昔からの親友である川名みさきは、わたしの高校の頃の部活動の後輩である上月澪と仲良しである。







シカクテントウ


2002/06/03 久々野 彰 








 これだけを聞いたなら別にどうってことのない話である。
 けれども、二人を知っている者であればその事に驚きを持つだろう。
 その二人が知り合うきっかけの場所こそ、わたしと澪の所属していた演劇部にみさきが手伝いにきてくれた時という平凡なものだったが、この二人にはそれぞれ平凡とは言い難い共通点を持っていたから。
 それは、障害者と呼ばれる共通項だった。

 目の見えないみさき。
 口のきけない澪。

 この二人がコミュニケーションを取るのは容易ではない。
 澪のスケッチブックに文字を書いたり、手話などの相手に見せることで成立する情報伝達の手段がみさきには通じないのだから。
 わたしや部のメンバーなど二人を共に知る人が側にいれば、間に入って澪がスケッチブックに書く言葉をみさきに伝える事で会話を成立させる事が出来るが、二人きりの時はそうはいかない。
 幾つか方法があるようだが、わたしがみさきから聞いた話ではみさきの掌に澪が指で一文字一文字言葉を書いていき、その言葉をみさきが読み取る事で会話を成立させるらしかった。
 聞いただけでも大変な労力である。

 正直、そこまで苦労してまで二人が会話する必要があるとは思えない。
 別に仲違いをする理由もないが、特に親しくなる必要もない。
 それなのに、二人は仲が非常に良い。
 会話一つ、こんなに面倒だというのに。
 常々そう思いながらも、澪はみさきを見つけると駆け寄っていって袖口を軽く引っ張るように掴んで挨拶をする。
 みさきもそんな澪にいつも笑顔を向けながら、彼女の取るコミュニケーションを受け入れる。
 そして口に出す会話ならばほんの数秒で終わる程度のどうでもいい話題を、二人はその特殊な方法で交わす。
 その不便さをハンディ、もしくは引け目として会話する事自体を躊躇う素振りを二人は一度も見せた事はなかった。
 わずらわしいと感じたりしないのだろうか。
 端で見ているとじれったくなるほどのまどろっこしさだと言うのに。
 その甲斐があってかだかどうだかは知らないが、簡単な意思通達に関しては雰囲気だけで察することができるのだという。
 みさきのカンが良かったり、澪に単純なところがあるのだとしても大したものだ。

 わたしは、そんな二人を凄いと思う。
 わたしには、真似のできそうもないことだから。
 高校の頃に知り合った澪もそうだが、みさきは彼女が視力を失ってから一度も障害を言い訳にしたり逃げに使ったことがない。
 彼女は自分ができると思う事は、危険なことでもなんでもやろうとする。
 見ているこっちがハラハラすることは珍しくない。
 それで失敗しても明るく笑うだけの彼女は本当に凄いと思う。
 ただ、やりたくないことは極力やろうとしなかったけれども。
 だからこそわたしも、彼女の障害を理由に特別扱いをしないように心がけている。
 わたしにはせいぜい、その程度しかできなかった。
 目の見えない彼女の本当の気持ちがわたしにはわからないから。
 そんな言い訳を胸に抱えながら。


 わたしたちは高校を卒業し、それぞれ違う道を歩んだが関係が変わることはなかった。直接会う機会は減ったものの、電話をしたりと交流は続いている。
 わたしは高校の頃から本格的に興味を持った演劇の選んで、大学に進学した。
 まだ殆ど何も上手く行っていない日々だけれども、それなりに充実した毎日を送っている。
 サークルの中や、アルバイト先での付き合いも増えた。
 少しは大人になったのだと、思う。
 子供の頃に自分が思っていた大学生というイメージぐらいには。
 新しく付き合う関係が増えた結果、今までの付き合ってきた関係は減ってくる。
 今日、みさきに会うのはかなり久しぶりだ。
 電話でも、ここ数日はわたしの都合で連絡を取り合っていなかったので、かなり久 方ぶりという印象がある。
 こうして外で会うのは何ヶ月ぶりだろうか。

 そんなことを考えながら、ファーストフードの入り口付近のテラスの席に座ってアイスティーを飲んでいると、通りの向こうから待ち人がやってくるのが判った。
 走っている彼女を見ると、思わず舌打ちしたくなる。
 いくら走るのが得意とはいえ、いくら近所であるこの辺りの道を記憶しきっているとはいえ、通行人もいる歩道でわざわざ走らなくていいだろう。
 歩くだけでも危ないのにも関わらずだ。
 恐らく迷惑そうに彼女を避ける人たちは、音楽と共に切り替わった信号の横断歩道を小走りでやってくる彼女の目が見えないなどとは知らないだろう。
 わたしだって、知らなければ気づかないに違いない。
 そんな危険をわざわざ冒す必要がどこにあるというのだ。
 何度も口を酸っぱくして注意したのにちっとも変わらない。
 彼女が言うには一応気をつけているのだが、忘れてしまうのだそうだ。
 急いでいると忘れてしまうのでは全く意味がない。
 そう怒鳴ると「ほら、よくいるでしょ? 自転車で手放し運転する人……その人と同じ心理だよ」とちっとも気をつけているとは思えない弁明をしてきたりする。
 全く以って困ったやつである。

「雪ちゃんごめん、待った?」
 そんなわたしの思いも知らず、みさきは軽く息を切らせながら店に入ってきた。
 わたしは、みさきに声をかけて自分の席に誘導する。
「ごめんね。ちょっと遅れちゃって急いできたんだけど……遅刻しちゃったかな」
「いいのよ。それより落ちつきなさいって」
「うん」
 無邪気な笑顔を向けるみさきは、相変わらず普通の格好をしている。
 その手には何も持っていない。
 本来、彼女の様な立場の人間が持っているようなものを何一つとして身につけていない。
 みさきはいつもこうだ。
 人から目の見えない人間と見られるのが嫌なのかと思うと、そうではない。
 初対面の相手に対して自分を紹介する時は、隠すことなく自分の目の話をする。
 そのことに対して相手側の様々な異なる反応に対しても、あまり興味を持った様子はない。堂々というよりは淡々としている。
 彼女にとって自分がどう見られているかはあまり重要なことではないようだ。
「何か頼む?」
「うん。えーと……」
「新製品はないけど、季節限定なら今は……」
 基礎メニューは言う必要がないので、特別メニューだけ教えていく。
 その後、みさきが頼んだものをわたしが代わりに注文しに行く。
 これが一人分の食事とは誰も思わないだろう。
 注文を受けた店員も持ち帰りではないと知ると不思議そうな表情を浮かべていた。
 トレイの上にハンバーガーが次々と重ねられていく様を見ながら、溜息をつく。
 もう今更なぐらいにいつものこととは言え、慣れたくない。
 おかげでみさきと食事をする時はわたしはいつだって少食だ。
 その分、少し奢ったりしてしまうので出費はいつもと変わらないかそれ以上だったりするので、ダイエットぐらいにしか役には立たない。
「それで今日はどこに行こうか」
 みさきは大食いの上に早食いだ。
 人がハンバーガーを一つ齧り、飲み物の容器を取る時には二つ目のハンバーガーの包みを開いている。
 その割には忙しなく食べている訳でもなく、食べ方も汚くない。
 慣れていないと、食べ物が勝手に消えているような錯覚を起こすぐらいだ。
「そうねぇ、時間があったら演劇でも見ようかとも思ったけど……みさきが興味ないなら買い物だけにしておこうかしら」
「演劇ってどんなの?」
 話しながらも、彼女の食べる手は止まらない。
 かと言って、口に含んだまま話す事もない。
 そして確実に目の前の食べ物は減っている。
「先輩の知り合いがやっている劇団のチケット貰ったんだけど、『烏に飛ぶことを教えた少女』とかいう公演らしいわよ。内容は見てのお楽しみってやつ」
 アレンジにもよるが、台詞回しだけでも十分に楽しめるコミカル調の劇の筈だ。
 これならみさきでも楽しめるだろうと誘われた時に思っていたが、敢えて内容についての話はしないでみさきの反応を待つ。
「ふーん……」
 彼女はそのくすむことなく澄んだ瞳を、わたしに無造作に向けてくる。
 吸い込まれそうな色をたたえるその目が、もう何も映し出すことがないということに誰が信じられるだろうか。
 もしかしたら見えているのではないだろうかという錯覚を覚える。
 彼女の家族以外では恐らく、誰よりも長く、誰よりも詳しく彼女を知っているはずのこのわたしでさえも。
 それぐらいに、みさきは確りしている。
 そう、見せている。
「……」
 それは見え透いた虚勢だった筈だ。
 自分と周りを誤魔化していた筈だ。
 みさきはいつの間に、こんなに平然とした表情が上手くなったんだろう。
 どんなことに対しても、何でもないような顔をできるようになったんだろう。
「あれ……みさき、その手」
「え?」
 わたしの言葉に、みさきは慌てて両手で掴んでいたハンバーガーを手放し、テーブルの下に引っ込める。
 が、もう遅い。
「どうしたのよ」
「なんでもないよ」
「みさき」
 幾分、語調を強める。
「うー……」
「……」
「……」
 暫くの沈黙の後で折れたようにしぶしぶ差し出されたみさきの右手の甲の一箇所が赤く腫れて、水ぶくれが出来ている。
 紛れもなく火傷の跡だ。
「それ、どうしたのよ」
「ここに来る途中に、ちょっとね」
 みさきの返答にカッとなって半腰になる。
「ちょっと何よ。誰にやられたのよ!」
「ゆ、雪ちゃん。声が大きいよ」
「あ……ご、御免なさい」
 周りからの視線に気付き、幾分平静になってから座り直す。
「それで、どういうことなの」
 内心の苛立ちは納まらなかったけれども、声だけは平常に戻して訊ねる。
「誰かにやられたってわけじゃないよ。事故だから」
「事故?」
「…うん、ちょっとひどいよね」
 ここに来る途中、サラリーマンの持っていたタバコに偶然甲が触れてしまって火傷したのだと説明を受ける。
 どこぞのクズにみさきの目が見えないことをいいことに、根性焼きでもさせられたのかと一瞬思ったけれども、そうではなかったらしい。
 幸い、そんなケースはわたしが知る限りではなかったが、最近は自分よりも弱者とわかるとなんでもしてくるクズがいくらでもいる嫌な世の中だ。
 可能性は低いとはいえ、そんな最悪なケースではなかったことには安堵する。
「でも、みさき。ひどいよねって他人事みたいに……」
 同時に、改めて頭にかーっと血が上るのが判った。
 そいつがしていたのは間違いなく、歩きタバコだ。
 別にみさきでなくても、歩行者の誰もが被害者になる恐れがある。特に子供などは身長差からしても、行動からしても相当危険だったりする。
 火のついたタバコを持った手を、ブラブラさせて歩いているヤツは残らず死んでしまえという激しい感情が膨らむ。
 そんなことを罵っても仕方がないし、何よりもみさきは困った顔をするだけだろうと思ったので、ゆっくりとアイスティーに口をつけて気持ちを無理矢理落ち着かせる。
「みさきも、ちっちゃい子みたいにフラフラ歩いていたんでしょう」
「フラフラなんかしてないよ〜」
 最後は走っていたやつが何を言う。

 みさきは逞しくなったと思う。
 過去の記憶に加護されていた高校時代までの彼女は、外ではこうして笑えることは決してなかった。
 第一、こうして外を出歩くこと自体なかった。
 病院通いでさえも拒むほどに、目が見えた頃に行った事のない場所、自分が覚えていない場所に踏み込む事を極度に拒んでいた。
 遊び場として過ごした高校の敷地、そしてそのすぐ側の自分の家、そこまでの距離の道、そこだけがみさきの活動範囲内だった。
 彼女は積極的に見えて、実はかなり消極的だった。
 自分の知っている世界にだけ、しがみついていた。

 高校の敷地は彼女にとってのつかの間の王国だったと思う。
 高校から彼女の家までが彼女の世界だったから。
 彼女があそこを誰よりも知り尽くしていて、誰よりも多く足を踏み入れた場所。
 彼女が何の不安もなく歩き回れる唯一の場所。

 その場所をなくしてしまうことを、みさきは怖れていたと思う。
 三年になって進学先のことを意識するような時期になってからは時折、不安と悲しみの混ざったような情緒不安定の表情を見せていた。
 わたしができることと言えば、そんな彼女を日常の中に引っ張り込んで接しさせることぐらいだった。
 彼女が唯一、安らげる高校生活という狭い日常。
 わたしは彼女の腕を引っ張って、外の世界に目を向けさせる事は出来なかった。
 負い目、だったのかも知れない。
 彼女が一言、目の見えない自分の気持ちなんか目の見えることが当たり前のわたしには解らない、そう言われたらそこで終わってしまうから。
 わたしはきっと何も言い返せないだろうから。
 それを怖れて、踏みこめないでいたのだと思う。
 一番の親友というのも、他の人よりも普通に接すると言うだけの話だ。
 彼女の一番の良き理解者なんかにはわたしはなれていない。
 せいぜい、他人事だからできるという同情の類を向けることだけはしないでいられた程度のことだ。
 彼女から求められない限り、自分から手を差し伸べる勇気もない程度の友達。
 不甲斐無いと自分を苛む事も、仕方がないと開き直る事も自分には我慢できない。
 だから考えないようにするしかない。

 卒業してからもわたしには今まで通り、彼女との友達という不明瞭な位置を取り続けることしかできなかった。
 彼女が心の底からわたしとの付き合いを望まなくなるその時まで、電話をしたりこういう形で会える機会には会ったり、一緒に遊んだりする程度の関係を続けていきたいと思っていた。
 それがいいことかどうかは考えなかった。
 散々考え尽くしたから。
 恐らくみさきが家に閉じ篭りの生活を続けていたとしても、わたしは今のように接し続けていただろう。
みさきが指定したこのファーストフードではなく、彼女の家の中あたりでもう少し違った、幅の狭い雑談をしていただろう。
 その時に出来るのは今のわたしの話と、昔の思い出話ぐらいだろうか。
 きっとわたしは気まずくならないように気を使って話したりするのだろう。
 そしてそれは、みさきが今のように逞しくなることがなければ、実現してしまった現在だったと思う。


「それじゃあ、そろそろ行こう」
「ええ」
 みさきが勢い良く立ちあがるのに苦笑しながら、わたしはトレイの上の大量のゴミを片付けてから後に続く。
 馬鹿みたいな晴天から降り注ぐ太陽光が、みさきとわたしを照らす。
「暖かいね」
「そうね。いい天気よね」
 一人で歩きまわるぐらいだ。
 隣に並ぶだけで、決してわたしに頼ろうとしない。
 流石にそこまでは聞いた事はないが、わたしと腕を組んで歩くぐらいなら歩道に躓いて転ぶ方を選ぶのではないだろうか。
 強情、なんだろう。きっと。
 けれども、そうは思えないのがみさきらしいというか、わたしらしいと言うか。
 ちょっと可笑しい。
 わたしはせいぜい、隣を歩いて彼女がぶつかったり躓いたりしないように注意を払うぐらいしかない。
 そのぐらいが、わたしには丁度良い距離なのかも知れない。
 まさかみさきがそこまで気を使ってということはないだろうがそんな風にまで勘繰ってしまう。
Excuse me
「え……」
 わたしがそんなことを考えていると、背後からフト呼びかけられた。
「はい?」
 わたしたちが振り向くと、地味な格好をした中年の男が立っている。
 背格好はそれほど大きくなく、髪も黒いけれど顔を見る限りどう見ても中南米かそこらあたりの男は、わたしたちが返事をしたと受け止めて訊ねてくる。
Excuse me, could you tell me where the train station is ?
「え、ええと……」
Well, go straight up this street and turn rifht at second corner, It's on the left.
 わたしが返事に詰まると、直ぐ横のみさきの口から流暢な英語が発音される。
Oh, thank you very much!
You're welcome.
 軽く礼を言ってから離れていった男を二人で見送ると、彼に手を振っていたみさきの方を思わず眺める。吃驚した。
「みさき、あんた凄いのね」
「え…… えへへ、そんなことないよ」
 わたしの感嘆の声に、みさきは一瞬キョトンとした顔をしてからすぐに照れた表情になる。
「さっきの人、英語の発音が丁寧だったから判りやすかったし〜」
「みさき、もしかしてヒヤリングとか得意?」
「得意……っていうのかな。うーん」
 人差し指を口元に当てて軽く考える仕草は昔のままだ。
 こういう仕草をした後のみさきはいつも笑顔を向ける。
 そして今回も同様だった。
「でも、雪ちゃんだって答えられたと思うよ。大学生なんだし」
「う…」
「?」
 確かに大学の演劇部に籍は置いているし、外国語は第二外国語でイタリア語まで学んでいて共に成績もそんなには悪くはない。
 けれども、さっきの会話でみさきのように流暢に返事が出来たかと言えば別だ。
 動揺して、最初の言葉さえ聞き取れなかったのだから。
 時間をかければわたしも理解できたとは思うが、会話をすること自体慣れていなかったし、みさきのようにすぐに相手の求める返事ができたかどうかは怪しいという結論がすぐにでる。
「あ、でもみさきって……昔から、誰とも話すのに物怖じしないわよね」
「そうかなー」
 悔しいので話をそう逸らすと、みさきもすぐに乗ってくれた。
「そうよ。知らない人でも平気で長話できるじゃない」
「それは……人と話すことが好きだからだよ」
「あ、ごめん」
「ううん」
 みさきの一瞬の間に入る言葉が想像できたので、慌てて謝った。


 目が見えないから
――相手を知ろうとすれば、話すしか手段がない。


「言葉と言葉を交わして、それで相手に自分を知ってもらって、その上で自分も相手のことを解るようにするからね」
 だから会話も長くなるんだよとみさきは笑う。
 わたしは笑えなかったけど、無理に笑った。
「ところで……雪ちゃん」
「何?」
「駅の方向って本当にあれで合ってたっけ?」
「……」
「……」
 暫く、思考が凍った。
「……え?」
「え、えっとね。よく考えたら私、現在位置本当に正しく把握しているかちょっと自信がなくて」
「あんなにあっさり答えておいて今更言うのか」
 思わず拳骨でとぼけた事を言う彼女の両こめかみを押さえつけ、じゃれ合う格好になった。
「あ、あはは……その、普段ならこの辺は大体自信あるんだけど、今日は雪ちゃんと一緒だから」
 わたしの攻撃を逃れつつ、彼女は抗弁する。
「……」
「随分喋ってからね」
「そんだったら一言わたしに聞きなさいよ」
 ペロっと舌をだすみさきにわたしはわざと呆れたような声をぶつけるが、
「えへへ、ちょっと雪ちゃんを吃驚させたくって」
 微笑むみさきには通用しなかった。
「早く行こう、舞台始まっちゃうよ」
「ええ……ってみさき、どこにあるか分かってるの」
 駆け出す彼女を慌てて呼び止める。
「あ……あはは、ほら、雪ちゃんも早く」
「……もう」
 改めて思う。
 みさきは変わった。
 と。


 二人で舞台を鑑賞して、楽屋で先輩に挨拶をして、それからお茶をして買い物をして、そのまま夕食をして帰宅する。
 みさきの両親からはあまり甘やかさないようにと言われていたが、夕食代もワリカンで支払うことにした。
 幸い財布にも余裕がある。
 なければ最初からみさきを誘ったりはしない。
 経済面での覚悟がなければ彼女と食事をするのは止めた方がいい。
「御免ね、随分とご馳走になっちゃって」
「いいのよ。本格イタリアンにしては激安に入るぐらいだから」
 上機嫌で手をカクンカクンと縦に振る。
 手首のスナップの利き具合がイマイチ気に食わなくて、二三度しつこいぐらいに振ってみせる。慣れない動きをしたせいか少し手首が痛い。
「雪ちゃん、わたし見て喋ってる?」
「あら?」
 振り返ると、みさきは後ろにいた。
「やっぱり飲み過ぎじゃない」
「まさか。あれぐらいで、おっととと」
「雪ちゃ〜ん」
 イタリアワインを何本かあけたけれどもそんなに酔った気はしない。
 機嫌は悪くないし、気分もいい。だから酔っていない。はず。
「もう……しょうがないなぁ、雪ちゃんは」
「なによそれ、まるでわたしが迷惑かけてるみたいじゃない」
「違うの?」
「どこがよ?」
 みさきがわたしの身体を支えているのは、暗くなってみさきの視界が心配だから身体を貸してあげているのであって、決してわたしが真っ直ぐに歩けないからじゃないと胸を張って主張する。
「わたしには暗さは関係ないよ」
 あ、口に出してた。
「それよりも本当にちゃんと歩けてるかな」
 流石のみさきもわたしを相手しながらでは地理に自信がないらしい。
 やっぱりみさきにはわたしがついていないと。
「変なところで威張ってるし〜」
 また声に出していたようだった。
 どうも口が軽い。
「……言葉通りよ」
「誰の真似? それに使いどころ間違ってるよ」
 もう、さっきからうるさいなぁ。
「少し休もうか」
 それがいい。
 みさきとわたしは歩道の隅に寄って立ち止まった。
「やっぱり飲み過ぎだよ」
「みさきがお酒は飲まないから」
「雪ちゃんが勝手にわたしの分って頼んだんじゃない」
 無理強いは良くないんだよ〜と言うみさきを見つつ、わたしは大きく深呼吸した。
 冷たい空気が火照った体を冷まして喉の奥、肺の中まで染みわたるようで気持ちがいい。
「酔っちゃうと方向感覚掴めなくなっちゃうし」
「それもそっか」
 わかっていた筈なのに何故か納得するような気分になった。
 忘れていたようだ。
「でも雪ちゃんこそ、お酒飲むなんて珍しいんじゃない」
「そうかな」
「うん。少なくても私は初めて見たよ」
「方向感覚、掴めなくなっちゃうからね」
 だから今までは飲まなかった。
「ふうん。じゃあ今日は特別?」
「特別、かしら」
「今、どの辺かな?」
 わたしの答えにみさきは何故か困ったような顔をして、急に話題を変えてきた。
「うーんと、ああ。この辺よ。行くときに外国人と会ったじゃない。そこら辺」
 軽く見回して確認する。多分、間違いないだろう。
「じゃあ合ってるんだ」
 ブロック塀を触りながらそう言って、もうここからなら雪ちゃんを送り届けてから帰ることも可能だよと胸を叩く。お姉さんに任せなさいと言わんばかりの態度だ。
 実際、それは凄いと思う。
「……みさきはいつからそうなったわけ?」
「え? あ、うん。ずっと町内は歩き回って道覚えたから」
「うーん、そうじゃなくて……まあいいわ」
「え?」
「あのさ、みさきはさあ」
「うん」
「どうして変われたの?」
「え?」
 酔いのせいか、言葉が思いつかない。
「昔は、卒業するの怖がってたでしょ」
「卒業……って高校のこと?」
「他にどこがあるのよ」
「前振りもなく言われてもわからないよ」
 親友なら察してほしいものだ。
 わたしがツーと言えば、
「言えば……なんだっけ?」
 ちょぴり酔っているかも知れない。
 簡単な言葉が出てこない。
「雪ちゃん、本当に大丈夫?」
「平気平気。で、どうなの?」
「え、えっと……」
「三年の終わりぐらいからよね」
「あー、う、うん」
 今度は通じたらしい。
「あ、カーだ。うん、カー」
「へ?」
「あ、独り言」
「……」
 良かった。まだそんなには酔ってない。
 みさきの表情がまた一瞬、困ったものを見るような風になっていたが。
「正直に言うとね」
「うん」
「わたし、みさきが高校出たらずっと引き篭もるんじゃないかって思ってた」
「……」
「学校と家以外には出歩こうとしてなかったし、確か病院ですら通ってなかったでしょ?」
「うん。あの頃はね」
 子供の頃、みさきの両親からもわたしから病院通いを勧めて欲しいと一度だけ頼まれたことがある。結局、言い出せなかったけれど。
「今は病院にも通いだした。それどころかこうして毎日のように街中を徘徊して……驚いてたんだ」
「前の私じゃ考えられなかったってことかな?」
「そんなとこ」
「うー、雪ちゃんにはそんな風に見られてたんだ」
「そう。で、何かきっかけがあったんでしょ? わたしとしてはそれが知りたいかな って思ったの」
「知りたい……え、雪ちゃんが?」
 ちょっと驚いたような顔をするみさきを見ると腹立たしくなった。
 みさきに対してではなく、自分に対して。
 察知した。

 みさきも知っていたんだ。
 私がみさきに対して踏み込んだことがないことを。
 常に距離を作った親友であったことを。

「……」
 見透かされていたのだと自分にムカムカしてきた。
「今更、かも知れないけどね」
 だからそう自嘲の言葉が出る。
 何に対しての今更なのかも良く判らない位に曖昧な言葉。
「ううん。そんなことないよ」
 その嬉しそうな顔は本当なのか。
 わたしに対する配慮なのか。
「……」
 もっと酔っていれば良かったと思う。
 こんなことを考えずにすむから。
 気づかれないように心の中だけで軽くため息をつく。
「えっとね」
「ええ、なになに」
 酔ったふりをして興味津々の表情を作る。
 少し泣きそうになるのを笑顔で堪えた。
 声で気づかれないようにするには声だけ誤魔化しても気づかれる。
 だからわたしは笑顔を向ける。
 これ以上、惨めにはならないようにと。
「浩平君のお陰、かな」
 わたしの笑顔に笑顔でみさきは笑顔で応えた。
 彼女にとって深い言葉を添えて。

 コウヘイクン
 そう言われてみればそうだったかも知れない。
 みさきの口からこの単語が出るようになってからだ。
 みさきが、今のみさきになれたのは。
 わたしの知る限り、みさきの知り合いでコウヘイクンなる人物はいない。
 みさきがコウヘイクンという存在について話し出したのは、卒業式が終わった後のことだった。
 みさきはコウヘイクンはわたしや澪とも知り合いのような聞き方をしてきて、随分とわたしも澪も戸惑った記憶がある。
 今では何か諦めたようで、わたしに対しては今のようにその人の話題を時折紹介するような話し方になっていた。
 例えコウヘイクンが彼女が作り出した妄想の中の住人であったとしても、わたしは彼に感謝したいと思う。
 辛く苦しい、悲鳴すらあげられない生活を送ってきた彼女を救っただろう救世主コウヘイクン。
 わたしにはできなかった外の世界へ、こんなにも広い世界へとみさきの手を引っ張って連れ出してくれたのだから。

「でね、でね」
 彼女が語るには、全てのきっかけがコウヘイクンとのデートだったのだそうだ。
 初めは訝しげに聞いていた話も、繰り返される内に微笑ましいものになっていった。
 みさきにとっての大恩人であるコウヘイクンはわたしにとっても大恩人だ。
 みさきが信じているのなら、わたしも信じようと思う。
 彼の存在を。
 実際がどうであれ、みさきの心にはコウヘイクンが実在し、彼によって今のみさきがあるのだろうから。
「だから、せめてこの町の中ぐらいは把握しきって自由に歩けるぐらいになりたいんだ」
 そして再会した時に驚かせてあげるんだと笑いながら話す、みさきにわたしも相槌を打つ。
「そっか」
 みんな彼のおかげか。
 嬉しい反面、少し寂しい。
「あ、でもでも雪ちゃんにも感謝してるんだよ」
「何慌ててるのよ」
 わたしの内心を見透かされたようでドキっとする。
「死にたいって気持ちを完全に無くしてくれたのは雪ちゃんのおかげだもん」
「な、なによ。いきなり」
 いきなり物騒な話になって戸惑う。
「この世界がいいって思えるのは雪ちゃんがいてくれたからだから」
「わ、わたしが?」
「うん。もし雪ちゃんがいなかったら私は目が見えなくなった後は違う世界を生きなくちゃいけなくなっていたと思う」
「……」
 急にそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「ずっと変わらずに接してくれた雪ちゃんのお陰だよ」
「そうかしら? ただ他の人よりも無神経なだけかもよ」
 意地悪口を叩こうと言葉を捜す。
「そんなことないよ、実はあの時のドラマの最終回、私知ってるんだよ」
「え」
 思わず酔いが覚めかける。
「ドラマって……」
 昔、みさきが毎週欠かさず見ていたドラマがあった。
 あの当時は友達達と1話見終わる度に、続きはどうなるんだろうって話して1週間過ごしていたほどの話題のドラマだった。
 その最終回を目前に、みさきは事故に遭い失明した。
 彼女が最終回の放送を楽しみにしていたのは知っていたから、彼女の失明が明らかになってからはわたしは一度もそのドラマの話はしなかった。
 別に内容はどうでも良かった。
 話としては意外と冴えなかったような記憶がある。
 けど、みさきは見ることができなかった。
 それを知った以上、その話をするつもりはなかった。
「雪ちゃんは意識して話題にしようとしなかったけど」
「知ってたんだ」

 演技、下手だったのかな。
 もっと上手く笑えたらな。
 もっとさり気なくできたらな。
 もっと自然に振舞えたならな。

「気を使って貰ってるって気づいちゃったからね」
「そっか」
 そうできたなら、もう少し上手くみさきと付き合えたかもしれないと思ってた。
 下手な装飾をすることで壊れることを恐れて、寄らず触らずをしないで済んだかもしれない、と。
 無論、全ては言い訳だ。
 ろくに何も出来なかった自分に対しての。
「きっと雪ちゃんのことだから私が「大丈夫、もう何とも無いよ」って言っても信じてくれないと思ったし」
「強がっているように見えたから、ね」
「ちょっとは強がってたもん」
「そっか」
「うん」
「……」
 これで良かったのか、今はよくわからない。
「でもね、強がってはいたけど嬉しかったな」
「そう?」
「うん。皆労わってくれたのに、雪ちゃん1人だけ変わらないんだもん」
 まだまだ、わたしは未熟だ。
 悔しいけれど。
「少なくてもそう接してくれたもん」
「それほど意図していた訳じゃないんだけどね」
 臆病だっただけで。
「ごめんね、変な話しちゃったね」
「ううん。わたしから切り出した話だし……ありがとう、みさき」
 もう少しアルコールを摂取したかった。
 家に帰ったら冷蔵庫の缶ビールを開けよう。
「わ、どうしたの? 雪ちゃん」
 やっぱりみさきは驚いた顔。
 その顔が憎たらしく感じたことにに非はないだろう。
 制裁の時間だ。
「え……わ、わわっ やっぱり雪ちゃん酔ってる〜」
「今頃気づいたか。ホラ!、ホラ!」
「わ〜」
 冷えた手をみさきの襟や服の隙間へと入れる。
 暖かい肌が気持ちがいい。
「ゆ、雪ちゃん。タイム、タイム!」
 そう言われても暫くは手加減をするつもりはない。
 わたしの照れが納まるまでは。
「冷たい、冷たいってばぁ……」
 暫くの間、笑いながら悲鳴をあげるみさきを責め続けた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「ふぅ……、ふぅ……」
 白い息が上がる。
 随分暴れてしまった。
「なんかこうやってじゃれあうのって久々だよね」
「そうだったかしら」
 酸素が頭に供給しきれていない状態だったのでいい加減に返事をする。
「うん。雪ちゃんからここまで容赦手加減なく謂れのない理不尽かつ悪辣な暴力を奮われたのは随分懐かしい気がするよ」
「酷い言われようね」
 はたいてやろうかとも思ったが、みさきの方に身体を動かすのも億劫だった。
 その場にへたり込んだまま、息を整える。
「あはは」
「何が可笑しいの?」
「何か、こういうのもいいなって」
「そう?」
「うん」
 もう大丈夫。
 みさきはそう言っているように見えた。
 もちろん、わたしの思い込みだ。
 わたしがみさきに対して、もう大丈夫だと気づいたに過ぎないのだから。
 そう、わたしが「もう」、だ。
 戻っても大丈夫。
 昔ながらのみさきとの付き合いに。
 気兼ねなく過ごせる昔の付き合いに。
 気遣わないという演技を挟むことなく、思うが侭の付き合いに。
「そろそろ帰ろうか?」
「うん。そうだね」
「ホラ、じゃあ捕まって……」
 先に立ち上がって、座り込んでいたみさきに手を差し出した。
 素直に差し出すことのできた自分の手。
 労わりから差し出す手でもなければ、気遣いで出せないでいた手でもない、素直な気持ちを出すことができた。
 これが、わたしのみさきへの気持ち。
 そしてみさきは顔をあげ、当たり前のようにわたしに笑顔を向けた。
 気配でわかるのだろう、みさきは迷うことなくわたしの手を掴んだ。
 これが、みさきのわたしへの気持…


「えいっ!」
「きゃっ!?」
 その瞬間、腕を引かれた。


「み、みさき〜」
「仕返しー」
 笑いながら駆けて行く。
「ちょっと、前向いて走りないさいっ……というか走るな! 危ないから!!」
 ダッシュと言うよりは小走りに近い。
 走っていくというよりも距離を取っただけのようだ。
 すぐに立ち止まってわたしが追ってくるのを待っていた。


 一番の親友である筈のみさきとでもあった距離。
 この距離をわたしは自分から詰めることは遂にできなかった。
 今のみさきがあるのは彼女との距離を詰めたコウヘイクンのお陰だろう。
 わたしはコウヘイクンのようにはなれないだろうけど、わたしは今から自分のやり方で詰めていく。
 開けっ広げではなく本音と演技を使い分け、それなりに、着実に。


「待ちなさいっ!」


 わたしは、みさきに向かって駆け出した。



                           <完>



written by 久々野 彰