『忘れゆく人』  名雪がふらふらとおぼつかない足取りで、サラダ用の白い皿を食器棚から取り出す。  その間に、俺が棚の引き出しから人数分のスプーンとフォークを取り出して、テー ブルに並べる。  いつの間にか、そんな風景が当たり前になっていた。 「できたよ、お母さん」  その声を合図に、秋子さんが皿に昼食を盛りつける。  温かそうな湯気と、鼻腔をくすぐる芳ばしい香りが食欲をかき立てる。  すべての皿に均等に料理が盛られて、いつものように、いつもの食事が始まる。  そう思っていた…。 「祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?」  世間話を始めるように、いつもの口調で秋子さんが俺に話しかける。 「なんですか?」  これもいつものように、俺が問い返す。 「昔、この街に立っていた大きな木のこと」 「…え?」  季節が流れていた。  雪解けの水のように、ゆっくりと、ゆっくりと… 「昔…その木に登って遊んでいた子供が落ちて…  同じような事故が起きるといけないからって、切られたんですけど…  その時に、木の上から落ちた女の子…」  凍った思い出、溶けるように…。 「7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって…」  新しい季節が、動き出すように…。 「その女の子の名前が、たしか…」 「月宮うぐぅ」 「違います」  思わず身を乗り出していた俺は、大きく倒れ込んで危うく椅子ごと後ろに落ちる所 だった。 「あ、そうそう。美坂栞」 「それも違います!」 「倉田一弥」 「秋子さん、それ男の子!!」 「御免なさい、冗談ですよ」  秋子さんは頬に手を当てたまま静かに微笑む。  この人でなければ俺はきっと殴りつけていたに違いない。  不謹慎極まりない……というよりどうしてその名前を。 「地元の名士の家の話ですから」  そうですか。 「…じゃなくて」  俺がそう言うと、秋子さんは微動だにせず口だけ動かして先ほどの科白に戻った。 「その女の子の名前が、たしか…」 「水瀬名雪」 「それはあんたの娘っ!!」  ガタンと思わずテーブルを両手で叩く。 「にゅ?」  カレー皿の上に豪快に顔を押し付けて眠っている名雪が僅かに反応した。  顔はライスの中に埋もれたままだったが。 「私に娘なんかいないわ」 「いるでしょーがっ!! あんたの目の前に!!」  白いカレー皿の上に頭を乗せたまま熟睡している従姉妹を俺は指差す。  横向くことも無く真っ正面から倒れ込んでいるが、窒息したりしないのだろうか。 「じゃあ事故を起こしたのは……私の娘?」 「違うっ!!」 「でも水瀬と……」 「それはあんたが言ってるだけだっ!!」 「でも水瀬みなせ……あら、水瀬……秋子でしたか?」 「じゃあここにいるあんたは誰なんだっ!!」 「さぁ?」 「「さぁ?」じゃないっ!!」 「祐一さん。カレーのお代わりは如何ですか?」 「そうじゃなくて、誰かと言う話でしょうが!!」 「私ですか? 私はええと……」 「だから誰もあんたの名前なんか聞いてないっ!!」 「さっき聞いたじゃないですか?」 「俺が知りたいのはその木から落ちた女の子の話です!!」 「間抜けですね」 「感想は聞いてないっ!!」 「でも話は順序立てて聞かないと……それで?」 「話をはじめたのはあんただっ!!」 「あら、私の名前は「あんた」だったんですね。そうですか……やっと判りました。 それで祐一さん。名字の方は?」 「あ〜の〜ね〜!!」 「「阿野根餡太」ですか……私、変わった名前なんですねぇ」  のほほんと微笑む秋子さんは一見いつもと全く変わりが無い。  が、この腹立たしさは何だろう。  俺が秋子さんに対して、こんな感情を持ったことは今までに一度もなかった。 「恋、ですか?」 「違いますっ!!」  拳でテーブルを叩く。  激しく叩いたので、食器が一瞬浮いてガチャンと大きな音を立てる。 「うぐ」  名雪の頭も一瞬浮いたらしく、ゴンと固い音を立て、呻き声を漏らす。  しかし相変わらず皿の上に頭を乗せたまま寝続けていた。  放射線状にテーブルに広がった髪が邪魔で見えないが、名雪の顔は旨いぞ三分ご飯 と一緒になっていることだろう。 「話を戻して……秋子さん! 貴女は今朝、ニュースを見たんでしょう!?」 「え? 祐一さんまだその時間は寝ていたんじゃ」 「さっきあんたがそう話しかけたんでしょうがっ!!」 「もしかして祐一さん。この家に盗聴機や隠しカメラを設置して……」 「するかっ!!」 「そうですよね。盗み聞きはやっぱりコップが一番ですものね」 「だからしてないっ!!」 「でもそういうのは子供の時までにしておきませんと性犯罪ですよ」 「してないってっ!!」 「ところで「餡太」って男の人の名前みたいですよね」 「何の話をしているっ!!」 「祐一さん。さっきから私達は同じ話を…」 「全然してないっ!!」 「じゃあ話を戻しましょう」 「そ、そうして下さい……はぁ…」  気付くと随分、ぜえぜえと息を荒立てている自分に気付く。  そして秋子さんが軽く息を吸う音が合間に挟まる。  空気が一瞬だけ止まる。 「祐一さん。カレーのお代わりは如何ですか?」 「誰がカレーの話をしていますかっ!!」  ガンとテーブルに振り下ろされた三度目の拳は、水の入ったコップを床に落とすま での威力を保っていた。 「にゃー」  が、名雪の反応はそれだけだった。  本当に寝ているのか疑わしいほど微動だにしない。 「ですから話を戻して…… 「ああもう、いいですかっ!! 俺が知りたいのは貴女が今朝のニュースで7年前に この街に立っていた木に登って遊んでいて落ちたものの記憶が戻ったという女の子の 名前ですっ!!」 「まぁ」 「「まぁ」じゃなくてっ!!」 「お母さんびっくり」 「誰がお母さんですかっ! それよりも言って下さい! その女の子の名前は!?」 「いけませんよ、祐一さん。仮にも女性に他の女の子の名前を聞くだなんて」 「そういう状況じゃないでしょーがっ!!」 「それとも私には女性としても魅力が欠けると……」 「うがぁ〜〜〜っ!!」 「やっぱり若い方が好きですか?」 「うぎゃぎゃぎゃぎゃ〜〜っ!!」  もうマトモな話し合いは通用しない。  今目の前にいるのはいつもの秋子さんじゃない。  そうに決まってる。  きっとこれは夢。  全ては夢に決まっている。  夢。  誰かを待っている夢。  遠くに聞える雑踏の中で。  小さなベンチに座って、  たったひとりで、  来るはずのない人を…。  何時間も、  何日も、  そして何年も…。  そのまま一生……。 「うぐぅ」  じゃあなっ。 「ものごとを簡単に諦めるのはどうかと思いますよ」 「誰のせいですかっ!?」 「あらあら元気ですねぇ」 「だーかーらーっ!!」 「祐一、うるさい」  顔の右半分を黄土色に染めた従姉妹が俺をそう批難するなか、俺と秋子さんとの問 答は続いていた。  そう、俺たちの戦いはまだ始まったばっかりだったから。  というか当初の目的忘れまくり。 「うぐぅ」                           <おしまい>