初出:1999年12月20日(月) 改稿:2001年03月06日(火)
『大切な人』
……貴方に会えて良かった。
誰かに対してそんな事を思える日がいつか来る――なかなかそうは思えなかった。
運命の出会いだ何だとか言って浮かれはしゃいで、
あれこれと相手の良いところばかり見て常に好意的に解釈して、
自分に合わない部分やすれ違いを一つ一つ気にして角を立てて、
いい思い出は遥か昔の事、悪い思い出は遂こないだの事と思い込み、
一番嫌いな相手のリストに一人、書き加える。
そんな出来事の繰り返しな醜聞ばかりを見聞きしてきていただけに、自分でもそういうものかと多少、覚悟していた。
少しばかり上手く行っても、きっと何か揺り返しが来ると警戒していた。
本当に好きになった相手とは上手く行かない。
もしそれが本当ならばこの世から結婚などという単語はなくなり、子供の出生率云々を語る以前の問題として世の中に大きく騒がれる筈だから、そんな事はないのは判っている。
けれども、TVドラマや映画が演じられる恋のハッピーエンドよりも、身近なカップルの伝えられるバッドエンドの方が真実味があるのだから、そういう錯覚をしてしまうのも無理はないと自分では思う。
それが錯覚ではないのではないかと疑いたくなるほど、信じてしまいそうになっていた。
初恋は、笑い話の様にあっさりと破れた。
初めて話の合う、つき合ってもいいかと思える相手とは、本当に下らない事で呆気なく終わった。
そして、自分でもこれは本気で好きになったかもと意識しだした相手には既に、好きな相手がいた。
自分の事だけでもこれだけ揃えば、不信になる。
『大切な人』
――私はスーパーマンじゃない。
――人が見るほど、思うほど、出来た人間じゃない。
周囲の視線を否定しようと何かすればするほど、内容の伴わない空虚な評価だけが上り、本当の私はいつも、独りのままだ。
誰でもいい――本音で、裸で付き合える相手を欲していた。
そんなSOSを私は隠しつつ、望んで待ち続けていた。
もっと弱音を吐ければ、楽だったのかも知れないけれど。
自分でもひねくれていると思う。
図々しいと思う。
素直でないと思う。
けれども、それが私だからしょうがないとも思うのだ。
諦め混じりにそう感じる。
そんな事の繰り返しに、いい加減疲れてしまっていた。
「…って、ことなのよ」
「へぇ……」
「失礼しちゃうと思わない。言うに事欠いて「そんなふしだらな真似をしているようだから相手方に嫌われるのよ」って」
「ふーん」
「それも「ふしだら」ってのは何よ。「はしたない」程度ならこっちだって我慢だって出来るけど……聞いてる?」
「……聞いてるよ」
「本当に?」
「うん」
「……で、それでもね、お爺様よりはまだマシなのよ……こないだなんか「顔に傷でも付けたら商品価値が下がる」だなんて……」
「でも、心配してくれているんだろう?」
「そうかもしれないけど……例え皮肉にしたって、何かもう少し言いようがあると思わない?」
「名なり功挙げて今の歳までずぅーとトップに立ってきた人なんだから、今更下手に出る事は出来ないんじゃないかな?」
「我侭に好き放題してきたから、誰に対しても自分の思いのままにならない事に我慢できないのよ」
「わた……俺はその人の事を知らないから、良く分からないけれども……子供の頃とか、青年時代とか……そう出来なかったんじゃないかな?」
「え?」
「少年時代、青春時代、それこそ我侭好き勝手に出来なかったからこそ、それが出来るようになった今に反動が来ているのかも知れないね」
「……もし、もしもそうだとしてもそんなの私には関係無いわよ」
「じゃあ。こう考えてみたら……お互いの立場って言うのかな? ずっと離れ離れになっていた訳でだから急に成長した自分の孫……家族に対してどう扱ったらいいのかとか、まだ判らないんじゃないかな? そう考えると取り敢えず最初に思い付くのが自分の理解範囲内の枠に御しようと思うだろうし」
「で? 向こうの気持ちは判りました。私、あなた達の理解範囲内のいい娘になります――とでもすればいいってゆー訳?」
「んー? まぁ、どう高圧的にされたって屈するつもりはないんだろう? それに向こうも特に強行的手段に訴える訳でもなさそうだし……だったらいいじゃない。小言の一つ二つ、聞き流せば……」
「良くないのっ! 貴方、一度聞いてみないさいよ……そうしたらそんなこと、言えなくなるから……」
「んー、わざわざ叱られる理由を作って、人に会いに行くのは嫌だなぁ……」
「だったら最初から言わないっ!!」
今日も愚痴をこぼしに来た。
何か用があって来た訳ではない。
正真正銘、全くの掛け値無く「愚痴を言いに」だけここに来ている。
自分でも多少、気が引ける部分もなくはない。
けれども、聞いてくれる本人が気にしていないのだからと、実際のところは遠慮無く愚痴だけを言わして貰っている。
単純に話しているだけで鬱憤が晴れ、時には何か意見も返してくれる。
真剣に聞いてくれる時もあるし、何かしながらという時もあるけれど、不思議と聞いていないと言う時はない。
…そーゆー意味じゃ、不思議な人よねー。
結局、今日もお茶をご馳走になって帰りながらそんな事を考えていた。
初めはあまり私の方も自分の事もあれこれと話したくなくて、その辺の話題を振らないでいた為に彼自身に触れるような事は何も聞かなかった。
私の素性を話してしまったら、彼が今まで通りの態度を取ってくれなくなるのではないかと恐れていた。
実際、私の家庭環境の事を知っても尚、付き合いを変えないでいてくれる友人知人はかなり限定されている。
相手が似たような環境の家の友達か、空手を初めとした格闘技を通じて知り合った知人――俗に言う拳を交えた仲――が殆どだった。
だからこそ、いくら五月蝿く言われても格闘技を続けている理由の一つがそこにあったりする訳だが、それでも中にはこっちの事を一歩引いた態度で接して来る相手も少なくない。
それが実はこっちは知らないままでいたのに、向こうはこっちのことを結構、知っていたりしたのは意外だったし、何によりも狡い真似をされたような気分がして悔しかった。
実際に話を聞けば、殆どが、こちら側からのアプローチ、つまりウチ側の方から彼に接触してきた事が原因だったそうで、考えれば私がいきなり特に付き合いも無い筈の家に、ある日を境によく立ち寄るようになったと誰かに気付かれれば、それを放置してくれるような環境に私はいないのだから仕方が無いのだが、それでも自分の頭越しに話が勝手に交されていたと思うと面白くない。
第一、私が思い付いて聞くまで彼は黙っていた。
それがどういう意図であれ、意地が悪い。
そんな複雑なようで単純な展開のまま、私は明確に「聞きそびれ」て現在に至るような羽目になった。
今更あれこれと聞くのも間が悪いような気がしたし、詮索するのは自分でも好きではなかった。
だからきっかけがあれば聞いてみたいと思っているし、話してくれるのならそれを待とうとも思っている。
そして何より、私があまり彼の事を思うような存在で、彼はなかった。
私にとって必要なのは今の彼の存在であって、彼の内側ではない。
だからこそ、今まで深い関心を持たないままでも平気だったのだと思う。
一方通行で良かった。
…彼は、何を考えているのかしら?
いきなり何の前触れも無くやってきて好き勝手な事だけを言って帰って行く。
時には何かすると言っては連れ出し、例え寝ているところでも起こして付き合わせる。でも、本来寝ているような時間帯に来たことはないのだが。
そんな私を彼はどう思っているんだろう。
うざったく思ったり、鬱陶しいと感じたりしないのだろうか。
いつも目を細めて笑いながら私の話に相づちを打って来る。
何でだろう、と今更乍らに思う。
一度どころか色々と聞いてみた事はあるけれど、迷惑だと感じた事はないといつも言う。もしそうなら自分から言うから心配しなくてもいいとまで言ってくれる。
しかもそのせいで、私の家の方に、怪しい奴と目を付けられたりして、良い目になどあっていない筈だ。
――誰からも相手にされないような人間なのかしら?
――それとも、話相手が常に欲しいような生活を過ごしているかしら?
どう考えてもそうは思えない。
本当に縁側で孫の話し相手をしている老人のように、穏やかな顔をしながら私に付き合って来るのは嬉しい反面、本当に不思議だ。
彼にとって、私はどういう存在なのだろう。
ある日を境に、私が二度と訪れなくなったとしたも……平気なのだろうか。
彼が自分から私に会いに来たり連絡を取ったりする事は一度も無い。
第一、彼は私の電話番号さえ知らない筈だ。
私の家の場所は調べなくても判るのだろうが、これも教えた事は一度も無い。
私さえ、ここに行かなければ終わってしまう関係なのだ。
今の関係は。
そう考えると、やはり彼の態度が年寄り染みて感じる。
子供が近所の家の馴染みのお年寄りの家に遊びに行く事を止めてしまうのは本当に「何時の間にか足が遠のいて」だ。何か特別なきっかけがある訳ではない。
そんな頼りない、はっきりしない関係だと判ると急に寂しい気分になる。
運命の出会いではないが、有り触れたごく普通の出会いという感じもしない。
普段の態度や素振りを見る限り、彼を知れば知る程、あの日あの時あの場所で私たちが出会う事は奇跡に近い出来事だ。
特にあの男が、自分から話し掛ける……それも初対面の相手を食事に誘うという行為は考えにくい。
その事を聞いた時、彼は「一人で、帰りたくなかったから」と呆けた。
でもそれは本当に彼の理由だったのだろうかと疑問に思う。
私自身がその時、「一人で、帰りたくなかった」からだ。
…もし彼が私のそんな素振りに気付いて声を掛けたとすれば……
…それはただの気まぐれによるものから?
…それとも、私の事を気遣ってくれた故の事だったのかしら?
どっちにそろ、もしそうだとしたら、もうその時の目的は果たされている。
私がその時のショックからは立ち直っているからだ。
…だとすると、今の状況はただの惰性で繋がっている……だけ?
彼にとって私がそれ程、大事な存在でないと考えると、ちょっと悔しい気がした。
自分にとっての彼の重要さと比例すれば丁度良いのかもしれない。
互いに深くふれ合うことなく、片や常に押し気味に、片や常に引き気味に適度な距離を保ったままいる関係。
友達だけど、親友に至らず――学校等で良くありがちな関係。
顔を合せれば仲良く話すけど、卒業後は特に連絡を取り合う事も無く、自然に殆どの事を忘れてしまう関係。
それに似たような関係だとするならば、この関係はこのままではいつまでも続くものではない。
…どう、思っているのかしら?
そこまで考えてから、改めて彼の事を思う。
考えてみる。
彼の顔を思い出しながら。
…そう言えば怒っている顔、見た事無いわ……
喧嘩もしたこともないし、するような間柄でもないので当たり前といえば当たり前だが、ちょっとそんな顔は想像が付かなかった。
喜怒哀楽と怒と哀が抜け落ちているような、ふわふわとした掴み所の無い表情。
まさしく、今の二人の関係そのものを現している。
本音をぶつけられる人なのに、
心を許して話せる相手なのに、
でも私が真剣に話す時は体よく交されたり、誤魔化された事はない。
納得出来る事にしろ、しかねる事にしろ、いつも正直に、彼なりの言葉で応えてくれる。
だからこそ、頼っている。
甘えている。
それなのに、彼の事を考えると途端に空虚な気がするのだ。
蓮根のようにすかすかに穴があいているような、そんなはっきりとしない気持ちが渦巻いてしまう。
何か急に怖くなって私は、途中、目に付いた公園と呼ぶには貧弱な空き地にあったあまり綺麗でないベンチに腰を下ろした。
何が怖いのか、自分でも判らなかったが。
彼の方から私に何かを求めてきたことはない。
雑談はしても、何か真剣な話を持ち掛けてきたことはない。
彼は私の相談相手であっても、私は彼の相談相手になり得たことは一度もない。
二人の間の話題はいつも私の話題ばかりで、彼の話題は殆ど無かった。
あの日。
初めてあったあの日。
あの日の最後に、彼は聞いた。
…貴女と、普通に話せてましたか?
と。
その時の彼の漂った雰囲気は、今でも忘れない。
老廃しきったような、疲れ果てたような、本音の彼がそこにいた。
それも本当に一瞬で掻き消えたが。
その時が唯一、彼が私に聞いた事。
そして、恐らくそれが彼が私にわざわざ話し掛けてまで求めた何かだと思う。
まさか根が対人恐怖症だと言う訳ではあるまいしと、その時はそれだけで終わらせてしまったけれども……。
あの時の彼がどういう意図で、どういう目的であそこにいたのかは判らない。
そして、偶然同じ場所にいた私に対してどういう感情を憶えたのか。
それが判れば、きっと私に声をかけた理由は分かるのだろう。
彼は一体何者なのだろう。
今まではそんな事をあまり考えてこなかった。
深く、考えなかった。
それは重要な事ではなかったから。
私のとって重要な意味合いを持っていなかったから。
けれども、今は知りたいのだ。
彼が何者なのか。
どうして、私に声をか掛けたのか。
なんで、私の我侭を受け入れるだけで済ませているのか。
それは、
それはやっぱり……
彼が大切な存在になっているからだろう。
私にとって。
安易に終わらせたくない、相手なのだろう。
そして今、憶えている恐怖。
それはきっと……
彼にとって、私が大切な存在であるのかどうか判らないから。
恋人じゃない。
親友じゃない。
友人じゃない。
ただ「知人」と呼ぶには相応しくないような不思議な関係。
「ありがとう」と言えるくらいの大切な関係。
何かを振り払うように首を振って立ち上がる。
そして再び帰路に就きながら、
…私はあなたに会えてよかった……けど、あなたは……?
今のままで、曖昧なままでいつまでもいたくないと、私は初めて思った。
<完>