初出:1999年11月18日(木) 改稿:2001年03月04日(日)

 
『私の側で微笑んで』
 




「うー……」
「……?」
 彼はシーツにくるまるようにしてベッドの上に座っている綾香が微かに唸っているのに気付き、上着を肩に引っかけるようにしながら、不思議そうに振り返る。


「う〜…………」
「…………」
 ただ唸るだけの綾香の隣りに腰を降ろすと、片手で髪の毛をくしゃくしゃにするように触りながら「どうかした?」という顔を向ける。


「…………………………痛かった」
 綾香がポツリと呟く。


「…………」
 彼の顔が強ばるのを目で確認してから、しっかりと綾香は顔を彼の方に向けて言い直す。
「痛かった」
「……そ、そう」
 何を言っていいのか判らない顔になる。
「痛かった」
「……あー」
 困ったように場を繋ごうとするのを遮るように、綾香は連呼する。
「痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった」
「悪かった悪かった……」
 耳元で延々と綾香に責められ、何とか宥めようとするが、
「痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
 そのまま腕を廻してフェイスロックを掛けられる。



「痛つつつつつつつつつつつ、何か照れてるだろ、綾香っ!!」
 その言葉に綾香は図星を付かれたように一瞬、動きを止めるが、
「うるさいうるさいうるさいっ!!」
 と、更に締め付けを強化する。
「痛い痛い痛い痛い………わかったてば、わかったって!!」
「……すっごい痛かったんだから」
「そ、そう言われても……」
 やっと解放され、締め付けられた頭を抑えつつそう答える。
「アンタのせいでしょ?」
「それは、お互い様だって。こっちの背中、傷だらけだし……力任せに締め付けるから骨もギシギシいって……」
 苦笑して、肩をポンポンと叩く仕草をしてみせる。
「喉も痛いし……少しは労りなさいよ……」
「聞いてないね、人の話……」
 苦笑して、ポリポリと頬を指で掻く。
「………」
「………もう一回やり直す?」
 薄く睨んでいる綾香に、そう呆けたような言葉を投げかける。
「馬鹿っ!!」
「ははは……何か、飲む?」
「うん……」
 素直に頷いた綾香を目で確認してからに立ち上がり、ゆったりとした大きめの上着だけを着たまま、考えようによっては酷く不格好なまま、台所に行ってお湯を沸かし始める。
 その彼の様子を見ながら、綾香はシーツに身体を来るんだまま、大きくベッドの上に寝転ぶ。
 そのままシーツにくるまったまま、シワだらけになったそのシーツを時々指で摘んで何かを探るように弄くりつつ、ゴロゴロとベッドの上を寝転がる。
「ふふ……」
 そして、その手を止めると、そのまま顔を綻ばせて急に笑い出す。


「……? 何かしたか?」
 顔だけ覗かせて尋ねるが、
「ううん……なんでもないわ」
 と、綾香も身体を動かさないまま、答える。
「?」
「ふふ……」
 また、笑う。
「変なヤツ……」
 綾香の笑いにつられるように微笑んで見せた。
「貴方に言われたくないわ……」
「そんなものかな?」
「そんなものよ」
「ふぅん……」
「ふふ……」
 湯気の立つ二人分のマグカップを持ちながら、寝転がっている綾香の足下の付近に腰掛ける。
「ほら……」
「ありがと……」
「起きられるか?」
「ええ」
 器用に、反動を付けるようにしてシーツにくるまったまま身体を起こす綾香。
「……何だかねぇ……ほら、零すなよ」
「ふふふ……ありがと」
 二人寄り添う格好でコーヒーを飲む。
「前から変なヤツとは思ってたけど……相当変だね、お前って……」
 何がおかしいのか、ずっと笑いっぱなしの綾香に、不思議そうな顔をする。
「ふふふ……そうかしら?」
 何を言ってもこの様子だと無駄だと思ったらしく、
「ま、いっか……」
 そう呟いて、自分の分のコーヒーを静かに啜った。



「ねぇ……?」
 コーヒーを飲んでいる間だけは静かだったが、飲み終わるとすぐに綾香が話し掛けてくる。相変わらずシーツにくるまったままで。
「ん?」
「これから、暇?」
「まぁ、そうだけど……」
「じゃあ、出かけない?」
「これから?」
「うん」
「何処へ?」
「何処でもいいわ。ちょっと、外に出ましょう」
 ニコニコとしている綾香の機嫌を見て、ちょっと迷ったような顔をしてから、
「ん……いいけど……」
「じゃ、着替えて着替えて……」
「その前にシャワー……」
「……は、私が先!」
「はいはい……」
 綾香の元気の良さに押され、苦笑する。
「っと……着替え、用意して置いてくれる?」
「はいはい……」
 そして勢いよく立ち上がり、浴室に飛び込んでいく綾香を見て、彼はつられたのか我が事のようにクスクスと非常に可笑しそうに声を漏らしながら笑っていた。







 車を出す気分にもならなかったのか、それぞれ服を着終わると、その格好で近くの公園までふらりと歩き出していた。
「いい天気ねぇ……」
「もうすぐ春だしね……」
 乾ききっていない髪を気にする様子もなく、小股で歩き出す綾香をゆったりとした足取りで彼が追う。
 時折、足取りが悪くなり、具合悪そうにして綾香の顔がしかまるのを見ては、吹き出しそうになるのを堪えていて睨み付けられたりしていた。
 そして、ベンチに腰掛けるでもなく、公園の周囲に囲われている金網に二人で寄り掛りながら時たま吹くだけの気まぐれの風を楽しんでいた。
「………」
「………」
 互いの顔を向き、一瞬二人して口篭もる。
「あのさ……その、今日のことだけど……」
 先に話し出したのは綾香の方から。
「ま、まだ言う? ……そりゃ、あんまり優しくなかったけどさ……」
 少し逃げ腰になる。
 フェイスロックが相当堪えていたらしい。
「あ、ううん……そんなこと……」
 綾香の顔が期せずして赤くなる。
 照れていた自分を思い出してまた、それで照れている。
 その表情だけ見れば彼女もまた、歳相応の少女の一人にしか見えない。
「……ちょっと隠されていた本性を出してしまったと、そういうことにしておいてくれると嬉しいかな」
 返す彼の言葉も照れが入っているのか、どことなくぎこちなかった。
 綾香の表情と言葉の真意が見えていない手探りにも似た心境だったからだろうか。
「………ん?」
「え? あ……そ、その……今日さ……」
 思いきって何かを言おうとする綾香を、彼は自然に語るようにして制す。
 ようやくかけるべき言葉に思い当たったという顔をして。
「ん――……何て言ったらいいのかわからないけど……」
 表情からだけだと彼が照れているのかわからないが、その言葉には彼のそんな感情が混ざっているように感じられた。
「嬉しかった……そういうことかな……」
「あ……えっと……」
 言葉を返そうとする綾香よりも先に、もう一言付け加える。
「こっちから言うより前に、言われちゃったけどね」


「え……?」
 綾香の表情がサッと変わる。
 驚愕。
 もしくは唖然。
 どちらにしろその言葉は、彼女の想像の範囲外の言葉のようだった。
「先を越されたって事」
 そんな彼女の表情にいつもは悪戯っぽく笑い出す彼はまだ、笑っていなかった。
 顔は綻んでいたけれども。
「え?」
「で……これからも……宜しく出来るかな?」
「………」
「………」
 その彼の言葉の真意を綾香は理解するまでに時間がかかったらしい。
 初めは驚きの表情のまま固まっていて、
「っ!!」
 そして弾かれたようにもう一度驚いた顔になった。


「………え?」
「あ……あ……、ありがとう……」
 真っ赤になって俯いていて、言葉がなかなか出ないでいるようだった。
 その反応は彼にとっても想像外だったらしい。
 珍しく少しうろたえた素振りにみえた。
「あ、綾香?」
「わたしさぁ……その……」
 泣き出してこそいなかったけれども、言葉が出てこないほどに感極まっているようだった。
 そんな綾香の背中を彼は、ゆっくりとさするように撫でて
「…………いいよ。その、上手く言えないけど……理屈じゃないこともあるってことで……」
 困ったような顔をして言った。
 その表情は珍しく、本当に困っているようだった。
「…………」
「…………?」
 彼の顔を見上げるように見て、綾香はもう一度驚いた顔をして見せた。
「貴方でも、そうなんだ」
「そうなんですよ、お嬢さん」
 苦し紛れに茶化してみたその言葉に、綾香ははまった。
「ぷっ……」
「………はは」
 それで全てが救われたように、
 靄が晴れたように、
 いつものように、


 二人で、笑った。



「ただ、さぁ……」
 一人きりお腹を抱えながら笑った後、綾香はそう切り出す。
「ただ?」
 こっちも爆笑していたらしく、指先で目尻を擦りながら綾香に聞き返す。
「もう少し、鍛えてくれると嬉しいわね。特に下……」
 一時期的に笑い上戸になっていたのか、そんな言葉にも可笑しそうに笑いを続けた。
「……そゆ事言うんだ?」
 そして無理矢理その笑いを苦笑の笑みのなかにしまい込んで言うが、
「ふふっ……少しは仕返しさせなさいよ」
 先に吹っ切れていた綾香はニヤリと笑って見せただけだった。
 今日は綾香の勝ちらしい。
 それが判っているからか、彼も笑いながら
「やれやれ……何か弱み見せちゃったね……」
 そう言って頬を掻く仕種をしてみせた。
「少しはへこんだ方が可愛げがあっていいわよ」
「はいはい……」
 相変わらずの関係を思い出すように口でそう言いながら、余韻に浸っていた。
 二人とも。
 さっきの瞬間を思い出しながら。
「ひょっとして、幸せってゆーのかしら。こーゆーのは……」
 綾香が呟く。
 それに対して彼は答えることなく、彼女の隣で金網に寄り掛ったまま空を見上げていた。
 綾香もそれ以上口を開くことなく、彼と一緒の空を見上げていた。


 不規則に暖かい風が吹く。
 暖かい春はいつか終わり、厳しい夏が来る。
 そして穏やかな秋を挟んで、凍える冬がやってくる。
 いつだって変わらないものはない。
 この風をいつまでも共に受け続けることはできない。


 今、この瞬間だけでしか味わえないこと。


 緩やかな風に髪をなびかせながら、綾香は隣を見た。
 彼の頬が自分と同じく緩んでいるのを見て、もう一度空を見た。
 その彼女の表情は、例えこの風が吹き止んでも、二度と味わえることがなくても彼がいつだって彼女の側で微笑んでくれることを信じて疑わずにいた。


 ――だからこそ楽しみたい。
 ――この瞬間を。


 彼女はそう思いながら、風に流れる雲の動きを眺め続けていた。




                            <完>




戻る