初出:1999年11月18日(木) 改稿:2001年03月04日(日)

 
『Little by little 〜After the second inning〜』
 




 糸を垂らしてから、十数分……。
 釣り竿の先を見ている振りをして、全ての意識を隣に……向ける。


「ねぇ、あの時どうして私に声を掛けたの?」
「………」
「………」
「………」
「ねぇ!」
「へ?」
「聞いてた?」
「一応」
「………」
 ゆらーりと拳が持ち上がり、彼の頭上へと落ちる。
 硬目の音が響き、垂らされていた釣り糸を通して水面も微かに揺れる。
「……で?」
「ど、どうしてと言われても……んー……そこに、いたから…………かな?」
 殴られた頭を片手でさすりながらも、相変わらずそこから返ってくるのはとぼけた答えだった。
 ムスッとしたくなる口先を、誤魔化すように舌を出して上下の唇を軽く舐める。
 そして、追求する。
「じゃあ……どうしてそこに……いたの?」
 焦燥感を声に出さないように、気を付けてゆっくりと更に訊ねる。
 暇つぶしで、訊ねるように。
 普通の会話を、しているように。
「それは―――」
「それは?」
 のんびりとした口調のままで、ちょっとだけ間が開いて言葉が途切れる。
 私は焦らないように、急がないようにしようとしていたのに、その間を開けないで聞いてしまった。


 ……こういう駆け引きは、苦手。


 内心で自分のしくじりに舌打ちをする私を、彼はゆっくりと見つめて言った。



「君を、見ていたかったから……かな」
 そう、余裕たっぷりに微笑む。
 年長者のゆとりを全身に滲ませて。
「………」
「………」
 その微笑みが、私が他人に向けているものと同種だという事には最近まで気づかなかった。
 だから、その時の私は「あのねぇ……」と苦笑して素直に誤魔化されてみせて、


 …この大嘘つき……。


 心の中でだけ罵った。







 ……切れ切れの意識の奥で、何故かそんな昔を思い出していた。



「ああっ…………はぁっ!!」
 上顎が上がって漏れるのが特徴な喘ぎ声。
 その私の口を覆うように手が伸びるが偶然、指が口の中に入ってくる。
 おしゃぶりのようにその指を舌で舐め回す。
 中指と薬指は、皮の味がした。

「あっ……あっ…ああっ……ああっ!………」
 後ろから締め付けられるような感じで覆い被さられている。
 私の意識は指と、指の味にしか向けられていないが、彼のもう一方の手は胸を頻りなしに揉んでいた。

 顔が半分、押しつけられている。
 さっきまで支えていた私の両腕は既に力尽きていた。


 もう、幾度しただろう。
 何度、しただろう。


 正直なところ、こうしている間は「好き」とか「愛してる」とか、そんな感情は頭の中にはない。
 時折、夢中で口走っている時もあるが、それは別の言葉の代用で使っているだけに過ぎない。
 ただただ、正直な気持ちしか心にはない。
 一つの言葉が、感情が、心を占めている。
 快感。


 それだけが私の中を占めている。


 ただ、それは肉欲によるものだけではない。
 結果、である。
 行程を経ての。


「はぁ……はぁ……はぁ……」
 そして、私がその理由、気持ちに至った過程を改めて実感するのが終わった時、落ち着きかけた時、強く思う。
 愛しさ。


 …だから、する度に私は貴方を好きになる。
 …それを本能的に知っているから、欲しくなる。


 これが「牝」というものなら、きっとそうなのだろう。
 自分なりに、そう理由を付ける。
 理由など、必要ないのだが。



 全てが終わり、絶えることがない様に思えるほどの波が静まった、身体の隅々に張り詰めていたものが、膨れ上がったものが収まった時間。
「こうしてるのって……気持ちいいわよね」
「……ん? ……」
「ふふふ……」
 貴方が「一番好き」というこの時間。
 私は「中途半端な気怠さが、とても心地いい」と言う寝ることが好きな貴方らしいその気持ちはわからないけれども、私にとっても一番貴方を好きだと感じられるこの時間は好きだった。
 理由は全然違うけれども。


「気持ちいいんでしょう?」
「このまま……寝かせてくれるなら……ね」
「さぁ、どうしようかしら」
 私がそう笑うと、向こうも困ったような顔をして笑いを返してくる。


 親子でも、友人でもない笑み。
 対等で、同質で、二人だけの、互いにだけ見せ合える笑み。



 …そんな人と、私はつき合っていた。



 その事に気付かないでいた時から。




『Little by little 〜The second inning〜』




「ん………んぅ〜…んっ……」
 眠りから、目覚める。


 暗い。
 真っ暗闇だ。


 さっきまで、夢を見ていた。
 楽しかったのか、悲しかったのか、ぼんやりと漠然とした形でなら、目覚めたばかりの時に覚えていた筈なのに、今では霞掛かり過ぎて、それすら覚えていない。
 目尻に残った涙だけが、名残として残されていたが。


 その名残を、身体を少しだけ起こして指で拭う。
 やけにその涙は、冷たい。
「ん……んん……」
 だが、今の自分にはその涙の謎は解けることはない。
 そして、解く気も起きない。
 再び眠気が襲い、無意味に欠伸を噛み殺す。
 目尻に残った、生ぬるい涙が微かに、再び溢れ出す。
「…………」
 寝ている間に溜まっていた涙のせいか、目が重く感じる。
 ちょっと粘ついている気持ちもする。
 再び、今度は乱暴に指で目元を擦る。
 涙が乾いてこびり付いたものか、単なる目脂か判別はつかないが、擦り落とす。
「ふぅ……」
 軽く、息を吐く。
 冷たさと暖かさを同時に感じる。
「……んん……」
 冷たさは、肌寒い夜の空気。
 それは裸の肩から、身体を動かしたことで掛け布団から露出した部分全てを刺すように感じる。
 暖かさは、熱い身体のぬくもり。
 それは触れ合っている部分全て、互いの体温を直に肌で感じている熱さから感じていた。
 そこでようやく現状を把握する。
 同時に暗闇に慣れてきた目が視覚する。

 それ程狭くない部屋の端に寄せられたベッドの上。
 規則正しい寝息が横にひとつ。


 喉がかさついている。
 乾いた空気がそうさせていたのだろう。
 唇も乾ききっていて、危険な状態だ。
 身体を少しだけ動かす。


 どんなに余裕を振りまいていようとも、
 どんなに落ち着いてみせようとも、
 どんなに老輩じみた真似を繰り返していようとも、
 こうして寝ている姿には、可愛い気がある。


 …私の……男……なーんてね。


 ちょっと格好つけた考えをして、それが馬鹿に可笑しくてくすくすと身体を震わせながら笑ってしまう。
 その振動で起きたのか、呻りとも呻きともつかない曖昧な声が口から漏れる。
 手が動いて、両目を隠すように乗っけられる。
 その手が、再び下ろされた。
 お目覚めのようだ。
「あ?……ん……どしたの?」
 少し寝ぼけているのか、目が開ききっていない。
「ううん……何でもないわよ」
 ちょっと意地悪く答える。
「そう?」
「ええ」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
 我慢比べでもしているように、見つめ合う。
「ふぅん……」
 先に、向こうが折れたような、諦めたような納得していないまま、身体を再び布団の中に沈める。
 ちょっと拍子抜けする。
 そして自分も同じ様に布団に入り直す。
 そのままだと寒くて仕方がない。


 すると、


「あ、そうそう……」
 と、顔を再び、こちらに向けてきた。
 まるでこちらの動きを測ったかのように。
 この呼吸は謎だ。
「もしかしたら電話鳴るかも知れないけど、多分、実家からだからとらなくていいよ……」
 実家。
 普段は聞くことの出来ない単語だ。
「あ、うん……」
 ちょっと驚きながらも頷いて見せた。
 普段あまり一緒にいることのない時間にいるからだろうか。
「じゃ……そういうことで……オヤスミ」
「あ……!」
 突然、閃いた。
 頭が働いていない、今がチャンスかも知れない。
「ねぇねぇ……聞いていい?」
「…………? どーぞ?」
 再び寝入ろうとしたようで、かなり反応が遅れている。
 本当に寝てばかりいる。


「初めて会ったあの日……どうして声を掛けたの?」


 会う度、話す度に繰り返す同じ質問。
 幾度答えを聞いても、かわされた印象しか残らない。
 だから、今、聞いてみることにした。


「……一人で、帰りたくなかったから……って言わなかったっけ?」
 眠るのを邪魔されたというそのまんまのストレートな反応を見せつつも、苛立ちは感じ取れない。
 相変わらず彼のまとっている空気は平穏そのものだ。
 彼が何か焦ったりすることはあるのだろうか。
「で、どうして私に?」
 別にあの時、私一人目立っていたわけじゃない……と思う。
 いや、目立っていたかも知れないけど。
「ん――それは……」
「正直に」
 ピシャリと釘を刺す。
 余計な思考時間を無くす為でもある。


「……気まぐれ、かな」
 またしても、呆気ない答えが返ってきた。
「……じゃあ、前、一目惚れとか言ったのは?」
「あ……憶えてたの?」
「で?」
「御免。その場しのぎ」
 あっさりと言ってのけた。
 ふつふつと沸き返る感情が私の中で育ちつつある。
 が、沸点に達するまではいかなかった。

 ……やっぱりこういう奴、なのよね。

 いつのまに私はこんなに物分かりがよくなってしまったのだろう。
 諦めが早くなっただっけなのかも知れない。
 この男とのつきあい方を憶えたということなのだろう。
「で……誰と待ち合わせてたの?」
「…………兄を」
「嘘」
「そー言われても……」
 髪を指で梳くってから、軽く握り締める。
 指に絡まった髪がくしゃくしゃになる。
 どうしても尻尾を出さない。

 …もしかしたら、全部本当なのかも知れないわね……。

 悔しいが、そうも思えてしまう。
「つまんないわ……もっと、こう、情熱的に正直になれないの」
「何それ……?」
 不思議そうな顔をする。
 私が言葉の意味が判っていないのだから、彼に判る筈もない。
「だってぇ……のらりくらり逃げるんだもの……いつもいつも」
 拗ねてみせる。
 こうして甘えるのも、あまり余所ではした憶えがない。
 こんな甘えかたもあるんだなと、他人事のように思う。
「………」
 案の定、ちょっと困ったような顔をする。
 その顔が面白くて、わざと頬を膨らませて更に膨れ面を演出して見せた。
「………」
 そして、軽く嘆息してかた彼が口にしたのは意外な言葉だった。
「じゃあ……とっておきの小咄をひとつ」
 目が覚めているのか、いないのか疲れたような眠たげな顔のままのんびりと切り出してくる。
 彼の中ではどんな思考が働いているのかは判らないが。
「小咄?」
「お気に召すかどうかはわからないけど」
「何?」
 何を言い出すのか興味が沸く。
 こういう時に、退屈な事はあまり言わない。
 変なことはよく言うが。
「以前だけど……藤田君……だっけ? 何だか色々と凄いらしいヤツ」
「ああ、浩之ね って、ええ……!?」
 思いもよらない固有名詞が出てきた。
 こういう私を驚かせる期待は裏切らない。
「ま、まさか浩之とも知り合っただなんて言い出すんじゃないでしょうね……」
 まさかとは思うが、前例があるから油断できない。
「じゃなくて……ホラ……前、綾香がそいつのことを意識してるとかどうとか言ってただろ」
「あ……え、ええ。結局……貴方の言った通りだったけどね」
 ちょっと苦笑する。
 以前、浩之との事を相談したことがある。
 好きになったのかも知れない、と。


 結局のところは……私も、私の姉も、葵も、皆、アイツにとっての大切な友達にでしかなかった。
 アイツは上手く、こちら側の気持ちに気づかないままで立ち回っていた。
 聞いた話だと、一度だけ会ったことのあるアイツの幼なじみと上手くいっているらしい。
 自分など、告白もできやしなかった。
 尤も、目の前のこの人間から釘を刺されたせいもあったかも知れない。
「………」
 そんなことを思い返していると、あっさりと言ってのけた。
「あれね……一部は全くの嘘なんだ」
「へ?」
 何を言っているのか判りかねた。
「あんまり、そいつのことそわそわして言ってるから……ちょっと嫉妬してね」
「え?」
 思考が、停止する。
 代わりに、回想シーンが頭の中で再現される。


 …すごく自然体に接してくれるし、話してて楽しいし、何か……凄く嬉しくなるのよね……これって……恋かしらねぇ……

 …さぁ?
 …………ただ

 …ただ?

 …自分の良さを他人に気付いて貰える人って……必ず誰かが捕まえていること、多いみたいだけどね

 ……言うわね

 …たまには、ね?

 …たまに……かしら?


 …じゃあさ、せめて応援してくれる?

 …応援?

 …そう。私の……今の……この……

 …負け戦に加勢するのはちょっとなぁ……

 …負け戦…………ま、負け戦ってなによー


 そう言えば、いつもより冗舌だった気もする。
 遠回りに否定されたとしか考えなかったけれども、その言葉の真意は。
 否定した理由は。
 改めて、考えてみる。

「まぁ……そういうことで……」
 眠たげに布団に潜りかける彼の動作に気づかず、私は呟いていた。
「じゃ……じゃあ……」


 ――やっぱり、だま……されてた?


「え、えっとそれって……」
「まぁ……客観的に考えても、そうかも知れないな程度のことではあったけども……現にそうだったみたいだし。でも、まぁ……」
 彼は肘を使って少しだけ起きあがり、
「その頃から……結構、好きだったってこと……」
 私の耳元でそう囁いて、頬に軽く触れるだけのキスをした。
 強ばったままの表情が可笑しいのか、軽く微笑みながら。
「………」
「許して、くれない?」
 今度は指を伸ばして私の頬を軽く押した。
 覚醒する。
「へぇ……って、それで誤魔化されないわよっ!! そ、それって狡くない?」
「狡い」
 私の問いにあっさりと答える。
 開き直りでもここまで早くはないだろうという速さで。
「あ、あっさり認めるし……だったらその時に……」
「前に言ったと思うけど?」
「前にって……何もそんなことは……」
 私が言葉にできずに言いよどむと、彼は頬を突ついていた腕を伸ばして私の頭の上にその掌を載せた。
「「どれが恋かどうか何て、俺もわからない」って」

 言った。
 確かにそんな科白を聞いた。
 けどそれは確か……


 ――やっぱりこの男、狡い。


「だから気づかなかったと言いたいわけ?」
「そう解釈していただけると……ふわぁぁ……大変嬉しいな」
 幾度も噛み殺して我慢していたようで、欠伸が耐えきれなくなったように彼の口から漏れてきた。
 相当に眠いらしい。
 私の目はこれ以上無いほど醒めていたけれども。
「そーゆーことで、小咄終わり。じゃ、お休み……」
「あ、うん……お休み……じゃないっ!!」
「うー、眠い〜」
「それって! その……えっと! こら寝るなっ!! えっと……あー むかつくわねっ!!」
「耳元で怒鳴らない……」
「誰のせいだと…… はぁ、もういい」
 諦めた。
 やっぱり私は物分かりがよくなっている。
 というよりも、既に怒る気になれないほど騙され続けてきたからだろう。
「……いつか、見てなさいよ。一生振り回してあげるから……」
 寝顔を見つめながら、私はそう彼に誓う。
 そう、一生をかけて。



 こう誓う、私は既に彼の術中に填まりきってしまっていたようだった。
 そう判りながらも、悪い気分ではなかったけれども。




                           <完>




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