初出:2000年04月21日(金) 改稿:2001年03月06日(火)

 
『ちょっと遠くへ』
 




 私がごろんと寝返りを打つと、
「んんっ……」
 身体に巻き付くようにして捲られた布団の中から、微かな唸り声と共にあいつの寝顔が現れる。
 まぁ、私達二人はこんな関係だ。

「うー……」
 私も言葉にならない声を漏らして、そのボーっとした頭のまま、ただ裸のまま布団が捲れているのは寒いと言う感覚だけで手が布団に伸びる。
 そして力任せに布団を自分の肩の高さまで引っ張り上げる。

「う……にゃ……」
 布団の重さ以上の抵抗を手に感じ、同時に布団の中で更なる呻き声が聞こえる。
 私はどっちも特に気にしない。
 寒くなければ、それでいい。

「ん――……」
 そして辛うじて肩の上に掛かるほど、布団を引っ張りあげたところで籠もった声が聞こえて、布団が中から膨れるように盛り上がった。
「はれ……?」
「さむい…っ」
 布団の中から私の身体を這うようにしてあいつが顔を出す。
 目覚めきっていないあいつと、目覚める予定の無いわたしが顔を見合わせる。


「……ああ……御免御免」
 数秒ほど半腰のままでいたが、ようやく私の抗議が自分が体を浮かせていることで布団に隙間を作っている事だと気付いたらしい。
 朗らかそうな笑顔を作ると、ゆっくりと身体を再び布団の中に沈めた。
 そして私の隣に身体をずらすように動かすと、枕も使わずうつ伏せの姿勢のまま再び寝入ったしまった。
 寝つきは私よりもすこぶる良い。
 いや、昨日は散々せがんだから、疲れているのかもしれない。
 そのせいか、私も再びすぐに眠れた。



 彼がこの時期に旅行に行く予定だと聞いたのは、私が友人達との卒業旅行を済ませて帰ってきて、彼の家に遊びに行った時だった。
「へぇー、何処に行くの?」
「何も無い所」
「へ?」
「いや……あー、温泉があるか」
 そう言って自分でも、その間抜けな言いっぷりが可笑しかったのかクスクスと拳で口元を隠すようにして笑う。
「何よそれー、一人で?」
「そのつもりだけど……綾香も来る?」
 その顔には一応形だけ訊いてみるといった雰囲気が色濃く現れていた。
 いや、少なくても私はそう感じた。
「行く」
 だから即座に答えてやった。
「……」
「行く……いいでしょ?」
 今度はこっちが意地悪っぽく笑う番だった。
「旅行から帰ってきたばかりなのに?」
「ええ」
「家族の方にどう言うつもり?」
「何とかするわよ」
 無論、何とかするアテなんか全くないが、こういうのは勢いだ。
「それなら別にいーですけど……」
「何? 文句ある?」
「いやー、何も無いよ。本当に」
「別にいいわよ。貴方が好むような所に行ってあれこれとはしゃぐような事になると思ってないし」
「……別に俺は一人でも二人でも構わ……いや、でも……綾香と二人なら楽しいかも知れないね」
 脅迫したつもりはなかったが、自然と顔がそうなっていたらしい。慌てて言い直す姿が可笑しかった。
「こういう時は……」
「うん」
「最初から「一緒に行かない?」と誘うのが筋よ」
「す、筋って……」
 軽く小突くように拳を鼻の頭に押し当ててやった。



 それからどうやって両親を説得したのかは私の99の秘密のうちの一つだ。苦労した末の事とは言え、了承を取り付けられたのはやっぱり私が次女だからだろうか。
 どうでもいいと思うくせに、そんな事を考えてしまわないでもない。
 自分は嘘八百を並べたくせに。
 それでも、どことなく見透かされているような気分を持ちながら、私はその次の日、彼と共に鈍行列車に乗っていた。
「帰りはしっかりと新幹線に乗ろうか」
 人気の少ない鈍行列車に揺られながら、冷凍蜜柑の皮を剥く私に彼はそう言った。
 のんびり揺られながらの移動は彼との旅行には相応しい気がする。
 特に何か目的がある訳じゃない。
 ただ単に、一緒に旅行をしたいという目的の私には、このぐらいが丁度良い。
 私は饒舌に、彼もポツポツとお互いの最近の事とかを中心に他愛も無い雑談を交し続けた。そしてよく笑い合った。
 いつもの彼の部屋から、列車の向かい合う席に替わっただけで、何より一番違うのは時間を気にしなくて良い事だった。
 一駅止まるごとに5分以上の停車時間、途中下車も出来そうな呑気な駅の風景、殺伐としたものがまるでない田舎の空気が徐々に漂って来る。
 特に有名でもない普通の駅弁をおかずに、アルミニウムの空缶が喋り続ける二人の足元に溜まっていく。
 一度乗り換えてからも、その状態は続いた。
 窓を開けることで入って来る風に当たって心地良い雰囲気にも酔ったせいか、いつの間にか眠ってしまった。
 眠る前に気づいたことは、彼は人のあしらい方が時たま妙に上手いことがあるようだった。こんな若い身空でこのような枯れた旅行をする私達二人が珍しいのか、馴れ馴れしく話し掛けたり近寄ったりする相手を、一度も寄せ付けずにいてくれたことだった。私が眠ったせいもあるのかも知れないが、ぼんやりとした頭のままそんな事を思っていた。
 結局、目的地についた時、私はまだ夢の中だった。


 三泊四日。
 これ以上いるとどんなに変わった人間でも退屈になると言う。
 そんな事をわざわざ言うからには自分でも変わっていると自覚しているのかと思ったら、本人の様子を見る限りそうではないようだ。
 ただ、彼が「何か退屈しのぎになるように本とか持ってきた方がいい」と言っていた意味がはっきりとわかる。
 山があって、その麓に立派とはお世辞にも言えない建物が一件ある。
 正確に言えばその建物は古い木造アパートのような建物と、その直ぐ脇に炭焼き小屋のような建物に別れている。
 来た直後は酔っていたせいではっきりとは憶えていないのだが、このアパートのような建物の方に客が泊まり、小屋の方に管理するお婆さんが一人、住んでいるだけだと言う。
「――君が女の子を連れて来るなんて思いもしなかったよ」とくしゃくしゃの顔を更にくしゃくしゃにして笑うお婆さんが本当に一人で管理しているとは思えないほど、古いことを抜かせば中は広くて快適だった。
 ただ、何も無い。
 街に出るにはバスを使わないと出られない。
 TVもないし、他の人間ともかなり歩かないと会えないとの事だった。



 こんな辺鄙な場所に毎年一人で来て何をしているのかと聞いたが、愚問と言うものだった。
 こんな所にきたらすることは一つしかない。
 ただただ怠惰にごろごろダラダラすることだったから。
「何もしないだけなら自分の部屋でも出来るじゃない?」
 例年は本や小冊子を持ってきてはゴロゴロと似非書生を気取って過ごしていたらしいが、今年は本格的にただダラけるだけのつもりらしい。その床に寝そべっている姿は絵本にまでなった平べったいパンダの縫いぐるみを想像させる。
「んー、そうなのかも知れないけど……気分の問題かな?」
「気分って……」
「あはは……」
 初めはどうなるかと思ったが、自分の部屋と同じぐらいのスペースでしかも自分の部屋と違って何も無い空間に四肢を伸ばして寛ぎ続けると言うのも意外と悪くない。
 もしかしたら、ノンビリ屋のあいつの悪影響を受けているのかも知れない。
 何もしないという時間を持つことが心地良く思えてしまうのは、きっとそうだと自分でも思うのだが。
 特に話をするでもなく、互いにボーっとしたまま日中を過ごし、朝、昼、晩と食事前に、支度をするお婆さんに追い出されるようにして山の近くを散歩する。
 手伝おうかとも思ったが、こういう事に気付かないはずがない彼が何も言わないので何もしなかった。聞いたらやっぱり「余計な事をしなくていい」と仕事を取られることを怒られるのだそうだ。お節介だけがいいことじゃない。面白いものだ。
「ねぇ」
「ん……」
 そして夜は周りを気にすることなく、はしゃぎ合う。
「ねぇってば」
「……んっ……」




 それでも、午前中には目覚めてしまうから不思議だ。
 あれから寝直した筈なのに、一時間ぐらいで目覚めてしまった。
「朝飯は要らないって言ってあるから焦らなくても大丈夫だけどね」
「で、でもー」
「今更繕ったってしょうがないって」
 柄でもないと知ってる人が見たら笑うだろうが、私は真っ赤になる。
 どうせ、布団を直しに来るのだから……それ以前にこうして二人で来た時点で見透かされている事とは言え、恥ずかしいものがある。
 元々、布団が一つしかない時点でバレバレであるのだが。
「それなら今日は山登りでもしようか」
「え?」
 いきなりの提案に驚く。
「どう?」
「い、いいけど……」
 珍しく身体を使う方面で誘ってくれた。
 もしかしたら、昨日のようにああしてボケーとしているのに私が飽きると思ったのかも知れないが、心遣いは素直に嬉しい。
「そうそう……着替え、持ってきた方が良いかも」
「え?」
 まさか何かするつもりなんだろうか。



 それ程高い山とも思えなかったが、まっすぐと上に登れないのではあまり意味はない。予め予定していたのだろう、お婆さんに水筒と弁当を受け取って山に入って以降、ずっと歩き続けている。
 延々と聞こえていた小鳥の囀りや生き物らしい鳴声、木々の風に揺られる音に混ざって、水の音が聞こえてきた。
「あ、川……」
「飲んでも大丈夫かも知れない」
「本当?」
「試したことないけど」
「あのねー」
「ははっ」
 一応、道を知っているということで先導しているようだが、基礎体力の差は言うまでもない。
 多少、足取りが鈍りつつある彼に比べれば私の方がまだ元気がある。
「これでも山篭もりもしたことあるしー」
「へぇ……」
 きっと彼の頭の中には、雪山に空手着一枚で古来の片眉を剃り落とすような山篭もりの印象が浮かんでいるのだろうが、敢えて訂正はしない。
 幾ら安全面に気を配っても、山篭もりは山篭もりとしての厳しさは変わりはない。
 それでも一応、他の人が心配しない程度の配慮はしないといけないのだ。
「好恵なら片眉ぐらい剃り落としそうだけど」
「え?」
「あ、ううん。何でもない」
 片眉を剃った友人の顔を想像して吹き出してしまったとは言えない。


「もうすぐじゃない?」
「うん」
「もぅ……だらしないわねぇ……」
「いやー、まさか休み無しで踏破するとは……」
「これくらい、楽勝よ」
「お見それ致しました……」
「あはは……もう、何言ってるのよ。ほら、後少しなんだから頑張りなさいっ」
「っとと、引っ張るなって……大丈夫だから」
「腰がふらついてるわよ」
「誰のせいだと……」
「……」
「……」
 言いかけた彼も、腕を持ったままの私も固まる。
「もう……馬鹿っ!」
「痛っ!」
 照れ隠しの一撃で、彼は数メートル転がり落ちた。
「あ……ゴメン」
「……」
 返事はない。
 ただのしかばねのようだ。


「ほら、駅の方までバッチリ見えるわよ」
「うん。高さとしては申し分ないしね」
 手すりも何もないので、ギリギリ隅まで立つ事が出来る。
 かと言って断崖絶壁という訳でもないので、落ちた所で大した怪我をするとも思えないが。
「前も登ったことあるの?」
 一気に登って疲れたのか少し離れた所で座っている彼の方を振り返って訊ねる。赤くなっている腕をさすっているようにしてるのは見ない。
「一度だけ……その時はもっと暗くなってたし、元々天気もあんまり良くなかったからはっきりとは見えなかったんだけどね」
「ふぅん……」
 山頂には売店も自販機も何も無い。
 お弁当を食べて、水筒の麦茶を飲んで、景色を見て、ただ喋って……それだけだけど、十分満足できる。
 一緒にいるだけで。
 それだけで、私の心にゆとりが出来る。



 そうして暫く頂上で休むと、もう特に用はない。何かある訳ではないので暗くならないうちに山を降りることにする。
 けれども、彼の提案で寄り道をすることになった。
 そして行きとほぼ同じ様に彼の先導の元、登った時に途中に見た川にやってきた。
 場所としてはさっきよりも長く歩いた分、下流だろう。歩いて渡って通ることは難しそうな川幅だった。
「実は目的はこっちにあったりして……」
「え?」
 そう言うと、彼は靴と靴下を脱ぐとそのまま川に入りはじめる。
「何をするの?」
 水遊びでもする気だろうかといぶかしむが、川の手前で少しウロウロしたかと思うと、そこらにある石を積み上げはじめる。
「何? 何なのよ?」
「触ってごらん」
 川の石を淵に向かって丸く囲むようにして並べている彼の側に行くと、そう声をかけられる。
「え?」
 私は言われるがまま、彼が指差す付近の川の水に手を浸すと、
「熱っ!」
 水じゃなくて熱湯だった。
「おっと、そっちは源泉に近い方だから気をつけて……」
「遅いわよっ! ……でも、源泉ってことは温泉?」
 そう言えば、行く前に彼が言っていた事を思い出す。確かに温泉と言っていたが、泊まっている所では普通の内風呂で温泉といった感じではなかったのだが、まさかここにあるとは思わなかった。
 ここに初めて来た時に、宿のお婆さんから教えてもらったのだと言う。
「確かにこういうのって聞いたことがあるけど……」
 聞いたと言うよりTVの旅番組とかで取り上げられていたりする程度の知識なのだが、実際に本物を目にするのは初めてだった。
「あー、着替えってこういうことだった訳だ」
「打ち身やねんざにも効くかも知れないしー、これは丁度良いかなって」
「むーっ!」
「冗談冗談……でさ、入らない? 嫌なら一人で入るけど」
 彼はこういう自分本意な面がたまに出る。何も考えないで全てを人任せにする時と見事に性格が分かれている。
 そして、そういう態度をとった時の私の態度も大概、同じだ。
「誰が入らないって言ったのよ!」
 勝ち負けじゃないけど、負けたくない。
 そんな変な気分を抑えられない。



 夕方近くにようやく下山した私達はそのまま直ぐに夕飯を食べて、部屋の隅にあった将棋盤で将棋を差したりして、抱き合って一つの布団で眠った。
 包み込むような、包み込まれるようなどっちとも言えない姿勢で眠りに就いた。
 互いに、それが変わったことでもなんでもないようになったのはいつからだろう。
 そんな事を考えながら、私は眠った。
 明日の朝は早い。



「えーと、ここ、かな?」
「そうそう……あ、荷物お願い」
「うん」
「これも……」
「OK」
 行きに比べれば帰りはとても楽で早かった。
 新幹線の指定席が取れていたのはどういう魔術を使ったのだろうかと思ったが、夏休みでもないし、それ程難しい事ではないのかも知れない。
 ただ、何時の間にという疑問はあった。
 行く時の経緯からしても、最初から予定していた彼自身は別として、ついていくことにした私の分も一緒に予約するだけの時間的余裕があったとは思えない。
 頭に浮かんだ疑問と、想像の答えをまとめて打ち消す。
 どうだって、いいことだ。
「まだ発車まで時間あるし、何か買ってこようか?」
「ううん。いいわ」
「そう?」
「ええ」
 そして行きとあまり変わらないくせに重く感じる荷物を棚に載せると、指定された座席にやっとと言う感じで腰を下ろす。
 行きの半分以下の時間でついてしまうのが何か不思議な気分だ。
「どう……楽しかった?」
 そして、元々向こうにいる時に読むつもりだったのだろう本を手にしながら、彼はそう訊いてきた。
「ええ」
「それは良かった」
 ホッとしたような顔をしたのは、やっぱり私が退屈してたりしたんじゃないかという危惧があったんだろう。
「わかってないわねぇ……」
 だから、思わずそう呟いてしまう。
「え?」
「私は……」
 つい、手を伸ばしてグイと彼の服の襟を掴んでしまうが、これはもう私だからと諦めてもらうしかない。
 そして彼の口を唇で塞ぎ、少しして口と一緒に手を放して言ってやった。



「――と一緒ならいいの」



 せせこましい車内で人目もあったかも知れないけれど、あまり気にしなかった。
「……」
「もぅ……あまり手間をかけさせないでよねー」
「御免」
 そう謝ったものの、結構嬉しそうな顔をする彼がとても子供っぽくて可笑しい。



 初めは歳の差以上の距離があった。
 けれども今ではどっこいどっこいだ。
 私が甘えたり、あいつが甘えてきたり……抱かれたがったり、抱きたがったりするような関係になっていた。
 それは彼の部屋を離れても、どこに行っても変わりが無い。



 発車のベルがけたたましく鳴る。
 車内は思ったほど、混んでいない。
「また、来年行こっか?」
「んー、どうだろ」
 意外にも反応は鈍かった。
「え、何で?」
「いや、何か恥ずかしくて……」
「何よ、それーっ!」
 向こうでは堂々としていたくせに、実は結構照れていたらしい。
 どうやら、私の知らないところで散々からかわれたようだった。
「あはは……」
「笑ってないで、言いなさいよ。ねぇってばー……」




 そして私はその関係が、大好きだった。





                           <完>




戻る