初出:1999年04月19日(月) 改稿:2001年02月28日(水)

 
『笑いあえたら 〜晴れの日も雨の日も〜』
 




 幼心の思慕の念を越え、5、6年が過ぎた。



 そして……



 本当にあっと言う間の短い恋と、
 憧れに似た思慕とが、


 それぞれに、消えていった。



 ――――いずれもあなたの前で



 その時やっと、



 私も恋が出来るようになったんだなって


 思った。



 ――――そう、気付かせてくれた。




 ……その微笑みの元で。





『笑いあえたら 〜晴れの日も雨の日も〜』




 ゆっくりと小刻みに息を吐く。
 少しずつ、少しずつ溜め込んでいたものを出していく。
 刃物で刻んでいくように。

 徐々に意識が高まっていく。
 自分の身体が集束して一つの固まりのように錯覚してくる。
 五体が、一つになる。

 目を細める。
 意識的にではなく、自然に細まり、たわんだ視界から目に見えない何かに照準が合わさる。


 瞬時に――――


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!!!!!!!!!!!!」


 公園に声が響いた。
 轟くように。



「どうだった?」
 綾香は首に提げたスポーツタオルの端で顔の汗を拭いながら、ベンチに腰掛けるようにして見ていた男に感想を尋ねる。
「集中してたね」
 それに対して、まるで昨日TVで見たスポーツ番組のような感想をぼへーと言ってのける。
「………………それだけ?」
 無論、綾香は満足しない。
 すると、男は座り直してから、
「右手の位置が今日に限って良くないね。相手がいて対峙していると仮定するとどうしても相手の動きにその位置だと遅れて出てしまう。先に打てるならいいけど、受け身に入らざるを得なくなった時、どうしても無理な手の出し方になってしまう。君の場合、カウンターはカウンターとしか考えていないきらいがあるみたいで、切羽詰まったときに無意識に出せるかどうか、本当の意味で怪しいような気がする。普段より力みがちなのか、単に姿勢の問題なのかは分からないけど、ちょっと考えてしまうような身体の運びだったよ」
 と、滔々と喋り出す。
「……………………………………………………………え?」
 思わず固まる綾香に、男はクスリと笑う。
「いや、何か言えって言うから……」
「わかる……の?」
「全然」
「じゃあ」
「当然、出鱈目」
 あっさりと言ってのける。
「あーーんーーたーーわーーっ!!」
「ははっ……」
 そう詰め寄ると、頭を両手で護るようにあげる。


「もうっ……しょーがないわねー」
 綾香の頭の中でいつも納得せざるをえない。
 こいつは、こういうヤツだと。


 だが、言っていることは全くの荒唐無稽な出鱈目でもない。
 恐らく。
 素人として、素人の目で見たことを言っているのだ。
 言い回しに多少の洒落っ気が入ってはいるが。
 間違っていようが、いまいが構わずに思ったままのことを。


 だから、好意が持てる。






 暇な時にではなく、予め暇を作っていく場所がある。



 そこは、
 特別な場所なのかも知れないし、特別でないから行く場所なのかも知れない。



 兎に角、綾香は時折、自分の学校の近くのアパートを訪れる。



「…………」
 ドアの前に立ち、インターフォンを押す。
 何故か緊張する。
「………………」
 暫く待って、もう一度、二度鳴らす。
「……………………」
 予め、来ることは伝えてある。
 だから、綾香はポケットから鍵を取りだし、ドアを開ける。
「もぅ、しょうがないわねぇ……」
 案の定、部屋は薄暗い。
 午後になろうとしている時間なのに、カーテンが引かれていないのだ。
「んっ……」
 長い間密室だった事を証明するように、籠もった空気特有の饐えたような臭いが綾香の鼻腔に入ってくる。
 だが、幸いにも部屋は汚くないので、耐えられない程の臭いにまでは発展していなかった。
 それでも綾香は顔をしかめながら、靴を脱いで部屋に上がる。
「もぅ……」
 そして、すぐに自分の足下に布団があることを確認する。
「あのさぁ……寝てる?」
 綾香の立つ位置の反対側から人の顔が見える。
 窓側だが、重いカーテンなので日差しは届いていない。
 ただ、太陽から注がれている暖かさは届いていない筈はないのだが。
「もぅっ……いいわよね、大学生は……」
 綾香はわざとらしく、大きく息を吐いた。
 自分がわざわざ予定を開けて置いたのに、相手がこうでは腹立たしい。
「もう昼よ……おーいっ!!」
 男の枕元に寄ってしゃがむと、多少乱暴にその身体を揺すった、
「ん………ん〜っ……」
 そうすると、男が寝床から顔を上げて薄目を開けてこっちを見た。
「あー……綾香?」
 頭がまだ寝ぼけて働いていないらしく、目の焦点が合ってない。
 綾香は大きく、溜め息を吐いた。


 寝ているのが何よりの幸せを感じている男。
 少なくても綾香にはそう思えてならない雰囲気を持っている。
 変な、男だ。


 綾香は大きな音を立てさせながらカーテンを開け、窓も開けた。
 漸く、籠もった空気が外に流れだし、代りに外の新鮮な空気が入り込む。
 そうしてから改めて振り返ると、
「えっと……何で、部屋の中に? ……鍵、掛かってなかった?」
 まだ、頭がはっきりしないらしくそんな惚けた事を言い出す。
 何を今更と、カチンとなる。
「貴方……合い鍵……私に渡さなかったかしら?」
 綾香はちょっと声に怒気を入れてみるが、
「渡したっけ?」
 と、半身を起こす男がキチンと寝間着姿なので、何か滑稽で笑いそうになる。


 正直な話、以前訪れた時に玄関の脇にそのまま放ってあったのを見つけて「貰っていい?」「ん――……ああ」と言う経緯で鍵を持っていたのだから、特に「渡された」という訳ではないのだが。
 だが、一応は「合い鍵を持つ仲」と言うことになる。
 だからどうしたと言われそうだが、綾香にとっては大事にしたいことだった。
「ああ……無くしたのかと思ってた」
「物騒ねぇ……誰かに盗まれてたらどうするのよ」
「金目の物なんて特にないし……いいんじゃないかな、別に」
「良くないわよ……」
 変でない人間がいる筈はないのだが、綾香にはこの男はとびきり変だと思う。
 こう言うのを贔屓目と言うのかはわからない。
「昨日の夜、電話したでしょう。今日遊びに行くからって……」
「そうだっけ?」
「そーよ」
「でも眠いし……」
「貴方ねぇ……少しは世の男達を見習ってシャキっとしなさいよ」
「ありのままの自分を出す方が肩が凝らなくていいから……」
「だらしないのよっ!! それは単にっ!!」
「聞こえない聞こえない……おやすみ」
「こらこらこら」
「んー……」
 改めて布団に潜りかけ、思い出したように綾香の顔を見て訊ねる。
「寝る?」
 その顔は、綾香にはニコリと微笑んだように見えた。
「えっ……」
 思わずドキリとしかけるが、さしたる事はない。
 言葉通りだ。
 まさに添い寝するぐらいにしか考えていない。
 寝起きの頭でそんな深い事を考える筈も無いのだ。
 綾香はそう思いながらも、

 「いい年した男女が、何もしてないだなんて……変態そのものじゃないかしら」
 「そ……そーかしら……」
 「もしかして、そういうのが趣味なだけだとか?」
 「そ、そゆのって?」
 「寝顔フェチとか……」
 「え、えっと……」

 以前これと似たような事になった時のことを話したら友人にそう断言されたが、何かそんなムードになれそうもない。
 この体たらくでは。
 ここでいきなり迫られても困るが、相手にされていないようでそれはそれで悔しい。
「ふわぁ……」
 綾香の目の前で、口元に手を当てて欠伸をする。
 その仕草はだらしないが、実は意外とみっともなくない。
 事実、それ程、悪い家の出ではないようだ。
 聞いたことはないが。
「一体、何時間寝ているのよ……」
「んー……、10時間ぐらいかな」
「寝過ぎよっ!!」
 がばっと、シーツを剥ぎ取る。
「わっと……」
「寝過ぎるのも身体に悪いんだから……しゃきっとしなさいよっ!!」
 綾香は毎朝、自分を起こしに来る使用人の気分はこんなんんだったんじゃないだろうかと思いながら、言ってみた。
 低血圧の自分はいつも起きるのに一苦労するのだ。
「健全な生活をしてないと、健全な人間にはなれないわよっ!!」
 ただ、綾香の寝起きが悪いのは夜更かしという理由も多分にあるのだが、それは敢えて意識の外に置いた。
「寝ている方が……」
 乱れた髪を指で梳くようにしながら反論しかけるのを、
「不健全そのものよ。たまには運動でもしなさいって言ってるじゃないの……」
 ピシャリと言うことで封じる。
「はいはい……」
「そうだ。貴方も身体動かしなさいよ。付き合ってあげるから」
「謹んでご辞退申し上げます……」
「い・い・か・し・ら?」
「顔を近付けて凄むなって……」
「そうさせてるのは――
 綾香の顔の鼻を人差し指で軽く押しながら、
「思わずキスして塞ぎたくなるじゃないか……」
 そう言って、綾香の畳み掛けた言葉を封じ込めた。
「なっ……」
 綾香が動揺すると、クスクスと笑い出す。
 こういうやり取りでは勝った記憶がない。
 今もこうしてあっさりと逆転された。
「ば、馬鹿なこと言ってないでっ……」
「はいはい……さてと。目も覚めたし……そろそろお昼だし……着替えるからちょっと待っててくれる?」
「え?……、ええ」
 腕を上げて伸びをする男を背にして、綾香は靴を履いてドアの外に出た。
 そして今日も最後には相手にあしらわれている自分に苦笑しながら。


 相談相手であり、遊び相手。
 付き合いはそこそこ短くない程度だ。


 出会った頃はただの奇妙なエキストラで、
 綾香から興味を持って近づいた二度目以来、
 たまに口実を設けては会うことを繰り返している。


 …考えてみたら、初めて会った時以外、誘われたことないわね……。


 いつでも、綾香から誘っていた。
 時には憂さ晴らしに。
 気分転換に。
 ただただ、話を聞いて欲しい時や、
 ちょっとした意見を聞きに行ったりと……。
 どうしても家族や友人では出来ないことをして貰っている。
 一方的で、それを許して貰える関係だった。
 正直、相手が自分のことをどう思っているのかわからない。
 何を考えているのかわからない。
 自分から意見を言うことはあまりない。
 訊ねられても、結局は自分で考えるしかないように誘導する。
 ああしろとも、こうしろとも言わない。
 そして逆に突き放すこともあまりない。
 静かに黙って話を聞くだけが一番多い。
 初めて会った時、振られた話をした。
 恋が判らないと言った。

 いつか会った時、好きな男の話をした。
 勇気が持てないと言った。

 何故か言いたかった。
 他の誰にでも言いたいことでも、そうでなく誰にでも黙っていたいことでも、彼には言ってさっぱりしたかった。
 はっきりとした答えを一度もくれたことはない。
 最後は、自分で結論を出すようにし向ける。
 老獪だったが、嫌な感じは一度もなかった。
 小言ではなく、言葉の、心地良く感じてしまっている。
 それは――


 ドアが開く。


「お待たせ」
「待たせ過ぎ……いつまでかかってるのよ」
 綾香は思考を中断して、取り敢えず文句を言う。
 そしてそう言ってから自分が結構、長々と考えたり思い出したりしていたと思うと、そこそこ待たされたことに気づいた。
「御免御免……洗濯物干してたから……」
「干してたって……この時間で!?」
 時計を見るまでもなく、いくらなんでもそんな時間は無いはずだった。
「いや、一度起きてたから……」
「だったら、起きてなさいよっ!」
「ははは……二度寝って気持ちいいし……」
 あっさりと言うその口が綾香にはちょっと憎たらしく感じる。
「貴方ねぇ……そんなんだから振られるのよ……」
「えっ? 一度も振られた覚えは……」
「初め会ったあの時、ずぅっと待ちぼうけくってたのは誰だったかしら?」
「……綾香だろ?」
「天然で答えるなっ!!」
 そう言い合いながら、近くの喫茶店で軽めの昼食を摂り、公園で食後の運動を始めていた。


「こう?」
「違うっ!! 拳は固めたままで腰に押しつけるようにして……」
「何か恥ずかしいなぁ……」
「じゃあ、道場に……」
「そのままなし崩しになりそうで嫌だな」
「だったら、ここでやってみなさい」
「ふぇぇ……」
「ほらほら……また添える手がお留守になってるわよ……」
 最初に自分が手本を見せた後で、綾香は基本の型を教え込んでいた。
 別に、これで運動になるとかでもないのだが、さっきの復讐も兼ねて厳しめに教え込むことにしていた。
 その狙いは数分しか持たなかったが。
「身体固いわねぇ……こんなんじゃ、どうしようもないわよ」
「別に格闘家になる訳じゃないから……」
「でも、少し身体柔らかくしないと……」
「ほら、野球選手のイチ○ーも身体固いので有名だし」
「もぅ……」
 そう言ってから綾香は笑う。
 こうして一緒に笑うことが綾香には何故か嬉しく感じる。
 肉親や友人達と笑うのとは別な、気分がした。





 雨降りの日は憂鬱だ。
 だが、それも口実にしてしまえば、意外に便利なものだ。


 がちゃがちゃと鍵の開ける音がする。
 家の主人のお帰りだ。
 喩え其処が、アパートであっても。
「…………ん?」
「はぁい……お帰りなさーい」
 男が不思議そうに自分の部屋にいる綾香を見た。
「何で部屋の中に?」
「急に雨降ってきたからさぁ……」
 学校帰りにそのまま寄って来たことを証明するように綾香は投げ出したままの脚で壁に立てかけた学生鞄を指した。
「えっと………鍵は?」
「合い鍵!!」
 とぼけた事を訊く男に、被せるように怒鳴って見せた。
「………………………………ああ、そっか」
「わ、忘れてたわけ……」
 少し脱力する。
 こういう肩透かしは慣れていても、それはそれで力は抜けるものらしい。
「そう言うわけでも……」
「もうっ……そ、それよりさぁ、私を見て何か感じない?」
 気を取り直すように綾香は、脚を投げ出したままのポーズから膝を折りたたむようにして座り直してポーズを取って見せた。
「不法侵入……一応言っておくと犯罪だぞ」
「違うっ!」
 靴を脱ぎながらそう言う相手に、綾香はまた怒鳴りつけていた。
「あ、あんたねぇ……」
 箪笥に入っていた自分には大き目な男物のトレーナーを着た綾香は、がっくりと肩を落とす。
 待ちかまえていた時のワクワクも、自分の行動に対するドキドキもこれではどうしようもない。
「……その服…………あ、俺のか」
「少しは喜びなさいよ。もしくは照れるとか」
「俺が照れても仕方ないし……制服は?」
「乾かせて貰ってる……」
 綾香が指差す先には、ハンガーに吊して部屋の隅に掛けて干してある制服があった。
「ふぅん………………ま、いいか」
 少しだけ、考えた素振りをするも、あっさりと諦めたように納得する。
「は、張り合いがない……」
「?」
「……何か、気が抜けちゃったじゃない……まぁ、襲ってくるとは考えにくかったけど……」
「傘持って来てなかったのか?」
「……しかも人の話、聞いてないし」
 綾香がいじけた様な口調を作って大きくため息をつく。
 見ると綾香に背を向けて、ようやく靴を脱いだかと思うと紙屑を丸めながら靴の中に入れていた。
 どう見ても、その行動は若者の姿ではない。
 もう一度、綾香はため息をついた。


「もぅ、少しは驚いてくれてもいいじゃない……」
 延々と文句を言う。
 どうしても綾香はこの相手の前では主導権を取れない。
 そして、そのもどかしさが何故だか心地よく、癖になりそうな気分だとも薄々自覚していた。
 つれないからこそ、燃えるものがあるのだ。
 自分の思いのままにならないからこその楽しみが。
「ワイシャツの方が良かったかなぁ……」
「それじゃあ寒いだろ」
 Gパンを借りて履きつつも、暫く思い付く限りの文句を口の中で呟いていた綾香は、台所にいた筈の男の声の背中に聞いて慌てて顔を上げる。
「え……あ、ありがと」
 目の前に差し出された湯気の立つティーカップを受け取って、お礼を言った。
「出来ることなら、お湯ぐらい沸かしておいてくれた方が嬉しかったな……」
「そゆこと言う? いなかったくせして」
 そう言いながらお盆にちょっと似つかわしくないほど、綺麗な紅茶の入れたポットとティーカップ、それにお菓子を乗せた漆塗りの木皿をテーブルの上に置く。
「いなかった時を見計らって入ってない?」
「ないわよ」
「部屋が荒らされた形跡があるんだが」
「気のせいよ」
「キチンと直した?」
「ええ」
「………」
「あ」
「まぁ、いいけど」
 あっさりとやり込められて口をつぐむ。
「冷めるよ?」
「え、ああ。うん」
 綾香は相手に促されたまま、ティーカップに口をつけて一口啜ろうとする。
 その時にそのカップに目がいった。
「あら、何か良さそうね」
 そう言ってから渡されたティーカップで紅茶を一口飲むと、
「え、わかる?」
 男は嬉しそうにニコリと笑う。
 そして、
「青の色の出が気に入ってる」
 と言う。
「うーんと…………えっと……セーブル焼?」
 綾香は頭の中でアンティークの図鑑を開きながら、思い付くものをあげる。
 それ程興味がある訳でも、造詣が深い訳でもないが漠然と知っていたものをあげてみただけだったが、
「正解。セーブルヌーボーのポットとカップ」
 どうやら当たっていたらしい。
 更に嬉しそうな顔をしていた。
「ふぅん……何でいきなりこんなものがある訳?」
「……そー言われても……」
 そこでちょっと困ったような顔をする。
「でも、これ……」
 大雑把な知識で知っているレベルのクラスである。
 それなりの値段がする筈だった。
 そこのところを聞くと、
「偽物だから……だから多分……今は400£ぐらいにしかならないよ」
 と、あっさりと解説してくれた。
「ふぅん……」
 綾香はそのまま、イギリスのがらくた市を見て回った時の話を聞く。
「で……」
 穏やかに、まるで国営テレビの紀行番組のナレーションを読んでいるかのように、滔々と語られる話を聞く。
 どちらかと言えば、昔から綾香の方が一方的に話をすることの方が多く、自分が聞き手に回ることは全くない訳ではないが、そう多くもない。


 綾香が此処に来る時、何をするという目的はない。
 何がしたいというものも、それほどない。

 空腹でもないのに、口が寂しくなって物を食べたりするような、
 唐突に運動不足を感じて、身体を動かしたりするような、


 ただ、話がしたくなる。


 そして目の前にいる男は、話を聞かせたいような雰囲気を持っている。
 話をすることで、一番落ち着きを得ることが出来、何かを聞くことで、何か答えを得ることも珍しくない。
 それは無意識的なのか、誘導的なのかは綾香には分からない。
 聞かせるだけなら、姉や親友に近い友人、大勢の知人友人に恵まれているので大して話相手に困る事はない。
 だけれども、何も言わなかったり、逆に言ってくれたりして、自分自身に何かを与えてくれるのは、今の所……。


 だから、綾香の一番の話し相手だ。





「そろそろ……止んだかしら?」
「ん――……小雨程度……これなら傘は要らないかな……」
 窓の外の空模様を眺めながら、そう判断したようだ。
「送ってくれる?」
「それはいいけど……雨の中、人に迷惑かけているって事はないだろうね?」
「え?」
 不意に、聞かれる。
「………」
 綾香が黙ると、そのまま呆けたような口調で話を続けてきた。
「長瀬さんに謝っておいた方がいいよ。傘持って探し回ってるかも知れないし」
「え……あ……その……」
 思考がパニックになる。いきなり忘れていた核心を突かれ、動揺する。
「……って、ちょっと待ってよ! どーしてわかるわけ!?」
「知りたい?」
「……ええ」
 綾香は、目の前の相手がこういう笑い方をしている時は、その殆どが悪戯を話す時だと思い当たる。
「帰った時に、家の前で会ったから」
 その理由は呆気ないほど単純だった。
「え" ……じゃ、じゃあちょっと待ってよ……その……じゃあ今まで……」
「驚いて見せた方がご期待に添えるかなって……」


 反射的に、手が出た。


「叩くことはないだろう……叩くことは」
「うるさいわねっ!! 悪ふざけが過ぎるわよ……もうっ!!」
 立った綾香は自分の事は棚に上げて、怒り出す。完全にと言うわけではなく、驚きを誤魔化すといった部類だが。
「……で、じゃあ見張ってるわけ……」
「いや、俺が来た時に入れ違いで……」
「いつ仲良くなったのよ」
「さぁ?」
 はぐらかす。
「さぁって……きっかけはあったんでしょう」
「まぁ」
 からかわれている。
「じゃあ!!」
「相手もあることだから秘密ってことで……」
「くっ」
 不意打ちをしたつもりが、またしても先をゆかれていたことに気付くと、悔しくて堪らない。
 更に今回はまいたと思っていた筈の執事にまで嗅ぎつかれていたらしい。
 綾香にとって怒られるとかいう以前に、その事が単純に悔しかった。
「聞きたければ長瀬さんに聞いてみればいい。向こうの言い分とこちらの思い込みとでは誤差もあるだろうし。ただ、出来るなら……」
「出来るなら……何よー」
 綾香は口を尖らせて拗ねていた。
 その彼のもったいぶった言い方が癪に障るのだが、そこをつけば更にやり込められそうで我慢した。
「野暮ってもんでしょう。聞くのは」
 そう言って顔だけで笑って見せたのを見て、綾香は立ち上がった。
「………」


 綾香はヘッドロックをかけたまま、腰を落として体重をかける。
「痛い痛い……降参降参!!」
「偉そーに! もぅっ!!」
 あっさりと降参したのを受けて、解放するとそのまま座り込んで腕を組む。
「痛ぅ……まぁまぁ……どーせ、稽古事サボって来てるんだろ? 知らない俺が送るより長瀬さんの方が、道も知ってるし、先に言い訳もしているだろうし……その方が……」
「どーせ。予めそう言ったんでしょう……」
 まだいじけたまま綾香がそう言うと、
「車は学校の前に止めたままだそうで……」
「……もうっ!!」
 とことん先をゆかれていた。
 勿論、不意にここにきたことはきまぐれだから彼に判る由も無いのだろうが、それまでもが予測されてしまっていたような気分に陥る。
「で、何、サボって来たの?」
「この時間なら……華道だったかな」
 そう深く考えずに綾香が漏らすと、
「へぇ……何か因縁」
 彼はポロっとそう漏らした。
「え?」
「あ、いや、こっちの話」
「?」
「まぁまぁ……勉強でもしていたってことにして……」
「そこいらの大学生に習わなきゃ行けない程、出来なくないけど……」
「あくまで口実だから……口実……」
「どーせなら他にないの? 特技とか……」
「んー、……華道」
「へ?」
「…………くくっ……」
 豆鉄砲をくらった鳩そのままな顔をした綾香に、男が堪えきれなくなったように笑いだす。
「ま、また担いだわねぇーっ!!」
「タンマタンマ……ほら、制服制服……」
「あ……」
 殴り掛かろうとしたものの、男のすぐ後ろに掛かっていた自分の制服があることに気付いてその動きを止めた。
「ふぅ……」
 笑いながら、助かったと呟く彼に綾香は、軽い苛立ちを覚えながら今度こそ一矢報いてやると心に誓った。
 ここから帰る度に誓っていたことだったが。
「もう乾いてるだろ」
 その言葉に、ハンガーを取って干した制服の乾き具合をチェックする綾香だが、
「うん……でも、このまま行こうかな。このトレーナー気に入ったし」
 悪戯っぽくそう言う。
「それは止めておいた方がいい。欲しかったらあげるから」
「え、本当?」
 軽い嫌がらせのつもりで言っただけらしく、驚いたように聞き返した。
 そう来るとは思っていなかったようだ。
「どうせ安物だよ?」
「いいわよ……わぁ〜、ラッキー」
 さっきまでの不機嫌が嘘のように鼻歌でも歌いだしそうな綾香の雰囲気に、男の方が首を傾げる。
 が、それも一瞬だった。
「じゃあ、さっさと着替えて……俺もそろそろ出かけなくちゃいけないからね」
 時計を見て時間を確認すると、そう言って彼女を追い立てた。
「へぇ……バイト?」
「みたいなものかな」
「ふぅん……あ、着替えるから出てって」
「はいはい……」
 そう言って出て行く彼の後ろ姿に舌を出しながら、綾香はハンガーを外して制服を手に取った。


 改めて制服に着替えて綾香はドアを開け、すぐ脇にいた男を見た。
「じゃあ、行くから……」
「ああ。気を付けて。道、ぬかるんでるとこあるから……」
「貴方じゃないから大丈夫よ」
「ん……本当に持っていくの?」
 綾香が畳んだトレーナーを持っていることに気付いて、驚いたような顔をする。
「あ、やっぱり嫌?」
「いや、そうじゃなくて……ちょっと待って。何かに入れた方がいいだろうから……」
 そう言うと、一度部屋の中に入って紙袋を持って出てくる。
「何か律儀ねー」
 トレーナーの入った紙袋を受け取り、苦笑する。
「良い執事になれるわよ」
「それは誉め言葉?」
「さぁ?」
 そう言って綾香は可笑しそうに笑った。
「あ、でも……ぐーたらじゃ務まらないから駄目か」
 笑いながら思いついたようにそう言うと、
「ま、綾香ぐらいな相手にはいい加減な方がいいんだよ、きっと……」
 こちらも笑いながらそう付け足してきた。
「そうかしら?」
「そう思わない?」
「そうかも」
 そう言って二人は笑った。
「じゃあ行くわね」
「気をつけて」
「ええ」
 そのまま男と彼のアパートの前で別れて束の間の雨上がりの道を一人歩きながら、綾香は思う。


 ――こういう笑い合える関係が続けばいい。


 誰よりも気が楽で、新鮮で、それでいてとても、心地が良いこの関係が。
 それが何なのか、どういうことなのかは分からなかったし、知る必要もなかった。
 ただ、気持ちよく笑えることが、今はただ、綾香にとって嬉しかった。
 綾香は彼にちょくちょく会いに行く理由をそう結論づけた。
 そしてもう一度心の中で呟いた。


 ――そう……笑いあえたら、いいと思う。


                             <完>




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