初出:2000年01月24日(月) 改稿:2001年03月06日(火)

 
『そこに私がいる生活』
 




「お邪魔するわよ」
「……あ、いらっしゃい」
 綾香が鍵を回してドアを開けると、キッチンの方から声が返って来る。


「今日は珍しく起きていたみたいね」
 後ろを向いて腰を下ろし、ブーツの紐を解きながら綾香が言うと、
「何か人のこと、ずっと寝てると思ってない?」
 と、苦笑したような返事が届いて来る。
「思ってないじゃないくて、その通りじゃないの」
「んー、そーかな?」
「悩むところじゃないってば」
 そう言いながらも、綾香の顔は綻んでいる。
 玄関先の隅に靴を並べると、そのまま小走りに台所に向かう。


「少しは自覚しなさいよっ!……って、何作ってるの?」
 綾香は背後から飛び掛かるように勢いをつけて背中に取りつく。
 向こうも判っているらしく、あんまりバランスを崩さずに持ちこたえると、
「ラーメンだけど……食べる?」
 と、包丁で葱を刻みながら聞いて来る。


 換気扇の回る音。
 湯気の立つ鍋。
 液体スープが既に入った器。
 メンマが詰まった瓶。
 まな板には刻まれたばかりの葱が散らばっている。
 そしてその脇に袋に入った「喜多方ラーメン」と書かれた生麺の束が見えた。
「私の分もあるの?」
「多分……」
 そう言いながら四人分と書かれた生麺の袋の中を覗く。
 今開けたのではなくて、一度開けて食べた残りだと言う事は袋の隅に折り目がついていることと、これで止めていたらしい横にある洗濯挟みでわかる。
「あるけど……どうする?」
 首だけを傾けて、無理して見ようとしないでも綾香の方に気を向けているという仕種をしつつ訊いてくる。
 それでも目でだけは彼女の顔を捉えていたのかも知れない。
「そーねー」
 綾香は綾香で彼の背中から抱き着いたままの体制を維持しつつ、ちょっと考える仕種をしてから、
「小腹程度なら空いているかも知れないわね」
 と、答える。
「じゃあ、大人しく待っててくれる。結構、苦しいし」
「あ、御免……」
 身長や体型の差からしても、綾香が彼の背中にへばりつく様な姿勢のままになっていたのに気付いて、手を放して身体から離れる。
「じゃあ、器、もう一つ出してくれるかな?」
「はいはーい」
 綾香はわざとらしく手を挙げて返事をすると、食器棚からお揃いの器を探し出す。
 しゃがみ込んで、器を取りだそうとした時、


 ………?


 不意に、変な衝動が綾香を襲う。


 …え?


 思わず、透明のプラスチックの戸を開けようと伸ばした手が止まる。
 棚の中身が見えるようになっている透明のそれは、天井の蛍光燈からの光の具合で、丁度自分の背中の位置で麺を茹でている彼の姿が反射して見えていた。


 別に、何もおかしくない普通の光景。
 それでも綾香はその光景を見つめたまま、動けないでいた。
 自分でも何でだかわからない、そんな顔をしたまま。


 …え、えー……?


 自分の背中越しで黙々と調理をしている彼の姿。
 自分のいない光景。
 別段、おかしくない普通の光景。


 …な、何よ?


 自分の中のわけのわからないもやもやとした感覚。
 沸き上がる理解不能な衝動。
 自分の中でのいかなる類の感情にも繋がらない、気持ちが悪い状況。
 無機質な透明な板に映し出された中での彼の動きにだけ、目がいく。
 麺の入っていた袋に、スープの入っていた袋や他のゴミを入れて丸めて隅に置き、切った残りの葱をビニールに入れて冷蔵庫の一番下の野菜室へと仕舞う。


 特に変な事をしている訳ではない。
 ごく普通の行動。
 そしてそれを傍観している自分。
 自分がそこにいない。
 そこにいないのに見ている。
 眺めている。


 ………。


 綾香は動けないでいた。
 理由は分からない。
 何も判らない。
 映し出された向こうの彼が、何かに気が付いたように徐々に近付いて来る。


「……あれ? 見つからない?」
「え?」
 急に世界が動き出す。
「あ、ううん。何でもないわ」


 束縛が――解ける。


 まるでそんな感じで綾香は振り向くと、不思議そうな顔をしている相手にパタパタと手を横に振って否定の意を示す。
「御免なさい、ちょっと、ボーっとしちゃって」
「もしかして疲れてる?」
「う、ううん。そんなことないわ」
「……?」
 慌てたように言ったせいか、説得力に欠けたようだった。


 ――すれ違う毎日が 増えてゆくけれど
 ――お互いの 気持ちはいつも 側にいるよ


 綾香の脳裏に、昔よく聴いた曲の歌詞が浮かんでよぎった。
 別にすれ違っている訳でも、会えないでいた訳でもないのに関わらず、浮かんだのはそんな内容の歌詞だった。
「あ、そうそう……焼き豚入れる? 昨日の残り物なんだけど」
「うん!」
 強く返事をする綾香。
 そうしないと、いけないみたいに。


 …あ。


 綾香は気が付くと、自分の背中を向けている彼に気付く。
 勿論、綾香自身がキッチンから離れていたせいで、当然の事なのだが。
 背中越しに見る限り、彼は麺をザルにあけて茹でたお湯を捨てて、既に別の鍋で沸かしていたお湯を注いであった器に麺を入れていた。
 これもまた、何でもない普通の光景。


 …だとしたら……何?


 綾香は自分の中に発生した疎外感に似た、不思議な感覚に捕らわれていた。
「あ、あ、あのさー」
「んー?」
「えっとね……」
「?」
 何をしたらいいのか判らないが、何もせずにはいられない。
 だから、綾香は取り敢えず声をかけた。
 向こうが振り向いて、綾香の方を見る。


 その間だけは、さっきまでの感覚は消える。
 少なくても、表面的には。


 ただ、心の奥底では変わらずに沈殿している。
 綾香は気をそこにやらないように、意識を向けないようにする。
「ん? ……やっぱり食欲無いとか?」
「え、い、いえ、そうじゃないのよっ! そうじゃなくてね……えっと……」
 次第に語尾が弱くなる。
 綾香自身、変なのが判っていて。
 その変を気取られるのが嫌で、それでもせずにはいられなくて。
 だから困っていた。


 …こ、これじゃまるっきりただの変なヤツじゃないのよ。


「な、なんかね……」
「…………」
「え、えっと……御免なさい。何かへ……」
 理由の無い不安を口にするような、そんな口調で言いかけると、
「ひとつ、お願いがあるんだけど……いーかな?」
 そう、彼は妙に慌てている綾香に言った。
「……え?」
「んー、何かさ……その……」
 曲げた人差し指を口元に当ててから、その手でチョイチョイと手招きをする。
「え、な、何……?」
「あのさー」
 そう言って綾香の側まで来て屈み込むと、
「ひゃっ!?」
 舌を出して頬を舐める。
 あまりにも思いがけない行動だった。
「な、なによ、もうくすぐっ……やぁ……」
「ふふふっ」
「あー、何よーっ! その含み笑いはっ!!」
「あーいや、何かさぁ……驚いた?」
「「驚いた?」じゃないわよっ!!」
「いや……さ……ね……」
「……それじゃ判らないわよ」
 目を細めてクスクス笑っている彼に綾香はジト目で突っ掛かかるが、
「もぅ……いいわよ」
 大きくため息を吐いて見せる。
「いいの?」
「ええ。何か私が馬鹿みたいだから」
「そう?」
「ええ。そーよ」
「まぁ……深く考えないってことで……」
「そーね……って……あ……ん……」
 不意に正面から抱きしめられ、今度は鎖骨の付近を舐められる。
「……ん……んん……え……?」
 反射してみえる自分の姿。
 彼に抱きしめられている自分の姿。


 …あ……。


「さて、そろそろ食べないとね」
「えっ!?」
「のびちゃうし……ラーメン」
「あ……え……」
「やっぱり食べない?」
「…………」
「……?」
「……このっ!!」
「あおっ!?」
 掌底一撃。
「さっきのおかえしよ」
「くぅぅ〜」
 鳩尾を押さえながら唸っている彼に、
「ありがと」
 自分の分のラーメンを持ってそう、綾香が言う。
「……?」
「ラーメン」
 そう言って綾香が持った丼を見せると、
「え、あー……ええ」
 一瞬、惚けたような顔をしてから彼も微笑む。
「っ!」
「……あ、うん、ね」
 綾香が睨むと、ハッとした顔になって言い直す。


「胡椒いる?」
「要らない」
「んじゃま、いただきまーす」
 自分の分に降りかけた胡椒を台所に戻すと、そう言って座る。
「でもちょっとお昼には遅いわよね。おやつってところかしら?」
「おやつには重いんじゃないかな?」
「でもお昼って時間じゃないわよ。貴方にはお昼ご飯かも知れないけど……」
「……いや、朝ご飯だし」
「あっそ……」
 そう言って麺を啜る彼に呆れてしまった。
 あまりにも相変わらずで。


「平凡よねー」
 殆ど食べ終わると、綾香は汁の中に残っている麺を箸で探し出すようにして掬いながら、そう呟く。
「何が?」
「こうしてさ、普通にラーメン食べてるのって……」
「んー、そうだね」
 こっちは食べるのがそれ程早くないのか、綾香よりも残っている麺を啜る。
「……平凡よね」
 もう一度、ポツリと綾香が呟く。
「…………」
「こうして平凡を過ごしてて、変じゃないわよね」
「……変?」
「ううん、違う。やっぱり違うわ。これが普通」
「……普通、ね」
 そう言って、食べ終わったらしく丼の上に箸を置く。


 ――熱い 想い この身を焦がし
 ――例え 明日 命尽きても


「平凡でさ、普通でさ、大した事しなくてね……」
 綾香は自分の食べた丼を脇にずらし、そのまま腰を引いてテーブルの上に片肘を付いて頬を乗せる。その髪がテーブルの上に広がる。
「そんな場所に……いるの」
 はにかんだような、照れたような顔をして綾香が呟く。
「誰が?」
 ニコニコと目だけで笑っているような顔をして、綾香に彼が訊ねる。
 既に後片付けを考えているのか、二人分の丼を重ねて立ち上がろうとしていた。
「決まってるじゃない……私がよ」
 そんな彼に目でだけ見上げて、綾香が答える。


「貴方とね」
 その綾香の言葉を彼は背で受ける。
 台所から水の流れる音が聞こえてくる。
 そして暫くして、



 洗い物に興じる二人の声がそれ程広くない部屋に、響いていた。





                           <完>




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