『空を見上げて』
「く、くぅぅぅ〜〜〜〜」 キーボードを叩き、ディスプレイを眺めるという地獄からようやく開放されたのを確認し、自分の中で溜まったものを追い出すように大きく目一杯腕を伸ばして背伸びをする。 その前にちゃんと保存ボタンを押してあるので、このパソコンが壊れない限りはもう問題は無い。 以前こうして背伸びをしようとして腕をぶつけてしまい、そのまま画面が固まってしまってやり直す羽目になった教訓はそれなりに生きている。 そんなことを思いながら改めて自分の席を見る。 所狭しと物が雑多に積み重ねられている机の中心に、この目障りなパソコンが置いてあって落ちつかない。 私がまだ学生だった頃はこの手のものは全て手書きのみで済ませられた筈だ。 慣れの問題なのかもしれないが、私には手書きの方がずっと楽だと感じているので、こうした作業は苦痛でしかない。 背伸びと共に首を左右に振って骨を鳴らす。思った以上に大きな音がした。 肩もだいぶ凝っているのか、重くだるい感触が首筋の奥から肩の内側までを支配している。 マッサージとまではいかなくても、肩ぐらい誰かに揉んで貰いたい。 勿論、そうしてくれる相手などいないので、自分の親指の腹を使って一番凝っている場所を強く押すことで、我慢する。 「ん、ん〜〜〜っ」 焼石に水ではあるのだが、やらないよりはマシな程度の感触が身体の奥に届く。 二度、三度、四度、五度……と揉んだところで手を下ろす。 これ以上やっても効果は上がらないし、指も疲れる。 もう一方の手で反対側の肩のツボを同じ様に数度押し、椅子から立ち上がるその瞬間に腰に軽い痛みが走る。 「………」 しかめっ面になるのを我慢して、自分では颯爽としたつもりで席を離れた。 この時間の職員室には数えるほどしか人がいない。 その内一人の方に足を向ける。 「あ、美坂先生はもう終わったんですか?」 私が来たことに気づいて、彼が顔を上げる。 「名倉先生もテスト採点ですか」 「ええ。点数をいちいち打っていくのがまた面倒で……」 「本当ですね」 彼の手元を見ると、私と同じ様に彼の受け持ちのクラスの名簿が開いてある。 一度手作業で採点を済ませた後、その結果を改めて点数だけ一つ一つ打ち込んでいかなくてはならない。はっきり言って二度手間だし、こうしてデータとして別に取った所で何か便利になるとも思えなかった。今まで手作業で作って問題の無かった作業だし、それなら一度の手間で済む。 文明の末端として、こんな理不尽で割に合わないことを押し付けられている現状でいいのだろうか。 「いやえ、長時間こうしていると目も疲れますし、腰もねぇ……」 「名倉先生はまだ若いじゃないですか」 こいつはまだ、二十台半ばだ。 舌打ちしたくなるのを我慢してより一層の笑顔を作って見せた。 無差別な僻みはみっともない。 「いやいや、そういう美坂先生だって……」 「名倉先生、一本戴きますね」 最初から私の目は卓上の無造作にプリントやら教科書やらが重ねられた山の上に乗っていた、タバコとライターに注がれていた。 こいつとの会話はこれを手にするまでのきっかけに過ぎない。 「あれ、美坂先生。禁煙されていたんじゃありませんか?」 「情報が古いですね。それはもう一ヶ月近く前の話ですよ」 「え。あ、そうでしたか……」 愚鈍な声を無視して手にした彼のタバコの箱から一本引き抜くと、ポケットから取り出したライターで火をつける。 禁煙したわけではなく、銘柄を変えただけだ。 その際に今まで吸っていた銘柄のタバコの吸いかけを箱ごと他の先生にあげただけで、勝手にそう誤解されただけだった。 そんなことをわざわざ説明する気も無いので、黙って一服する。 口の中に慣れ親しんだものを感じ、そして息と共に吐き出す。 この味の方がやっぱり私には合うのかも知れない。 「美坂先生はパソコンの方は――」 目的を果した以上これ以上ここには用は無いので、彼の言葉を無視して自分の席の方へ戻る。特に彼に興味はなく、話しかけられるのも鬱陶しい。 「いえ、全然ダメですわ」 彼には適当にそれだけを答えて、自分の机の前に向き直った。 立ったまま、さっき保存したばかりの僅かなデータを大容量のMOに転送してから電源を落とした。 引き抜いたMOをケースに入れて、校内のサーバーを管理している管理室へと運ばないといけない。 わざわざこんなことをしなくてもと思うが、安全の為とかなんとかでこんな無駄なことをさせられている。 しかしホストコンピューターにはほぼ全てのデータが入っていて、そのホストコンピューターへは私らのパソコンでは無理でも一部のパソコンには繋がっているのだから、セキュリティ云々でのこの処置というのは何か腑に落ちない。 わざわざそんなことを聞くのも面倒だし、聞いたところで改善されるかどうかも怪しいし、何より私自身がどういうものなのかよく理屈がわかっていないので、黙ったままだ。 下手に私の口出しで責任を負わされるようなことになったら面倒だし、第一今の状態で何かあって困るのは私ではない。 「あ、配電室に持っていくんでしたらそれ、僕が持っていきましょうか?」 タバコを灰皿でもみ消し、MOケースを手に職員室を出ようとしていた私にまた彼が声をかけてくる。サーバー管理室と言っても配電室のスペースを使っているだけなので彼のようにそう呼ぶ人も多い。 「名倉先生、いいんですか?」 「ええ、どうせ僕もこれ持って行かないといけないんで構いませんよ」 「それじゃあ、お願いしますね」 再び彼の机の方に寄って、MOケースを手渡す。 「はい、どうぞどうぞ」 それなりに誠実そうな表情をしているだろう彼の顔は見ないで、そのまま私は職員室を殊更、優雅な足取りを作って後にした。 一応遠回りになるから申し出を受けたわけだけれども、どっちにしろ大した手間じゃない。これから屋上に行こうとする方がよっぽど面倒で疲れる。 「全く……」 あんな大して役立っているとも思えないパソコンをずらっと並べるよりもエレベーターかエスカレーターをつけてもらった方がずっと役立つだろうに。 学生の頃と変わりない思考をしている自分に、ちょっと苦笑する。 ただ、 「あの頃はどうせならマッサージチェアでもいいのにとは思わなかったわね」 それなりの月日の経っていることを改めて自覚せざるを得ない。 軽く息を吐いてから、階段を登り始める。 こっちは優雅に登る程の余裕はなかった。 屋上に出ると、風が私を出迎えた。 ドアを開けると同時に飛び込んでくる風圧に前髪を抑える。 学生時代は制服の裾と一体化したスカートの方も抑えなくてはいけなかったが、今は風に巻かれるようなスカートは履かないのでそんな心配はない。 しかし良くもまああんな短いデザインを採用していたものだ。 そんな事を考えながら、屋上の隅のフェンス手前の手すりに寄りかかって―――いつもの場所に立った。 つかの間の一時を私はここで過ごす。 「………」 時は私の気がつかないうちに流れ去っていた。 それでも、この屋上から眺める景色は昔からずっと変わらない。 ―――先生はどうして先生になろうと思ったんですか? 受け持ちの生徒の中にはそう訊ねるものも少なくない。 新卒の頃は若い教師に対する儀礼とただの興味としての気持ちから。 ここ最近では、恐らく私という人間を観察した結果の疑問からだろう。 どっちにしろ真面目に答えた事は無い。 そんな義理もない。 彼等生徒に対して最低限教師としての責務さえ果たしていれば、それでいい。 そうやっていつの間にか私はもう、教師として数年過ごしてきている。 「………」 ここにいると、落ちつく。 こうしてこの景色を見ることも、教師になった理由の一つかも知れない。 教師になって以来、ここに立たない日の方が少ないぐらいだ。 学生の頃に一度だけ見ただけのこの景色に、どうしてこれほどまで惹かれたのかは判らない。 けど、今の私はここに拘っていた。 学校の周りが見える、空が見えるこの場所に。 この学校の学生だった私は、数年を経て教師として戻ってきた。 誰も迎えることのないこの学校に。 学生で果せなかった未練じみた思いがまだ私をこの場所に捉えて動かせない。 そして改めて何をするでもなく、無為に日々を過ごす毎日を続けている。 ただ無駄に歳を取り続けている。 この場所にいても昔を思い出すことも少なくなってきている。 こうして屋上に登って外の景色を眺めている時だけ、嘗ての記憶を思い起こせる。 昔の私のとっての学校は唯一の避難場所だった。 目を背けていられる、忘れていられる唯一の場所。 家に戻れば、嫌でも目に入る存在と避けようの無い事実がすぐそこにあった。 本人がいなくても、家の空気が両親が部屋の作りが、ありとあらゆる何もかも全てが私の妹の存在を顕示し、そしてその妹という存在が消えていくという状況を押し付けられ続けた。 重苦しい空間。 どんなに苦しみ耐え忍ぼうとも、我慢し続けようとも、避ける事ができない。 なくす事ができない。 だったら最初から、初めからないものと思うしかない。 だが、それを否応なく感じさせる家で実行する事は不可能だった。 彼女のいない場所、それが学校という特殊な閉鎖された空間だった。 ここでなら、全てを忘れて思うがままに生きられる。 ここでなら、私は自分のことだけを考えて過ごしていられる。 気兼ねのする事の無い友人たちと、先を恐れる必要の無いその日その日を暮らしていける。 もうその快楽に酔ってからは私にとっての学校は単なる逃げ場としてでなく、生活の中心になっていた。 だからどんなに体調が悪かろうと、休もうと思った事は無い。 事実、休むことなどはなかった。 学校に彼女の影が侵食し、私の唯一の居場所として破綻するまでは。 ―――ただでさえ近づき難いのにそんな婚期を逃す職業をわざわざ選ぶかね、おまえは。 私の就職が決まった時、かつて妹の恋人を自称していたこともある男がそう言って笑ったのを今でも思い出す。 ものの見事にその言葉的中せりだ。 ただ、他の職業に就いていたとして、今頃結婚して子供を産んでいるという自分の姿はどうしても想像できなかったけれど。 全てが終わってみれば、あれで良かったのだと思う。 どんなに目を背けていても、ネバーランドを作ろうとも、結局は問題の解決にはならなかったから。 誰よりも私自身がそれを知っていたから。 もっと気楽で楽天的で物事を浅く考えられる性格だったら違ったかも知れないが、私の性格でそれをするのには限界があった。 結局は最後の子供じみた部分だったのだろう。 私にとっての未成熟な部分。 そしてその大人になりきれないままの部分が、今の私をここに縛り続けている。 あやふやな拘りを持たせてしまっている。 ―――誰も相手にしてくれなかったら貰ってやるよ。 あいつはその言葉はきっと忘れているだろう。 だからそれをネタにしてみるのも良いかもしれない。 笑わせるのが上手いあの男を肴にするのも悪くない。 学生時代、私達の友達だった中に私のことを好きだと言ってくれた男性がいたが、彼ももういない。 妹のことで弱くなっていた私に気付いていた聡さと、そんな私に気遣う優しさを持っていた彼はいい人だったと思う。 けれども、廻り回ってあいつを失った彼女に気付いた聡さと、そんな彼女を放っておけない優しさが災いしたのか、今ではあいつの従姉妹の亭主として納まっていた。 二人はもうこの街にはいない。 彼女の母親だけが、今もまだあの家に残っている。 今では私とあいつだけが、花の独身貴族を誇っている。 無駄に、歳をとった。 心は少しも成長の跡を見せない。 身体ばかりが立派になって、心身に衰退を見せる頃になっても変わり映えしない。 せいぜいあれから変わったことと言えば、タバコを覚えたぐらいだ。 あいつはそんな些細な変化すらなかったが。 私の中のあいつはいつでも歪んだ顔をして笑っていた。 悪意のない、かといって素直でもない顔をわざわざ作って笑う。 私とそっくりな表情をして、あいつはまだこの街にいる。 「………」 口と指が寂しくなってきたので、上着のポケットを探りタバコを取り出した。 こないだ替えたばかりの銘柄だが、まだ慣れていない。 口に咥えるとほぼ同時に、背後の鉄製のドアが開く音がした。 「吸ってもいいかしら?」 振り返ることもなく、そう尋ねる。 「……聞いたって吸うんだろーが」 「一応、ね」 上から彼が校舎に入ってくるのを見ていたので、予想通りの相手にも驚かない。 彼の方も下から私が見えていたのか、私が気付いている事に驚いた様子も無い。 「じゃあ吸うな」 その言葉を聞いてから私はライターで火をつけて、紫煙を燻らせた。 そして振り向きもしないで、ライターをしまった。 「うわ、全然無視かよ」 「今更、気にすること無いでしょう?」 咥えタバコのまま顎を屋上のフェンス手前の手すりに乗せる。 すると風上の方、煙が行かない方の隣に彼が並ぶ。 「俺は気にしなくても、子供たちが嫌がるんでな」 服にヤニがつくと匂いがなかなか取れないんだとしかめっ面を作って答える。 その物腰を、鼻で笑って見せる。 「相沢先生は私と違っておモテになるからね」 「言うなって……」 目の前の彼、相沢君は結局私と似たような、それでも全てが違う道を選んだ。 違うことに気づいているのは、恐らく私と彼だけだろう。 「幼稚園の方はどうなの?」 「ん、まあ無難かな」 彼は今、彼の叔母の紹介する幼稚園の保母を勤めている。 それを聞いたときは激しく笑わせて貰った。 けれど似合わないと思った事はない。 いや、思えば見事に嵌っている適職だとすら思った。 「でも、あの年頃の子供っていいよなぁ、直向に生きてて」 不意に何かを思い出したらしい顔をしながら呟く。 それは今の自分たちへの皮肉だろうか。 彼の言動は時折、私には読めなくなる。 「……香里の子供の頃はどんなだった?」 「………」 無言で数歩距離を取る。 「い、いや変な意味じゃないぞ」 一応不信の目を向ける。 「やっぱりそんな醒めた目をしていたのかとか、鬱陶しい髪型だったのかとかちょっと思ってな」 「余計なお世話よ」 思いっきり冷たい目で見てやったが、否定しないんだなと小声で呟いていたので今度は顔を背けて無視することにする。 先生を泣かせてしまった事はあるけど、そんなにヒネた子ではなかった筈だ。 幼稚園の頃ぐらいは、まだ。 記憶の限りでは。 「ところで香里。灰皿はあるのか?」 「あるわよ」 誕生日祝いにクラスの子達から貰った携帯灰皿を見せる。 先生にピッタリですねと教頭にまでからかわれたが、事実なので足を踏むだけで済ませておいた。 実際、ここ数年の貰い物では唯一と言っていいほど愛用している。 「いやさ、俺もあの頃はあんなんだったかなぁ……って思ってさ」 自分のところの子供たちの話をする彼は妙に可愛い。 照れたような顔をしながら、どこか感心したような顔をする。 そしてその彼は自分の子供の頃の話になるといつも他人事のような溜息を漏らす。 「記憶、戻ってないの?」 まあな、と苦笑い。 彼は子供の頃、この街にいたことがあるらしい。 彼女の従姉妹からその話はずっと昔から聞いていたので間違いない。 下手すると彼自身よりも私の方が知っているかもしれないぐらいに、彼の話はよく聞かされた。 後になって聞いたことだが、彼がある時を境にこの街に来なくなって、その記憶を全て忘れていることについて彼女は、きっと全てを忘れてしまいたいぐらいに悲しい事があったんだよと答えていた。 彼女が彼の事を好きなのは話を聞いた時から分かっていた。いやわからない方がおかしいぐらいだ。 彼を見続け、見守っていた彼女の思いは届く事はなかった。 彼は別の娘――私の妹を見ていたから。 そして、彼はまた悲しみを繰り返した。 たった数ヶ月の知り合いで終わらせることができた筈のあの娘の為に。 そして今度は忘れる事はせず、何故かこの街に留まっていた。 一方で彼女はもう、この街にはいない。 彼を三度待つことに疲れたのか、待つことが無駄だと知ったのか、どちらにせよ彼が彼女の方を向くことはなかっただろうし、向いたときはあまり良い理由からではないだろうから良かったと思う。 今はそんな彼女を支える人も別にいる。 私を支えようと躍起になっていたお人よしが、彼女を放っておけなかったことからの成り行きだ。 無くしてしまったものに拘り続けてしまった私たちだけが、ここに取り残されている。 私のとってはこの街のこの学校で、彼にとってはこの街全てが枷になっている。 心を縛りつける枷に。 「そう言えば相沢君は知ってる?」 「ん?」 花壇の側でゴミ拾いをしている人の動きを上からぼんやり眺めつつ、話しかける。 「この学校で雇っている清掃員さん、あの川澄先輩だったのよ」 「川澄……先輩?」 誰の事だか解っていないような声を上げる彼を見て、意外な気がした。 てっきりすぐ反応してくると思ったのだけれど。 「相沢君は知らなかったっけ?」 「ちょっと聞いた覚えがないなあ……」 二年の途中で転校してきて、尚且つ部活動や委員会活動をしていなかった彼にとってあまり先輩後輩関係は縁がない。 だからピンと来ていないのかもしれない。 「ほら、私たちの一つ上の学年で、夜の学校で窓ガラスを壊して回っていたり降りてくる山犬を追い払ったりとかしていたりして、生徒会から睨まれていた川澄先輩」 「そんな番格な先輩いたかぁ?」 考えるような素振り。 ちょっとじれったい。 「知らないの? 結構有名だったじゃない。停学処分受けたりして卒業も危なかったとかいう川澄舞先輩」 「川澄舞……って女性の先輩かぁ。てっきり番長を想像したぞ」 「いつの時代よ。それに別に見かけは暗そうな人だったし、特にヤンキーなんて感じじゃなかったわよ」 「……あ、ああ! あの先輩か。大人しそうな感じで、いつもお嬢様みたいな人と一緒にいた」 やっと思い出してくれたようだ。例え直接会った事がなくても見たことぐらいはある筈だと思ったので、胸の痞えがおりる。 別に大した話をしているわけでもないのに、こういう気分はなんなんだろう。 短気なつもりはないのだが。 「そうそう。あの先輩、今ウチの清掃用務員やってるのよ」 「へえ……そうなんだ」 自分達以外の卒業生の存在に意外そうな声を漏らす。 この街は、住むにはちょっと辛い街だ。 彼の従姉妹は否定していたけれども。 「今でもたまに夜の校舎を歩いていたりして、当時からいた先生なんかは苦い顔してるって話よ」 流石にもう窓ガラスを割って回る事はしていないらしい。 下で黙々とゴミ拾いをしている彼女の姿を眺めながら、彼女の学生時代を思い出していた。 今の彼女は化粧も全くしていないようで、髪型一つ当時と変わっていない。 私服姿は見たことはないけど、きっとこれも地味で目立たない服しか持ってないに違いない。 「香里は会ったのか?」 「特に知り合いじゃないし。廊下で挨拶ぐらいはしたけれどね」 あの人も多分まだ未婚なんじゃないだろうか。 そう思うと少しだけ心強い。 ちょっと見ただけだけれども容姿は悪くないと思うので、性格に問題があるのかもしれない。 それほど接点があった訳ではないけれど、彼女が笑っているところは学生時代から見たことがない。 いつも彼女の隣にいた倉田先輩はいつでも笑っていた記憶はあるのだけれど。 ひょっとしたら彼女もまだ、この学校に何かを残したままなのだろうか。 欠けたものを埋めるため、ここにいるのだろうか。 「川澄……舞かぁ……」 「どうかしたの?」 気がつくと相沢君は横で彼女の名前を反芻しながら、腑に落ちないような幾分間の抜けたような表情を作っていた。 彼は下にいる彼女には気づいていない。 「ん? いや、いつか昔に聞いた事あるような名前の気がしたんで……」 「じゃあ、会った事でもあるんじゃないの?」 相沢君、忘れっぽい性格みたいだしねと言うと苦笑いで応じてきた。 そうしている間に下では掃除が終わったようで、ゴミ袋を持った彼女は校舎の中に消えていく。 この場所ではもう彼女の姿を捉えることはできない。 「ん――でも学生時代は特にはなかった気がするんだけどな」 「だったらいつか本人にでも聞いてみたら。どうせこれからもサボってここに来るんでしょ?」 今、行けば会えるかも知れない。 そんなことを言うつもりはないが。 「今夜は泊まりだからひと時の休憩だよ」 その子の家の事情で、週に一度泊まりの子の面倒を見ないといけないのだと言う相沢君の顔は歳相応の顔をしている。 どんなに根底は変わらなくても、年は確実に人を変えていく。 「今更だけど……」 「ん?」 「「相沢君」って歳でもないわよね」 そう言って笑う。 同級生という理由からの敬称も今となっては、収まりの悪いものしか残らない。 「だったら変えてくれよ、美坂センセイ」 悪戯っぽく笑う。 こういう表情は昔のまんまだ。 本当に人は相反している。 「でも、今となって変えるのもねぇ……「祐一さん」、とでも呼ぼうかしら?」 「なんか、嫌だな」 「そう?」 似てない物真似に気づいたのか即答だった。 「お前にだけはそう呼ばれたくないって気分だ」 「酷いわね」 吸い終わった吸殻を入れた携帯灰皿をポケットにしまいながら、笑う。 ちょっと風が強くなってきた。 彼が言う処の私の鬱陶しい髪が顔の前に来るのを手で抑える。 「風が強くなってきたな」 軽く身体をブルルと震わせると、相沢君は私の横を離れた。 その薄着では寒いだろう。 「それじゃ、俺はそろそろいくわ」 「ええ、またね」 私も一緒に降りようかと思ったが、躊躇してしまう。 まだ、彼と違って私は自分から彼の隣に歩くほどは回復していないようだった。 彼は私が躊躇った事に気づかなかった振りをして笑いかける。 「今度は、飲みに行こうか」 「そうね、考えておくわ」 誘うのは、近寄ってくるのは、声をかけてくれるのは、いつだって彼の方から。 私はただ、頷くだけ。 不器用とか臆病とか不慣れとかそんなんじゃなくて、ただ遅れているだけ。 経験がなかった分、彼よりもずっと。 私が純真な子供だったら、全てを忘れていたのだろうか。 一度似た経験をしていたのであれば、私は今の彼と同じようになっただろうか。 答えのない問いが、頭を素通りしていった。 「んじゃ……」 彼の姿が階段口のドアの向こうに消える。 このままここに立っていればまた彼の姿を上から覗くことが出来るだろう。 だからこそ、私はフェンス手前の手すりから離れた。 私はまだ、彼には届かない。 本当に取り残されているのは、私一人なのかもしれない。 「……さてと」 腰をポンポンと手の甲で叩く。 そんな仕草を年寄り臭いと言う人間はここにはいない。 それが悔しくて、口の中で舌を鳴らす。 私も帰ろうと階段口のドアノブに手をかけてから、急に気になって空を見上げる。 空だけはどこで見たって変わりはない。 この街に何かをなくしてしまった私たち二人の、それぞれの捜し物は恐らくその向 こうにあるのだろう。 頭では判っているくせに、私は屋上に登るだけでまだロクに踏み出せていない。 タバコを取り出すのも面倒だったので、もう一度舌打ちする。 ただ空を見上げて、空の青さだけを羨んでいた頃に。 空の高さを、調べあげようともしなかった頃に。 私は、取り戻すべくここにいる。 少しでも空に近い、この学校の屋上に。 <完>