初出:1999年05月07日(金) 改稿:2001年03月04日(日)

 
『はじめてのふれあい』
 




 無理矢理、買い物に付き合わせる。
 自分一人だと、目安が意外とわからない。


「ほらぁ……たまにはシャンとしなさいよ……」
「してるって……」
「だったら、その欲も何も捨てて全てを達観したよーな顔、何とかならないの?」
「はは……」
「笑うところじゃないわよ……もぅ……」
 めぼしい買い物を終え、そのまま街中をブラつく。
 提案を受け入れ、近くの店で昼食を食べることにした。
「良い店、知ってるの?」
「この辺は綾香の方が詳しいんじゃないの?」
「そう言われても……ファーストフード系で大概済ませちゃうから……」
 ヤックなど二三、有名チェーン店の名前を挙げながら、アーケードを眺めるように二人並んで歩く。
 こっちが抱えている荷物――紙袋を持ってくれるような気遣いはないらしい。
「ふぅん。やっぱりそんなもんなんだ」
 そんな呑気な言葉だけが返ってくる。
「私たちだってそこらの女子高生とそう変わりがあるワケじゃないもの。車で送迎してもらっている娘は別としてだけど」
「送迎ねぇ……」
「あははー」
 ちょっと墓穴を掘ったかもしれない。笑いでごまかした。
「それで、いつも使っているお店とかで特にお勧めとかは?」
 無視された。それはそれでちょっと悔しい。
「えっとねぇ……


 何となく、最初に脳裏に浮かんだラーメン屋は言いそびれた。


 …別に、他の皆だって知ってる店なのにね。


 心の中で、苦笑する。


「ん――……じゃあ、適当にブラついて決める?」
「そうね、それがいいわ」
 そんなことを言いながら、少しばかりそのままアーケードを進んでいく。
 休日だから、そこそこの人出だ。
 親子連れやカップルもいないでもない。


 …カップル……か……。


 チラリと横を盗み見る。
 実を言うと、さっきも見たのだが。


 …こういうのんきさも……ホッとできていーわよね……。


 下を向いて、足下を見ながら歩く。
 普段、あれこれとハキハキとして頼られる自分でいないといけない時が多いだけに、こうして気を抜いていられることに安堵感を憶える。


 気安い関係になれる人間は他にもいる。
 飾らないで済ませられる相手も見つけたこともある。


 けれど、両手両脚を広げて寝転がれるような気分が味わえるのは……今のところはこの男と一緒の時だけだ。


「ねぇ……」
「――ん?」
 呼び掛けてみると、あらぬ方を見ているのに気づいた。
「……何処見てるの?」
「いや……別に……」
 彼の視線の先を目で追う。特に変わったものは見えない。
 知り合いに似た人でも見かけたのだろうか。
「まぁ、いーわ」
 彼のそんな曖昧さは今に始まったことではない。
 諦めのため息を付く。


 そして、さっき考えてみた思いつきをぶつけてみる。


「私たち、どう見られてるかな?」
「どうって……第三者に?」
「ええ」
 そう言って、わざとらしく腕を取って組んでみる。
 まるで「恋人」。


 以前、同じ質問をぶつけてみた男がいる。
 その時は、四の五のと言葉を濁して逃げられた。


 …結構、気になってたのになー。


 普段から強気の自分を演じているだけに、笑って「冗談よ」と言うしかその時はできなかった。
 もしそれがアイツが薄々こっちの気持ちに気づいていたから、話を冗談に持っていって逃げられたのだとしたら――と考えなくもない。
 どっちにしろそのお陰でアイツも私も他の誰もが傷つくこともなく、仲良しのままでいられるのだから、どうにもならないのだから考える気にはならないが。
 そう。
 結局のところはアイツの元に寄せつけさせて貰えなかった。
 それだけのことだった。


 そして今、目の前のこの男は私の方を向いて言う。
「どうでも……いいんじゃない?」
「あっ、そう……」


 そうあっさり言われるとこれはこれで悔しい。
 その惚けた顔が、憎たらしい。


 この顔が、そう変化を見せることはない。
 笑った顔は、多種多様なくせに、他の表情はあまり見せない。



 ――怒った顔や泣いた顔を見ることが出来たら……少しは近付けるのかしら。


 そんなことを考える。


 ――言葉を操る人。
 ――言葉の空虚さを自覚している人。


 彼もまた黙る。
 その視線の先は道の両端に並ぶ様々な店舗の看板。
 さっきの話はあれでおしまいのようだ。
 私が更に話を続けない限り。


 最近……どうも私は彼を意識し始めた。
 彼という人間を。




 『はじめてのふれあい』



 暇ができたので、遊びに行くことにした。
 その暇な時間は、ピアノという楽器が私の人生上重きを置くことがないという前提の上でできたわけだけれども。
 多少遠回りをしながらも彼のアパートにやってきて、その部屋の前に立つとドアの鍵が開いているのに気づいた。
 勝手に入って構わないという意味らしい。
「もぅ……」
 キチンと遊びに行くと連絡を入れてから来ているのに、キチンと出迎えてくれたことは数えるほどしかない。
 部屋が片づいてないで汚いとか言うわけでもないし、迷惑がられているわけでもないようなのだけれども……こういうのは「飾らない」というのとは断じて違うと思う。
 ドアノブを回し、一声掛けてから中に入る。
「何してるの?」
「ん――、ちょっとね……」
 部屋に入ると、今の今まで続けていたのだろう、テーブルの上に乱雑に置かれたレポート用紙やら、資料のコピーやら、本やらを整理していた。
 チラリとだけ目をやると、太田だの窪田だの見馴れない名前と共に、島崎藤村だの正岡子規だの、高浜虚子だのと見馴れた名前を見つける。
 積み重なった本やら冊子やらをざっと見た限りではどうやら、俳人歌人関連のレポートでも書いていたらしく、資料のコピーには誰のものか判らない短歌が欄外に殴り書くように数首書いてあるのが読める。
 正直、私のあまり興味のある分野ではない。
「レポート?」
「まぁ、そんなとこ」
 クリップでA4サイズの紙をまとめながら顔を上げてこっちを見る。
 口元が綻んでいてちょっと楽しそうだ。


 ――あ……。


 いつもの寝ぼけたような惚けたような顔と、少しだけ違う顔。
 たまにしか見ないような顔をしていた。
 大概、私といるときは私を見ている顔か、何も見ていない顔しかしないのに……。
 昔に思いを馳せている時ともちょっと違う、私の見えないものを見ているような、そんな顔だ。
 私の見えないもの――それがこの机の山の正体らしい。
「大学生もたまには勉強するんだ」
「ええ、たまには……ね」
 内心の動揺を隠し意地悪い笑いを浮かべてみせるが、あっさりとかわされる。
「色々図書館とか資料室とか通って、埃でも被ってそうな七面倒くさい資料を調べたりしなくちゃいけないんでしょ。まぁ、たまにしか勉強しないとは言え、そういうところは大変よねー」
 机の上に積み重ねられていた藁半紙のようにくすんだ色の古ぼけた冊子を拾い上げてパラパラと捲りながらそう言ってみるが、
「でも、楽しいからね」
 と、簡単に躱されてしまった。
「……楽しい?」
 それも、思いがけない言葉で。
「………」
「あ、それ貸して」
「え? あ、ええ……」
 私の手から冊子を受け取ると、別の本の背表紙と何やら見比べるようにしてから、メモをとってまた元のように積み重ねる。
 さっきの言葉は控え目にこそ言っているが、彼にとってはかなり意味合いは強いらしい。
 私には判らない分野だ。
「うーん……」
 私のその思いが顔に出たのだろうか、彼は作業の手を休めて、ちょっと考えて見せてから更に付け足す。
「こーゆーの、好きなんだ」
「どういうところ?」
 全然判らない。
 あまりにも省略し過ぎだ。
「そう言われると……うーん。そうだなぁ……」
 手際よく本やレポート用紙をしまったり、隅に積んだりして片付けながら、説明していく。
「気取った言葉や飾った言葉、格好をつけようと考え出された言葉に見栄、自己顕示、そんな他愛もないことから、一転して恨み無念を込めたり、泣き言を昇華させようとしていたり……まぁ、形はともあれ……こういうのって皆、言葉の記録なんだろうけど、そういう言葉を57577、または575という制限を設けたルールで……
 ただ、説明の方は上手くまとめきれていない。
 その割には困っているようにも見えず、まるで他人事のように小首を傾げたような素振りで、思いつくがままの言葉を一つ一つ重ねていくだけだった。
 彼がこの分野が好きだということは漠然と感じるものだけでも判ってしまう。
 そしてそれに対して「どこが?」と聞かれると説明するのに困るというのも何となくだが判る。
 理由など、本当のところはないのだから。


 …意味がどうとか、理由がどうとか以前に……ってことなんでしょうけど。


 何か、癪に障った。
「元々は中国の漢詩からきているものなんだけど……
 その言葉を話しているのがまるで別人のように感じた。
 口調も、態度も変わらないのに。
 自分の範囲外にいるような錯覚をしていた。
 目の前に彼はいるのに、



 遠く、感じた。



「……まぁ、そういうのを見るのが、好きなんだよ」
 向こうも説明しきれてないことに気づいているらしく、適当にまとめたようにそう言った締めくくった。
 半分も訊いていなかったけれども、「ふぅん」と納得はしていないものの聞いたような返事は返しておいた。
 恐らく、聞いていなかったことなど見透かされているに違いない。それどころか質問をぶつけた私の苛立ちに似た感情を感じ取ったかもしれない。
 測れないものがいつも彼にはある。
 けれども私は、そんな再確認に似た悔しさと同時に、発見をしていた。


 ……こういうこともあるのだ。


 いつも煙に巻くように言う癖に。
 惚けきる癖に。
 私を説得できないまま会話を打ち切ったのだ。
 だけれどもそれはそれだけその物事に彼がのめり込んでいる証でしかない。
 そしてその物事はあまりにも私には無関係で、興味の外にしかないことだった。
「……よくわかんないわ」
 だから自然と憮然とした口調になった。
 何か、面白くない。
 いつもと違う人間がそこにいるようで。
 彼の目の前に居るのは他の誰でもない、私だというのに。
 私に対してさえもいつもと違う顔をしていて、違う言葉を吐いているのは……。
 私が……そこにいないからだろか。
 私に見せない顔の理由は……


「確かに。自分だって、わかって言ってるわけじゃないし。だから……「楽しい」としか言いようがないのかも。あ、御免……今、お茶でも煎れるから……」
 彼は苦笑しながら、お茶の用意をしようとする――



 はなれようとしている。
 わたしのまえから。



「え?」
「あ………」
 私はその手を捕まえていた。
 無意識ではなく無自覚に。


「――ん?」
「………………」
 顔があげられない。
 爪先だけを、見つめる。


 どう言いたいのかわからない。
 何を言いたいのかわからない。


 ただ、今、言わないと距離が広がる気がした。
 心に沸いた感情が広がってくると直感した。


「あ……あのさ……」
 口篭もりそうになりながら、ある言葉が浮かぶ。
 だが、意味があるような無いような言葉だと思う。
 言っていいのか、どうかさえ疑わしいぐらいの胡散臭い言葉だ。
 それこそ、向こうの専売特許だ。


 いつ頃からこうした関係が続いてきたのだろう。
 どうしてこういう関係が続いてきたのだろう。
 初めて接触してきたのは、向こう。


 気まぐれ、だと彼は言っていた。


 二度三度とこうして会う機会を作ったのは、こっち。


 物好きだと自分では思っていた。
 特に私は、ここに、彼――この人に会うことを好んだ。
 ストレス発散に身体を動かす時のように、心のモヤモヤをうち消してくれることに気づいて以来。


 否――それは、初めて会った時から感じていた。


 ただ話を聞いてくれるだけで、ただ当たり障りのない抽象的な言葉を聞かせてくれるだけで、何もしてこないのに。求めていないのに。


 否――だからこそ、安らいだのだろう。


 そして、更に今、私はそれ以上のものを求めている。
 安らぎの本当の理由を求めている。
 だから、今、こうして押し寄せる不安が途轍もなく怖く感じる。
 理由が判らない。
 でも、じっとしていられない。黙り込んでいられない。


 だから、手を掴んでいた。
 引き留めていた。
 私の今の感情の全てが私の今の掌の中にある。
 私の今の激情の全てが私の今の口の中にある。


 知りたい。
 聞きたい。


 全てを曝け出すのが怖くないのは少し、おかしくなっているからだと疑う。
 興奮していくのが判る。
 何に興奮をしているのか。
 何をそんなムキになっているのか。
 判らないみたいだったけど――いや、判りたくなかった。
 判っているから。
 だから、昂ぶりを抑えることができない。
 素直に思った。


 …おかしくなっていてもいい――と。



 この私の今途切れた、切れ切れの、この想いをそのまま引き取ってくれるのは……




「私……貴方が何を見ているのか……正直、わからないわ……」



 顔を上げて黙って、顔を見つめる。
 向こうも、こっちを見ている。




 ――数分に感じる数秒後




「……そうかな?」
「……うん」
 軽く首を傾げるようにして、そう言ってくる。
 不思議そうな顔をしている。
 少しだけ、さっきより癪に障る。
 ただ、たまにしか見せないが見たことのある顔だったが。
「…………」
「……見ていても、気づいていないこともあることだって……あるんだけどね」
「え?」
「例えば……今……君が思っている程、俺は……じゃないよ」


 何と言ったか、そこだけ聞こえなかった。
 わざと言わなかったんじゃないかと疑うほど、そこだけ聞き取れなかった。


「綾香………」
「え?……あ……」
 さっきの言葉を考えてみていたので、呼び掛けられて初めて自分がじっと見つめられている事に気づく。


「あ……」
 自分を捉えている瞳を見る。



 不意に、

 怖く……なる。


 理由は自分でも判らない。
 唐突に、怖くなった。
 何か動かしてはいけないものを動かしてしまったような。
 進んでは行けない道を進んでしまったような。
 見てはいけないものを、見てしまいそうな瞬間が近づいてくる。
 鳥肌が立ちそうになる。
「え……」
「綾香……」
「あ……あ……」
「………」
「あ……何か……その……」
 本能的に後ずさりしてしまう。
 怖さを感じた。


 ――恐怖。


 これからどうなるのかわかっているような、わからないような、少なくてもそれを知ることを恐れている。
 無論、理由はわからない。


「その……ちょ……ちょっと待って……」
「……待たない」
「え!?」
 綾香の足が止まる。
 広い部屋ではないから、すぐに壁に背中が着いてしまう。
「あ……そ……その……ち、近づかないで……くれる?」
「なんでかな?」
「そ、その……」
 言葉に詰まる。
 どうこの感じを表現したらいいのか判らない。
 自分では、理解できていない。


 そこで、彼が笑った。
 クスリ…という形容詞のまま静かに。
 いつもの笑みに近い笑い方。


「今、君が感じているもの……今までは感じたこと、ないんだろ?」
「え…………ええ」
 そう答える。
 ここでいつもの講釈に近いものが出ると思った。
 笑いながら離れて、何か言ってくると思った。
 いつもの空気。
 それが懐かしく感じる。
 全身でそれを欲していた。


 が、ゆっくりと彼は壁に片手を付くようにして、私の前に立つ。
 追いつめられた。


「あ……だ……駄目……」
「どうして?」
「え……そ、その……」
「今更……じゃない?」
「で、でも……その……」
 今まで、色々な場面でこんな風に迫られたケースはある。
 それが気にくわない相手なら平然と叩きのめしてきたし、ナンパぐらいだったらのらりくらりとかわしてきた。
 冗談なら、笑って済ませられた。
 そう、どんな時でも笑って終わらせることができたのだ。
 笑えば全て解決したのだ。
 今、ここで私が笑えば全て収まる。
 でも、言葉が出てこない。
 身体が動かない。
 ただ、無性に見えない何か、心の奥底にある何かが怖さを訴えていた。



 自分が変わっていく怖さ。
 今までのものが壊れていく怖さ。
 そして、新たに手に入れたものを失うことの怖さ。



 …そう……そんな、怖さ……。



 恐怖の原因が、朧気ながら見えてきた。
 私はどうして苛立ちを覚えたのか。
 私はどうして不安になったのか。


「俺なら、ここにいるんだけどね……」
「え……?」
 ポツリと呟かれた言葉は聞き逃した。
 いや、耳には入っていたのだが、意味まで理解する余裕はなかった。
「君は俺が何を見ているのか判らないと言ったけど……」
 そこで、ちょっと困ったような顔をした。
 いや、ずっとそう言う顔をしていたのに、今頃になって気づいた。
「大分前から……君だけを、見てきたんだけどな……」
 すっ、と、壁に付いていた手が離れる。
 追いつめられていた状態から解放された。
 同時に、心も。


 …そんな、気がした。


 変わったのは、私だったとしたら。
 前の私なら山積みの本を見ても呆れたぐらいだっただろう。
 彼が私の興味の無い分野に熱を入れていても茶々を入れる程度で済んだだろう。
 それだけを望んでいた頃の私なら。
 彼は彼のままだと言う。
 彼は私の前にいると言う。
 私だけを見ていたと言う。
 何でそんなことを聞かされているのか。
 わざわざ、伝えてくれているのか。


 ――今の私は、何を望んでいたのか。


 私は軽く目を閉じて、待った。
 その答えが、唇に確かな重みとなって感じられる瞬間を望んで。






                            <完>




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