、そこまでの勇気はない。
 髪をアップに結って、巾着を持って待ち合わせの場所に立つ。
 それだけでも十分にいつもと違う自分が演出できている。
 鏡の前で散々、確認している。


 浴衣を着こなした若い夫婦。
 勢い良く走り抜ける子供。
 杖をつきながら歩く老婦人。
 薄黒く焼けた肌と白い化粧が目立つ女子高生。
 シャツに半ズボン姿の男子学生達はこっちを見ていた。
 それらはみな、この先の会場に向かっていた。
 この道の両側を屋台で固めた先の河原の方に。


 屋台や出店の匂いや音を聞いていると、それだけでもうイベントが始まっている気がする。
 会場まではまだ距離があるのに、同じ空気の中に入っている自分がいた。
 今日は腕時計をつけていないので、時間は判らない。
 一分が長く、十秒が遅い気がした。


 屋台群を目の前にしたこの場所はやけに薄暗く感じる。
 何も無い場所に比べれば全然明るいのだろうが、すぐ近くでギラギラとしたライトで照らされている通りと見比べるとあまりに光に貧しく、疎外感さえ感じてしまう。


 着物を着ているせいで、私と気づかれていないんじゃないか――とか、
 薄暗くて目立たなくて見つけられないでいるんじゃないか――とか、


 そんなことさえも感じてしまう。
 意味も無く手を伸ばして、まとめてある髪を直した。
 直すほど、ずれてもいないとは思うけれども。
 上に伸ばしたせいで、手に提げていた巾着が肘の方まで上がり、袖に引っかかる。
 ちょっと格好が悪い。
 すぐに、手を下ろして袖の捲れを直した。


 後ろにある柳の木に寄り掛りたい衝動を我慢しながら、周囲を見渡した。
 人は、多い。
 多くの人がここを歩いている。
 そのなかに、彼はいるだろうか。
 向こうからやってくる人の中に、彼は混ざっていないだろうか。
 目を凝らす。


 ――……いない。


 ちょっと嘆息して思わず背中へ寄り掛りかけて、慌てて背筋を伸ばす。
 人が見ていたら、格好悪い。
 幸い、特に目立つこともない場所に立っていたせいで、誰かに見つめられてはいなかった。
 隣の綿菓子の屋台はなかなか繁盛している。
 数人の子供が、ピンク色の綿を顔に貼り付けるようにして、それぞれ舐めたり噛り付いたりしているのが可愛らしい。
 一人の男の子と目があった。
 笑って手を振ってみる。
 照れくさそうに逃げていってしまった。
 残念。


 ちょっとした死角――彼は視覚の穴場だと言っていたが、その言葉と目には間違いはなかったらしい。
 さっきから私の近くをウロチョロするのは子供か、その親ぐらいだった。
 殆どの人がすぐ先の屋台群に気がいって、影になる場所にいる私など気にもとめなかった。
 普段からあまり注視されない人は、そういう場所にも詳しいらしい。
 会ったらその事でからかってやろうと心に決める。


 汗はかいていないけれど、湿っぽい空気のせいで肌が少しべたついてきた。
 虫に刺されたりしないか心配になってきた。
 そして油断すると、すぐ側の木に寄り掛ってしまいたくなる誘惑とも戦うようになっていた。


 けれどもそんな顔は見せずに、自分では優雅に立ち続けていた。
 立つ事自体、別に辛いことではない。
 ただ、待たされることが嫌なだけで。
 そして顔も出来るだけ上品に美しく決めているつもりだった。
 自分はモデルで、ポーズを取り続けているつもりで立ってみていた。
 もし他の場所にいたら少しは、声をかけられると思う。


 ――ふぅ……。


 ここ最近、会う事が少し辛くなっている。
 会いたくない訳ではなくて、もっともっと会いたいし、これからもずっと一緒にいたいと思っているのだけれども、ここのところ一緒にいて心から落ち着けない事が多くなってきていた。
 会っていると楽しいし、嬉しいのだけれども。
 会えない時の方が、自分で余計に考えてしまうのだけれども。
 私はどうも不安を覚えてしまうようになっていた。


 こんな心境の時にこそ、相談できる相手が私にはいる。
 が、問題がその彼自身との事だとどうしようもない。


 湿っぽい風が裾を揺らす。
 軽く手で押さえた。
 そして顔を上げた時、すぐ近くにようやく待ち人が近づいているのに気づいた。
 やっと、だ。


「『普段見慣れない彼女の姿は別人のようで、遠くから見ていた俺はいつものように気軽に声がかけれなかった』……」
「……え?」
「あら、違った?」
「……」
 私がニヤリと笑うと、虚を突かれた顔をしていた向こうも私につられたようにクスクスと笑いかえしてくる。
 格好は変わっても実際はあんまり変わらない。
 いや、全く変わらない。
 彼は。


「遅い!」
 軽く巾着を手首に通した方の手で彼の頭をチョップする。
「ゴメンゴメン。でも時間には余裕あった筈だけど?」
「一秒でも待たせた以上、待たせたことになるの」
「それはそれは……では参りましょうか、浴衣が似合うお嬢様」
「あら、ありがと。そっちは相変わらずだけどね」
「あら……」
「ふふふ……」
 そうは言ったものの、彼の方は日頃から着物を着て生け花などを教えるバイトをしていることもあってか、彼の黄土色をくすませたような色――猫柳色の着物は自然に着こなされている感がある。
 はっきり言えば似合っていた。
 私よりもずっと。


「でも正直、浴衣ってあんまり好きじゃないのよね」
「すぐに着崩れるから、かな?」
「あ、わかる?」
「まー、それくらいは」
 並んで歩き出す。
 いつものように。
 いつもと違う格好で。
 でも、やり取りはやっぱりいつものままで。


 彼は手にした団扇でパタパタを仰ぎながら、横目でわざとらしくこっちを見る。
 元々細目のくせして、目を寄らせて見る仕種がいやらしく感じる。
 この話題にツッこむと待ち構えたように迎撃されそうなので、無視するように視線をずらした。
 彼の手にしている団扇は駅前で配られていたのを貰っただけらしく、地元商店街の広告の文字が目立つ。
「ちょっと風情がないわねぇ……」
「団扇のこと? ま、消耗品だし……実家に帰ればいっぱいあるけどね」
 のんびりと両脇に屋台が並ぶ道を歩き、他愛も無い話に花が咲く。
 これも、いつもと変わりがない。


 出会って間も無い頃は他の人には話せないような話を話してばかりいた。
 それも私が一方的に。
 別に聞かれてやましい話でもないが、身近な人や親しい相手だからこそ話しにくい話、つまり距離がある他人同然な相手だからこそ話せる話や、同世代には打ち明け辛い話を彼に対して話していた。
 歳が実際以上に離れていたように感じる相手だった。
 超然としたと言えば聞こえがいいが、ただただ老成した老人のような雰囲気を持っていたせいで、突っ込んだ話をしても恥ずかしい気分になったりすることがなかったから。
 その根拠に彼はいつも黙って最後まで聞いてくれていた。
 賛意を示すでもなく、窘めるでもなく。
 ただ、キチンと話を聞いてくれた。
 彼があれこれと話す時は、私がそれを望んでいた時だけ。


 その頃の私は彼に対してはただただ我が侭で、好き勝手に引っ張り回したと思う。
 今はもう違うとは言えないけれども。
 好き勝手に喋って、好き勝手に絡んで、好き勝手に連れ回す。
 今更にして思えば、彼に対しては異性を意識するしない以前に、人としての扱いすらキチンとしていこなかったのではないかと、愕然とすることもある。
 いつも便利に使って、便利にあしらって、便利に振り回す。
 それだけの存在でしかなかった。
 彼がどんな人間で、どんな人生を歩んできて、どんな未来を目指しているのか……そんなことは少しも気にならなかった。
 私にとっての彼は、話を聞いてくれて、答えが欲しい時は教えてくれて、暇な時に遊び相手をしてくれるだけで満足だったのだ。
 あの頃の私が、今のようなことを言われたら否定するだろう。
 けれども、毅然と言い返すことは出来ないだろう、きっと。


 そして私が彼を求めない限り、彼は私を求めることはなかった。
 いつでも、彼に会いに行くのは私だから。
 会いたい時にだけ、会いに行ったから。
 勿論、いつでも会えるわけじゃなかったけれども。
 それでも、向こうから私に会いに来てくれることはなかった。
 そのことを変だとも、私は思わなかった。


 あの時期の彼は、私を特に必要としていなかった。
 その事に気づいた時に、無性に悔しくなった。
 腹が立った。
 私が自分が必要な時にだけ、彼に会いに行っているという身勝手さにもその時に気づいた。
 ちょっと情けなかった。
 彼が私よりも数歳年上なだけだというのに、この差が悲しかった。


 一方的に依存しないようにしようと、もう会わないと考えたこともある。
 その頃、彼のことを意識して考えだした。
 もう少し、彼を知りたいと思った。
 その時に初めて、私の中で彼というものが存在し始めたのかもしれない。
 今までの印象とは違った、彼個人の存在が。


 その時にようやく、私は気がついた。
 初めて彼が私に声をかけた時、彼は私を必要としていた事に。
 それに気づいた日から、彼に会いに行く理由が変わっていった。
 彼に私を本当に必要とさせたくなった。
 突っ張った考えだとも思うが、それが私という人間だ。


 そして今のような関係になったことは、未だに信じられない気持ちもある。
 構われたいと思い、つきまとっていくうちに惹かれている自分に気づいた。
 そして更に構われたくなって、つきまとっていた。
 言葉や行動で互いにそれぞれの思いを示した。
 私は彼の事が好きだと事ある毎にアピールして、伝えていた。
 そしていつしか彼も、そんな私の思いに応えてくれた。
 それで、今がある。
 私の積極な性格と彼の消極的な性格というそれぞれの性格を考えれば、妥当な成り行きなのかも知れない。
 けれども、だからこそ私の中の不安がまだ消えない。
 完全に消えてくれない。
 私が彼を求めるきっかけになったものがまだ、果たされていない気がして。


「ん?」
 並んで歩いていたつもりだったが、ちょっと遅れていたらしい。
 数歩先にいた彼の足が止まり、振り向いてこっちを見ていた。
「てぃ」
 思わず、腰に膝を見舞っていた。
「っ?」
「いーのよ!」
「え?」


 相変わらず呆けた反応をする。
 憎たらしい。


「それより、もうすぐ時間なんでしょ、急ぐわよ」
「はいはい……」
 彼の手をひいて小走りに駆け出した。


 いつもこうして、私が彼を引っ張って連れ歩く。


 彼から引っ張って連れ出して貰いたいと思うのに、待ちきれない。
 そして引っ張ってくれないことを内心、恐れている。
 私を必要とされていないと、言われるのが怖くて。


 今、私は彼とつきあっている。
 それは、私から求めた関係。
 彼が私に応じてくれた関係。


 彼のスタンスはあまり変わっていない。
 私の周りの環境の動きからして、私の為に積極的に動いてくれたこともあったらしいけれども、その姿を私は見ていないのだから、何も判らない。
 今もまだ、私にとっては線引きが曖昧なまま続いている関係のように思える。


 きっと彼は私が「別れよう」と一言言えば、顔色一つ変えずにそのまますぐに別れてしまえるのだろう。
 私が彼に一方的に依存することから始まったこの関係は、今でもこんな形のまま続いてしまっている。
 そうなったのは彼の性格のせいでも、何でもない。
 全て私のせいなのだから。


「どうしたの?」
「へ? う、ううん。何でもないわ」
「……」
 ここで彼の言葉が止まる。
 こういう時、私は全て彼に見透かされてしまっているようで怖くなる。
 何も追求せずに会話を打ち切ってしまう彼に、怖さを覚えている。
 昔は、何も言わないでくれるその態度に安堵を覚えていたのに。


 ――言いたい事があるなら言えばいい。
 ――言いたくなければ、言わなくてもいい。


 その彼の態度は一貫して変わらない。
 何一つ、変わらない。
 彼の流儀である事は最初から理解している。
 それにずっと助けられてきたのも重々承知している。
 好きになった理由のひとつでもある。


 けれどももう、それでは嫌なのだ。
 どんな嫌がる事でもいいから、更に突っ込んで訊いて欲しい。
 もっと構って欲しいのだ、私に。


 ――私は貴方が好きだから。


 今までのように、ただ見守ってくれるだけではなくて私をもっと見て欲しい。
 私を好きでいて欲しい。
 そして、それを示して欲しい。
 どんな些細な事でも。
 言葉も態度も、行動ももっと多く。
 もっと、もっと多く触れに来て欲しい。
 毎日、感じさせて欲しい。
 不安を払拭するぐらいに。


 私から――という一方的な関係じゃないということを。


 私をたまらなく好きだという証明が欲しい。
 身振りで、
 手振りで、
 言葉で、
 行動で、
 態度で、
 その貴方の存在の全てを使って。
 私が全てを忘れて貴方に委ねたくなるほどに。
 かつての距離があるから――ゆえの安らぎじゃなくて、
 距離が無いから――と思える安らぎが欲しい。



 そしてそれを言う勇気は無い。
 今以上を求める事が究極の我侭で、行き過ぎた想いだと判っているから。
 だから口篭もってしまう。
 何も答えられない。
 誤魔化す言葉も浮かばない。
 彼は何事も無かったような顔で再び歩きだそうとしている。
 彼は、彼のままだ。
 私だけがこんなにも変わっていってしまっているというのに、彼は変わらないままなのだろうか。


 それは今の私には辛い事だったが、だからと言って泣き出したり怒り出すほど弱くもなれない。
 それもまた、私の性格だからだ。
 だから私も何事もない顔をして、他愛の無い会話をするしかないのだ。
 いつも通りに。



 数歩歩いて会場に着くと同時に、爆竹が破裂する音が聞こえた。



「あ、始まるわよ!」
 嫌な雰囲気を紛らわせて、ちょっとホッとする。


 そして花火が、打ち上がった。
 次々と、華々しく。


 大輪の花のように咲くものや、
 土星の輪のようなものや、
 雪崩れのように垂れ落ちて来る光の渦、


 原色に近い黄色や白の小さいのは激しく点滅しながら輝き、
 いやおうなく目を引いた。


「うわぁっ……」
「そんなに身を乗り出すと危ないよ」
 周りにも大勢人がいるので多少はしゃいだところで目立つ事はない。
 好きに、堪能させてもらえる。
「でも……凄い」
「……」
 心の中のもやもやを晴らしてくれるような、実際一時的にとは言え忘れさせてくれるだけの圧倒感を感じさせてくれる。
 そして、私も努めて忘れようとしている。
 例え、効果がこの場限りだとしてもそれはそれで構わない。
「そう思わない?」
「今日は空が綺麗だからね」
「……そうね。澄んでるわよね」


 高くて大きいのは音も大きい。
 ズシンと音だけでも満足させてくれるような心地良さを感じる。


「派手になったみたいだけど、そう感じないわよね」
「色数は増えたけどね」
 何故か詳しい。
 私が知らなすぎるのか、こいつが知り過ぎているのか。
 それともただのはったりか。
「そう」
「配分のバランスを変えたのか今じゃ、ピンクや薄い青や緑なんかも珍しくないし、朱色がかった赤っぽいのも増えてきたよ」
「ふーん」
「原理は皆、同じなんだろうけどね……」
 そう言って空を見つめるこいつの顔はちょっと格好いい。
 そんな風に思うようになったのは惚れたせいなのかも知れないが。


「私、あのハリネズミみたいにパーっと流れる奴が好き。――は?」
「あの薄い白味がかった青のが好きかな」
 妙にマニアックな気がする。
「何か凄い綺麗……、これってここだけ?」
「うーん。どうなんだろ?」
 他愛も無い花火談義。
 誰と一緒でもあまり内容に変わりはないだろう。
 友達でも。家族でも。


「まるでラメでも散りばめたみたいに……ほら、ぴかぴか点滅してる」
 花火は私の心を引き寄せるようにまた新しい花を咲かせ始めた。
 音と光と大きさでぐいぐいと私を手繰り寄せる。
 そして素直に感動して、没頭する私がそこにいた。
 凄い。
 本当に凄い。
「うんうん。だから、腕を首に巻き付けないで……締まってる締って……」
 今の、この時ぐらいは考え過ぎる自分を忘れられた。
 ただ、純粋に見入るだけの私がいた。
「あ、今の見た? 花火の中から星が飛び出すみたいな……あっ 凄いっ!」
 何もかも忘れて、ただ楽しいと思える。
 感動だけを受け取れる。
 これだけでも、今日来た甲斐があるというものだ。
「ぐっ……あ…あぐっ……ちょっと苦し……っ」
「うわー、あれもう一度見たい! あっ!!」


 光の粒がたなびきながらゆっくりと落ちていく。


 四方八方に拡散していたり、
 花の四方に違う色の光が回って夜の遊園地のメリーゴーランドを思い出させる。
 何か発想が少女みたいだ。
 一応、これでも少女なのだけれども。


「ちょっと何あれ、苺なわけ? ふぅん、今の技術ってあんなことも出来るんだ」


 黄色い花火の中央に楕円の赤が、そしてその脇にヘタのように緑の光が飛ぶ。
 意識して作った芸の細かさが凄い。


「うわぁ……細かい……」


 光の線が細い糸のよう。
 全て消えるまでじっと見惚れてしまう。


「ねぇ、今のって……あ、あれ? ――?」
「……」
「……ちょ、ちょっと大丈夫!? ね、ねぇ!!」
 ぐったりとした重みが、腕に伝わっている。
 完全に落としてしまっていたようだ。







「本っ当に御免なさい!」
「いや……いいって。流石に効いたけど…」
「ごめんね……」
 思ったより力が入っていたらしい。
 彼の首に腕で締めた痣が残っている。
 気のせいか少々、顔色も良くなさそうだ。
「でも、元気で良かった」
 会場を離れた茂みで横たわったまま、多少弱々しくはあったが微笑んでいた。
 名前も知らない虫の鳴声が深く鈍く、絶え間無く響き続ける。
 地面そのものが、草自体が音を出しているかのようだ。
 そしてそれをかき消すには花火の音は、やや遠い。
 人混みを避けた結果とは言え、随分と担いだまま歩いてしまった。
 流石に今は花火どころじゃなかった。
「へ?」
 少し着崩れていた着物を手で直しながら、つい聞き返してしまう。
 丁寧に直すには一度帯を解かないといけないのだが、着付けが出来ない以上裾や襟を引っ張って体裁を整える程度しか直せず、うやむやのままその場に腰を下ろす。
 雑草の上は濡れてはいないけれども、お尻から地面の冷えが伝わってくる。
 そして暫くしてからその言葉の意味を理解する。
「……何かこうやって花火をじっくり見る機会ってあんまり無かったのよ。どうしただか自分でも不思議なくらい、縁が無くて。だからはしゃいじゃった」
 それは嘘ではない。
「楽しかった?」
 彼は体を起こすでもなく、寝た姿勢のまま聞いてくる。
 妙なアングルだ。
「え、ええ!」
 答える声に思わず力が入ってしまう。
 他愛も無い雑談の時は兎も角、昔に比べて変わっていったのは彼の話を聞く時、こうして緊張してしまうことが増えてきたことだ。
 何かとてつもないことを、考えもしないことを言うのではないかとどこかで恐れている。
 前はただ、聞いていればよかった。
 話を聞くだけで済んだのだ、昔は。
 やっぱり、昔は他人だったのだ。
 遠くて、気にならなかったのだ。


 今の私は、恐れている。
 離れることを。
 遠ざかることを。
 嫌われることを。



 花火の音が遠い。



 ――いつから、私はこんな弱虫になったのだろう。



 自分じゃない自分がまた、ここにいる。
 彼の前にいるのは大概、いつもと違う自分。
 そしてそれもまた、本当の自分。
 普段より幾分、素直な自分。
 それは少し、格好悪い自分だ。


「良かった」
「……え?」
「やっぱり綾香の元気な顔を見てると、こっちもホッとするし」
「へ? あ、えっと……」
「少しは、晴れたかな?」
「は、晴れるって……」
「最近、塞ぎ込んでいることが多かったから」
 いきなり核心に触れる。
 彼の言葉にはいきなりな事が多い。
 心の奥底を突き刺すような科白が前触れも無くぽろっと出る。
「え、えっと…あーその……」
「「若人よ、悩み続けよ。それが若さの特権なり」……誰の言葉でしたっけ?」
「そ、そんな事言った人いたかしら?」
「んー、そんな風な事言った人いなかったっけ?」
「さぁ?」
 いきなり言われても困るし、ざっと考えた内の記憶では心当たりはない。
「あら、何か格好がつかないな」
 弱々しい乍ら、いつもの笑い顔がそこにあった。
「何よそれ、もぅ……」
 思わずその呆けた会話に肩の力が抜ける。


 いつもそうだ。
 こっちが力むと、こんな風に肩透かしを食わされる。
 そのくせこっちが緩んでいると、不意に斬りつけてくる。
 いい加減、扱いに慣れても良さそうなものだが未だに慣れない。


「適わないわね」
 ひとしきり笑ってから、そう付け加える。
「ん?」
「何かいっつもお見通しって感じで……かなり悔しいわね」
「そう」
「ええ。相当に悔しいわ」
 本音だ。


 いつまで経っても、いいようにあしらわれている。
 いつまで、そうなのだろうか。
 いつになったら対等になれるのだろうか。
 こいつに。
 この男に。


「あのさ、実は最近……」
 ようやく、彼は自分の手で身体を持ち上げるようにして寝ていた体勢から体を起こし、座り直した。
「何?」
「一つ、悩みがあるんだ」
「な、悩み?」
 唐突だ。
「うん」
「え、え、え……」
 かなり動転してしまっている。
 振り回され続けの自分に呆れていたくせに、またしても慌ててしまっている。
 けれどもこの二年、こちらから悩みを打ち明けたのは数知れずだが、彼の方からそんな話題を振ってきたことは一度たりともなかった。
 慌てずにはいられない。


「聞いてくれる?」
「う、うん……勿論。当たり前じゃないのよっ!」
 顔を見る限り、本当に困ったような迷ったような顔をしているように感じた。
 そこから平気で騙す事も有り得る相手だったが「真面目な話でしょうね?」と釘を刺すことはしなかった。
 本当に真面目な話だったら悪いから……いや、違う。
 聞きたかったのだ。
 彼の真面目な言葉を。
 いつだって一方通行なのは嫌だったから。


「実はさ……今日もちょっと思ったんだけど……」
 言葉はそこで終わった。


 口を塞いだから。
 彼が、自分の口を。
 私の口で。


「……っ!」
 不意をつかれた格好になって押し倒された。
「ちょ……ちょっと!」
「どうやったら……信じてもらえるかなって」
「え?」
「どうしたら、好きだって信じてもらえるかなって……」
「え?」
「……」
「ま、またいつもの悪ふざけ……」
「いつも、迷っているようだったから」
「っ……」
「信じて、欲しいかなって……」
「あっ……」


 何を考えていたのだろう。
 何を考え続けていたのだろう。


「こ、こんなと……や……」
「やめない」
「え、え……」
「まー、たまには……」
「たまにって……なっ……」


 うっすらと焼けてる自分の肌。
 水着焼けの跡。


「ズルい」
「……駄目?」
「ズルいわよ〜」


 花火の音が聞こえない。
 もう、終わってしまったのだろうか。







 彼は私の胸に自分の頬を乗せるように押し当てる。
 そしてもう一方の乳房に手を伸ばして房を掌で包むように擦り、
 そのまま揉みしだく。


 頬で押し当てて先端を擦っていた方の胸の愛撫も舌に代わっていた。
 丘全体を舌で登り降りするように、上へ下へ右へ左へと定まることなく、時にはぐるぐると旋回するように舌先だけで舐め続ける。
 肌の柔らかさに埋没するように突ついたり、舌で押し当てたりする。


 そのうちに最初はわざと触れていなかった双丘の先端の方にも刺激を与え始める。
 指のまたに挟み込むように戴きをつまみ、軽く引っ張り上げる。
 唇だけで咥え、唇を動かして赤く染まった突起を苛める。
 唇でつまみあげたり、舌で突ついたり、
 指で押し潰すように撫で回したり、胸全体を絞り上げるように下から持ち上げて指先で叩いてみたり、休むことがない。


 私の掌は地面を撫で回したり強く握り締める事しか出来ない間に、彼の掌は下着の中への侵入を許していた。
 掌で触ったかと思うと中指で入り口付近を軽く撫で、人差し指と薬指で両脇を押さえるようにしてそのまま一本、沈み込んだ。


 私の腰があがる。
 少しでも待つのが我慢できない。
 身体がプルプルと震え、いつまでも泉は溢れる事を止めなかった。


 私と目があった。
 ずっと目を開いていた気がするのに、初めて目が見えるようになったような錯覚を私は憶えた。
 それも一瞬だった。


 白い衝撃が、身体に突き刺さる。


 悲鳴とも呻きともつかない声が、微かに漏れた。
 一つの呼吸音が二つになる。


 唇を重ねていた。
 舌を伸ばし、互いに絡めながら相手の口内を陵辱するように暴れ尽くした。
 頭に、額に、頬に、瞼に、鼻に、首に、
 唇だか舌だかが押し付けられ、触られ続けた。


 私は突き上げられながら、強く相手の身体を抱きしめた。
 より深く、より強く、求め続けた。
 身体の中から、身体全体から結合を、同化を望んでいた。
 もっと深く、
 もっと強く。


 汗が私の顔に落ちる。
 熱く、冷たい飛沫が動きと共に降り続ける。
 更に奥を、
 更に中を求め続ける。
 欲しがり続ける。
 その動きは何か追われるように、
 焦っているかのようにも見えるほどだった。


 顔に余裕はない。
 今あるものだけに縋り続けている。
 表情に笑みはない。
 今あるものだけを求め続けている。



 生殖行為と呼ぶにはあまりにも冒涜的で――目的が違い過ぎた。



 捕えるように強く抱きしめて胸を押し当てる。
 留まり続ける事を拒否するかのように動き続ける。


 声と共に息を吐く。
 訪れを払うかのように。
 歯を噛み締める。
 終わりを拒むように。


 互いが互いを見る。
 きっかけを求めて。
 膨れ上がるものに押されて。


 強く、深く、
 泣くような声と、
 怒ったような呻き。



 身体が強ばり、四肢が痙攣した。



 二人は座るように抱き合った格好のまま、動かなかった。
 私は身体の奥で脈打つ余韻を感じながら、荒れた息を整えていた。
 彼に全体重を預けられている。
 この重みが好きだった。

 彼が一番好きだと公言する時間――彼が気怠い疲労感を味わっている間はこうして自分に全てを委ねてくれている。
 そう、感じる事が出来たから。
 このまま眠るのが何より好きらしいが、今日はそれを許すわけにはいかなかった。
 ただ、許せる限りこうしていたかった。
 私もこの時間が好きになっていた。







「上手いわね……着物直すの」
「そりゃ、まー」
 照れたような、困ったような顔をしてポロポリと指で頬を掻いていた。
「まさかいつもそうやって人の直したりしてるワケ?」
「いや、それは……別に呉服売場の店員じゃないからね。あ、でも子供の頃から人の着付けを手伝ったりしてたからそれでかな?」
「何だか怪しいわね」
「怪しまれても……もう一度、する?」
 そう言って先ほどの証明品の入った袋を見せつける。
 その中に入っている手際良く先を結ばれた使用済みのアレは、余韻を思い出させると言うのには十分に生々しい。
「証明にならないわよっ! 馬鹿っ!」
 真っ赤になる。
 思えば、かなり大胆過ぎた。
 思わず半べそをかいてしまった程、恥ずかしくて嬉しかった。
 本当は泣き出してしまいたかったけど、何とか我慢できた。
 まだこうして意地を張れる。
 そんな自分もまた、嬉しい。


「それより、もうすぐ時間なんだから、急ぐわよ」
「はいはい……」
 彼の手をひいて小走りに駆け出した。


 いつもこうして、私が引っ張ってやらないとこいつはついてこない。
 いや、ついてこなくはないのだ。
 ただ、マイペースにのんびりし過ぎているだけで。


「この惨状をどう言い繕ったらいいものかしら」
「熊と格闘」
「あのね」
「冗談だって……ははっ」
「何かご機嫌ね」
「イロイロと」
「もーっ!!」
 殴りつけるが、今日ばかりはいつもほど力が入れられない。
 全く、恥ずかしい。
 恥ずかしいったらありゃしない。


「どーしてそう用意が良いのよ」
 会場の隅の分別ゴミ箱に捨てる彼に、かなりの気恥ずかしさからそう毒づく。
「それはその……」
「予定事項ってワケ?」
 ジト目で見つめるが、顔が赤いのは誤魔化しきれない。
「人間、何があるかわからないし……」
「このH!!」
「っとと!」


 昔は私が何をしていても、何を考えていても殆ど見守るだけだった。
 多少の口を挟むことはあっても、それは私が求めたゆえの事でしかなかった。


 今は違う。
 こうして彼からちょっかいをかけてくることはなかった。
 今では常にこうやって最後には私の方が振り回されているのだ。
 それを忘れてしまうようでは、笑うしかない。


 私らしくない自分を得られる時間がある。
 来栖川綾香として他人から見られている自分を忘れられる場所がある。


 初めは普段の自分を発散する為に。
 そして今は、新たな私を創り出す為に。


 私はここにいる。
 彼の元に。

 

 そしてそれは私だけではないようだ。



「うちに寄ってく? 何か作るけど」
「それで誤魔化す気ー」
「まー、そういうつもりだけど」
「……」
「……」
「ぷっ、仕方ないわね。今日のところはそれで誤魔化されてあげるわよ」
「んじゃ、そうと決まったら行きましょうか」
「うむ。よきに計らえ」
「はは……」
「もー、調子いいんだから」
「ははは……」
「あはは……」




 普段とは違った不器用に照れている彼を見る限り。





                         <完>




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